十一

 次にさとは何をするつもりなのか、傷が治ったばかりの、しかも信濃しなのから長旅をしてきた藤次郎には、さとの動向を探りたくても思うように身体を動かせない。


 今まで散々、人に褒められるようなことをしてこなかった藤次郎が、さとを止めようとしているのは、綺麗ごとではなく、このままではさとが幸せになることはできないと思ったからだ。


 かといって、雪をおとしめることがさとの生き甲斐となっているのならば、どうすればさとのためになるのか。

 その答えもわからないまま、兎に角さとを止めなければと、藤次郎は己の身体に叱咤しったする。


 藤次郎は背後から、殺気を感じ取った。

 鈍い身体では順応することができず、相手に背後をとられていた。


「また辰巳を連れ戻すつもり?」


「お前に構っている暇はない」


 和泉はぐっと、藤次郎の背中に押し当てる刀のつかに力を込める。

 藤次郎が重傷を負ったことを辰巳から聞いていたが、万が一にも油断できない相手だ。


「さとを見たら教えろ」


「もしかして、あの子が単独で……」


 和泉が警戒を解いたのを感じて、藤次郎は振り返る。

 二人にとって、久しぶりの邂逅かいこうだった。


「お前は相変わらず甘いな。一番剣客けんかくに向いていなかったのは喜介じゃなくてお前だ」


 充分に、和泉が藤次郎を殺めることはできた。

 殺めなかったのは、藤次郎が絡んでいないと知って、剣を向ける必要はないと判断したのだ。


 冷酷無慈悲で通っていた藤次郎からすれば、和泉の考えは甘いの一言だった。


  *


 気が沈んだとき、雪が訪れるのは紫乃の元である。

 あれこれと相談しても、紫乃は文句ひとつ言わずに、悩み事などを聞いてくれるのだ。


 辰巳の前では弱いところを見せないようにと努めれば、いつもたまりかねて紫乃を頼っていた。


 紫乃からすれば、雪が頼ってくれることは大いにうれしいことであり、ますます可愛く思えてしまうのである。


「雪は頑張り過ぎなのよ。無理しちゃだめ」


「頑張ってるんじゃなくて、怖がっているだけ。やっとおとっつぁんに会えたのに、障害に立ち向かうことができない」


 この手でつかもうとしなければ、幸せは訪れない。

 身をもってわかっているはずなのに、足がすくんでしまった。


「休むことだって大事よ。私にでも旦那にでもいいから、甘えられるときに甘えて、心を養わないと」


「はい……」


「力になれることがあったら言ってね」


 紫乃も、そして辰巳も支えてくれている。それがどんなに心強いか。


 留五郎の娘でいたい。


 願いは確かにある。あとは、求める覚悟だけだ。


「ありがとう、紫乃さん」


 紫乃のあでやかな笑みは、ときめくほどに美しい。

 たとえ試練が訪れようと、幸福は近くにあるのだ。


 紫乃の家を後にした雪は、克草こっそう塾を目指した。


 雪は立ち止まって、後ろを振り返る。

 しかし後ろには誰もいない。


 一緒に手を繋いで歩く静介が、不思議そうな顔で雪を見た。


「何でもないよ。早くお寺に行こうね」


 静介を不安にさせてはいけない。雪は努めて優しい声音で言った。


 というのも、克草こっそう塾へ向かう道中、雪は誰かにつけられているような視線を感じていた。

 何度か振り返って後ろを見ても誰もいない。


 無性に辰巳を頼りたくなったが、ただ視線を感じるというだけで道場に押し掛けることははばかられる。

 しかも最近は、辰巳にすがってばかりいるので、余計に頼ることができなかった。


 心が弱っているから神経質になっていて、ただの気の所為せいであると、それでも不安はぬぐいきれなくて、寺へと急いだ。


 無事に静介を寺に送り届けた雪は、すぐ隣にある克草塾に足を向けた。


 もうすぐ……門まであと五歩というところで、いきなり身体がかしいだ。


「…………!」


 ぐいと肩を引かれ、聞こえた足跡は今まさに触れている人物だと後で理解する。

 訳がわからないまま、口を塞がれたことで恐怖が襲った。


 視界に映っているのは、二人の知らない男たちだ。


 雪の脳裏には一瞬にして、過去に暴漢に襲われた日の記憶がよみがえる。

 あの日も男たちに引きずり込まれてなぶられ続けた。


 同じことを、同じ思いをさせられようとしていると、雪は本能で察した。


(逃げなきゃ……!)


 雪は口を塞いでいる手を、できる限りんだ。


 男がひるんでいる間に、一目散にまだ目の前に見える克草塾へと駆ける。

 雪を捕まえようとしたもう一人の男の手も、すんでのところで振り切った。


(助けて……!)


