Text 2. Memories_贈り物

 いつもの起床時間より2時間も多く眠っていたようだ。とうに昇っていた日の光と鳥のさえずりで目が覚めるも、その体は鉛のように重い。床でそのまま寝ていたのか、朝冷えも手伝って体も固まっており、唸り声をあげながらゆっくりとうつ伏せの体を寝返りさせては頭を上げようとする。


 だが、異様に重く、刺さるように痛い。起こそうとした体を再び床に委ねたとき、脈動に合わせてガンガンと脳が痛む。


「うっわ気持ち悪ぃ……さいあく」


 これが二日酔いか。はじめて体験する不快感に若干の後悔すら覚える。手で目元をふさぎ、息を大きく吸い込んだ。もう一度寝ようかとベッドへ視線を向けたが、この気持ち悪さをすぐにでも何とかしたい。


 ――まずは水とシャワーだな。


 そう思い体を転がしてはのっそり起き上がる。膝を立て、眩暈と頭痛がするも、我慢はできた。


 もう一度息を大きく吐いて中途半端に開いたカーテンを全開にし、窓を開けようと振り返ったとき。


「は?」

 と、言ったか言ってないかが曖昧になるほどの唖然。それもそのはず、赤松の目に異様なものが映り込んでいた。


 部屋や家具、小物すべての輪郭が歪んでいる。まるで絵画を濡らし、絵の具が滲んだような。それにとどまらず、空間が屈折している。水と油を交えたような、粘度が異なる液体がかき混ぜられたようなひずみが、大気中で起きている。


 途端、眼球が締め付けられるように痛む。あまりの痛みに思わず喘ぎ、両眼を閉じて抑え込んだが、それは一瞬。嘘だったかのように痛みはなくなり、恐る恐る目を開けると、いつもの部屋の景色に戻っていた。


 ――なんだったんだ今の。

 考えようとも二日酔いが邪魔をする。診察を一度考えたが、いまは水を飲みたい。そう赤松は長身をふらつかせ、階段を気怠そうに降りる。


「おはよー。よく寝てたわね」

 廊下のドアを開けば、水道の音と共に母こと赤松来実くるみの声が耳に届く。


「おー」と怠そうに返した赤松は壁面前の空間に二次元投影されている大型ディスプレイへと目を向けた。毎週の休日に放映されるカジュアルなニュース番組。司会のアナウンサーとゲストが台本通りにトピックスについて解説とリアクションをしている。指向性でなくスピーカー設定にしているのか、ダイニングとリビング中にその音声は届いていた。

 真ん中分けされたブラウンのショートボブはゆるくふわりとパーマがかかっている。今日出かけるんだろうなと赤松は母を見て思う。


「ケイが具合悪そうなんて珍しいわね。だから初のお酒はほどほどにって言ったじゃない」

「んなことわかってるよ。でもやっぱしみんなと飲むのすげぇ楽しかっ……」

 出てきそうになったあくびが引っ込んだ。

 

 ――まただ。

 今度は物だけではない。母の頭部までもが輪郭を失い、二次元的に黒く塗りつぶされていた。そこから漏れ出る小さな放電は空間や家の壁に根を張り、青いサルビアを咲かせる。視界全体に落書きでもされたような。


「どうしたの」

 そう声をかけた異形の顔は、いつも通りの母の姿に戻っていた。視界に異常はない。

 妄想だろうか。やはり疲れているのかと赤松は両目に右手を当て、唖然とした口を閉じた。ぎゅっと瞑った眼に熱いものが流れ込む。

 

「いや、その……なんでもねぇ」

「顔洗ってきたら? 目やについてるわよ」

「一言多いっての。てかそれなに?」

 ダイニングテーブルの上に置かれている茶の紙袋。中身を覗くと、丁寧に包装された小さなパッケージがふたつ入っていた。

「何って、誕生日プレゼント。昨日待っても帰ってこなかったから渡しそびれちゃった」

 半ば残念そうな声色に、気まずさを覚える。複雑になった気持ちをため息で吐き出した。


「なんだよ別にいいってのに」

「私が買いたかっただけよ」

 またそうやって。ただ、中学高校の時のように反抗したところでどちらも不幸な気持ちになる。母に対し未だ素直になり切れない息子は言いずらそうに、

「……ありがとう」


 それは照れ臭そうに見えたことだろう。不器用な様はどこか懐かしさを思い出す。微笑んだ母は朝食をカウンターの上に置いた。

 トーストの上に火の通った厚切りベーコンと目玉焼きの香りがなかった食欲をそそらせる。加え色とりどりだが盛りつけただけの野菜オーガニック。そして透明な容器カプセルに入れられたナッツと柑橘類、栄養補填食ソイベースクッキーの混ぜ合わせ。最近都会で人気らしいとSNSに感化されやすい母が嬉しそうに語っていたことを思い出す。


