馬喰町にある御子柴みこしば道場は、新設されて間もない。

創設者、及び道場主は御子柴左近さこんという旗本である。


左近はよわい四十にして隠居し、かねてより希望していた剣術道場を始めたのだ。


しかし左近という男はなかなかの曲者だった。


御子柴道場は、表向きは柳生新陰やぎゅうしんかげ流を掲げているが、左近自身が新陰流の免許皆伝すらしておらず、剣は自流、いや、御子柴流と言ったところか……


無名の流派を掲げては門下生は集まらないので、柳生新陰流を名乗っている次第である。


ただし剣において高名な人物ではなく、集まった門下生はたったの四人だ。

しかも三人は貧乏旗本の子息、一人は町人と、来る者こばまずだ。


元より道楽で始めたようなものであり、束脩そくしゅう目当てでもなく、左近は広く門下生を受け入れていた。


さて、この道場の師範代として雇われたのが辰巳である。


「ちきしょう……!また一本も取れなかった」


「勢いは良いが気を緩めるな。隙を見せたら最後、訪れるのは死だ」


御子柴道場の門下生である旗本の子息たちは、武士の対面ゆえに道場に通っているので、剣に対する熱気に欠けているのだが、その中の一人は当初から辰巳に対抗心を燃やしていた。


何故、浪人風情に剣を教えてもらわなければならないと辰巳をあざけるも、木刀を交えてみればその嘲りは失せ、代わりに一本でも打ちのめしたいという闘志がみなぎったのだった。


