五
馬喰町にある
創設者、及び道場主は御子柴
左近は
しかし左近という男は、なかなかの曲者だった。
御子柴道場は、表向きは
無名の流派を掲げては門下生は集まらないので、左近が昔習っていた柳生新陰流を名乗っている次第である。
集まった門下生は、たったの四人であった。
しかも三人は貧乏旗本の子息、一人は町人と、来る者
元より道楽で始めたようなものであり、
さて、この道場の師範代として雇われたのが辰巳である。
「くそ……!また一本も取れなかった」
「勢いは良いが気を緩めるな。隙を見せたら最後、訪れるのは死だ」
御子柴道場の門下生である旗本の子息たちは、武士の対面ゆえに道場に通っている者もいて、剣に対する熱気に欠けているのだが、その中の一人は、当初から辰巳に対抗心を燃やしていた。
なぜ、浪人風情に剣を教えてもらわなければならないと辰巳を
「うちの師範代って強いよな。あいつもよくやるよ」
辰巳が実戦において、そこらにいる武士よりも経験があるとは、門下生たちは思いもしなかった。
「そういや先生は……?」
稽古が始まっているというのに、道場主の左近の姿が見えない、とは日常茶飯事だ。
というのも稽古は辰巳に任せきりにしていて、左近が道場に顔を見せるのは
今日もつい先ほどまではいたのだが、いつの間にやら姿を消していた。
「師範代!俺も手合わせをお願いします」
門下生の中でも一際やる気に満ちているのは、
朝は仕事をして、道場へは昼から通っている。
強くなりたいという意気込みは、誰よりも勝っていた。
このとき辰巳はまだ、鈴彦が雪と
「李々ちゃんって器用ね。すごく上手よ」
うれしそうに目を細める李々の顔は、紫乃と瓜二つである。
この日、雪は李々に裁縫を教えていた。
「うちの旦那も、さすがに裁縫までは教えられないから助かるわ」
家事が苦手な紫乃に代わって、旦那はほとんどの家事をこなしてくれるという。
手習所に通い始めた李々は、料理や洗濯なども父から教わるようになったのだが、
「ねーねの教え方、わかりやすい」
「雪なら手習師匠もできそう。きっと子どもたちに人気ね」
二人の親子の言葉は、決して
「裁縫を教わった人の真似をしているだけで、あとは李々ちゃんの覚えがいいだけ」
雪は親友から褒められても肯定しなかった。
自信を持てばもっと輝くだろうにと、紫乃はずっと内心思っている。
謙虚なところは雪の良いところでもあるから、今のままでも紫乃は好きだった。
無性に雪の頬に触れたくなった紫乃が手を伸ばしたとき、がらりと戸口が開いた。
「旦那様がお帰りみたいね。李々、もう行くわよ」
「うん。ねーね、ありがとう」
辰巳は正直、紫乃が苦手だった。
いまいち食えない相手であり、雪にやたらと近い距離で接するので、嫉妬すらしてしまうのだ。
李々も数年前に会ったときは生意気な子どもとしか見れなかったが、我が子が生まれてからは、苦手意識は消えている。
「…………!」
何気なしに雪たちの方を見ていた辰巳は、目を見張った。
紫乃が雪の頬に、口づけを
「じゃあね、雪。また来るわ」
何事もなかったかのように去って行く紫乃と李々。
李々にいたっては「かかさまだけするい!」と言っている。
そして雪はさよならの言葉も
「赤くなることねぇだろ」
辰巳がむきになるのは、紫乃の旦那からあることを聞いていたからだ。
辰巳は一度だけ、紫乃の旦那と会っていた。
静介を預かってくれたことがあり、迎えに行ったときに会ったのだが、気の優しそうな男だった。
きっと紫乃のことだから、旦那のことを尻に敷いていると、そんなことも思っていたりするが、紫乃には言えるわけもない。
『紫乃は本当にお雪さんが好きみたいで。つい
『ただの女友達だろ』
嫉妬深い辰巳は、初対面の男に対して言ってのけた。
『でも紫乃は女も好きだから。まあ、紫乃のことは信じてますけど』
はっはっと笑う男に対して、辰巳は紫乃に対する危機感が芽生えていたのだ。
「だって辰巳さんも、色男から同じことをされたらうれしいでしょう?」
「なっ……!役者でも御免だ!」
*
日に日に
桜の樹は
雪は蕾を見つけて、背中に抱えている静介にも教えてあげようとしたら、気持ちよさげに夢の中だった。
桜の蕾よりも、静介の寝顔の方が微笑ましい。
息子の寝顔を
(味噌が切れていたから買わないと……あとは……)
買い物に向かう前に、思い入れのある
和泉は固定職に就いたことを雪に伝えるも、どんな職かは内緒だと言う。
彼のいたずらめいた顔は、隠しているのではなく驚かせたいと語っていた。
その内わかるよ、と言い残した和泉と別れ、雪は再び神田の人混みの中を歩いた。
最近は、良いことが続いていると思う。
文字を習うことは楽しく、それを叶えてくれた辰巳の想いもまたうれしかった。
辰巳のいない三年間は、静介がいたことや和泉たちの支えを抜けば、地獄と呼べるほど辛い日々だった。
母が出て行ったときよりも、父に捨てられたときよりも、辰巳という存在がいないことが耐えがたかったのである。
でも、今は
好きなことができて、愛する人が傍にいて、幸せだと胸を張ることができる。
気がかりは、辰巳と和泉の仲が修復されないことだ。
和泉は怒っているとは言っていたが、辰巳のことを嫌いになったとは言わなかった。
だとしたら、昔のように肩を並べる日が訪れるかもしれない。
その可能性に
「……雪」
誰かに呼び止められた。男の声だった。
雪、と呼ぶのは辰巳だが、それは辰巳の声とは全く違う。
では、誰なのだろうか……?
雪は思い出すことができないまま、振り返る。
一瞬、本当に誰なのかがわからなかった。
記憶の中にある面影よりも年老いていて、何故だろう、目を
(おと……)
目の前にいる人物は、紛れもなく留五郎だった。
「雪だよな。やっと……」
留五郎は哀しそうな顔で、雪に歩み寄ろうとする。雪は反射的に、一歩退いた。
「その子は雪の……」
留五郎の視線が、雪の背中で眠る静介に移る。
雪の足は
名前を呼ぶ声が聞こえなくなるまで、雪は止まらなかった。
あんなに帰ってきてほしいと願っていたのに、会いたくないと思ってしまった。
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