十一

次にさとは何をするつもりなのか、傷が治ったばかりの、しかも信濃しなのから長旅をしてきた藤次郎は、さとの動向を探りたくても思うように身体を動かせない。


今まで散々人に褒められるようなことをしてこなかった藤次郎がさとを止めようとしているのは、綺麗ごとではなく、このままではさとが幸せになることができないからだ。


かといって、雪をおとしめることがさとの生き甲斐となっているのならば、どうすればさとのためになるのか。

その答えもわからないまま、兎に角さとを止めなければと、藤次郎は己の身体に叱咤しったした。


藤次郎は背後から、殺気を感じ取った。

鈍い身体では順応することができず、相手に背後をとられていた。


「また辰巳を連れ戻すつもり?」


「お前に構っている暇はない」


和泉はぐっと、藤次郎の背中に押し当てる刀の柄に力を籠める。

藤次郎が重傷を負ったことを辰巳から聞いていたが、万が一にも油断できない相手だ。


「さとを見たら教えろ」


「もしかして、あの子が単独で……」


和泉が警戒を解いたのを感じて、藤次郎は振り返る。

二人にとって、久しぶりの邂逅かいこうだった。


「お前は相変わらず甘いな。一番剣客けんかくに合っていなかったのは喜介じゃなくてお前だ」


充分に、和泉が藤次郎を殺めることはできた。

殺めなかったのは、藤次郎がと共に動いているのかもしれないと思い、探りを入れたかったためでもあるが、藤次郎が絡んでいないと知って、剣を向ける必要はないと判断したのだ。


冷酷無慈悲で通っていた藤次郎からすれば、和泉の考えは甘いの一言だった。






気が沈んだとき、雪が訪れるのは紫乃の元である。

あれこれと相談しても、紫乃は文句ひとつ言わずに悩み事などを聞いてくれるのだ。


辰巳の前では弱いところを見せないようにと努めれば、いつもたまりかねて紫乃を頼っていた。


紫乃からすれば、雪が頼ってくれることは大いにうれしいことであり、ますます可愛く思えてしまうのだった。


「雪は頑張り過ぎなのよ。無理しちゃだめ」


「頑張ってるんじゃなくて、怖がっているだけ。

やっとおとっつぁんに会えたのに、障害に立ち向かうことができない」


この手で掴もうとしなければ、幸せは訪れない。

身をもってわかっているはずなのに、過去を振りかざされて足がすくんでしまった。


「休むことだって大事よ。

私にでも旦那にでもいいから、甘えられるときに甘えて、心を養わないと」


「うん……」


「力になれることがあったら言ってね」


紫乃も、そして辰巳も支えてくれている。それがどんなに心強いか。


留五郎の娘でいたい。


願いは確かに、あとは求める覚悟だけだ。


「ありがとう、紫乃さん」


紫乃のあでやかな笑みは、ときめくほどに美しい。

たとえ試練が訪れようと、幸福は側にあるのだ。






雪は立ち止まって、後ろを振り返る。

しかし後ろには誰もいない。


一緒に手を繋いで歩く静介が、不思議そうな顔で雪を見た。


「何でもないよ。早くお寺に行こうね」


静介を不安にさせてはいけない。雪は努めて優しい声音で言った。


というのも、克草こっそう塾へ向かう道中、雪は誰かにつけられているような視線を感じていた。

何度か振り返って後ろを見ても誰もいない。


無性に辰巳を頼りたくなったが、ただ視線を感じるというだけで道場に押し掛けることははばかられる。

しかも最近は辰巳にすがってばかりいるので、余計に頼ることができなかった。


心が弱っているから神経質になっていて、ただの気の所為せいであると、それでも不安は拭いきれなくて、寺へと急いだ。


寺に入れば、僧がが何人もいるから安心できる。

無事に静介を見届けた雪は、すぐ隣にある克草塾に足を向けた。


もうすぐ……門まであと五歩というところで、いきなり身体がかしいだ。


「…………!」


ぐいと肩を引かれ、聞こえた足跡は今まさに触れている人物だと後で理解した。

訳がわからないまま、口を塞がれたことで恐怖が襲う。


視界に映っているのは、二人の知らない男たちだった。


雪の脳裏には一瞬にして、過去に暴漢に襲われた日の記憶が蘇る。

あの日も男たちに引きずり込まれてなぶられ続けた。


同じことを、同じ思いをさせられようとしていると、雪は本能で察した。


(逃げなきゃ……!)


雪は口を塞いでいる手を、できる限り嚙んだ。


男が怯んでいる間に、一目散にまだ目の前に見える克草塾へと駆ける。

雪を捕まえようとしたもう一人の男の手も、寸でのところで振り切った。


(助けて……!)


