雪は鏡の前で、己の顔を凝視ぎょうしする。

慎重に確かめているのは、御子柴道場に行くからであった。


たまには道場に差し入れを持って挨拶に伺うことを、雪は心掛けている。

こういうことが大事で、師範代の妻としての役目なのだと努めていた。


化粧をするにしても、あまり気合を入れ過ぎず、かといってみずぼらしくては辰巳に恥をかかせることになる。


静介は同じ長屋に住んでいる太郎と遊んでいるので、太郎の母のお清に預けて雪は家を出た。


御子柴道場の道場主と門下生のほとんどは旗本であり、雪とは身分が違う。


辰巳は浪人ではあるが育ちは良いので、何より腕が良いのだから問題はない。

しかし、雪は生まれてから今までを庶民として暮らしている。

旗本相手にどう接していいかなどわからないが、粗相があってはいけないのだ。


雪はすでに何度か御子柴道場を訪ねたことがあり、道場主である左近の妻とも一緒にお茶をしたことがある。

左近の妻は気さくで、雪が庶民でも隔たりなく接してくれるも、身分社会においては雪が態度を砕けさせることも、気を抜くことも許されない。


あれこれ気負っているうちに、雪は御子柴道場まで来ていた。



「誰だ?」


道場で稽古をしていた門下生たちが、外で話し込んでいる左近たちを格子窓からのぞいていた。


「お前見たことなかったんだ。師範代の奥さんだよ」


「へぇ。師範代はきっと、家でも厳しい人なんだろうな。

あの人も苦労してたりして……」



「いま辰巳は不在にしるんだが、折角来てもらったことだし、儂と一緒にお茶でもどうかな?」


左近が愛想よく、雪を誘う。


左近としてはいつも気を遣ってくれる雪と打ち解けたかった。

雪はすごく謙遜する人だとも、妻から聞いていた。


身分というものにこだわらない夫婦は、雪に気負うことをやめてほしかったのだが、夫のためにしているであろう行為は妻として立派だと感心もしている。


「いえ、お稽古の邪魔をしてしまいます」


「気にすることはない。じっくり話を……」


左近はそこで言葉を切って、雪の後ろを見やった。

雪もつられて、振り返る。


「何であんたがここにいるんだ!」


雪は目を見張った。後ろに立っているのは、鈴彦だった。


鈴彦は先日会ったときと同じで、雪に怒りを向けている。


竹刀を持っていたので、鈴彦は御子柴道場の門下生だったのだと、雪は初めて知った。


そして辰巳も、実は鈴彦が雪の義弟おとうとであったことを知らなかった。

辰巳は今、和泉から雪の噂を流していたのは鈴彦であると聞いて、道場に来ていなかった鈴彦の家を訪ねていたのですれ違っている。


もしも雪が、あるいは辰巳が鈴彦の名を口にしていたら、鈴彦が道場へ入門したことを留五郎に話して、留五郎の口から雪か辰巳に知れていたら、起きようとしている事態にはならなかったかもしれない。


まるでどうしても雪に試練を与えたいという何者かの強い意志が存在するかように、雪が歩む道は平坦ではなかった。


「無礼だぞ鈴彦。この人は師範代の奥方だ」


「なん、だって……あんたが、師範代の……」


鈴彦の様子がおかしいことに、左近は怪訝な顔でみた。

道場から雪たちを見ていた門下生たちも、不審に思って外に集まっている。


「お前、どうかしたのか?」


門下生の一人が尋ねた。


「こいつは浮気女なんだ!」


雪は声を失った。

当てずっぽうで言っているのならばいい。だけど、そうでないとしたら……


鈴彦はやけに確信めいていた。


「何言ってんだよ。頭でも打ったのか?」


「師範代の妻になれるようなろくな女じゃないんだ!皆、騙されるな!

