「ねぇ、ちょっと……」


 道場からの帰り、辰巳は長屋に着いたところでお清に呼び止められた。


(やべっ、弥七と賭場とばに行ったことがばれたか……)


 弥七も言っていたが、こればっかりはやめられない。

 お清と約束した弥七は、賭場にはたまにしか行かなくなったが、その偶にのときには、辰巳を誘って賭場におもむくのであった。


 一緒に飲みに行ってからというもの、二人は親交を持つようになっていたのである。


「お雪さんのことなんだけど」


 しかしお清が言いたかったことは、辰巳の予想とは違った。

 お清の顔は真剣で、雪のことともなれば安堵あんどはできなかった。


「変な噂を言ってた人がいたのよ。お雪さんは浮気女だとか何とかって……」


「………!言った奴は誰だ!」


 辰巳の剣幕に、お清が怖気づいてしまう。

 お清に殺気を放っても仕方ないのだが、辰巳は抑えることができなかった。


「し、知らない人だった。若い男だったけど……もちろん、私は信じなかったわよ」


 だから殺さないでと、恐怖の混じったお清の目は訴えているようだった。


 言葉の通り、お清は噂を信じていないだろう。

 もし真に受けていたとすれば、わざわざ辰巳に知らせたりはしない。


 お節介な耳打ちという可能性もあるが、そうではないと辰巳は信じることにした。


 辰巳から殺気が消えたのを感じて、お清は一息つく。


「今度来たら締め上げておくけど、気をつけた方がいいかなって。一応あんたには言っておく」


「ああ。雪には言うなよ」


 お清はうなずいた。


 辰巳は少し冷静になった頭で考える。


 雪はやっと幸せになったのに、どうして災厄ばかりが襲うのか。

 そして、噂を言ったという男は何者なのか。


 浮気女とののしったということは、もしや雪が夫以外と肌を重ねていたことを知っているのか。


 だとすれば……


 思い浮かんだのは、さとの姿だ。


 さとはきっと、自分を恨んでいる。

 そのさとが復讐を企てていて、矛先が雪に向かっている。


 充分に考えられることだが、噂を言っていたのは男だ。

 さとの協力者かもしれない。


 まだ原因がさとだと断定はできないが、誰がどんな思惑でいようと、雪を苦しめる存在は早く見つけなければならない。

 和泉にも相談して、まずは噂を広めようとした男を探すことに決めた。


「あ、それと、あんまりうちの旦那を悪いところに連れて行かないでよ」


「…………」


  *


 雪はこの日、内職の納品のため、尾花おばな屋を訪れていた。


「そうかい……留五郎に会ったんだね」


 おまちは複雑そうな顔でつぶやいた。

 留五郎がどんな男だったのか、雪にしてきた仕打ちを知っているおまちからすれば、留五郎には二度と、雪と関わってほしくないというのが本音である。


「この前おとっつぁんに、辰巳さんを紹介したんです。すごく幸せだって言ったら、おとっつぁんも喜んでくれて。……もう昔みたいにお金をせびったりしてきません。むしろ、静介に玩具とかお菓子を買ってくれます」


 男やもめな生活。そして留五郎と再会した経緯を、雪はおまちに話していた。


 おまちは留五郎のことを信じ切れてはいないのだが、雪の笑顔の前では何も言えない。


 お金を一回でも求めてくれば、または同等のことをすれば、おまちは否応なしに、留五郎には会わせないようにするつもりである。


(今の雪なら、心配ないわね)


 おまちは雪の変化を見抜いていた。


 以前は人の言いなりになって、自分の言いたいことは言えず、自信を持てないでいた少女は、傷つくことを恐れないようになっていた。


 おまちが会うなと言わずとも、雪が本心では嫌ならば、留五郎には会っていないはずである。そうしないということは、留五郎は雪の幸せを奪うような存在ではないということだ。


 謙虚なのは相変わらずだが、今の幸福は、雪自身でつよんだ幸せである。

 昔の雪ならきっと、手放していただろう。


 塾に通って勉学を教えてもらっていることも、雪の成長に影響しているのかもしれないとも、おまちは思った。


「漢字も書けるようになったら、政には自分で文を書くんだろう?」


「はい。自分で、私の思いを伝えるつもりです」


「雪が文字を書けるようになったのはうれしいことだけど、何だかさみしくなるわね……」


 文字が書けなかった雪は、恩人である政への文をおまちに代筆してもらっていた。

 雪が文字を書けるようになって、自力で文を用意できるようになったということは、おまちの手を借りる必要がなくなったということでもある。


「あの、おまちさん。これからは納品以外のときでも、おまちさんに会いに来てもいいですか?」


 ああ、やはりこの子は変わったのだと、おまちは涙目になる。


「雪ならいつ来てくれてもいいって言っただろ。もう少しすれば息子夫婦に店の一切合切を任せることになってるんだ。だから、雪と過ごす時間はたくさんあるよ」


 雪は、おまちを母のように慕っている。

 精一杯の甘えをおまちに受け入れられて、今度は雪の方が泣きたくなってしまった。



 雪が尾花屋を訪れているころ、辰巳は克草こっそう塾にいた。

 何者かが雪のあらぬ噂を流布していることを、和泉に相談するためである。


「あからさまにあの人が怪しいと思うけど」


 名前こそ言わないが、和泉の指す人がさとであると、辰巳はわかった。


 和泉には今までの経緯も打ち明けていたので、辰巳本人がさとを真っ先に疑ったように、和泉もまた同じ考えである。


「きれいに別れなかったでしょ」


 その通りなのだが、ばつが悪くなって、辰巳は和泉から顔をらした。

 和泉は一つ溜息を吐いてみせる。


「お雪ちゃんの一大事となれば動かないわけにはいかない。その件、俺に任せてよ」


「お前にばかり負担をかけさせるつもりはねぇよ。俺も……」


「辰巳は、お雪ちゃんと一緒にいて守ってあげなきゃ。四六時中一緒にはいられないだろうけど、もしもの場合もあるかもしれない」


 和泉の言うことにも一理ある。

 何より和泉を信用しているので、辰巳は彼の言に従うことにした。


 日中は辰巳も仕事があるので雪のそばにいることはできないが、雪が克草塾にいる間は安心できる。

 雪が来ているときは、和泉は克草塾にいるはずだ。


 そう、だから和泉にいている場合ではない。

 まるでまだ雪を好いているような彼の言葉にもだ。


 大丈夫。妬いていない。

 辰巳は何度も、その言葉を心の中でつぶやいた。


  *


 辰巳と別れた後は抜け殻のようになっていた。


 ただ、生きているだけ。


 時々思い出すのは、目の前で両親が殺された日の光景。


 寂しくなりそうなときは、知らない誰かになぐさめてもらった。

 鈴彦も、その一人だ。


 鈴彦とは後腐れのない関係でいられるので、都合が良かった。


 飽きるまでは鈴彦といようと思っていた矢先、彼から胸の内に封じ込めた怒りを呼び覚ます名前を聞いた。


 雪……彼女がいなければ、自分は幸せになれたのかもしれない。


 鈴彦の言っていた雪という人物が、彼女であるという確証は何もなかった。

 けれど鈴彦をそそのかして、災厄を与えようと決めた。

 間違っていてもいい。

 そんな安易な考えではあったが、どうやら天は自分に味方をしてくれたらしい。


 憎むべき相手は、間違っていなかった。

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