ごほっ、ごほっと、留五郎は何度か淡が混じった咳をした。

時々軽い咳をすることはよくあったのだが、今日は喉の通りの悪い咳をしていた。


「おとっつぁん、具合悪いの?」


「胃が少し弱ってるだけだ。酒の飲み過ぎがたたったな」


雪が知っているだけでも、留五郎は毎日のように酒を飲んでは酔っていた。

再婚するとなったときに酒を断っていたのだが、長年の癖というのは消えてはくれなかったらしい。


酒をやめられたのも少しの間で、すぐに手を伸ばすようになったと、留五郎は雪に自虐していた。


だが、今は身体の負担が大きくなってしまい、飲む気も起きないという。

雪が留五郎の部屋を掃除したときにも酒の一つも見つからず、留五郎から酒の匂いは皆無だったので、飲んでいないというのは本当だった。


「もう、横になったら?」


「大したことない。それに、雪と静介の顔を見れば良くなるんだ」


じわりじわりと込み上がった喜びに、雪が口角を上げようとしたそのとき、戸口を開けて誰かが訪ねて来た。


雪が後ろを振り返ると、その人物は雪と同じように驚いた表情をしている。


「鈴彦、来てくれたのか」


誰だろうと考えたところで、もしや義弟、と呼んでいいのかわからないが、もう一人の留五郎の子どもであると雪は思った。

歳も、自分よりは若そうだったからだ。


「この人……」


鈴彦は、ぼそりとつぶやいた。


「この前話した、お前の姉さんだ」


留五郎がそう言うと、鈴彦が一瞬顔を歪めたのを雪は見た。

それは、敵意だった。


お互いに何も言えないまま、これ以上空気が気まずくなることを恐れ、雪は腰を上げて静介の手を引いた。


「長居してしまってごめんなさい。帰ります」


「まだいいだろう」


留五郎は引き止めようとする。

静介も、まだ帰りたくないといった表情をしていた。


「旦那が帰ってきますから。おとっつぁんも早く休んで」


名残惜しそうな留五郎を後にして、雪と静介は家を後にした。



「あんた」


家を出て少し歩いたところで、雪は鈴彦に呼び止められた。

今度は、鈴彦はあからさまに不快そうな顔をしている。


「今さら、親父に何の用なんだ。まさか金でもせびりに来てるんじゃないだろうな」


鈴彦からしてみれば、彼が言ったように今さら現れたことに嫌悪感を示されても仕方のないことだと雪は納得してみせるも、誤解だけはしてほしくなかった。


「違います。私はただおとっつぁんに会いたいだけ……」


鈴彦は、雪の言葉をさえぎった。


「あんたの魂胆はわかってる。親父のところには二度と来るな!」


殴りかかってきそうな鈴彦の勢いに、けれど雪はひるまなかった。

何故そこまで言われなければならないのか、気づけば反駁はんばくしようとしていた。


「いてっ!」


雪が口を開く前に、目の前にいる鈴彦が声を上げて向こうずねを抑えた。


原因は、静介はが鈴彦を蹴っていたのだった。


「おっかちゃをいじめるな!」


「このがき……!」


鈴彦がまだ痛みを感じている顔で、静介の襟首をつかもうとする。

雪はそれを察して、素早く静介を抱き上げた。


「失礼します」


足早に、雪は去った。






「なんて野郎だ!俺が言ってきてやる」


雪から事の次第を聞いた辰巳は、開口一番にそう言った。

とても一人で胸に収めておけるような出来事ではなかったので、雪は辰巳に打ち明けたのである。


「いいの……おとっつぁんに会うのはしばらく控えるから」


「雪が遠慮することないだろ。実の娘なんだから、堂々と会えばいいじゃねぇか」


「よく考えてみたんです。

あの人の方が、ずっとおとっつぁんと一緒にいたんだもの。

私が急に現れたら、嫌な思いをするはずだし不審にも思うはず。

私も……あの人に嫉妬したことがあるから、今度は私が同じことをしている」


留五郎といた年月でいえば、鈴彦よりも雪の方が長い。

しかし、雪と一緒に住んでいる頃には、留五郎はろくに家に帰ってはこなかった。


再婚後も酒癖が改まらなかった留五郎だが、家にはきちんと寄り付いていたのかもしれない。


しかも雪は一度、留五郎に捨てられた存在だ。


実の娘とはいえ、胸を張って娘だとは名乗れない。


留五郎が家を出て行った後、どうしても留五郎に会いたくなった雪は、ひそかに留五郎を訪ねようとしたことがある。

しかし雪はそのときに、再婚相手と、そして鈴彦といた留五郎の、家族の仲睦なかむつまじい姿を見せつけられていた。


父と一緒に微笑んでいる鈴彦のことが羨ましかった。

同時に、留五郎は自分がいらないのだと絶望した。


だから雪は、少しだけ鈴彦の気持ちがわかってしまうのだ。


辰巳は雪にかける言葉を探すも、すぐには見つけられないでいる。


「やっつけてやったの!」


「人のこと蹴ったらめっよ。静介も蹴られたら痛い痛いでしょ?」


「いたいいたい」


「でも、私のためにしてくれたのよね」


蹴ってしまったことは間違っていた。

だが、母を想う気持ちは理解してくれたこと、雪の慈愛に満ちた顔に、静介は安堵あんどした。


「おっかさんのために腹を立てたのは偉いぞ」


「はい!」


静介は、父にでられてご満悦だった。






「ここか……」


伊吹は今、御子柴道場の門前にいた。

まず道場に入るより前に、道場の中の様子を見ようと、格子窓を探そうとした。


御子柴道場の師範代は辰巳であると、伊吹は雪から聞いて知っている。

辰巳はもう覚えていないのかもしれないが、伊吹の方はといえば辰巳のことをしっかり覚えていて、しかも二度も睨まれたことがあるから、大変苦手な存在だった。

辰巳には会いたくないので、彼がいるのかを確かめたかったのである。


(怖気づいてる場合じゃない。今度こそ、お雪ちゃんを助けてあげないと)


伊吹が御子柴道場を訪れたのは、鈴彦という人物に用があったからである。


雪のあらぬ噂を耳にして、噂の根源を探った伊吹は、鈴彦に辿たどり着いていたのだ。


「あんたもここに用?それとも入門希望者?」


背後から問いかけられた声に、伊吹は思わずびくりとしてしまいそうだったのを、かろうじてこらえた。


「えっと、その、俺は……」


伊吹は声をかけてきた男を見たことがあるような気がしたが、思い出せなかった。

やましいことをしているわけではないものの、雪の一件は他人には決して口外できることではないので、答えはしどろもどろになってしまう。


「あ、ちょうどいい。辰巳!入門希望者だって!」


折よく道場から出てきた辰巳は、和泉の声に反応した。


「誰が入門希望者だって?」


「あれ……?」


和泉が声をかけた男は、辰巳の姿を見るなり一目散にいなくなってしまった。


「まさかお前が入門したいとは言わないだろうな」


「俺は道場破りに来たんだ。手合わせを……」


「冗談言ってねぇで、さっさと用件を言え」


「まったく。相変わらずつれないなぁ……と、確かにそんなこと言っている暇はないか。

お雪ちゃんの噂を流した人物がわかった」


二人の顔は、引き締まった。


「ここの門下生の、鈴彦って奴だ」


「何で、あいつが……?」


「理由までは……何処どこに行くの?」


「鈴彦のところに決まってるだろ」


今日はまだ鈴彦は道場にいなかったので、辰巳は一路鈴彦の家へと向かったのである。


「鈴彦はお雪ちゃんの義弟おとうとだ……って、もういないか」

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