俺の親父だけじゃなくて、旦那や皆のことも騙そうとしているんだ!」


夫を裏切ってしまった過去は消えない。過去を隠しているに過ぎなかった。


辰巳の妻にはふさわしくないと全否定されて、雪はやっぱり無理だったのだと絶望する。


迷惑をかけているから何か言うなりその場を去るなりしたいと思っていた雪は、すでに周りのことを考えることすらできなくなっていた。


師範代の妻ならば、堂々としなければいけないのに……


(私には、できない……)


心では大きく震えて泣いていることが、弱いという何よりの証だと雪は実感した。


「この……たわけが!!」


大股で鈴彦に歩み寄った左近は、鮮やかな手捌てさばきで、鈴彦を背負い投げた。


その一瞬の出来事に、雪は我に返った。


「誰に言われたか知らんが、お前は己の目で見たのか?

人の悪しきところを己の力で計れないような者に、人を非難する資格などない」



雪が道場から出てくるのを、さとは物陰から見ていた。

そして、顔を真っ青にしている雪を見てほくそ笑む。


すべては、思い描いた通りになっている。


鈴彦は操るのに容易い。

良い働きをしてくれたが、すでにさとにとって不要の存在となっていた。


まだ、足りない。


雪にはもっと苦しんでもらわなければならないのだ。


あと一押し……それで、雪は完全にくじけるはずだ。


「もうやめろ。充分、気が済んだだろ」


順調なさとに唯一の障害があるとすれば、兄の存在だった。


重傷を負った兄を信濃しなのに置き去りにして、さとは一人江戸に来ていたのだが、その兄がさとを追って江戸に来たのはほんの数日前である。


兄の藤次郎は、妹の愚行を止めようとしていた。


「兄さまには関係ない」


辰巳を連れ戻すときには協力してくれた藤次郎が、今ははばもうとしている。

藤次郎は裏切り者であり、けれど今なお秘めた感情は消滅していない。


「関係ある。……妹だろ」


さとはその言葉に、ぐっと唇を引き結んだ。


やはり藤次郎にとって、自分は妹なのだと思い知らされる。


「ねぇ、兄さま。兄さまは私に幸せになってほしい?」


「当たり前だ」


藤次郎はさとに向けられている感情を知っていた。

でもそれには応えられなくて、心では妹の幸せを願っていたから、まさかさとが悲惨な目に合うとは思わずに夫を見繕みつくろったのだ。


傷ついたさとが求めたのは、辰巳だった。


辰巳は藤次郎の代わりに過ぎなかった。

さとが幸せならばと、藤次郎は辰巳を連れ戻すことに協力するも、さとは辰巳といても決して幸せそうには見えなかったのである。


さとが偽りの愛に虚しさを感じたのか、それとも辰巳のことを本気で愛したのか、藤次郎はわからない。

どうすればさとが幸せになるのかもわからないが、さとが雪にしていることは間違っているということだけは確かだ。


「私は今、とっても幸せなの。だから邪魔しないで」


さとはひどく哀しい目をしていた。






(どうしよう……辰巳さんをおとしめたかもしれない)


