十二

 さとは、ふところから匕首あいくちを取り出して、刃を抜き放った。

 上手いこと連れ出せた静介は、母が空き家にいると信じて、辺りをきょろきょろと見ている。


 はじめは、静介を殺そうとは思っていなかった。


 雪を男たちに襲わせて、雪の気持ちが砕ければそれで最後にするつもりだった。


 だが、計画が失敗し、しかしながら充分に雪に恐怖を与えたかと思えば、克草こっそう塾から辰巳と仲むつまじく出てきた姿を見て、静介を殺さなければという感情が芽生えてしまったのである。


 どうしても、雪のくじける姿が見たい。

 その一心で思い至ったのは、静介を殺めようという考えである。


 更に好都合なことに、静介を殺せば、雪と辰巳は目を離した和泉を恨むであろう。


 和泉が雪の噂を流した鈴彦や兄のことをぎまわっているのを知っていたので、さとは彼のことが邪魔で仕方なかった。

 雪のことをいているくせに、なぜ和泉は辰巳までをも助けようとするのか、さとには分かり合えないものがある。


 さとは人を殺したことがない。

 だがら、だろうか。手の震えが止まらず、中々に刃を振り下ろせないでいる。


(殺さなきゃ……殺さなきゃ……)


 誰に命令されたわけでもないのに、それは自身の意思に他ならないのに、さとは暗示をするかのように何度も、心の中でつぶやいた。


 そして、匕首を振り上げた。


 がんっ、と何かが落ちる音がして、静介は後ろを振り向いた。

 静介を空き家まで案内した女が、男に手首をつかまれて、痛そうに表情をゆがめている。


「早く家に帰れ。ここに来たことは忘れろ」


 視線を向けられ、その男が自分に言った言葉だと、静介は理解した。

 男の冷たい声音が怖くて、静介は声も上げずに空き家を出て行った。


 静介は空き家を出て、どの道が家路なのかがわからなかった。

 とてつもなく怖いことがあったような気がして、一人ぼっちが心細く、ぼろぼろと涙を流すばかりだ。


「静介!!」


 和泉の必死な声が、聞こえた。

 早く、早く見つけてほしい。


 もう和泉の声が何処どこからするのかも判別がつかないほど、静介は泣き叫んだ。


 その声は、和泉の耳にしかと届いた。


 和泉が静介を長屋に連れ戻すと、先に雪と辰巳が長屋に着いていた。


 泣きわめいている静介を見て、雪はあわてて静介を抱えた。


 母が恋しかったときの泣き方にしては、尋常ではない。


「ごめん……目を離した隙に、いなくなっちゃってて……」


 静介が迷子になりかけた。

 それだけでも一大事だが、裏ではもっと一大事なことが起きていたのをさとったのは、辰巳と和泉だけである。


「まだ、近くにいるかもしれない」


 辰巳はそっと和泉にささやいて行こうとするのを、和泉が制した。


「お前は行くな。静介のことを危ない目に合わせた罪滅ぼしとは言わないけど、俺が行くから」


 和泉は、辰巳をさとに会わせたくなかった。

 さとが静介を連れ去ったのか、確証はない。けれどきっとそうだろうと、辰巳も同じ考えである。


「静介は生きてる。気にすんな」


 それでも和泉は、自身が目を離してしまったという罪悪感が、重くし掛かっている。

 もしも静介が……想像するだけでもぞっとした。



「邪魔しないで!!何で……何で兄さままで私の邪魔をするのよ!」


 気配を消して、相手の背後を取ることを藤次郎は得手としており、さとには気づかれず、凶刃を止めることができた。


 さとはその場にくずおれて、さめざめと泣いた。

