「こそこそしてないで、姿を見せたら?」


 和泉は弥勒みろく屋からの帰り道、つけられている気配を感じていた。

 しかもける人数ではなさそうだ。


 姿を現したのは、六人の男たち。


 闇夜に浮かぶ顔には見覚えがない。


 名も言わず、男たちは一斉に抜刀する。用件を言われずとも、和泉には彼らの目的がわかった。


 辰巳がかつて、過去の因果により襲われたように、今度は自分も襲われているということだ。


 剣客けんかく時代の恨みか、それとも用心棒をしているときに買ってしまった恨みか。


 どちらにせよ、和泉に逃げ道はなかった。

 前方に三人、後方に三人。完全に囲まれている。


(やばいかも……)


 襲い掛かってきた刃を受け止める。しかし背中はがら空きだった。


(お雪ちゃん……)


 最後に思い出すのは、想い人だった。

 彼女は振り向いてくれなかったのに、未練が脳裏に浮かぶ。


 もうすぐ、斬撃が押し寄せる。


 和泉が覚悟を決めたとき、影が背後に躍り出た。


 刀と刀がぶつかる甲高い音。痛みは訪れない。

 何者かが背後で、共に戦ってくれている。


 剣客をしていたときにも同じようなことがあったと、和泉はふっと笑った。


 頼もしい背中に、襲い来る男たちを蹴散らすことに成功した。


まげ姿、なかなか似合ってるじゃん」


「……うるせぇ」


 間に合ってよかったと、辰巳は安堵あんどの息を吐く。


 今日こそは和泉と話そうと弥勒屋を訪れた辰巳であったが、すれ違ってしまい後を追うと、和泉が不逞ふていやからに囲まれているところに出くわしたのだ。


 少しでも遅れていたら、または彼を追わなかったら、和泉は今ごろ無残な姿になっていたかもしれない。


「和泉、わ……」


「いいよ、謝らなくても」


 振り返った和泉は、彼に似合う穏やかで柔和な表情だった。


「今ので許してあげる。何となくだけど、辰巳がいなくなった理由もわかる気がするから」


「お前にも、俺がしてきたことをすべて話す」


「辰巳はすぐ酔いが回るから一日じゃ足りなさそうだ」


「ふん、俺の方が強い」


 和泉が許してくれたからといって、すぐに昔のようには戻れない。

 それは雪との関係も、同じことである。


 罪と向き合うことを、忘れてはいけないのだ。


「今度は相談してよ」


 一人で抱え込んだ辰巳は、訳を告げずに姿を消した。

 親友なのに何も言ってくれなかったことが、和泉が怒っていた理由の一つである。

 大半は、雪のことだが……


 雪と辰巳。二人の性格は似ていないようで似ている。

 だが二人は誰かに、すがる術を覚えたのだ。


「ああ。頼りにしてるぜ」


 *


「もうかな文字を覚えてしまったな」


 雪が克草こっそう塾にて珊石に学んで日は浅いものの、かな文字の読み書きができるようになった。


 教本の文字、それに辰巳が借りた本、町中の看板などのかな文字を読めるようになったときには、表情に出てしまうくらいに、雪はうれしさが込み上げる。


「珊石先生と寛石先生のおかげでございます。まさかこの歳になって、文字を教われるとは思いもしませんでした」


「儂はお雪さんに文字だけではなく、他の知識も教えようと思う。なに、覚えが良いのはお雪さんの素質だ。寛石も感心しておったぞ」


 雪は恐縮するあまり、二人の師に頭を下げた。


 克草塾を辞した雪は、静介のいる寺へ迎えに行く。

 すぐ隣にある寺なのでなかば安心して、克草塾での勉学もはかどっていた。


「先ほどおじい様がいらっしゃって、一緒に遊んでおられます」


「おじい様、ですか……?」


 寺の僧に、静介を預っかてくれた礼を言うと、僧から意外なことを言われる。

 静介の祖父を名乗る人物が、寺を訪れたのだというのだ。


 思い当たる人物は、一人しかいない。


 雪は急いで静介の元に向かった。


「静介!」


「あ、おっかちゃ!」


 雪に駆け寄る静介は、ある人物とたわむれていた。

 やっぱり……雪はその人物を見て、心の中でつぶやいた。


「雪、また会えてよかった」


 先日の再会も、今も、夢ではない。


 泣きそうに顔をゆがめている男こそ、雪の父である留五郎だった。


「どうして、ここに……」


「寺の前を通ったとき、偶々たまたま静介を見かけたんだ。雪は隣の塾で勉強してるって聞いて……すごいなぁ、前から賢かったもんな」


 母にはしかられてばかりだったが、父は優しく褒めてくれた。

 だが、父が次第に偽りの愛を向けたのも、事実である。


 あの頃のみじめな自分を思い出して、雪は素直に喜ぶどころか、おとっつぁんと呼ぶことさえできない。


「この近くに住んでいるんだ。寄ってってくれよ」


 複雑な気持ちを抱えているのなら、留五郎を少しでも恨んでいるのならば、すぐに帰ればよいのにそうしないのは、父という存在に対する未練だろうか。それとも、留五郎に会えたことがうれしいのだろうか。


