「あんたも静介も、前より明るくなったね」


 尾花おばな屋を訪ねた雪に、おまちは心底ほっとしたような表情をする。


 辰巳とやり直すことに猛反対していたおまちは、雪がまた不幸になるのではないかと心配でたまらなかった。

 何度も雪の住む長屋に通い、過保護と思われるまでに雪の様子を確かめて、それでも日に日に笑顔が増えてゆく雪を見てほっとしたのだ。


「静介は前よりもよくしゃべるようになったんです。恥ずかしがり屋さんだけど、挨拶あいさつもできるようにもなってくれて、全部辰巳さんのおかげです。でもまだ熱を出すときがあって……辰巳さんも一生懸命、静介のことを介抱してくれるけれど可哀そうで……」


 静介を身体の弱い子に生んでしまったと、雪は自身を責めていた。

 辰巳が帰って来てから、静介は滅多に熱を出さなくなったとはいえ、一旦寝込んでしまえば、不安で仕方がない。


「何回熱を出しても元気になってるんだから、静介は強い子だよ」


 そう言って励ますおまちの手が温かかった。

 今さらながらに、おまちにどれほど心配をかけていたのかを思い知る。


「ねーね……お政さんにも、もう二度と嘘を吐きたくない」


 幼いころに出会ったお政は、いつも雪の味方でいてくれた。

 辰巳がいなかった辛い時期に、本当はすがりたかった存在だが、大丈夫、元気ですと、お政への文には嘘を吐き続けていた。


 雪は以前、留五郎に捨てられたときにも、お政に真実を告げなかった。


 でも今度は……という誓いは、二度目である。


「子どもが大きくなって夫婦水入らずの時間が増えたら、二人で政に会いに行ったらどうだい?」


 雪はお政に会いに行くなど、考えてもみなかった。


 お政は相模国さがみのくにで、商家の内儀をしている身である。お政が会いに来れなくとも、雪が会いに行くことは夢物語ではない。


 辰巳と二人で旅をする。

 そして、今までの嘘をお政に謝りたい。


 お政に会えたら、どんなにうれしいだろうか。


 雪は想像しただけで、高揚こうようした。


「相模なら、行ってみたいところがあるんです」


「おや、何処どこだい?」


鶴岡つるがおか八幡宮に。私の大好きな、静御前が舞った場所だから」


 源義経の愛妾あいしょう静御前は、義経の敵となった源頼朝に捕らえられてしまうのだが、かの鶴岡八幡宮で舞を披露することになった。

 勇敢にも静御前は、敵前で義経を想う舞いを披露したのである。


 権力に屈せず、尊い想いを貫いた姿は、雪が静御前を愛してやまない理由だ。


 もしも、かつて静御前が舞ったという地に降り立ったならば、静御前の心に少しでも触れることができるかもしれないと、願いは増してゆく。


(辰巳さんに言ってみようかな)


  *


 克草こっそう塾は馬喰ばくろ町にある私塾である。


 雪には無縁の場所であったが、先日辰巳から克草塾で人手を要しているから手伝いに行ってほしいと頼まれていたので、一路その塾に向かっていた。

 克草塾の隣には寺があり、近隣に住むわらべたちの遊び場でもあることから、雪が克草塾にいる間は静介を寺に預けることにしていた。


「おっかさんは隣にいますよ」


 寺の僧に静介をたくそうとするも、母と離れるのが嫌な静介は雪にしがみついて動かない。


 すると、寺で遊んでいた童たちが静介の元に集まってきた。


「あそぼ、あそぼ」


 童の一人が静介に手を差し伸べた。

 おずおずと雪から離れる静介は、次第に童たちの中に溶け込んでいった。


「ではお願いします」


「はい。小山内おさない様のところから帰ってくるまで、うんと遊ばせておきます」


 雪が克草塾の門を潜ると、白髪交じりの齢五十くらいの男が待ち構えていた。


「そなたが、お雪さんか?」


 男の眼光は鋭く、にらまれているように思えて雪は委縮した。

 だが、立ち姿や話し方には品があり、厳しそうなお武家の人という印象である。


「はい。小山内先生でいらっしゃいますか?」


「いかにも。では早速、働いてもらうぞ」


 克草塾は旗本の子息のための、小山内珊石さんせきが開いた私塾である。


 珊石は午前に講義を、午後に個人の研究をしている。

 どちらにしても書物とは切っても切れない生活であり、所有している書物は、雪の想像よりはるかに多かった。

 その書物を保管してあるのが、克草塾の敷地にある倉庫である。


 書物というのはただ保管しておけばよいという物ではなく、適度に虫干しをしなければならない。


 克草塾には珊石の他、珊石の弟子である寛石かんせきしかおらず、大量の書物の虫干しともなれば人出が入用となり、雪が辰巳に頼まれていた案件は、克草塾にある書物の虫干しだった。