 本当は、止めてほしかったのではないかと、藤次郎は思う。

 静介を殺すことが失敗に終わり、さとが安堵あんどで泣いているのならば、まだ救いがあった。


「さと、信濃しなのに帰るぞ」


「嫌よ……信濃にも何処どこにも、私の居場所なんてない……」


 さとは、はっとして顔を上げて、いきなり駆けだした。

 藤次郎はさとを追う。

 裏通りを出て、土手へ、小さい橋の下にはよいの中にあって、闇色の川が流れていた。


 遠くでは人の喧騒が聞こえる神田の町でも、世俗と切り離されたような明かりもない川辺には、人の気配がない。


 さとは橋の欄干らんかんの上に立った。


「降りろ!さと!!」


 めずらしく藤次郎が叫んでいる。

 他人事であるかのように、さとは藤次郎を見ていた。


「最初から、こうすればよかった」


 最初とは、どこだろうか。

 雪をおとしめようとしたときか、好いてくれた辰巳をあざむいていたときか、それとも、禁忌のこいをしてしまったときか……


 いずれにせよ、すべてに未練はなかった。


「私がいなければ、辰巳を苦しめることも、あの人を苦しめることもなかった……」


 この世界で、自分はいらない存在だった。

 実の兄を愛してしまったそのときから、世界はさとを拒絶した。


 愛している。だけど、一線を越えたことも、想いを伝えたこともない。

 それなのに世界は幸福も、家族までをも奪っていった。


 心は歪んで、誰かを不幸にすることでしか、存在できなくなってしまったのだ。


「愚かな妹でごめんなさい……」


「さと……」


 さとの乱れた髪は、涙に濡れている頬に張り付いていて、その姿は一層みじめさがただよう。


 こうもはかなく頼りないさとが、子どもを殺めようとしたなど、藤次郎だけでなく、さとを見た者のすべてが考えられないだろう。


「兄さま、愛してる」


 想いを伝えた女の表情は哀しいままに、身を投げ出した。


──知っていたでしょう?

 降りる寸前にさとの口が、そう動いた気がした。

 動揺した藤次郎は、さとが川に飛び降りたのを一拍遅れて手を伸ばす。


 さとは、自分を助けようとしてくれる藤次郎の姿を、落ちていく最中にとらえていた。

 すり抜けてしまった、その手も……


  *


 誰かが二度、戸口を叩いた。


 何者かに襲われそうになったのはつい昨日のこと、雪は誰何すいかもできないまま、身体を強張らせる。

 昨日は迷子になりかけていた静介も、雪の背中にしがみついた。


 訪ね人は何も言わず、戸口を開けることもしない。


 辰巳であれば、戸口など叩かずに家に踏み入る。

 和泉にしろ長屋の住人にしろ、戸口は叩いても、名を名乗るというものだ。


 ますます不安が募って、雪はずっと戸口から目を離せなかった。


 しばらくして、やっと訪ね人の声がした。


「……俺……鈴彦だけど」


 辰巳が師範代を務める道場に通うその人物は、雪の義理の弟でもある。


 鈴彦は雪のこと嫌っていて、やっと再会した父にも会わせないようにしただけに、おいそれと雪は戸口を開けることをしなかった。

 雪は戸口の前まで移動して、二人は戸口を隔てて対峙たいじする。


「どうされました……?」


「…………」


 鈴彦は押し黙ったまま、また口を閉じる。

 雪はたまりに堪った思いを告げた。


「お願いします……おとっつぁんに、会わせて。少しだけでいいから……もう一度会えるなんて、思っていなかったから……どうか」


(この人は、たった一人の家族に捨てられたんだ……)