「いいのよ。早く開けたら?」

 催促された赤松は包装をはがし、開封する。

「てか、ふたつあるんだ」

「片方はお母さんから。もう片方はお父さんからね」

 一瞬だけ手の動きが止まる。同時に結んでしまった口を小さく開いた。

「親父の気持ちになって買ってきたんだろ?」

「ばれたか」

「もう昔の俺じゃないっての」


 いたずらな笑みを向けた母に呆れる。箱から取り出したのは小さなラッピング。小封筒サイズのそれに、万年筆かその類だろうと思っていた赤松だったが、その予想は外れた。

 シャラ、という軽金属がこすれ合う音。小さいながらも質量はあり、リング状の銀の光沢が目に入った。


「ネックレスじゃん。え、高そう。これ母さんからだろ」

「ピンポーン!」と、椅子に座りながら嬉しそうに声を上げる。「ケイおしゃれ好きだし、20代なんてまだまだ遊ぶ年なんだから、プライベートにって」

「もう働いてるし、大学の奴らみてぇに遊べねぇよ」

 自虐気味に鼻で笑う。しかしその目は素直な気持ちを表している。

「いーの。いいから彼女の一人や二人捕まえてきなさい。あんた近所じゃモテるんだから」

「小学生と奥さま方にな。でもありがとな、ネックレス。すげぇ嬉しい」

「さっそくつけてみてよそれ」


 フックを外し、手慣れた様子でネックレスを首に回しては着ける。作業にはつけていけないなと第一の感想を心の中にしまった。しかし日常生活を送る分には邪魔には思えない。新しいものを身に着けると微かな生まれ変わりを体感する。

「お~似合ってる似合ってる! これで目やにを取れば立派なイケメンよ」

「からかうなって。で、親父の気分で買った方は……えっ」


 目を疑った。そのパッケージには確かにリストバンド状のウエアラベルがプリントされている。


 最新型の"I-visionアイヴィー"――いわば個人証明端末の内蔵インストールも可能とされる、立体投影出力情報端末リストホログラム拡張接続端末オーギュメンターだ。

 この拡張型社会において知覚と知能の拡張は少なくとも都心部では必須。あらゆるデバイスとの拡張化が必要とされていく時代において、前からずっとほしいとは思っていた。だが、中古ではないことにも驚きの反面、心配が脳裏を掠めた。


「びっくりした?」と、ドッキリを仕掛けた子どものような、期待の目を向ける。対して、赤松は戸惑うばかりだ。

「いや、だってこのタイプって最新の機能端末ウエアラベルだし、かなり高いんじゃ……」

「一人息子が成人よ? ここで奮発せずにいつ奮発するの」

 そう言いながら、淹れておいた珈琲に口をつける。


「でもこの間まで家計厳しいって」

「税理士舐めちゃやーよ。息子のためならお母さんいくらでもがんばっちゃうんだから」

「税理士補助だろ全然違ぇぞ」

「そのうちなるの」とつまらなさそうな目をじとりと向ける。

「まぁ、なんつーか……ありがとう」

 小さくなった声と、逸らした目。いつになっても変わらない。小さく笑みを返した来実は息子に告げる。


「成人おめでと、ケイ」


 右手首に装着したアイヴィーは何度か点滅する。個人認証中のようだ。後で自分の使っていたアイヴィーのバックアップも取ろうと考える。そういえば機関での手続きって必要だったっけと母に訊こうとしたときに、先に彼女の方から口を開いた。


「お父さんにも自慢してきたら?」

 ああ、と質素な返し。リビングの棚の上に置かれた黒い箱の前に立つ。するとそれは両側へと開き、30代男性の優し気な笑顔が画像として投影される。コンパクトな仏壇としての機能を果たすようだ。


「お父さんもびっくりしてるわよ。小学生までのケイしか知らないから」

 そうだな、としか返さなかった。電子情報として表示される父の姿は、そのときは見上げるほどに大きな存在だったのに、今はなんだか小さく見えた。寂しそうな笑みをホログラムに向け、両手を合わせる。


「あぁそうそう、お母さん九時から仕事だから、昼食と夕食は自分で作ってね」

「おー。休日なのに大変だな」と言っては、踵を返す。黒い仏壇は扉を閉じ、再びただの箱となった。

「12月入ったからねぇ。年末調整やらなんやらでこれから忙しくなると思うから」

「いまはAIが代用するだろ」

「こんな田舎じゃたかが知れてるわよ。でもそうね、事務作業はだいぶ楽になったかしら。その代わり事業展開の支援が重視されるようになったけど」

「げ、難しそうだな」と顔を引きつらせる。

「ケイなら大丈夫よ、全国99位だし」

「その話はやめろって」


 意中の相手の気を引くために、高校三年の統一模試で奇跡的に得られた結果だ。動機が不純ということもあり、あまり自慢したくないことでもあった。

 だが、そのときの研鑽は自画自賛したくなるほどの苦しいものだったとはいえ、結果的に会話の種になったことは事実だったと二年前の青春を思い出す。告白には失敗しているが。


「じゃ、いってくるわね」と、来実の一言に応えたが、それは玄関の閉じる音で消えていく。途端に、二日酔い特有の頭痛と酒気帯びに不快感を覚えた。


 外の空気吸えば少しは楽になるだろう。窓の寒気立つ空を見ては、リストバンド型アイヴィーを装着した右手首を目の前にかざす。自動的にバンドから二次元状のホログラムが表示され、日付と天気、体調コンディション時事ニュースが情報として映し出される。


