太陽の見据えるもの

喫痄

メープル

 その日も、メープルは待ち合わせを僅かに遅刻して来た。


「今日は?何を作って来たの?」


 “浄化”が晴れて完遂された今後は輸送のリスクが減り、世界中のモノが私たちの手に届くようになる。だから私の思いつきで、最近は毎日昼に待ち合わせて、私が新しい食材を仕入れて作った弁当をメープルと一緒に食べることにしていた。メープルは料理の一切を諦めたまま大人になった上、そもそも私が言及するまでそんな現象は視野にすらなかっただろう。彼女はそんなことに食いつくほど、好奇心を抱いたり満たしたりすることに積極的でもないし、世間の浮かれた人々と比べれば、シャーマンとしての務めがあって持て余すほどの暇はないはずだ。にもかかわらずそれを二つ返事で好意的に受け入れてくれたのは、つまるところ親友ツヅミの誘いだから、ということなので、私としては胸の熱くなる話だ。


 二人が並んで腰を下ろすのは、いつも決まった木の下だ。もともとは村の外れに位置した場所だったけど、最近はメープルに焦点が合っていても目の端から、まだ木造の骨組みが剥き出しになった状態の建物が余計に主張してくる。背後は崖で海原を臨む景勝地でもあったので、向きを変えれば良いとメープルにも言われたが、それに関しては私が断った。


「うわ、何これ…。なんか腐った匂いしない?」


「あー、それ南の都市の名産みたいで、そこでしか育たない穀物をすり潰して発酵させたものらしいんだけど。やっぱり苦手だった…?」


「ううん!ごめんね、ツヅミがせっかく用意してくれたお弁当なのに。大丈夫、誓って美味しく完食するから」


 これまでも食材に関しては、たとえ私自身の興味を掻き立てるものがあっても、まずは彼女の好みを優先して選んできた。今回も挑戦したとはいえ憂慮して、同時に食べる肉とは避けて薬味として端に盛っていたはず──そこでメープルの口ぶりに違和感を覚えた頃には、彼女はその全てを掬って口の中に押し付けていた。


「しょっぱいー!何これー!?」


「な、何してるの?それだけで食べるものじゃないよ、分かるでしょ形的に」


「えっ、そうだったの!?」


 気がついた途端に笑い出すメープルを見て私も笑顔が零れるところ、水を差したのは脇の作業現場で、立て掛けていた角材ががらがらと一斉に倒れる音だった。時間帯は昼休みなので、騒音や砂埃に悩まされることはないものの、すぐそれらを直しに向かう作業員らの足が早いのも、汗を拭って昼食を摂る彼らの賑やかな光景が二人からもすぐ近くにあるからであって、かつて身を寄せて寝言にも近い無駄話に耽ったこの場から、当時の閑静さが失われていることは明らかだった。


「そろそろ場所、変えようよ。もう外にも危険はないんだし、また落ち着けるところ探してさ」


「そんな!思い出の場所、そんな簡単に捨てられないよ!この木陰なら私たちだって家建てたいくらいだもん」


「あはは、狭い家になりそう」


 ほんの少し前まで私のメープルと触れ合う時間は極端に減っていたのに、お互いにそれを気にしていた結果実現したこのひとときの甲斐もあって、二人の世間話もほぼ尽きかけていた。晴天の正午、向かい合って彼女と過ごす沈黙の時間に、柔らかさのようなものが戻ってきた。


「あっ!」


 何かこもった音が自分の鞄からするのに敏感に反応したメープルは、その中身を乱暴にかき分けて、取り出した目覚まし時計の脳天をはたいて黙らせる。


「ごめん!もう時間だ!」


「…そっか。というか、それ持ち運ぶものじゃないけどね」


「あっお弁当、残り食べとくから洗って返すね!それじゃ!」


 メープルは私の挨拶を待たずに慌ただしくその場を立ち去って、午後の仕事へ向かった。

 取り残された今日の私には、この時点で既にすることがなくなった。いや、偏に「すること」と言うのであれば、家業の手伝いは私自身が生きていくために当然のものとして行うし、それだけで日々の実時間は十分消費される。しかしここでの「すること」というのは、必ずしも時間のような絶対的な尺度と対応するものではなく、どんな人でも日々の中で必然的に欲する充足感がどれだけ達成されたかによるものだ。