 雪は否定も肯定もしなかった。


「じいじともっと遊ぶ!」


「じいじ……」


「うん!おっかちゃのおとっちゃだから、じいじなんだって!」


 無邪気な静介の笑顔に、雪は救われる心地になる。


(大丈夫……期待なんかしない)


 留五郎が愛してくれなくても、幸せと呼べる日常を手に入れた。

 たとえ傷つくことになろうと、後悔だけはしたくない。


「そうね。じいじの家に行きましょう」


 幼かった頃の自分も、今の一部分である。

 しかし、雪は変わったのだ。


 留五郎は雪の元を去った後、茅場町へと越していたのだが、程なくして馬喰ばくろ町へと居を移していた。


 留五郎が現在住んでいるという長屋に案内された雪は、その部屋を見て唖然あぜんとした。


 脱ぎっぱなしの衣服、それに布団も畳まずにそのまま放置してある。

 食器も洗わずに、流しに重ねられていた。


「いま片付けるからよ。忘れてた……」


 無理矢理、部屋の隅に衣服やら布団やらを押し込むと、微かにほこりが舞い上がった。


 静介が一度くしゃみをしたのを聞いて、雪はたまりかねて言った。


「私が掃除しておくから、静介のことをお願い。お菓子でも買ってきてあげて」


 雪は懐から銭を取り出して留五郎に渡そうとするも、留五郎は受け取らなかった。


「お菓子くらい買ってやるよ。いや……掃除をさせるために来させたんじゃないんだ……ただ……」


 娘と孫と話したかった。

 留五郎は、そう言いたいのかもしれない。


 だけど、雪は留五郎に疑いもしないが期待もしないと決めていた。


「そんなこと、思ってないよ」


 雪の感情を読み取れない留五郎は、胸をで下ろすことはしなかった。

 静介の手を引いて家を出る留五郎が、雪にはやけに弱々しく見える。


 留五郎の部屋が汚かったことを、雪はすぐに合点した。


 掃除をしている最中、位牌を見つけたのである。

 位牌にはきりと書かれており、それは留五郎の二番目の妻だ。


 身の回りの世話をしてくれる人がいなくなり、男やもめの生活がうかがえる。


 きりには息子がいて留五郎とも一緒に住んでいたはずだが、今はどうしているのだろうか。

 その息子の他に、留五郎はきりとの間に実子に恵まれたりしたのだろうか。


 何にせよ、自分には関係のないことだと、雪は思考を切り替える。


 部屋の中はあらかた整理できたので、長屋の井戸を借りて洗濯をすることにした。

 水をんでいると、長屋の住人らしき女房に声をかけられる。


「留五郎さんの知り合いかい?」


「あ……あの、私は……」


 娘です、と正直に言いそうになって、雪は口をつぐむ。

 本当のことなのに、雪は名乗ることができなかった。


「俺の娘なんだ」


 背後から聞こえた声は、留五郎のものである。

 どうやら、ちょうど帰ってきたところのようだ。


「え?あんた一人息子だけじゃ……」


「前妻との子で、久しぶりに会ったら掃除をやらせちまってるとこで……」


「そうかい。言われてみれば留五郎さんに似てるよ。孝行な娘さんでよかったじゃないか」


 包み隠さず、留五郎が打ち明けたことに、雪は驚く。

 てっきり娘であることは隠した方がいいのだと思ったからだ。


 雪たちは家の中へと戻った。


「静介は雪にそっくりだな」


「この子は父親似です」


 誰一人として雪に似ていると言った者がいないほど、静介の容姿は辰巳に似ている。


 実は、留五郎は容姿のことを言ったのでなく、じゃれてくる静介の様が幼かった頃の雪と重なったのだった。


「雪……また、来てくれるか……?」


 雪と静介が家を後にしようとしたとき、留五郎はまるですがるように聞く。


 雪は無言でうなずいた。



 その日の夜、静介が眠りに落ちた後で、雪は辰巳に自身の想いを打ち明けていた。


「自分がどうしたらいいのかわからない。会いたくないって思ったのに、嫌だって言えなかった」


 正確には、嫌だと思わなかったのだ。


 また来てほしいと留五郎から言われたときに、断る勇気はすでに身につけている。

 はじめに再会したときも逃げていた。

 でもそのときだって、留五郎から離れたかっただけで、嫌悪感や憎しみといった負の感情はなかった。


 うれしかったとは、認めたくない。


 やっと断ち切れたはずの過去を否定することになるのだから。


「掃除をしたのはおとっつぁんに振り向いてほしかったわけじゃななくて、ほっとけなかったから……」


 留五郎の言いなりになれば、唯一の家族を繋ぎとめていられた。

