第45話 大人の恋人同士ですること

 九月最初の日曜日、羽田空港。


 子どもたちの夏休みが終わって初めて迎えられた日曜日。空港には家族連れの旅行客の姿がちらほら見られた。もっと彼らの顔は旅先への期待感ではなく、旅先から帰ってきた疲労感、我が家へ帰れるという安堵感、そして来たる月曜日の憂鬱さがい交ぜになった色が浮かんでいた。一方で日に焼けたサラリーマンがスーツを見事に着こなし、出張への緊張を浮かべている姿も散見された。世間は夏休みを終え、それぞれの業に身を投じようとしていた。


 他方、私服でスーツケースを転がし、浮かれた顔で保安検査場へ入っていく人、あるいは到着ゲートから出てきた人もいる。同年代の人達がやたらと目につくのは僕が彼らと同類項であるためであった。


 到着ゲート前に立つ僕はそわそわと落ち着かない。

 僕は旅立つ人でも訪れた人でもない。

 待つ人だ。


「あ」


 到着ゲートの向こう、手荷物受取所に待ち侘びた女性の姿を認めた。しかし向こうは僕の存在に気づいてない。そのため、手荷物が運ばれてくるベルトコンベアに向き直り、自分の荷物が運ばれてくるのをぼんやりと待っている。

 僕はすぐにでもゲートを潜り、彼女の後ろに駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られた。だが無情にも到着ゲートは一方通行でこちらから向こうへ行くのは禁止されている。まるで砂漠を彷徨った末に、水を見せられても与えられないような、ひどいお預けではないか。


 五分後、ようやく荷物を運ぶコンベアが動き出した。荷物がお寿司のように続々と運ばれてくるが、彼女が動く気配はない。

 さらに五分後、荷物を受け取った人達がぞろぞろとゲートから出てくるが、彼女は未だ立ち尽くしている。まだ彼女の荷物は出てきてないのだ。


 そろそろかな、と僕はずっと思っていた。その時、ふと彼女の頭上の電光掲示板が目に入る。


「……何やってんだ」


 僕は苦笑しながら、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出してパカッと開き、発信履歴から相手を選んでコールする。


 プルル、と呼び出し音が数回鳴って、相手が出た。ゲートの向こうでは彼女が端末を耳に当てている。


『もしもし、航ちゃん? もう着いたよ。手荷物受け取ったら出るね』

「了解。からの長旅ご苦労様です」

『え、大阪?』

「上を見てごらん」

『上?』


 僕に支持され、彼女はそれに倣う。何事かと訝っている表情が背中から伝わる。


『あっ!?』


 そして可愛らしい悲鳴を上げた。彼女の頭上の電光掲示板には『関西空港』と書かれている。


『レーン間違えてる!? っていうか見てるの!?』

「後ろにいるよ」


 僕が伝えるや否や、彼女はすぐさま振り向いた。驚いた表情の彼女――冬木小夜子ちゃんと目が合った。


『やだ、もう恥ずかしい……! 荷物受け取るからもう少しだけ待っててね!』

「はーい。ゆっくりどうぞ」


 電話を切ると小夜子ちゃんは隣の福岡空港発の便の荷物受け取りレーンに並んだ。今日、彼女は長崎から福岡まで電車に乗り、福岡空港からの便に乗ってきていた。その福岡空港発の便の手荷物はすでに荷下ろしが済んで、コンベアで運ばれている。小夜子ちゃんはそのレーンを見渡して確認し、パタパタと走り出した。そして危うく壁に吸い込まれそうになっていたパステルブルーのスーツケースを掬い上げた。


 コロコロ、とトランクを転がしながら小夜子ちゃんがこちらに向かってくる。ゲートの向こう、真正面に彼女が差し掛かったて目が合った。向こうもそれを感じたらしく、にっこり微笑んで軽やかに手を振っている。

 その瞬間、僕は辛抱ならず小走りでゲートに向かって駆け出した。だが皺くちゃの顔をした年老いた警備員が慌てて僕を静止する。驚いて立ち止まり、我に帰った。そして自分が何をしようとしてたのか理解したのだ。


「こ、航ちゃん!? こっちは来ちゃダメなんだよ!? すみません、警備員さん」

「も、申し訳ありません」


 ゲートのこちら側へ出た小夜子ちゃんが慌てて警備員さんに会釈して詫びた。僕も続いてお詫びする。警備員のおじいさんは苦笑いしながら軽く手を振り見逃してくれた。


「ふふ、航ちゃんったら慌てん坊だなぁ」

「ごめん、小夜子ちゃんの顔見たらもう我慢出来なかった」


 ゲートから少し離れた所まで歩き、小夜子ちゃんの真正面に立つ。


 グレーのワンピースに身を包んだ彼女は相変わらずの眼鏡スタイル。だが髪は以前のような二つ結びではなく自然体に下ろし、デジタルパーマをかけてふんわりとした風合いを出している。服装も髪型も、一眼見た時は知らない人かと思うほど垢抜けて綺麗になっていた。だが柔和な顔立ちと笑顔は依然と何も変わっていない。……いや、化粧をしているので大人びていてバチクソ可愛い!