 私自身はこういった思いに至ると、ほとんどの場合はただの我儘だと切り捨てる。というのも、この感覚に襲われ始めたのはこの世界の“浄化”が達成された後だったから。

 ほんの半年前まで、私たちの世界は“狂精霊きょうせいれい“との存亡を賭けた争いに明け暮れていた。元は自然の中に在り生物との共生を受け入れていた彼らが人間に牙を剥く原因は、太古に過ちを犯した人間とその狂信的な子孫達にあった──というのは、もはやそれほど重要な話ではない。事実としてその戦いは終わりを告げた。“狂精霊きょうせいれい”の脅威を恐れ結界の中に閉じこもる、以前のような窮屈で貧しい生活を味わうことはない。手持ち無沙汰な感覚に陥るのも、それまではあるはずのなかった余暇が手に入ったからでしかないのだ。


 そもそも、広大な全世界を基準にしたとき、あのメープルと二人きりの昼食を楽しむということの価値を考えれば、なお満たされない自身を嗜めたくもなるというものだろう。今回の戦争を終わらせた最大の要素こそが、シャーマンとしての彼女の才能だった。私が出会った当初の彼女は、予言や託宣などと一切縁のない畜産農家の娘だったが、ひとたび霊的能力の強さを前任のシャーマンに見抜かれると、早々にその真骨頂となる「未来視」の力を顕現させる。正直なところ、儀式の様子を見ることのできない一般人の私からすれば、慢性の遅刻癖を持っていて計画的とは程遠いメープルがそのような能力を持っていることが今でも信じられないけれども、霊宝を伴うことで初めて起こるというその正確かつ微細に至る予言はすぐに小さな村を飛び出して、人類が“浄化”を遂げるための武器として利用された。シャーマンを個人として公にすることは掟で忌避されることであったから、メープルは今でも村の中で気ままに生活しているが、そのようなものがなければ、この世界の救世主とも言える今の彼女は、間違いなく時の人になっていたことだろう。



 私は仕入れを済ませるだけでそのまま家路につく。入り口で宿泊者と軽く挨拶を交わして、アイチさんへ明日までの食材が入った買い物籠を手渡した後で、一旦奥の部屋に進む。この客室が私の居場所となってもう五年になるのに、その空気は、私の匂いが染みつく以前から変わっていないように感じる。


「ツヅミちゃん、ちょっといい?」


 追いかけるようにしてアイチさんが部屋を訪れたので、何か仕事に不備があったのかと思い慌てて飛び起きたところ、盆とその上の茶と菓子が扉に入ってくるのを見つけて、私は胸を撫でおろした。


「ごめんなさい、メープルちゃんと食べてきたばかりよね?でも今日は今しか休憩できなさそうだし…」


「まあ、お腹はまだ空いてないけど…大丈夫だよ。入って」


 私の部屋で、アイチさんと仕事の暇を見つけて茶会を開くことは珍しくない。年齢は離れているものの、彼女との関係は親子というより、姉妹に近かった。

 この民宿を切り盛りする家族と私との間には血の繋がりがない一方で、住み込みで働く理由は家業を継ぐ娘のそれでしかない。この村に留まるまで行く当ても、それを求める気力も無かった私を、拾ってその命を繋がせたのはメープルで、この宿が私の居場所になったのも、メープルの実家に付き合いがあったことをきっかけとしていた。


「それにしても良い子よね、メープルちゃんって」


 アイチさんがそう切り出したのは、仕事の話や噂話に一つ区切りがついたときのことだった。


「それが、どうかしたの?」


「いやね、最近二人の惚気話を聞かないから」


「の、惚気ってそんな…!」


「ちょっと前までいつも一緒で、私と話す時もツヅミちゃん、メープルちゃんのことばかりだったじゃない。最近は口数も少し減ったし、気を遣ってわざと抑えてるんじゃないかなーって」


 その推理は概ね正解で、最近の私には、意図してメープルの名を会話に出すことを控える節があった。理由もいくつかあるけれども、その最たるところは指摘された通りだ。会話の中で他人の話ばかりすると良い気分でないのだな、と気付くに至ったのも、メープルにされたことの経験則だった覚えがある。