大声で叫べば、誰かが来てくれるかもしれない。

なのに雪はあまりの恐怖に声を出すことができなかった。


後ろを振り返ることもできずに、ひたすら克草塾を目指す。


門を潜り、広い庭の只中に和泉の姿をとらえた。


「……あ……っ」


叫ぼうとした。和泉の姿を見て、少しだけ声が出るようになった。

早く気づいてもらわなければ……

焦る足元は小石につまずいてしまい、顔を思いっきり地面に打ち付けた。


痛みよりも早く、男たちに捕まるという絶望が押し寄せる。


「お雪ちゃん!」


詰まっていた息が、呼吸を荒くさせる。

和泉は気づいてくれた。そう思うと、顔と足に盛大な痛みが襲った。


すぐに和泉が身体を支えてくれて、雪はやっと後ろを振り返ることができた。


男たちは、姿を消していた。


「何があったの……?」


雪は和泉の腕をつかんで、上半身だけを起こして和泉を見上げた。


男たちに襲われそうになったと言ってしまえば涙がこぼれ落ちそうになって、雪は泣くまいとするだけで精一杯だった。


「どうした!」


やがて珊石と寛石も駆けつけてくる。

雪はまず過呼吸になりかけている胸を鎮めようと、深く息を吸った。


「……静介」


男たちは逃げてしまった。急激に、さっきまで手を繋いでいた我が子の身が案じられた。


「俺が寺に行くから安心して」


和泉が寺に行くと、そこには普段と変わらずに境内でたわむれている静介たちの姿があった。

雪を襲った男たちは足取りもつかめないまま、行方をくらましていた。






珊石はやり場のない思いで雪を見た。


擦りむいた膝は大量に出血していて、頬に至るも擦り傷があり、つまずいた際にはわずかに口も切っている。

その様は、何とも痛々しい。


雪の怯えようは相当であり、理由を想像した珊石は、未遂か、あるいはと考えたところで、やはり余計に痛々しかった。


和泉は念のために子どもたちのいる寺で警護をしていて、寛石は辰巳を呼びに道場まで出払っているので、克草こっそう塾には雪と珊石しかいなかった。


手当てを済ませた雪は所在なげに座り込んでいる。

どう声をかけたらいいのか、珊石は言葉を見つけられないまま、雪が不安にならないように側にいた。


長い沈黙を破ったのは、けたたましい足音だった。


「辰巳さん……」


勢いよく部屋の中に飛び込んできた辰巳の姿に、雪はひど安堵あんどした。


今まで我慢できたはずの、すでに引っ込んでしまった涙がせきを切ったように溢れ出す。


恐かった。そうつぶやけば、痛く苦しく切ないほどに辰巳が抱きしめてくれた。






(どういうことだ……)