 そのことを口に出してきちんと褒めて上げたかった。


 相変わらず可愛いね。

 綺麗になったよ。

 髪型変えたね。

 ワンピース似合ってるよ。


 だが小夜子ちゃんに会えた喜びと安堵のためか、言葉は浮かんでは消え一向に口に出すことが出来なかった。


「小夜子ちゃん、会いに来てくれてありがとう。ずっと会いたかったよ」

「私もだよ、航ちゃん。航ちゃんに会える日をずっと楽しみにしてた。毎日会いたくて仕方なかったよ」

「僕だって会いたかった! 会いたくて心細くて、毎日ビールとおつまみしか喉を通らなかったよ」

「わぁ……しっかり食べてる。未成年のくせにお酒飲んでるし……」


 呆れ顔の小夜子ちゃん。


「僕って酒飲みの才能があるのかも。父さんも母さんも酒飲みだから、きっとこの血も酒で出来てたんだよ」

「何バカなこと言ってるの? 大学生になってもちっとも変わらないね」

「お陰で女の子からは見向きもされないでごんす」

「じゃあ許す!」


 酔っ払って線路に落っこちたりしないでね、と最後に付け足し、僕達は歩き出した。寄り道もせず、まっすぐ京急線のホームへと向かう。小夜子ちゃんは長旅でしかも初めての飛行機だというから疲れていると思い、喫茶店でもと誘ったが断られた。気力体力共に十分とのことだし、早く僕と二人きりになりたいとの弁だ。

 そう言われると胸の内が無性にムラムラしてしまい、スムーズに移動出来るよう僕はに彼女のトランクを預かり、アパートを目指した。


 *


 僕の住まいは京急能見台駅から徒歩十分程度の距離に位置する家賃三万円台、築四十年のアパートだ。普段はここから自転車で大学へ通っている。家賃と通学の利便性はありがたいが、壁は薄いわバランス釜でお湯の出が悪いわで困ることが多いものの、今日から四日間ここが二人の愛の巣になると思うとそんな我が家でも御殿に見えるから不思議だ。


「お邪魔します」

「狭い我が家ですが」

「ふふ、こぢんまりしてて素敵だよ?」


 玄関を上り、短い廊下を渡ればすぐに七畳程度のリビングルームだ。小夜子ちゃんを先に上がらせ、僕は後ろからトランクを持ち上げて続く。その荷物を部屋に隅に置くとすぐにエアコンのスイッチをオンにした。九月の今日は厳しい残暑に見舞われ室内には熱気がこもっている。ちなみにエアコンは備え付けだ。ありがたや。


 小夜子ちゃんは落ち着かない様子で物珍しそうに部屋を見渡す。家具はベッドと丸テーブルと小さな本棚くらいしかなく、テレビはない。ベッドと丸テーブルはリサイクルショップで購入し、本棚は粗大ゴミとして出されてたものを拾ってきた(母さんからは意地汚いと笑われた)。


「なんだか……こぢんまりした部屋だね」


 小夜子ちゃんが微笑みながら感想を漏らす。本日二度目の『こぢんまり』だ。悪く言えば殺風景とも言う。


「家具とか小物はバイトしながら買い足していくつもりだから、これからもっと賑やかになるよ」


 そう宣言し、冷蔵庫からよく冷えた麦茶の入ったティーポットを取り出し、二人分のグラスに注いでテーブルを置く。その僕を他所に、彼女はベランダへと続く掃き出し窓の前に立ち、外を眺めていた。


「ここが僕の住まい。ここが僕の故郷、横浜だよ」


 呟きながら彼女の背後に立ち、肩に手を回してそっと抱きしめた。彼女の身体は少し熱いくらいの熱を帯びていた。日差しによるものか、あるいは興奮故の発熱なのか分からない。だが長らくご無沙汰だった人肌というものを直に感じ、僕自身も喜びと興奮で熱を発している気がした。