 メープルとのことを除いたとき、私に残された会話の手数が極めて少ないことは自分でも認めるところだ。長い付き合いのアイチさんが気付かない差であるはずがなかった。


「全然、私は全然気にしないよ?むしろもっと聞きたいもの。だいいち、この村の人は皆二人の仲がとっても良いって知ってるし、そんなことを気にする相手、いないと思うよ」


「まあ…そっか」


 彼女は私に限らず、村の多くの人にポジティブな感情をもたらす存在だった。狭いコミュニティの中で、彼女が持つ底抜けの明るさは幼い頃、私がこの村に加わるより前から際立っていたようだし、それだけ人と接し好かれることに長け、広い交友関係を構築していたからこそ、眠っていた才能が前任のシャーマンの目にも留まったと言っていい。思わず手を差し伸べたくなる天然なところが目立つ一方で、その内面は正直で、不器用ながらも誠実な受け答えをするのが彼女の最大の魅力だ。ある意味では神々しいと形容してもいい彼女にとって、最も親しい人間にこの私がなれているという、信じ難いほど幸福な現在に行き着いたと考えれば、絶望の中、この村の付近を彷徨っていた私は役得だったと振り返ってもいいのかもしれない。


「生きていれば必ず、良いことが沢山ある」。彼女らしいと言えばそうだろうけど、5年前のあの夜、村の外の岬で命を絶とうと決めた私を見つけたメープルがそれを引き止めたときの文句は、この上なく月並みなものだった。当時、生まれ育った村ごと“狂精霊きょうせいれい”に両親を奪われて間もなかった私の失意はその程度で晴れるはずがなかったものの、彼女に言葉で捲し立てるまま村の中まで引きずり込まれた後、例の木の下で一晩中漠然とした希望を説かれているうちに、少なくともその日のうちに自殺を遂げようとする意欲も無くなってしまった。その後は彼女の嘆願もあって、この宿の一室を借りて過ごすようになったけど、その頃は暮らしが良くなかったというのもあり、自分の家に迎えられなかったことをメープルは悔やんだようで、心配の感情のままにしばらく私と会うことを欠かさなかった。家の中にいても仕方がないと、時間を忘れてとりとめもない話をする舞台になったのも、やはりあの木陰。

 当時のメープル自身もそうだったのだろうけど、今の私は全てがその夜からの成り行きで生きている。すなわち、今の私が生きる希望を明かすのだとしたら、それはメープルにしかない。彼女が幸福であることが私の幸福になるし、彼女が望むように在ることは私自身の幸せにもなる。重要なのは、私はそれが依存だということを否定する気はないし、その上で間違ったことだとは思わないということ。「生きていれば必ず、良いことが沢山ある」。人は見ることのできる未来があれば生きることができるし、生きることに意味を見出すのであれば、むしろそれ以外にないと考えている。だから人々は“狂精霊“やそれを操る者達といった脅威に立ち向かったし、戦士達はそれで死ぬことも恐れず武器を振るい続けたのだ。確かに5年前、悲しみの淵にいた私が衝動でやろうとしたことは愚かであったし、メープルという依存の対象を抜きにしても、今の私であればあの時と同じようにはならないという確信がある。日常の喪失を一度体験したことで、人並みに生きるということの尊さを実体として感じることができ、そんな私の人生という領域に自然とメープルの存在が入っているという事実は、依存ではあってもありふれたもので、異常なことではないと思う。


「でも、いつもベタベタしてるって思われたら、私が恥ずかしいよ」


「今更気恥ずかしいって…。そっか!もしかして、私が知らない間にプラトニックの壁を越えたのね?」


「だから、違うの!」



 アイチさんに茶化されたのを、私はその日の内に思い返すことになった。普段通り宿の雑用を手伝った後、日が暮れて宿泊者の夕食の時間になる前、私はかつて身を投げようとした岬を訪れる。

