七
妻も友と仲直りできたことを喜んでくれたので、飲みに行く日には気持ちよく送り出してくれる。
やっと仲直りしたんだねと、弥勒屋の女将お松は口にこそ出さないが、内心二人を案じていた一人である。
酒を飲んでも普段の様子とあまり変わらない二人は、にぎやかとは程遠い。
しかし波長は合っていた。
「お雪ちゃんは前世で人斬りでもしてたのかな」
雪のこれまでの境遇は、和泉が知っているだけでも悲惨と思えた。
今度こそ、雪には幸せになってほしいと願うのは、辰巳も同じである。
不幸な少女は辰巳と出会い、徐々に明るさを備えるようになっていった。
幸せになって、また不幸になって、何度も彼女に試練が襲う。
今は、雪はやっと穏やかな日々を取り戻している。
たとえ今ひとたび災厄が訪れようと、雪は二人にとって守ってあげたい存在だ。
「最近は良いことばかりだ。
「父親って……お雪ちゃんのこと捨てたっていう……?」
子どもを捨てたような親と会って大丈夫なのかと、和泉の顔は問うている。
「もし雪を不幸にするようなら、俺が何とかする。
雪の話を聞いている限りじゃ問題なさそうだが……
今度、雪の父親に挨拶しに行くことになってるから、これでも緊張してんだよ」
雪と所帯を持つと決めたとき、辰巳は真っ先に雪の母親代わりたるおまちに会いに行った。
おまちの風格もさながら緊張したのを覚えているが、正直気が重い。
認めてもらえなかったらどうしようと、不安になってしまう。
「せめておまちさんのときみたいに、外面だけでもよくしておきなよ」
「馬鹿。中身が重要なんだ」
「言うようになったね。見た目は変わっても中身だけは変わらないか」
「お前もな」
辰巳は道場の師範代になってから髷姿に改めていたのだが、和泉もまた新しい仕事に就くにあたって髷姿となっていた。
「お雪ちゃんのことは気を配っておくから安心して」
「余計なお世話だ。仕事に就いたんなら、
「わざわざ会いに行かなくても会うしなぁ」
「どういう意味だ」
「俺、克草塾で珊石先生の手伝いをすることになったんだ。
明日からなんだけど、お雪ちゃんは来る?
あ、お雪ちゃんには黙っててよ。驚かせたいからさ」
「な……俺は、聞いてない」
和泉は雪のことを好いている。
今もその気持ちが彼の中に残っているかは定かでないが、そんな男と雪を会わせてなるものかと思うも、和泉には師範代の仕事を譲ってくれた借りがある。
「……よろしく頼むぜ」
「無理しちゃって。本当は妬いてるくせに」
「おかえりなさい」
暗がりの部屋の中から聞こえたその声で、女はまだ自分の家にいるのだとわかった。
「おう」
女は鈴彦のことは振り返らずに、どこかぼんやりと、小窓などないのに壁の方を向いていた。
彼女が何者なのか、鈴彦は知らない。
ある夜、鈴彦が家路に就いていたとき、いきなり後ろから女に袖を引かれたのが二人の出会いである。
はじめは
まるで誘われているようで、事実誘われたのだが、それから女は家に住みつき始めた。
鈴彦は女が自分よりは年上だろうということ、あとは名前しかわからなかった。
だが、女が何者だろうと鈴彦は興味がない。
お互いに割り切った関係でいるのだから。
「今日は親父に会いに行ってきたんだ。
それが、娘と再会したっていうんだから驚きだよ」
想い合うような仲ではないとはいえ、話し相手にはなってほしい。
しかも今日は、胸につかえているもやもやとした気持ちを吐いてしまいたかった。
女も鈴彦には興味がないから、聞いているのか聞いていないのか、そんな態度である。
たとえ独り言でも、言葉にしないよりはましだった。
「終始、雪、雪って娘のことばかり……」
女がはっとしたように振り返った。
まさか反応してくれるとは思わなかったので、鈴彦は言葉を途切れさせてしまう。
「その娘って、どんな人?」
「さあ、見たことはないからな……
親父の話じゃ、しっかりしていて賢いって言ってたけど……
一人息子もいるみたいで、孫ができたとも浮かれてたっけ」
まさか娘のことを知っているのか。
そう女に尋ねようとするより前に、女が口を開いた。
「その人、悪い人よ」
「えっ……さと、何か知ってるのか?」
いつも無気力だった女の目に、光が宿った。
「貴方のお父様、騙されるかも。そもそも、今さら現れるなんておかしいじゃない」
確かにそうだ。
父が騙される。助けないと。
父の家族は自分だけだ。
さとの甘い声が、鈴彦の頭を支配した瞬間だった。
雪に似ている。特に目元がそっくりだ。
留五郎を初めて見た辰巳は、そう思った。
若い時分の留五郎は、今も面影はあるが、見目のいい男だったのかもしれないとも。
「私の、旦那様です」
雪が二度目に留五郎の家を訪ねたとき、旦那に会ってみたいと留五郎に言われ、今日は辰巳も留五郎の家に来たのであった。
辰巳は留五郎の刺すような視線に、身体が強張る。
表情こそ険しくはないが、値踏みされているような、疑われているような、まだ娘の旦那として受け入れるかどうかを思案しているようだった。
「恥ずかしながら、雪にはたくさん苦労をかけてきました。
でも、そんな俺でも大切にしてくれる雪のことを、幸せにしてあげたいと努めています」
留五郎に取り
雪は、辰巳が人に
だから、雪は素直にうれしかった。
辰巳が大事にしてくれていることは、日々これでもかというほど伝わっていて、でも自分は辰巳に何ができているのかとふと思うときがある。
だが自分の想いも、辰巳に伝わっていたのだ。
この人が夫でよかったと、雪は心の底から感じた。
「よかったなぁ、雪……」
そして留五郎も、娘の幸福に
声と身体を震わせて、留五郎は泣いている。
「おとっつぁん、泣かないでよ……」
それは、自然と出た言葉だった。
留五郎と再会してからというもの、雪は留五郎をおとっつぁんとは呼べなかった。
今やっと、昔のように呼べたのだ。
何より、泣くほどに気にかけてくれていたことが雪にとっては予想外で、同時に切ない。
留五郎なりに昔の仕打ちを悔いているのかもしれないと、そう思えば、雪は留五郎に抱いていた戸惑いが消えていく感覚がした。
「痛い痛いの?」
泣いている留五郎を心配した静介の声で、留五郎は笑顔になった。
「雪から、俺がどれだけ
雪が静介のことを
辰巳もはい、とは言えないので、少しだけ気まずい。
「ろくな親の元で育ってないから……いや、俺は言えないけど、雪も子どもに辛く当たってるんじゃないかって心配したんだ」
母は事あるごとに雪を叱ったという。父は……辰巳は留五郎の前で昔のことを思い出すことをやめた。
「静介のことを見ていたら、雪がどんな育て方をしているかわかった」
ろくでもない両親だった。
雪はだから自分も、とはならず、むしろ決して両親のようには育てないという意思が固かった。
「雪も俺も、静介には甘いくらいです」
いけないことをすれば叱りもするが、それ以外は甘やかして育てている。
特に辰巳は、静介を置いて出て行った負い目があるから、余計にであった。
雪はずっと留五郎を待っていた。今は縁が戻った。
幸福の只中にあって、災いが訪れるなど予想もしなかった。
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