やっと見つけたさとは、先ほど雪を襲った男二人と話していた。


左近に言われた言葉がずっと引っかかっていた鈴彦は、己の目で雪の行いを確かめようと、朝から雪のことをつけていた。

何度か雪に気づかれそうになったが、上手いことかわして尾行を続け、そして雪が克草塾に向かう途中で事件が起こった。


陰で待ち構えていたかのように男たちは雪をとらえようと、襲いかかる光景を鈴彦は目にしたのだ。

やっとうを習っているはずの身体は、すくんで動かなかった。


幸いにも雪が逃げ切れたからよかったものの、もし雪があのまま襲われていたら、それでも立ち尽くしていたかもしれないと、鈴彦は自身の浅ましさを思い知る。


そして今、偶然にもさとの姿を見つけた鈴彦は、さとが件の男たちと話しているのを見て驚愕していた。


と男たちは揉めていた。

何でしくじったのか、さとはそんな言葉を口にしていて、事の首謀者が誰であるかをまざまざと見せつけられる。


男たちが去ったあとで、鈴彦はさとに詰め寄った。


「こんなことやめろよ。いくらあの人を襲ったって、師範代が側にいるんだから無理だ」


師範代、と口にした瞬間、さとはぴくりと眉を動かした。


「俺はお前に騙されたことはどうだっていい。

あの人に何かされて恨んでいるなら、納得するまで謝らせるから」


「私は何もされていない。ただ、あの人が憎いの」


「そんな……それじゃあ」


雪は悪くない。

恨みの根源に何を隠しているのかはわからずとも、雪は思っていた、いや、思わされていたような人物でないことが証明された。


「もう、貴方に用はない」


鈴彦は裏切られたことよりも、雪を誤解していたことに傷ついた。






「ほら、早く負ぶされ」


「嫌です……」


克草こっそう塾の玄関では、家路に就こうとしている雪と辰巳が塾を後にしようとしていた。


つまずいて怪我をした雪が普通に歩こうとするのを辰巳が止め、雪を背負おうと意気込んでいる。

それを雪が必死に固辞していて、悶着というか、痴話喧嘩をしているのだ。


「じゃあこうすればいいのか?」


雪の身体は一瞬、ふわりと宙に浮いた。

見上げれば近くに辰巳の顔があって、しかも身体は辰巳の手によって横抱きにされている。


これでは、負ぶさるよりも恥ずかしい。


「お、降ろしてください……!こんな姿で帰るなんて、絶対に嫌です」


「怪我をしたんだから仕方ないだろ。それとも雪は、俺に抱えられるのが嫌なのかよ」


「そうじゃなくて、人前で、無理です……」


玄関には、珊石と寛石が二人を見送ろうと先ほどからたたずんでる。

珊石はさすがに泰然として見ているが、寛石は目のやり場に困って居たたまれない気持ちになっていた。


「夫婦なんだからいいじゃねぇか」


夫婦、という響きに雪は胸が熱くなるも、とても横抱きにされて帰る度胸は持ち合わせていない。


辰巳が渋々雪を降ろして言った。


「じゃあ駕籠かごを呼ぼう」


「歩けないほどひどい怪我ではありません。大丈夫ですから」


「……じゃあ」


辰巳はそっと、手を差し出した。


手を繋いで往来を歩くなど、夫婦とはいえ充分に恥ずかしい行為だ。

肩を並べて歩く町人はいるといえども、手を繋いでいる者たちはめずらしい。

武家の人間にいたっては夫婦でも肩を並べて歩かない。


という世の中の道徳ともいえる摂理をわからないほど、雪は子どもではない。


それでも雪は、辰巳の手を取った。


儒学などを学んでいる珊石からの叱責を恐れたが、珊石は何も言わなかった。


二人を見送った後、寛石はやっと口を開いた。


「あのご夫婦は仲がよろしいのですね。和泉様にも見せてあげたかったです」


和泉はきっと、親友が妻を心底心配する様を見て、いつもの調子で揶揄からかうだろうと、寛石は思った。


雪を襲った男たちが辺りをうろついている可能性もあったので、和泉は静介を含め、寺の子どもたちを家まで送っていたので克草塾にはいなかった。


「いや、あ奴は見ない方がよい」


「…………?」






(何で、あの女は笑っていられるの……?)


克草塾から出てきた雪を、さとは物陰から見ていた。


雪は辰巳と手を繋いで、羞恥の所為せいか夕焼けの所為か、ほんのりと頬を染めている。

辰巳と何やら話している雪の顔は、さとの目から見ても幸せそうであった。


(私は、あのときから、きれいに笑えなくなったのに……)


まだ子どもの時分、さとは目の前で家族を殺された。

さとに残されたのは、兄だけだった。


さとは急いで雪たちを先回りしようと、足を走らせた。



「おっかちゃは?」


寺に預けられていた子どもたちを見送った和泉が、静介の手を引いて長屋についたのは、日も傾いたころである。


他の子どもたちを見送るまで大人しかった静介は、和泉と二人きりになった途端に母恋しさを口にし始めた。


常ならば、克草こっそう塾で勉学を終えたあと、雪が寺に迎えに来てくれる。

だが、今日は雪ではなく和泉と帰ることになって、静介は不安を覚えたようだ。


「もうすぐ帰ってくる。お雪ちゃんが帰ってきたら、美味い物食おうな」


雪は克草塾を出て、辰巳と家路に就いている頃であろう。

怪我をしているので遅くなるかもしれないが、それを考慮しても陽が完全に落ちるまでには戻ってくる。


ただ静介にしてみれば、母がいない時間は寂しくて仕方ないのだ。

昼は寺で同じ子どもたちと遊んでいるので気が晴れるが、やはり母がいないのでどこか寂しい。


夕方になっても会えない母の姿に、静介は顔を歪める。


和泉は気前よく、雪たち家族と、それからちゃっかり自分も食べるつもりで、鰻の蒲焼を道中で買っていた。

鰻の香ばしい匂いにあてられて、静介も何とか機嫌を損なわずに済んだ。


しかしこのままでは静介が泣き喚きかねないので、静介は先に夕餉ゆうげを食べさせてしまおうと、和泉は台所に立つ。


「もう一寸ちょっと、待ってて」


和泉が構ってくれなくなり、静介は手持無沙汰になった。

友達の太郎もすでに家の中にいて、夕餉を食べている。


仕方なしに、静介は外で母を待つことにした。


「坊や……」


女の声がした。

静介が声のした方を見ると、女が手招きをしている。


たおやかな女に警戒心は芽生えず、静介は招かれるまま女の元に行った。


「おっかさんに会わせてあげる」


瞬間、静介は破顔した。

女は母が何処どこにいるのかを知っていて、案内してくれようとしている。


静介は女に手を引かれて、表通りではなく裏道へ、そして空き家の中に入っていった。


「おっかちゃ……?」


こんなところに、母がいるのだろうか。

その疑問よりも母に会いたいという思いが勝って、誰もいない空き家の中で静介は目を凝らした。


静介の背後では、白刃がきらめいていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る