私が生まれるよりも前、まだ“狂精霊きょうせいれい”が人々へ表立って危害を加え始めていない時代、海は両親を結びつけた場所だったという。故郷を失って以来、私は二人が好きだった海へと向かったのだと解釈し、村へ来てからは私が二人と対話する墓所になった。自殺を思い立ったとき足が海のある方角へ動いたのも元はそんな考えがあってのことだし、結果的にそれが救われるきっかけになったのだから、心持ちの問題ではその発想を信じることはできる。ただ、目を閉じて祈る先に両親の骨はもちろん埋まっていないし、それは故郷が跡形もなく消えただけでなく、そこが自分には辿り着くこともできない危険な場所と化していて、別の場所にいると思い込んだ方が好都合だっただけなのも確かだ。だから平和になった今、一度自分がいた村の跡へ戻ってみることに興味がない訳ではない。

 ただ、それはたとえ日帰りの小旅行だったとしても、一人なら今や私の本意ではない──葛藤の中、なぜか岬まで来て姿を見せたメープルの顔を目にして、それを再確認した。

 あの日以来、彼女とここで会うのは初めてだ。


「そっかー、ここにいたんだ!全然見つからなくて探しちゃった!」


「どうしたのメープル…?急ぎの用事?」


「あー、よく考えたらそうでもなかったな…」


 そう言ってメープルが手渡してきたのは、昼間の弁当箱だった。


「え、これだけのために?明日会うときで良かったじゃん」


「えっと、私このピンクのやつの方が好きだし、今日は依頼人も少なくて早くに仕事が終わったから間に合うー!って、思っちゃって」


「あー…」


 側から見れば突飛な話だろうけど、その言い分はまさにメープルらしい、純粋で向こう見ずなものだったので、私もそれに関しては一切疑問を抱かず弁当箱を受け取ろうとした。ただ、メープルの手はなぜかそれを離そうとしなかった。


「な、何?」


「…あのさ。昼間、ツヅミの前で不味そうに食べちゃってごめんね?ちゃんと全部食べたんだけどさ、あの後も、申し訳ない気持ちでいっぱいで」


「そんな!全然気にしてないよ、そんなこと。それに、別に嫌なものがあったら残してくれたって良いんだよ?我慢されるよりはそっちの方がいいよ」


「ほんと?嫌いな野菜全部よけちゃっても?」


「まあ…。私、メープルのお母さんじゃないからね」


「あはは、そういえばそうだった!──ね、一緒に帰ろ」


「ああ、そうね」


 私の表情はよほど分かりやすく曇っていたのだろう、メープルはそれを見て笑い出し、弁当箱から手を話したかと思うと、今度は反対の手で私の手首を掴んで村の方向へと引き摺りだした。


「大丈夫、別に嫌いなものなんて出てきたことないよ!それにさ、もし私のこと考えて料理考えてるなら気にしないで、私だってツヅミが好きなもの、一緒に食べたいからさ!」


 彼女の満面の笑みに、私は照らされた。同じ場所で、同じ人に手を引かれるこの眺めは私に、まるで5年前の夜へ時が巻き戻ったかのように思わせる。そして、絶え間なく流れ続ける時間に身をすり減らされる苦痛を掻き消しているかのような、この暖かさと快楽こそが、あの夜私に生気を与えたものだったということを思い出す。



 ただおかしいと思い始めたのは、時が遡ったという感覚よろしく、いつの間にか辺りが暗く移り変わっていることに気づいたときだ。それが当時の星空ではなく、目の前にいたはずのメープルも、背後に広がる海も、足元の地面も、私の体すらもその場から消えていたことは、全てその後に気づいたような気がした。


「──声が聞こえるか」


 聞こえる、という感覚ではなかった。音波というものを目で見たことはもちろんないけども、これは流れる波が耳、もしくは認識する脳に打ち付けるようにして伝わるのではなく、現在進行で上書きされ続ける最新の記憶へと、直接情報が取り付けられるような、感覚の世界とは隔絶された交信だと思われた。

 ただひとまず、絶対にこれと関わってはいけないという、自分自身の直感と恐怖心に私は従った。得体の知れないものに、不用意に返事をする気はない。


「この領域に恐怖を覚えるということは至極健全な感覚だが、恣意的な発想で対話を拒む気でいても、ここではそれが因子となって結果を変えるような、ツヅミから見た現実世界ほど脆弱な不確定性が介在することがない。この場をツヅミが認識したという事実のみにより、この主体との情報のやり取りは絶対的な結果として“直後”のツヅミへと刻まれることになる」