 だが、その必要はもうない。


 そもそも留五郎は掃除をしてほしいとは言わなかった。


「なら、雪が初めて俺にけんちん汁を作ってくれたときと同じだ」


 辰巳は優しい声音で言った。

 表情の変化に乏しい辰巳の機微にまで、雪は気づくことができる。


 なぐさめてくれるときの辰巳は一級だった。


「すぐに気持ちの整理ができるわけねぇよ。それに俺だって、縁を切ったはずの父のことは気になったんだ」


「辰巳さんも?」


「ああ。江戸に来てすぐに、南雲家がどうなっているか調べた。江戸には松代まつしろ藩の藩邸もあったからな。信濃にいたときには知ろうともしなかった」


 松代藩の藩士である南雲家は、辰巳の出自でもある。

 もしかしたら辰巳が南雲家を継ぐこともあったかもしれないという、数奇な運命を辿たどっていた。


「たしか弟が……」


「その弟が、今は家督を継いでいるらしい。父は六年前に亡くなったそうだ」


 辰巳の目には哀愁も、いたむ気持ちもなかった。


「俺の場合は、幼い時に得られなかった家族というものに対しての未練だ。父が死んでいると知ってからは、何も思わなくなった」


 区切りがついた、ということだろう。


 そして今の辰巳には、雪と静介との生活がすべてだ。


「雪も同じ未練なら今度こそ断ち切れ。そうじゃねぇなら、後悔だけはしてほしくない」


 母の──妙の手を取れなかった、あのときの自分のように……


 雪には辰巳の言いたいことがわかった。


 わかっていた。後悔したくないから、留五郎の家に行ったのだ。

 未練を断ち切る覚悟がないなら逃げていた。


「辰巳さんは何でもお見通しですね」


 辰巳はいつも寄り添ってくれる。

 けれど自分は、寄り添えているだろうか。


 辰巳に見合う女になりたいのに、まだまだ道のりは遠いようだと雪は思い知らされた。


「よかったな。また会えて」


「うん……本当はずっと、会いたかった……」


 未練ではなく、願い。


 音もなく、涙はこぼれ落ちた。


  *


 道場でかいた汗を銭湯で流した後、鈴彦は来た道を引き返して馬喰町に住む父の元に向かっていた。


 母が亡くなったのは四年前である。

 兄妹のいなかった鈴彦は父と二人で暮らしていたのだが、行商の仕事をして独り立ちできるようになってからは、一人暮らしを始めていた。


 鈴彦が父の元を去ったのは、父は母の二度目の夫であり、自身と父は実のところ血の繋がらない親子であることに、負い目を感じていたからだった。


 仲が悪かったわけではなく、むしろ喧嘩もしたことがないので仲は良好だったといえるのかもしれない。

 父も子どもの頃はそれなりに可愛がってくれたので、鈴彦は早くに父になついていた。


 母が亡くなった後も、関係がこじれたことはないが、それはお互いが距離を取るようになったからではと、鈴彦は思っている。


 結局は他人であり、母が亡くなったことで縁も切れるとまではいかないものの、親子というより知人になってしまったようで、鈴彦は父の元を去ることを決めたのだ。

 否、家を出ると言ったときに、本当は引き止めてほしかった。


 一緒にいてくれと言われれば、大事にしてくれていると思えたのに、父は二つ返事であっさりと了承した。


 家を出てからはほとんど、父に顔を見せていない。

 それでも、たまには顔を見せるようにしているのは、父の身体が弱くなっていたからである。


「親父、いるか?」


「おう。入れ」


 父はだらしない人だった。酒の癖も悪くて、よく母とは喧嘩していた。

 そんな両親を見てきたから、所帯を持つということには冷めている。兎も角、鈴彦は戸口を開けて部屋を見た瞬間、少し驚いた。

 いつもは散らかし放題であった部屋が、きれいに整頓されていたからだ。


「今日は顔色が良いみたいでよかった」


 しかも父の体調までが良いときている。

 父の体調が回復したのなら、やはり嫌いではないので安堵あんどした。

 しかし、父の次の言葉で身体が固まった。


「娘に会ったんだ。孫もいて、遊びに来てくれたからうれしくてよ。お蔭でこのところ寝込むこともない」


「親父が前に、一緒に住んでたっていう……」


「ああ。雪っていうんだ。俺と違ってしっかり者で、顔は似てるけど性格まで似なくて本当によかった」


「……そう、なんだ」


 実の娘が会いに来てくれた方がうれしいんだ。

 鈴彦は、心の中でそうつぶやいた。

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