「航ちゃん。私汗臭いよ」

「ふふ、小夜子ちゃんの匂いがするよ」

「やだ、恥ずかしい。せめてシャワー浴びてからにさせてよ」

「一緒に浴びる?」

「あ、浴びません! 航ちゃん、来て早々いやらしい!」

「えー、仕方ないじゃん。半年近くずっと小夜子ちゃんといちゃつきたかったけど我慢してたんだよ」

「その割には電話してくれないよね」


 不満げな声。彼女が唇を尖らせて拗ねているのがガラスに薄く反射していた。僕はバツの悪さと彼女の愛おしさを感じながら首筋にキスをし、耳元で囁いた。


「ごめんね、寂しい思いさせて。でもこの旅行の間はずっと一緒だから許してよ」


 腕の中の彼女は無言でモゾモゾと身をよじった。僕から逃れるためではなくこちらを向くためと察し、抱きつく腕の力を少し緩めた。案の定、小夜子ちゃんはこちらに向き直り、抱擁のお返しとばかりに僕の腰に手を回した。


「怒ってないよ。航ちゃんが私のこと好きだって分かってたから」


 うっとりするような眩しい笑顔で彼女は明朗に言い、そっと口づけをしてきた。唇同士が触れ合う程度の優しいキス。柔らかくて、甘くて、良い匂いがする唇だ。僕はもっとその感触を、味を、香りを確かめたくて小さな唇に吸い付いた。唇同士を吸い合うようなキス。歯止めが利かず彼女を求めてしまい、舌を強引にねじ込んだ。ざらっとした小夜子ちゃんの小さなしたがうねうねとのたうって僕の舌を舐める。


 唇を離すと無言で見つめ合った。彼女の目はとろんと恍惚にとろけ、それなのに口元はにんまりと笑っている。僕より小さな背丈と幼さを残した丸っこい顔は女子大生とは思えないほどあどけない。だがその表情は大人の女性の色香を放っており、僕の中の男性を否応なく刺激した。


 僕はその本能の赴くまま、それでいて花を手折るように優しく彼女をベッドへ誘って押し倒し、覆い被さった。左腕を小さな頭の後ろに回し、器用に腕一本で彼女の両手を拘束すると欲望のままに唇を貪った。

 むぐぐ、と小夜子ちゃんの口から動揺した声がくぐもって響いた。


 唇を離し、顔を少し上げて彼女の顔を観察する。頬を上気させて僕を見つめる双眸に嫌がる素振りはない。僕はそれをゴーサインと見做し、今度はついばむようなバードキスをする。さっきよりは随分ソフトだが、一方で開いた右手で小夜子ちゃんの脇腹やウエストを愛撫してやる。僕の指が這いずるのに合わせて華奢な体躯が過敏に反応し、嗜虐心が芽生えてきた。


 その一方で胸やお尻、股座を避けるのはまだ不安があったためだ。横浜に来させておいて最初に身体を求めることをどこか卑しく思い、一歩を踏み出せないでいた。今も十分過剰なスキンシップであったが、その先は意味合いが変わってくる。果たしてそれは許されるのか、彼女は傷つかないのか、未熟な僕にはまだ分からない。


「ねぇ……航ちゃん」


 薄い胸を上下させながら彼女が切れ切れな吐息と共に囁く。


「ゴム、あるよね?」


 その問いに、僕はこっくりと頷いた。彼女の来訪に備え、ドラッグストアで購入済みだ。


「じゃあ……しよっか。私、部屋に着いた時にはもう心も身体も準備出来てたから……」


 羞恥と恍惚とで蕩けきった笑顔で彼女は言う。僕は信じられない思いとは裏腹に期待を胸にして右手をワンピースの裾から股座へと侵入させる。下着一枚で阻まれた秘部は確かに濡れていた。


 表ではツクツクボウシが荒ぶるように鳴いていた。だがそれに混じってヒグラシの鳴き声が微かに聞こえる。九月の初旬、日が沈むより早い頃、僕達は盛りのついた獣のように互いの身体を求め合った。


 行為が終わると二人で裸のまま寝そべり、抱き合って想いを囁き合った。

 会えなくて寂しかったと恨みつらみのように何度も口にしては好きだと素直に気持ちを伝え合う。そしてお腹が空いた頃、昨晩作った残り物のカレーを温め、二人で仲良く食べた。ビールの買い置きもあったが小夜子ちゃんは眉を顰めて遠慮した。酒は二十歳になるまで飲まないと決めているらしい。真面目だなと思いながらも僕の飲酒は咎めないので遠慮無く頂いた。意地汚いがセックスした後のビールは格別だ。


 食後、片付けが済むと二人でベッドに座って近況を報告し合い、話題が尽きるとどちらからともなく相手を愛撫し、また裸になって抱き合った。高校を卒業してしまった以上、誰かに咎められる不安はない。


 こうして旅行の一日目は酒とセックスで終わった。

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初恋の日に、戻れたら 紅ワイン🍷 @junpei_hojo

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