「何を言ってるのか分からない…!帰りたいよ!」


 思考を読まれたことに狼狽えている矢先、今度は自分の念じた意思が漏れ出ていることに気が付いた。喉も口もない今の私にとって、この場で声を遮るものはむしろ何もなかったのだ。


「主体が与える情報の全てをツヅミが知れば、すぐに元の空間に戻ることができるので、気分を落ち着けてこの声のようなものを受け止めておくのが最善だろう」


 人間味という以前に、意思や自己といったものが明らかに欠落しているその言葉に限っては、冷静になると意外にも怖さを感じなかった。そのため指示に従って、私は脊髄反射で言葉を吐き出している自分の人格までも客観するようにして、そのやり取りを聞くことに努める。


「ここは、どういう場所なの?」


「“狂精霊きょうせいれい”が世界を侵食して増やそうとした空間で、概念だとも言える。ことごとく暗黒であるのは、ツヅミをはじめとした全ての人間が、最大限の知覚能力を活用しても感知できるものが一切存在しないため。命という膜が個を保つ限り、この世界に色がつくことはない」


「何それ…。じゃあこんなところで私に語りかけてくるあなたは、“狂精霊きょうせいれい”の仲間じゃないの?私にどういう過去があるか、知ってて接触してる?」


「仲間というより、そのものと捉えたほうが正確に近い。この主体が意図する通りに作用した結果、ツヅミの世界に表出したものが“狂精霊きょうせいれい”に当たる」


「だから、私の両親はあなたに殺されてるって言ってるの!今更、どうして出てくるのよ!」


「一つ前の問いかけに先に応じるとすれば、ツヅミという人間へ発信を続けていた意図に、ツヅミが村へ移住するまでの経緯との関連はないと言える。メープルという存在に最も近い者としてのツヅミこそ、主体の意図を実行するのに最も適しているとともに、主体の呼びかけを察知できる可能性がある唯一の人間であることからだ」


「…なんで、私だけなの」


「ツヅミが、主体とは対極の存在であるメープルに強く影響された人間であるために、この世界を発見することができた。浅い角度で水中から上へ視線を向けても、反射して水面より上を見ることができないのと同じように、通常の人間と通常に関わって生きていても、この空間を覗くことはできない」


「メープルって…そんなに、特別な子なの?確かに“未来視”はできるけど、元は普通の子なのに、“狂精霊きょうせいれい”と対極って…」


「メープルは、生まれた瞬間からツヅミ達全ての魂の上位にある存在だ。たとえ能力以外の自覚がなくとも、能力が結果を導き、今のメープルという個人と周囲の環境を作り上げている」


「どういうこと…?メープルが、そんな…」


「“未来視”と皆が呼ぶその力は、そうなるように世界を仕向けたに過ぎない。故に、その魂の範囲はメープルという個に留まらず世界中と連携しているが、その中心にあるメープルだけはそれを人間の感覚器で理解でき、メープルを通して現実世界からも認識できる予言に変換される。」


 メープルが私たちにとってそれほど重大な存在であったことは、遠くなったようで寂しい気もあったが、それ以上に誇らしく思えた。紛れもなく確かな思いだったものの、実際この世界に飛び出している私の思念は、そんな感想を気にかけてもいないようだった。


「魂の範囲、というのは何?世界中と連携しているってどういうこと?」


「“狂精霊きょうせいれい”もそうだが、魂とは本来一つの集合体だ。それが物質に宿ることで、意識を別とした生命になる。ツヅミの世界とは物質で構成されるが、その物質もまた境界線を持たない同一体であり、魂への従属を凌駕し活動することを可能とした物質が“狂精霊”だ」


「“狂精霊きょうせいれい”が物質…?私達の命を奪おうとしたアレの正体が、私達の体と同じだって言うの…!?」


「その通りで、そもそも、“狂精霊きょうせいれい”が無くともツヅミ達の命を奪っているのはその体であり、物質だ。寿命がそうであるように、主体は常に魂の存在を世界から追放することを望んでいる。“狂精霊きょうせいれい”はその延長に過ぎない」