 大声で叫べば、誰かが来てくれるかもしれない。

 なのに雪は、あまりの恐怖に声を出すことができなかった。


 後ろを振り返ることもできずに、ひたすら克草塾を目指す。


 門をくぐり、広い庭の只中に和泉の姿をとらえた。


「……あ……っ」


 叫ぼうとした。和泉の姿を見て、少しだけ声が出るようになった。

 早く気づいてもらわなければ……

 あせる足元は小石につまずいてしまい、顔を思いっきり地面に打ち付けた。


 痛みよりも早く、男たちに捕まるという絶望が押し寄せる。


「お雪ちゃん!」


 詰まっていた息が、呼吸を荒くさせる。

 和泉は気づいてくれた。そう思うと、顔と足に盛大な痛みが襲った。


 すぐに和泉が身体を支えてくれて、雪はやっと後ろを振り返ることができた。


 男たちは、姿を消していた。


「どうしたの……?」


 雪は和泉の腕をつかんで、上半身だけを起こして和泉を見上げた。


 男たちに襲われそうになったと言ってしまえば涙がこぼれ落ちそうになって、雪は泣くまいとするだけで精一杯だった。


「どうした!」


 やがて珊石と寛石も駆けつけてくる。

 雪はまず過呼吸になりかけている胸を鎮めようと、深く息を吸った。


「……静介」


 男たちは逃げてしまった。急激に、さっきまで手を繋いでいた我が子の身が案じられた。


「俺が寺に行くから安心して」


 和泉が寺に行くと、そこには普段と変わらずに境内けいだいたわむれている静介たちの姿があった。

 雪を襲った男たちの足取りはつかめず、行方をくらましてしまった。



 珊石はやり場のない思いで雪を見た。


 りむいた膝は大量に出血していて、頬にも擦り傷があり、つまずいた際にはわずかに口も切っている。

 その様は、何とも痛々しい。


 雪のおびえようは相当であり、理由を想像した珊石は、未遂か、あるいはと考えたところで、やはり余計に痛々しかった。


 和泉は念のために子どもたちのいる寺で警護をしていて、寛石は辰巳を呼びに道場まで出払っているので、克草こっそう塾には雪と珊石しかいなかった。


 手当てを済ませた雪は、所在なげに座り込んでいる。

 どう声をかけたらいいのか、珊石は言葉を見つけられないまま、雪が不安にならないように側にいた。


 長い沈黙を破ったのは、けたたましい足音だった。


「辰巳さん……」


 勢いよく部屋の中に飛び込んできた辰巳の姿に、雪はひど安堵あんどした。


 今まで我慢できたはずの、すでに引っ込んだはずの涙が、せきを切ったように溢れ出す。


 恐かった……そうつぶやけば、痛く苦しく切ないほどに辰巳が抱きしめてくれた。


  *


(どういうことだ……)


