第44話 航太郎の浮気〜kiss in the dark〜

 横浜駅西口の細い路地にそのバーはあった。

 雑居ビルの階段を三階で営業するバーは外から一眼見ただけではとてもじゃないが見つけられないし、見つけたとしても一人では敷居が高く入りにくい。斑目先輩はビルの細い階段をしっかりした足取りで上っていく。真後ろに続く僕は張りの良いヒップに目を奪われがちになりながら上る。


 店内は間接照明だけが妖しく照らし、カウンターや酒瓶がびっしり並んだ奥の棚、アンティーク調の家具が落ち着いた雰囲気を醸しており、映画やドラマに出てきそうないかにもなバーであった。


「ここにはよく来られるんですか?」

「ふふ、元カレと何度かね」


 先輩は照れ臭そうに微笑む。一方僕は、なぜだかその言葉に内心チクリとするものを感じた。


「いらっしゃいませ、斑目さん。また新しい方を紹介してくださってありがとうございます」


 カウンターの向こうからバーテンの衣装に身を包んだ女性が声をかけてきた。年齢は三〇歳くらいで、爽やかなショートカットと日本人離れした掘りの深さがありながら柔和なスマイルのお陰でクールかつチャーミングな印象のある人だ。


「こんばんは、マスター。彼、市立大の一年生で私の後輩くんよ」

「あら、じゃあ私の後輩でもあるのね。私も市立大のOGなの。何卒ご贔屓のほど」


 そういってマスターは名刺を差し出し、恭しくこうべを垂れる。僕は恐縮しながらそれを受け取り、慌てて自己紹介を返した。『ウェストポート マスター ジャネット北原』と書かれている。ウェストポートというのはこのお店の名前だ。


「マスター、私はキスインザダークを。航太郎くんは?」

「えっと……どうしようかな。何かおすすめってあります?」


 渡されたメニューの商品を上から順に読んでいくが、何が何だかさっぱりだ。カクテルの名前はどれもこれもカタカナ語でよく分からない。『スクリュードライバー』だとか『ブラッディマリー』だとか必殺技みたい。斑目先輩が注文したお酒の名前も『キスインザダーク暗がりでキス』だなんて洋楽のタイトルのようだ。


「ではジントニックをお勧めします。飲みやすくて度数も低いので」

「じゃあそれを」


 初体験は年上のお姉様に手を引かれるかの如く。ちょっと情けないけど悪い気はしない。


 程なくして二人分のカクテルが運ばれてきた。僕のジントニックは円柱形の背の高いグラスに注がれ、縁にカットライムが添えられたカクテルだ。一方先輩のは逆三角形型のカクテルグラスに注がれた鮮やかな赤色のチェリーベースカクテルだ。


 二人で静かに乾杯し、ジントニックを一口飲む。


「美味しい……」


 本格的なバーで飲む初めてのカクテルの感想はそれだった。

 柑橘系果実のフレーバーとジンの鋭い風合いが口の中から鼻まで突き抜ける。ビールやハイボールとは違った刺激があり、このカクテルがすぐに好きになった。


「ふふ、良かった。航太郎くん、案外酒飲みの才能あるんじゃない?」

「えぇ……全然嬉しくないです。何の役にも立たなそう」

「そんなことないわよ。宴会の盛り上げ役とかで引っ張りだこよ」

「宴会部長ってやつですか!?」


 先輩の評価は冗談なのか本気なのか。お酒に酔った大人に良い印象が無いので全く喜べない。そもそも未成年なのにこんなにグビグビ飲酒している時点で褒められたものではないのに。


「今日は来てくれてありがとうね。初めての合コンの感想はどうだった?」

「とても楽しめました。国塚も先輩のお友達も喜んでいる様子でしたので、良い夜だったと思います」

「ふぅん、良い夜……か」


 僕は率直な簡素を伝えて礼を述べたつもりだったが、先輩は少し腑に落ちないご様子だ。怒っているというのではなく、引っ掛かっているといった顔をしている。


「航太郎くん、今日は私達と一緒になってアシストに徹してくれたからすごい助かっちゃった。でも本当に楽しんでくれたのかなって心配だったのよね」

「ご心配なく。これはこれで楽しかったですし、言った通り僕には小夜子ちゃんがいるので他の人に粉かけるような真似出来ませんよ。大体、僕ってあの子達が男と話す経験を積むために呼ばれたんじゃありませんでしたっけ?」

「ふふふ、それでもちょっとくらい楽しんでも良いと思ったけどな。でも、そういう一途な男の子って素敵。お姉さん、憧れちゃうなぁ」


 先輩はとろんとした目で真正面を向き、顎に手を乗せて呟いた。それは独り言か、あるいは僕への何かしらの気持ちなのか、教えてほしかったが詮無いことだ。知ってしまうと取り返しがつかないことになりそうで、僕は強引に話題を変えた。


「そうだ、先輩。九月に小夜子ちゃん――僕の彼女が長崎から上京するんです」

「そうなの!? 久々のデート、楽しんでね! もうどこに行くか決めた?」


 するとアンニュイさを湛えていた先輩は、一転して顔を華やがせ、すぐに食いついてきた。この人は本当に恋バナが好きだ。


「いえ、まだです。上野動物園に行こうかと思っていたのですが、今ってパンダいないみたいだから見応えないなぁと」


 小夜子ちゃんは高校生の頃からパンダを見たいと言っていたのだが、不幸なことに前年の二〇〇八年にリンリンが死んでしまい、現在の上野動物園はパンダ不在だ。東京に来てただ動物園に行くのではつまらない。