「じゃあ、私たちが掴んだ平和って…?敵は今もそこら中にいるってことでしょ…?」


「そうではない。主体は確かに魂を指揮したメープルに敗北し、屈服した。つまり、二度と物質が魂を追い出そうとすることはない」


「まもなく、全ての生命は死を克服するだろう。そして生命は増殖し、そこら中の物質へ埋め尽くすように宿る。すると、繁殖のために存在していた個体という概念は、自然と融解していく。自らが利益と感じるもののために行動する個体という仕組みは、効率と引き換えに同じ生命をも傷つけ得るという欠点を抱えているからだ。やがて生命は統一され、物質の上位へ永久に君臨し続ける」


「つまり、ツヅミの見方に依るならば、それは不気味なようで決して損をする結末ではないことになる。メープルを含めた全ての人間はツヅミの為に存在し、ツヅミは全ての人間のために存在するようになる。争いが起きるはずもなく、集合意思として全ての生命を理解し、満たされる。当然主体が導かんとするところではないが、“狂精霊きょうせいれい”という手段を失ったことで、今の主体にはツヅミ以外に現実世界へ通じる方法を持たない。悪あがきのようなものだ」



 限りなく無に近い時間の隙間が過ぎ去って、瞬いた後のように視界が戻り、全身が揃っているのを感じた。力の具合がどうだったか忘れた私は、引き続き手を引いてきていたメープルに身を委ねることができず、村の入り口を前にして立ち止まった。


「どうしたのツヅミ。…あっ、痛かった?」


「え?ああ、違うの。気にしないで」


 手を放して案じてくるメープルの顔を見て、私は少し安心する。こうして目に見える、形を持った客体を前にしてみると、先ほどまでいた場所は不愉快な夢のようにしか思えない。あまり声に対する恐怖が無かったのを考えても、あれは現実世界の外というより、私自身に内在するちっぽけなものに思われた。普通でない体験をしておきながら、メープルの言葉にも何食わぬ顔で応じることができたのも、私の無意識が今の出来事を、感情を惑わすのに値すると判断しなかったからだろう。結局、私はメープルと手を離したまま、歩いて村へと戻った。



「メープルってさ、最近は忙しいの?」


 しかし、短すぎる体感時間が過ぎ去り、気付けば翌日の昼になっていた。昨日と全く同じ食事の風景だった。

 この質問一つを切り出すのに、半日以上の時間を要した。その間、私は普段通りに寝て食べて仕事をして、特に生活を乱すことはしなかったが、ことあるごとにあの暗闇がイメージになって蘇る。あれほど取るに足らないことだと割り切れていたはず──いや、今もそんな感覚は変わらないのだけれど、振り払わねばという嫌悪感がないのが逆に良くないのか、それはこびりついたしつこい染みのようで、記憶の更新に流される気配がまるでなかった。


「えー?さすがに前よりは落ち着いたけど。ぶっちゃけ、売れっ子なもんでさ」


「まあ、そうだよね…」


 当然、メープルの託宣を必要とする人は今でも多い。村に所属するシャーマンであって一般人の未来を告げることはないが、国の人間がその力を頼ろうとするのがなくなったわけではない。辺境であるこの村に開発の手が回るようになったのも、“浄化”以外にそんな背景があった。


「なんで?ツヅミが私の仕事の話するなんて、珍しいじゃん」


「う、うーん。そうだっけ…?」


「そうだよ!気遣ってくれてるんだなーって思ってるもん」


「そっか、特別そうしてるわけじゃないけど…。そこまで言ってくれるなら言うよ、いつか暇なとき見つけて、日帰り旅行でもしたいなって」


「えー!楽しそう!どこ行きたいの?」


「故郷のあったところ。寂しくなっちゃうだろうから、一人で行くのもなって思って…。もちろん、来てくれるなら寄り道して楽しいこともしたいし」


「そんなの行くに決まってるじゃん!なんでそんな言いづらそうにしてたの!」


「行きたいって言ってくれると思ったからだよ。そんなに空いてる時間、あるの?」


「げっ、確かに…。あっ、でも休みがあるなら全休で中途半端なのはないはずだから、そういう意味では都合合いやすいかも…?」


「どういう意味?」


「えっとね、あの力って一日に何度も始めたりやめたりするものじゃないの、色んな未来が見える状態になるとこっちの世界の感覚が薄くなって起きられなくなっちゃうから。起こされる時間が決まってて、そのあと依頼人に順番で教える感じ。だから決まった仕事こなして何時間とか余っちゃうと、退屈すぎて辛いくらいだし…」