「うちの師範代って強いよな。あいつもよくやるよ」


辰巳が実戦経験において、そこいらにいる武士よりあるとは、門下生たちは思いもしなかった。


「そういや先生は……?」


稽古が始まっているというのに、道場主の左近の姿が見えない、とは日常茶飯事だ。

というのも稽古は辰巳に任せきりにしていて、左近が道場に顔を見せるのはたまにである。


今日もつい先ほどまではいたのだが、いつの間にやら姿を消していた。


「師範代!俺も手合わせをお願いします」


門下生の中でも一際やる気に満ちているのは、鈴彦すずひこという町人だった。

朝は仕事をして、道場へは昼から通っている。


強くなりたいという意気込みは、誰よりも勝っていた。


このとき辰巳はまだ、鈴彦が雪と縁のある人物であるとは知らなかった。






「李々ちゃんって器用ね。すごく上手よ」


うれしそうに目を細める李々の顔は、紫乃と瓜二つである。


この日、雪は李々に裁縫を教えていた。


「うちの旦那も、さすがに裁縫までは教えられないから助かるわ」


家事が苦手な紫乃に代わって、旦那はほとんどの家事をこなしてくれるという。

手習所に通い始めた李々は、料理や洗濯なども父から教わるようになったのだが、如何いかんせん、裁縫だけは教えられないので、雪が教えることになったのだ。


「ねーねの教え方、わかりやすい」


「雪なら手習師匠もできそう。きっと子どもたちに人気ね」


克草こっそう塾で字を学んでいることを、紫乃は雪から聞いていた。

二人の親子の言葉は、決しておだてではない。


「裁縫を教わった人の真似をしているだけで、あとは李々ちゃんの覚えがいいだけ」


雪は親友から褒められても肯定しなかった。

自信を持てばもっと輝くだろうにと、紫乃はずっと内心思っている。


謙虚なところは雪の良いところでもあるから、今のままでも紫乃は好きだった。


無性に雪の頬に触れたくなった紫乃が手を伸ばしたとき、がらりと戸口が開いた。


「旦那様がお帰りみたいね。李々、もう行くわよ」


「うん。ねーね、ありがとう」


辰巳は正直、紫乃が苦手だった。

いまいち食えない相手であり、雪にやたらと近い距離で接するので、嫉妬すらしてしまうのだ。


李々も数年前に会ったときは生意気な子どもとしか見れなかったが、我が子が生まれてからは苦手意識は消えている。


辰巳は一度だけ、紫乃の旦那と会っていた。

静介を預かってくれたことがあり、迎えに行ったときであったのだが、容姿端麗な紫乃とは違って、その辺にいるような普通で、気の優しそうな男だった。


きっと紫乃のことだから旦那のことを尻に敷いていると、そんなことも思っていたりするが、紫乃には言えるわけもない。


「…………!」


何気なしに雪たちの方を見ていた辰巳は、目を見張った。


紫乃が、雪の頬に口づけを施したからである。


「じゃあね、雪。また来るわ」


何事もなかったかのように去って行く紫乃と李々。

李々にいたっては「かかさまだけするい!」と言っている。


そして雪は、さよならの言葉もつむげずに、顔はうっとりとしていた。


「顔を赤くすることはねぇだろ」


辰巳がむきになるのは、紫乃の旦那からあることを聞いていたからだ。



『紫乃は本当にお雪さんが好きみたいで。つい妬いてしまいそうになることも……』


『ただの女友達だろ』


嫉妬深い辰巳は、初対面の男に対して言ってのけた。


『でも紫乃は女も好きだから。まあ、紫乃のことは信じてますけど』


はっはっと笑う男に対して、辰巳は紫乃に対する危機感が芽生えていたのだ。



「だって辰巳さんも、色男から同じことをされたらうれしいでしょう?」


「なっ……!役者でも御免だ!」






日に日に長閑のどかで暖かい風が吹くようになった。

桜の樹は蕾をつけて、春爛漫らんまんはもうすぐそこだ。


蕾を見つけて、背中に抱えている静介にも教えてあげようとしたら、静介は気持ちよさげに夢の中だった。


雪は桜の蕾よりも、静介の寝顔の方が微笑ましい。


息子の寝顔を堪能した後は、今夜のおかずを考える。


(味噌が切れていたから買わないと……あとは……)


買い物に向かう前に、思い入れのある廃れた小さい神社に行くと、そこには和泉がいた。


和泉は固定職に就いたことを雪に伝えるも、どんな職かは内緒だと言う。

彼のいたずらめいた顔は、隠しているのではなく驚かせたいと語っていた。


その内わかるよ、と言い残した和泉と別れ、雪は再び神田の人混みの中を歩いた。






最近は、良いことが続いていると思う。


文字を習うことは楽しく、それを叶えてくれた辰巳の想いもまたうれしかった。

辰巳のいない三年間は、静介がいたことや和泉たちの支えを抜けば、地獄と呼べるほど辛い日々だった。


母が出て行ったときよりも、父に捨てられたときよりも、辰巳という存在がいないことが耐えがたかったのである。


でも、今は側にいてくれる。


好きなことができて、愛する人が側にいて、幸せだと胸を張ることができる。


気がかりがあるとすれば、辰巳と和泉の仲が修復されないことだ。


和泉は怒っているとは言っていたが、辰巳のことを嫌いになったとは言わなかった。

だとしたら、昔のように肩を並べる日が訪れるかもしれない。


その可能性に賭けることしかできないけれど、雪は祈っている。


「……雪」


誰かに呼び止められた。男の声だった。


雪、と呼ぶのは辰巳だが、それは辰巳の声とは全く違う。


では、誰なのだろうか……?


雪は思い出すことができないまま、振り返る。


一瞬、本当に誰なのかがわからなかった。

記憶の中にある面影よりも年老いていて、何故だろう、目を逸らしたくなる。


(おと……)


目の前にいる人物は、紛れもなく留五郎だった。


「雪だよな。やっと……」


留五郎は哀しそうな顔で、雪に歩み寄ろうとする。雪は反射的に、一歩退いた。


「その子は雪の……」


雪の足はきびすを返して一目散に駆ける。

名前を呼ぶ声が聞こえなくなるまで、雪は止まらなかった。


あんなに帰ってきてほしいと願っていたのに、会いたくないと思ってしまった。

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