鈴彦は雪の秘密にしている過去を知っていた。

どこで知り得た情報なのか、または誰から聞いたのかということが問題なのではなく、自身の過ちを露呈されたことに頭を抱えている。


左近からは気にするなと言われたが、あとで左近は辰巳に妻の行いをそしるかもしれない。


道場での辰巳の立場が危うくなることがあれば……

辰巳が師範代を辞めさせられるようなことがあれば……


もしもそうなれば、必死に頭を下げれば許してもらえるだろうか。

許してもらえたとして、辰巳はずっと嫌な思いをすることになれば、己にできることなどあるのだろうか。


考えれば考えるほど、悪い未来だけが思い浮かんでしまう。


足は人気のない場所を求めて、静介がまだお腹にいたころにかつて辰巳と二人で歩いた川沿いの道を歩いていた。


「雪!」


その声に、雪は瞬時に振り向きたかった。

でもすぐにでも彼を見てしまえば泣きたくなるから、深呼吸をした後で向き合った。


道場に戻った辰巳は左近たちから経緯を聞いて来てくれたのに違いない。


辰巳が心配そうに見てくる姿が余計に、彼に対して申し訳ないと感じてしまう。


「ごめんなさい。私の所為せいで、嫌な思いをさせてしまいました」


やっと雪は少しずつ明るくなったのに、雪はまるで会ったばかりの頃のように自信がなくなっていた。


誰の所為と聞かれれば、それは紛れもなく鈴彦の所為だ。


しかし辰巳は鈴彦に腹を立てるよりも、今は雪のことが心配で仕方なかった。


雪は下を向いた刹那、強く優しい力で辰巳に抱きしめられた。


「俺のことは心配するな。左近も他の奴らも、誰も信じちゃいねぇよ。

あれは鈴彦の妄言だったって、むしろ鈴彦のことを案じてるくらいだ」


門下生の鈴彦が、実は雪の義弟おとうとであると、今日の出来事により辰巳は結びついた。


「……辰巳さんが道場を辞めさせられたらどうしようって……でも、よかった……」


急激な安堵あんどは、身体を弛緩しかんする。


「悪くないのに謝るな。何も、気に病むことはない」


やはりもっと堂々としなければならなかったのだ。

大好きな静御前だって、堂々と敵方の前で舞ってみせたではないか。


辰巳の妻として、まだまだ精進が足りなかったのだと雪は辰巳にうなずいた。

その辰巳はといえば、慰めたつもりがさらに励もうとしているような顔をしている雪を見て、どう伝えれば力を抜いてくれるのかを模索する。

しかし、雪から不安の色は消えていたので、ひとまずは胸を撫で下ろした。


「一つだけ、まずいことが……」


「え……!」


「……俺の厳格な人物像が壊れた」


道場に戻った辰巳は左近から雪が来ていたこと、そこに鈴彦が来て雪に悪態をついたことを聞かされたのだが、雪は無事なのか、怪我はなかったのかと妻の身を案じて慌てふためく様を、左近と門下生に見せてしまっていたのだ。


特に門下生が抱いていた堅物そうな師範代という印象は、妻のことになると周りが見えなくなってしまう人という印象に代わってしまった。


けっこう妻想いなんだと、にやにやと見てきた左近と門下生の顔を思い出して、辰巳は苦い顔をした。






自分のしていることは間違っているかもしれない。


鈴彦がそう思い始めたのは、雪の不貞を己の目で見たのかと、左近に言われたときからだった。


左近に見透かされていた通り、鈴彦自身で見たわけではない。

たださとに言われたことを信じたーー真に受けただけである。


そもそもさとの言っていることは本当なのか。

真偽を確かめようにも、さとはしばらく鈴彦の家には帰っていなかった。


仮に雪が本当に不貞を働いていたとして、雪を責めることはできるとしても、道場で騒ぎ立てることは愚行だ。

辰巳に難が及ぶ可能性も充分にあった。

その難は、辰巳だけではなく辰巳と雪の息子にも行き渡ってしまうこともあり得る。


確証も得られずに雪を責め立てたこと自体、間違っていたのだ。



留五郎の家の前に人だかりができているのを見て、鈴彦は一度立ち止まった。


留五郎の身に何かあったのか、焦燥しょうそうは足を駆り立てた。


「親父!」


部屋の中に寝かされている留五郎は、少々うなっていた。


「道の途中で倒れてたんだ。留五郎さん、もう歩くこともままならないかもな」


数日会わなかっただけで、留五郎の容態は悪化している。

留五郎はずっと身体を壊していた。

しかし雪と再会してからは見違えるほど良くなっていたので、鈴彦は油断していたのだ。


部屋は、以前のように汚くなっている。

掃除をしてくれる雪と会っていないからだ。


「雪……」


何度も苦しそうに呟くその名は、実の娘の名である。


(あの人に会いに行こうとして……)


雪に来るなと言ったのは鈴彦だ。


いつものように雪が会いに来ていれば、留五郎は体調を悪化させることはなかったのかもしれない。

留五郎はきっと、雪に会いに行こうとして無理をした。


(俺の所為せいだ……)






「雪、許してくれ……お前を捨てたことはずっと後悔してたんだ」


夢の中で、幼い雪は泣いている。


雪はずっと自分の知らないところで泣いていたのだと、留五郎はようやく気づいた。


「おとっつぁんなんか大嫌い」


やはり許してはもらえなかった。

もう二度と、雪には会えないかもしれない。


それは、死よりも辛いことだった。

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