「…な、何その仕事。それ、周りの人に相談したの?」


「え、しないよ。そんなことしても楽しくないじゃん」


 その話を初めて聞かされた私は、血の気が引く思いにさえなっていた。気は進まなかったし、いつもの世間話と同様に流れていく会話になるという確信のもと仕掛けた話題に、彼女は個性として、意味のある応えを提示してしまった。


「…それ、絶対やり方考えた方がいいよ。スケジュール、絞った方が余計に働くこともなくなるよ」


「んー。一個のこと調べるのにどのくらいかかるか先に分かればそれでもいいけど、そういうわけでもないし…」


「『未来視』なんてしなくても、シャーマンの仕事自体はできるんでしょ?そんな無意味に辛いだけの思いするんなら、いっそ力使うのやめちゃった方がいいんじゃ…」


「えー?でも必要としてる人がいるのに、私の都合でやめるなんてダメだよ。ツヅミ、優しいんだね」


「だって!前のシャーマンの人って、辞めるときおばあちゃんだったよね?メープル、そんなのをこれから──」


 それ以上を、私は口に出すことができなかった。核心をつくのが恐ろしかった。その純粋さに自分が照らされる感覚はまたしても感じていたものの、今度のそれは私の中枢を温めていない。


「…ごめん。大して知らない私が口出しなんかしちゃいけないよね」


「気にしてないよ。へへ、やっぱりツヅミ、お母さんみたい」


 私はメープルから空の弁当箱を受け取ると、先に立ち上がった。


「ねえメープル。今日の夜…今から十二時間後、こっそりここでもう一度会おうよ」


「えっ、なんでそんな遅くに?なんか、怪しい…」


「そうね…。私がメープルを殺すのに、丁度いい時間だからかな」


「え、ええっ?嘘、怖いこと言わないでよ!」


「…うん、冗談だよ。でも、夜は絶対来て。寝ちゃわないでね」



 あまり正確な時刻を決めて伝えなかったのもあるが、やはりメープルは遅れてその木の下に戻ってきた。いつもなら時間こそ適当でも、私の約束を彼女が破るはずがない。でも今回はあまりにも待たされたので、今日ばかりは仕事の疲れと睡魔に負けてしまったのかもしれないと、私は半ば思いこもうとしていたところだった。


「ご、ごめんツヅミ、待ったよね…。灯りつけたままじゃなかったら朝まで寝ちゃってたかも…」


「大丈夫、そうだろうなって思ってた。いくらでも待つつもりだった」


「それで、何をするの?」


「…ほら、この辺。最近は昼間じゃこんなに静かだったことないでしょ?だから星空でも眺めながらさ。これ…もう飲める年齢になったのに、メープルと飲んだことないでしょ」


「え、そんなこと?もっと早くて良かったじゃん」


「このくらいが一番外の落ち着く時間なんだよ。それに、話したいこともあるし」


 さすがのメープルも私の言い分に対して違和感を覚えているようだけれど、その目線が物語るのは全て私の異変に対する心配でしかなく、私が最後に悩みを仄めかしたのも、それなしでは彼女にとってのツヅミ像と整合性が合わない、という態度を汲み取ったからで、彼女へ合わせるように付け足した言葉だった。また、その提案自体を迷惑に感じてもいいはずなのに、その様子だけは見て取れない。メープルは人の気持ちを考えられる子だけど、嘘も隠し事もしないし、気を遣おうとしてそれらを試みても大概は下手くそだ。つまり、私がその様子を見落としているというわけでもない。


「はい、このお酒も最近入ってきたんだ。宿で出したんだけど、評判良くて」


 用意した杯に酒を注いでメープルに渡すと、彼女はそれを受け取ったまま、こちらへ差し出すように持ち上げてくる。


「な、何?」


「ん?乾杯だよ」


「ああ、そうだよね。…それじゃ、乾杯」


「かんぱーい」


 私が味のしない酒を漫然と口に運んでいる一方で、メープルはそれらを快活に、すぐ飲み干した。

 私はそれを見て項垂れた。


「メープル、話したいことがあるって言ったよね」


「うん。何かあった?」


「…会ったんだ。人…じゃないけど、私たちの、双子のきょうだいみたいな存在のものに。それはなんでも知ってて、メープルのことも教えてくれた。“未来視”のこともさ」


「どういう、こと?」


「メープルは自覚してないんだよね。“未来視”っていうのは、世界中の命を操って見たような未来を実現させる力。メープルや私たちが得するようにはたらくから、メープルの都合が悪いようにはならないってこと。だから──」