 視線を胸元へと落とせば、細かなチェーンがつながったリングネックレス。なんだか新しい気持ちになった赤松は、二階の自室へと足を運んだ。


   *


 今日の気温は10℃にも満たない。刺さるように冷たい風を浴び、赤松は大きな身を縮める。肌触りのいい白のスウェットに黒系のダウンジャケット、暗めのジーパンに相反するような白系のスニーカー。通勤用の服装とあまり変わりない地味さだが、彼の赤系の頭がより一層引き立っている。


 バクテリア含有のアスファルトは劣化を知らない。一軒家や階層の低いアパートの隙間を埋めるように詰められた木々と、アスファルトを培地として生えてくる雑多な草花を一瞥する。

 近くの山も寒々しい枯れ木色となり、背後に広がる曇り空を、名前も知らない鳥が遮る。車の通りは今日も静か。電柱の数も随分と減ってきたと大人ぶった感情を走らせる。


「露本おじさーん! おはようございまーす!」

 白い息が顔にかかる。車二台分程度の狭い人工河川越しに元気よく手を振った先、顔見知りの男性も赤松に向けて手を振り返す。きっと買い物帰りなのだろう、提げる鞄から作物らしきものが見えていた。

 こうも町が小さいと互いのことをよく知っていることが多い。なにより、助け合って生きていることが、赤松にとって助かることであり、幸せなことだった。


「おー圭一郎! 今日はいつになく決まってんな! ナンパでもしにいくんか!」

「そっすね、そこらへん歩いて棒の一本二本ぶつかったらいいなって――あだッ」

 冗談を言う途中で街頭にぶつかる。ゴォ……ン、と金属が低く響く音が街灯と赤松の脳を揺らした。


「あっはっはっは! ほんとにぶつかるやつがあるかい!」

「痛ってぇ~……つかなんだよ視界全然治んないんだけど」

 頭をさすりながら、目の前の街灯に手を当てる。いくらなんでも見えないってことはないだろう。未だに信じられない思いだった。


(俺の目が変なのか? 昨日のみ過ぎておかしくなったとかじゃねぇよな?)

 思えば、高頻度で景色にノイズがかかったような乱れジャミングも目立つようになった。眼球が締め付けるたび、わだかまる根のようにあちこちで密集したぬめりのある黒い物体が視界を侵蝕するように見えてくる。霧、否白い瘴気が重々しく漂っている。そして空間を走る電流のような光がぽつぽつと目に入った。

 明らかに異常だろう。頭の痛みが引いていく代わりに、ぬぐい切れない恐怖感に呑まれそうになった時。


「大丈夫かい?」

 かけられた声でハッとする。振り返ると腰の曲がった優しそうな老婆が心配そうに見ている。すぐさま背をぴんと伸ばし、元気いっぱいに肩と腕を回した。


「ああ、湯島おばあちゃん。ぜんぜん大丈夫っすよ、ほらこの通りぴんぴんしてますから! おばあちゃんからいただいている野菜のおかげっす!」

 ぴんぴーん! と擬音語を発し、両腕を大きく上げる。いつも本当に元気そうだねぇ、と湯島が言ったのを最後に、お互い笑い合う。

 彼女に限らず、先ほどの露本も含め、この町でお世話になっている方々は多い。貧しい家庭を支えてくれる地域民の一人に、赤松は笑顔を向ける。


「あ、せっかくですし何か手伝いますか? そろそろじゃがいも収穫っすよね、重労働は俺に遠慮なく任せてください! いまどきのロボットよりいい働きしますよ!」

「いつもありがとうね。ほんと、うちの孫もそのくらいしっかりしてたらねぇ」

「いやいや、お孫さんの高志君も大学に出られて立派じゃないっすか! しかも国立の医学部! 将来性抜群っすよ!」

 そう明るく返し、ふたり笑っていた時。


「もしかして赤松君?」

 若い男性の声。だが少しだけ大人の雰囲気を感じさせる、落ち着いた声色。鮮明に耳に入り、ふと赤松は振り返った。


 ここでは見かけない、都会に住むいかにもな大学生の風貌。ナチュラルな2ブロックにした黒系のマッシュヘアは、ネイビーのチェスターコートとタートルネックのニットと相性がいい。銀縁の眼鏡が一段と知的に思わせるも、それがグラス型ウエアラベルだと気づくのにそう時間はかからなかった。

 すらっとした体型だが、背の高い赤松には及ばない。だが、その雰囲気にどこか懐かしさと既視感を覚えた赤松は、しばらくその男と見つめ合った。


「あ、やっぱり。だいぶ背が伸びててびっくりしたよ」

 気さくに話しかけるも、赤松の反応はゆっくりだった。かみしめるように、自分に問いかけながら、頭に浮かんだ記憶を引き出す。


「……黒部くろべ、先輩?」

 問いかけるような一言に、その青年は穏やかな笑みを浮かべた。

「久しぶり。元気にしてたかい」

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