「やっぱりオルタナですかね?」

「そうね。せっかく上京するならオルタナに行かないとよね」


 僕の案に先輩が乗ってくる。

 オルタナというのは千葉県浦安市にあるオルタナワールドという日本で一番有名なテーマパークのことで、デートの定番とも言えるスポットだ。リンリン亡き上野動物園に取って代わる観光地となれば必然的にオルタナワールドだろう。


「オーシャンとアース、どっちに行くか決めたの?」


 オルタナランドにはモチーフが異なる二種類のパークがあり、それぞれ海はオルタナオーシャン、山と大地はオルタナオーシャンという。僕はどちらにも言ったことがなく、これまで対して興味も持ってこなかったので決めかねていた。そのことを相談すると先輩はキリッと頼もしい表情でオーシャンを勧めてきた。


「オーシャンは大人とカップル向けだから、断然こっちが良いわよ! 夜のラグーンの夜景と花火も綺麗でロマンチックだからきっと良い思い出になるわ」

「へぇ……夜景か」


 言われて昨年の冬休みに見たグラバー園のイルミネーションと長崎の町の夜景を自ずと思い出した。夜闇に散らばった無数のLEDランプと町の灯りは確かに綺麗であった。何よりそれを背景に佇む小夜子ちゃんはえも言われぬ美しさで、さながら光の全てが彼女を飾る宝石だったと言っても過言ではない。僕はその光景を今から想像してしまい、胸が高鳴ったのだった。


「よし、九月はオルタナオーシャンに行きます!」


 そう先輩に表明し、小夜子ちゃんにその旨をメールしようと決意した。


「久々のカップル水いらず、楽しんでね」

「はい、ありがとうございます! 斑目先輩に相談に乗ってもらえて良かったです!」

「可愛い後輩くんのためだもの。また何かあったら先輩に遠慮なく相談しなさいね」


 彼女はウィンクをして、先輩らしく頼もしい笑顔を浮かべて大手を振る。それから僕はオルタナオーシャンの見所や遊び方、歩き方を事細かに教えてもらい、九月の小夜子ちゃんとのデートの構想を練った。斑目先輩もヒートアップして捲し立てるようにアドバイスし、いつの間にか僕と小夜子ちゃんの馴れ初めや高校時代のデートのことに話が移っていた。僕はといえば気恥ずかしさがあったものの、ジントニックでますます酔ったところを持ち上げられつい饒舌になってしまい自慢げに話をした。


「へぇ、高二の夏からずっとか……。すごいね、本当に一途なんだ。私の周りだと皆三ヶ月つかどうかだから感心しちゃう」

「それは短い恋ですね」

「そうねぇ、皆喧嘩したり他の子に目移りしてすぐに別れちゃってるみたい。そういうの見てると恋愛って難しいなって思うわだから真剣に私と向き合ってくれるような人がいればなぁっていつも思うんだ。航太郎くんみたいな人が私の前に現れてくれればなぁ……」


 キスインザダークですっかり酔いが回った先輩は、紅潮した顔で目を細めながら僕を見つめ、そう物憂げに溢した。潤んだ瞳は店内の間接照明の光を妖しく反射させ、ぷるっと厚い唇もグロスが塗られているお陰で淡い輝きを帯びている。面差しに宿る感情は寂しさ、悲しさ、人恋しさを混ぜ合わせた複雑なものだと察せられた。奇しくも、その顔は最後にこの目で見た小夜子ちゃんと同じ表情であった。


「……先輩。今日は帰りましょうか。あまり夜遅くなると危ないですよ」

「ふふ、そうね。今日はお開きにしましょう」


 先輩は感情の坩堝るつぼを保ったまま微笑みを浮かべ、マスターを呼んだ。この場は労いということなので先輩が奢ると申し出た。決まりが悪いが、合コンの費用がそこそこ痛手だったためありがたくご馳走になる。


 店を出て横浜駅の構内に入ると二人で京急線の金沢八景方面の電車に乗る。先輩は上大岡駅で「またサークルで会おうね!」と笑顔で別れを告げ下車した。閉ざした扉の窓の向こうで彼女がどんな表情をしていたかは分からない。一方で僕は胸を締め付けられるような思い故に顔を揺らがせていた。


 *


 夏休みの間もサークル活動に出向き、その度に斑目先輩と顔を合わせ、言葉を交わした。

 その度に僕は胸の疼きが日に日に強くなるのを感じては必死になって目を背けた。


 この胸のざわめきは何だろうか。斑目先輩の姿を見て、言葉を交わす度に疼きが強くなる。そんな名前のないこの感情を僕は知っている。過ぎ去りし日に、僕は胸の内にこの気持ちを抱え、大切に育ててきたのだから。


 だが決して気付いてはいけない。その気持ちの姿形はおろか、名前さえ知ってはいけない。そう自戒しながら八月を過ごし、とうとう小夜子ちゃんが訪れるその日を迎えたのだった。

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