 メープルはついに頭を抑え出した。座っているので判別はしづらいが、酒で意識が混濁するには明らかに量も少ないし、早すぎる。

 確かに、杯へ盛った強力な睡眠薬が効き出していた。

 私は涙を溢れさせながらメープルの体を掴み、顔を近づけて訴える。


「だから、私がメープルを殺そうとしても、それが成功するはずなかったのに…!メープルが、自分や私の未来を見ようとしていれば、こうはならなかったのに!」


 メープルは力なく木の幹へもたれた。何か状況を問いただしているようだったが、既に呂律が回っていなかった。

 ただ、「どうして」という言葉は、再三聞き取られた。


「私だって、今のまま生きていければ、それで良かった。死の克服だとか、集合意思だとか、ピンと来なかったけど…。ただこのままメープルと一緒に生きて、お互い良い旦那さんを見つけても、子供や孫が産まれても、ずっとその幸せを共有できる友達でいたかった!…でも、あなたの視線はそんなところに向いたことがなかった」


 まもなく完全に意識を失ったメープルを、私は担ぎ上げる。木の柵を越え、断崖の淵に一度降ろした。両親に祈りを捧げた岬までは地続きになっているので、そこまで運ぶ気にもなったが、海に落とすことは変わらないと、今の私には割り切ることができた。

 自分が落ちることのないよう、私は慎重にメープルの体を前へ転がしていく。

 ここまでの間、私の涙は止まる気配がなく、胸中では終始迷いが渦巻いていた。結局これでメープルを失っても、私はしばらく強い後悔に苛まれるだろうし、5年前、家族と帰る家を失ったあの日と同等の喪失感、悲しみを味わうことになるだろう。メープルとはたった今、この瞬間も私にとってはかけがえのない存在だ。自殺する気であった私を救ってくれたのは彼女だし、皆に好かれ、争いを終わらせた彼女を深く尊敬している。

 しかし、「生きていれば必ず、良いことが沢山ある」と言ったのは彼女なのだ。今考えると、それは本当に何気ない、空虚な文言だったのだと痛感するけれども、5年前から、私はその言葉こそに生かされてきた。だからメープルと生きることを選んだ。今もこうして私自身を迷わせるだけの物語を、両親をはじめとした過去を切り離してまで胸の内に彫りきった。


「私の勝手で、ごめんねメープル…でも、苦しい思いはさせないから。こんな酷いことをしておいておこがましいとは思うけど、今度は生きることを諦めたりしない。この5年間より幸せにはなれなくても、私は死ぬまで明日のことを考えることにする」


 最後の一押しでメープルはあっという間に遠のき、一度水飛沫が上がるとそのあとは浮かんで来るのが見えなかった。これからしばらくはまた一人になるだろうけど、独り言を言うのはこれで最後にしよう、というのが直後、私の決意したことだった。



 私はこの夜のうちに、村へ今生の別れを告げた。

 同時に明日からの村には、世界にはメープルがいなくなる。こうなると、余計な世話を焼くこともあった村人の中からは、もしかすると駆け落ちだと勘違いしてくれる人が現れているかもしれない。それほど今度の犯行は段取りの通りで、証拠という証拠も一切残さず、あまりに都合の良い成功で終えることができた。

 なので、私は他の考えにも思い至る。相手のメープルは、こちらが今まで何度も肝を冷やしたほどに純粋で単純なので、そういうものとも言えるし、私自身、メープルを美化してでもいい思い出にしておきたいという思いがあるか、やはりメープルを私の親友として、理解の範疇に位置付けておきたいからなのだろう。けれど、そんな都合の良さの理由として別の要因をあげるのも、あるいは良いのかもしれないと感じているのだ。

 確か、太陽にも寿命はあると聞いたことがあった。

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太陽の見据えるもの 喫痄 @Alba_Hinode

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