 やっと見つけたさとは、先ほど雪を襲った男二人と話していた。


 左近に言われた言葉がずっと引っかかっていた鈴彦は、己の目で雪の行いを確かめようと、朝から雪のことをつけていた。

 何度か雪に気づかれそうになったが、上手いことかわして尾行を続け、そして雪が克草塾に向かう途中で事件が起こった。


 陰で待ち構えていたかのように男たちは雪をとらえ、襲いかかる光景を鈴彦は目にしたのだ。

 やっとうを習っているはずの身体は、すくんで動かなかった。


 幸いにも雪が逃げ切れたからよかったものの、もし雪があのまま襲われていたら、それでも立ち尽くしていたかもしれないと、鈴彦は自身の浅ましさを思い知る。


 そして今、偶然にもさとの姿を見つけた鈴彦は、さとがくだんの男たちと話しているのを見て、驚愕きょうがくしていた。


 と男たちは揉めていた。

 何でしくじったのか、さとはそんな言葉を口にしていて、事の首謀者が誰であるかを見せつけられる。


 男たちが去ったあとで、鈴彦はさとに詰め寄った。


「こんなことやめろよ。いくらあの人を襲ったって、師範代がいるんだから無理だ」


 師範代、と口にした瞬間、さとはぴくりと眉を動かした。


「俺はお前にだまされたことはどうだっていい。あの人に何かされて恨んでいるなら、納得するまで謝らせるから」


「私は何もされていない。ただ、あの人が憎いの」


「そんな……それじゃあ……」


 雪は悪くない。

 恨みの根源に何を隠しているのかはわからずとも、雪は思っていた、いや、思わされていたような人物でないことが証明された。


「もう、貴方に用はない」


 鈴彦は騙されたことよりも、雪を誤解していたことに傷ついた。


  *


「ほら、早く負ぶされ」


「嫌です……」


 克草こっそう塾の玄関では、家路に就こうとしている雪と辰巳が塾を後にしようとしていた。


 つまずいて怪我をした雪が普通に歩こうとするのを辰巳が止め、雪を背負おうと意気込んでいる。

 それを雪が必死に固辞していて、悶着もんちゃくというか、痴話喧嘩にもならないようなことをしていた。


「じゃあこうすればいいのか?」


 雪の身体は一瞬、ふわりと宙に浮いた。

 見上げれば近くに辰巳の顔があって、しかも身体は辰巳の手によって横抱きにされている。


 これでは、負ぶさるよりも恥ずかしい。


「お、降ろしてください……!こんな姿で帰るなんて、絶対に嫌です」


「怪我をしたんだから仕方ないだろ。それとも雪は、俺に抱えられるのが嫌なのかよ」


「そうじゃなくて、人前で、恥ずかしい……」


 玄関には、珊石と寛石が二人を見送ろうと先ほどからたたずんでる。

 珊石はさすがに泰然として見ているが、寛石は目のやり場に困って、居たたまれない気持ちになっていた。


「夫婦なんだからいいじゃねぇか」


 夫婦、という響きに雪は胸が熱くなるも、とても横抱きにされて帰る度胸は持ち合わせていない。


 辰巳が渋々雪を降ろして言った。


駕籠かごを呼ぼう」


「歩けないほどひどい怪我ではありません。大丈夫ですから」


「……じゃあ」


 辰巳はそっと、手を差し出した。


 手を繋いで往来を歩くなど、夫婦とはいえ充分に恥ずかしい行為だ。

 肩を並べて歩く町人はいるといえども、手を繋いでいる者たちはめずらしい。

 武家の人間にいたっては夫婦でも肩を並べて歩かない。

 という世の中の道徳ともいえる摂理をわからないほど、雪は子どもではない。


 それでも雪は、辰巳の手を取った。


 珊石からの叱責を恐れたが、彼は何も言わず、珊石も同様であった。


 二人を見送った後、寛石はやっと口を開いた。


「あのご夫婦は仲がよろしいのですね。和泉さんにも見せてあげたかったです」


 和泉はきっと、親友が妻を心配する様を見て、いつもの調子で揶揄からかうだろうと、寛石は思った。


 雪を襲った男たちが辺りをうろついている可能性もあったので、和泉は静介を含め、寺の子どもたちを家まで送っていたので、克草塾にはいなかった。


「いや、あ奴は見ない方がよい」


「…………?」



(何で、あの女は笑っていられるの……?)


 克草塾から出てきた雪を、さとは物陰から見ていた。


 雪は辰巳と手を繋いで、羞恥の所為せいか夕焼けの所為か、ほんのりと頬を染めている。

 辰巳と何やら話している雪の顔は、さとの目から見ても幸せそうであった。


(私はあのときから、きれいに笑えなくなったのに……)


 まだ子どもの時分、さとは目の前で家族を殺された。

 さとに残されたのは、兄だけだった。


 さとは急いで雪たちより先回りしようと、足を走らせた。



「おっかちゃは?」


 寺に預けられていた子どもたちを見送った和泉が、静介の手を引いて長屋についたのは、日もかたむいたころである。


 他の子どもたちを見送るまで大人しかった静介は、和泉と二人きりになった途端に、母恋しさを口にし始めた。


 常ならば、克草こっそう塾で勉学を終えたあと、雪が寺に迎えに来てくれる。

 だが、今日は雪ではなく和泉と帰ることになって、静介は不安を覚えたようだ。


「もうすぐ帰ってくるよ。お雪ちゃんが帰ってきたら、美味い物食おうな」


 雪は克草塾を出て、辰巳と家路に就いている頃であろう。

 怪我をしているので遅くなるかもしれないが、それを考慮しても、陽が完全に落ちるまでには戻ってくるはずだ。


 ただ静介にしてみれば、母がいない時間はさみしくて仕方ないのだ。

 昼は寺で他の子どもたちと遊んでいるので気が晴れるが、やはり母がいないのでどこか寂しい気持ちも抱えている。


 夕方になっても会えない母の姿に、静介は顔をゆがめた。


 和泉は気前よく、雪たち家族と、それからちゃっかり自分も食べるつもりで、うなぎの蒲焼を道中で買っていた。

 鰻の香ばしい匂いにあてられて、静介も何とか機嫌を持ち直してくれたようである。


 しかしこのままでは静介が泣きわめきかねないので、静介は先に夕餉ゆうげを食べさせてしまおうと、和泉は台所に立つ。


「もう一寸ちょっと、待ってて」


 和泉が構ってくれなくなり、静介は手持無沙汰になった。

 友達の太郎もすでに家の中にいて、夕餉を食べている。


 仕方なしに、静介は外で母を待つことにした。


「坊や……」


 女の声がした。

 静介が声のした方を見ると、女が手招きをしている。


 たおやかな女に警戒心は芽生えず、静介は招かれるまま女の元に行った。


「おっかさんに会わせてあげる」


 瞬間、静介は破顔した。

 女は母が何処どこにいるのかを知っていて、案内してくれようとしている。


 静介は女に手を引かれて、表通りではなく裏道へ、そして空き家の中に入っていった。


「おっかちゃ……?」


 こんなところに、母がいるのだろうか。

 その疑問よりも母に会いたいという思いが勝って、誰もいない空き家の中で、静介は目をらした。


 静介の背後では、白刃がきらめいていた。

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