 弱々しい声音は、決して雪の心根を表しているわけではない。

 そこには父に会いたい切実さが込められているだけで、雪の意思は強かった。


 人に言い返すこともできないような印象を雪に抱いていた鈴彦は、意外に思いつつ、覚悟を決めて戸口を開けた。

 彼は即座に、ひたいを土間にこすりつける。


「あんたのことを誤解してた。許してくれ……この通りだ」


 まさか謝られるとは思わず、雪は戸惑う。


「いや、許してくれなくていい。今すぐ、親父に会いに行ってくれ。親父は体を壊してて、せってるんだ」


 寝床では苦し気に、何度も雪の名前を呼んでいた。

 夢の中で、幼い雪の涙は止まらない。そして、留五郎に対しての恨み言をつぶやく。

 留五郎はくり返し、悪夢を見ていた。


「おとっつぁんに会わせてくれるなら、何でも許します。だから、顔を上げて。……おとっつぁんは、そんなに悪いの?」


 おずおずと顔を上げた鈴彦が雪と目を合わせた後、再び目を伏せたのは、雪に問われた事実に対してであった。



 息を切らして駆けつけた雪は、留五郎の家の中に雪崩なだれ込む。

 あわただしく駆け寄る娘に気づかずに、留五郎はうめいていた。


「おとっつぁん……!」


 雪が最後に会ったときよりも、留五郎の身体はやつれている。

 肉付きのよかった手足は筋張って、顔色も生気がない。

 急激に老け込んだようにも見えた。


「雪……もう捨てたりなんかしねぇから、泣かないでくれ……」


 雪は泣いてはいなかった。

 留五郎は、夢の中の雪を見ている。


 しかし現実の雪も、留五郎の懺悔ざんげを聞くとともに、涙があふれ出す。


「おとっつぁん……おとっつぁん」


 何度だって、父を呼びたかった。

 そばにいてくれると信じていた。


 一人ぼっちがさみしかった。


 いつだって、こうして泣きたかった。


 せめぎ合う感情は、過去に押し殺していた想いたちである。


「ずっと……待ってた」


 父の帰りを待っていた雪は、今もここにいる。


 留五郎がうっすらと目を開けた。

 隣に雪の姿をとらえると、雪の頬に手を差し出した。


 涙をぬぐおうとしてくれる仕草が懐かしかった。


 雪はどうしても、最後まで留五郎を憎むことができなかった。

 病魔におかされている姿と、過去の仕打ちに後悔している姿を見せられて、簡単に父の愛情を求めてしまう。


 きっとその手は偽りではなく、真実愛してくれている。


 充満する歓喜に、雪は自然に笑顔を向ける。

 留五郎は安堵あんどしたような表情で、再び眠りに落ちた。



 医者が言うには、留五郎の命はあと一月もつかどうか、というところであった。

 涙ながらに鈴彦から告げられた言葉は、雪をも打ちのめす。


「鈴彦さんが一生懸命看病してくれたって、おとっつぁんが感謝してました」


「そんな……」


 留五郎が雪に会いたがっているのを知っていて、鈴彦はその願いを阻止そししていた。

 留五郎の体調が悪化したのは自分の所為せいだと思い込んでいた鈴彦は、雪の言葉に少し救われた気がした。


 今さら気づいてしまったのは、留五郎は雪だけでなく、自分も愛してくれているということだ。


 わざわざ愛していると言う必要がないくらいに、鈴彦は留五郎と過ごしていた。

 父の愛を確かめなければならなかったのは、雪の方だったのだ。


「親父と死んだお袋は、よくあんたのことで喧嘩してた。親父は、やっぱり娘と一緒に住みたいって言ってたんだ。お袋は一緒に住みたくないって突っぱねたから、それで……」


 娘を捨て、でも娘を思い出していた父親は、鈴彦から見ても身勝手だった。

 雪の存在は、鈴彦にとっては羨望せんぼうでしかなく、父をとられることを恐れていた。


 実の親から捨てられた雪の気持ちを考えたことはなかったのだ。


「あんたのこと、その……置いてったって負い目があるから、親父は会いに行けなかったんだと思う」


 実は一度だけ、留五郎は雪を訪ねたことがあった。

 そのときにはすでに雪は辰巳と所帯を持ち、引っ越していたので会えなかったのである。


「もしあんたがよければ、親父と一緒に住んでやってくれ。師範代がいいって言うかはわからないけど」


 鈴彦は師範代と口にしたとき、顔を曇らせた。

 雪が辰巳から聞いた話によれば、鈴彦は道場で雪をなじった一件以来、道場へは顔を見せていないという。


 騒動を起こした張本人が道場に行くことができないのは当たり前で、だが剣を習うことへの未練があるから、吹っ切れないのだ。


「私も一緒に謝ります。辰巳さんにもお願いしますから、道場に行きましょう」


 なぜ迷惑をかけた男にそこまでするのだという言葉を、鈴彦は飲み込んだ。

 姉は、思っていたよりも頼りになる存在らしい。


 雪から留五郎の病態について聞かされた辰巳は、雪が持ちかけるよりも先に、留五郎との同居を許可したのだった。

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