 辰巳が師範代を務める道場と克草塾との距離はおよそ九町(約一キロメートル)と近く、すぐに行ける距離であると知っていた辰巳は、足早に克草塾を目指していた。


 克草塾に手伝いに行ってほしいと雪に頼んだ本人であったが、雪のことが心配になり、急用があると言って道場を出てきたのだった。


(珊石にこき使われていたら大変だ……)


 雪は頼みごとをされれば断れない性格だろうと、現に辰巳が克草塾の手伝いをお願いしたときも、二つ返事で引き受けていたので、気難しい珊石に走りまわされる雪を想像した辰巳は、剣を振るっている場合ではなくなったという次第だ。


「辰巳さん!どうしてここに……」


「あ、いや……偶々たまたまこの近くに用があったから寄ったんだ」


 来た言い訳を考えていなかった辰巳がこぼした即席の言葉に、雪はそれが嘘だと見抜いた。

 辰巳は嘘を吐くときに弱気になることを知っていたからである。


(ちゃんと手伝いをできているか心配になって来てくれたんだ……)


 学者の手伝いともなれば気を遣うし、何より粗相そそうをしていないか気になったのだろうと、雪は辰巳の本音までは見抜けなかった。


 今のところおしかりを受けたりはしていないと雪が言おうとしたとき、小走りに近づいてくる足音が聞こえた。


「この阿呆あほうが!仕事を放って来る奴があるか!」


 辰巳めがけて振り下ろした珊石の拳は、見事に命中した。

 いきなりの出来事に、雪は唖然としている。


「くそじじい、何しやがる!お前がそうやって雪をいじめていないか心配で来ただけだろ!」


「くだらんことをぬかすな!そもそもお前は礼儀がなっとらん。誰のお蔭で師範代ができたと思ってるんだ」


 そう、道場の師範代の役を辰巳に紹介してくれたのは、珊石だったのである。

 雪が絶対に、珊石に粗相ができないのは、珊石が学者だということもあるが、夫が世話になった恩人でもあったからだ。


 なので辰巳も強くはでられないでいる。


「お前はもっと、儂と和泉に感謝しろ」


「和泉だ?」


 珊石は一瞬、しまったという顔をした。


「……和泉には口止めされていたが仕方あるまい。師範代の役は、もともと儂が和泉に持ち掛けた話だった」


 雪と辰巳は顔を見合わせて、お互い知らなかったと首を振る。


「和泉さんが譲ってくださったんですか?」


「そういうことになるな」


 それから少しして、雪は再び虫干しの作業に戻った。


「なあ、あの話は……」


 きびきびと働く雪を横目に、辰巳はこそっと珊石に言った。


「ふん。儂は忙しいと申したであろう」


 辰巳がにらんでくるような気配を感じた珊石は溜息を吐いて、だからと後を続ける。


「寬石にやってもらうことにした。安心したならとっとと道場に戻れ!」



 陽の下にさらされた書物が、塾の室内を埋め尽くしている。


 倉庫にあるすべての書物を運び終えて、雪はその並べられた書物を飽くことなく眺めていた。


「小山内先生は、ここにある書物をすべて読んだのですか?」


「無論。単に興味のそそられたものもあれば、儂の研究には欠かせない書物と雑多であるがな」


 すごい、という目を向けられて、珊石は少し気分が良くなった。

 ことに雪が働き者で、虫干しの作業がとてもはかどったこともある。


「これはこの国の歴史が編纂されておる。こっちは文化についてが……」


 普段は気難しいことで通っている珊石も、素直で純粋な雪には親切にもあれこれと説明する。

 そしての書物に対する興味は、すこぶる増していった。


「まだ、手は空いているか?」


 他にも手伝うことがあるのだろうと、雪はうなずく。

 妻として、夫の恩人には少しでも礼を返さなければならない。

 書物に触れて高揚していることも相まって、はりきっていた。


 珊石に連れられた部屋には、弟子の寬石が机の前に座っていた。

 寬石に対面する形で、もう一つの机がある。

 その席には珊石が座ると思い込んでいた雪に、二人は座るようにうながす。


「え、あの……」


 正面には寬石が、それに手元に置かれている机には紙と筆があって、雪は戸惑った。


 もしかしたら珊石は、字を書くような仕事を頼みたいのかもしれない。

 いくら珊石の頼みとはいえ、できないことである。


「私は字が書けません……お許しください」


 珊石はがっかりしただろうか。それとも道場の師範代の妻であるのにとあきれただろうか。

 雪がいろいろな不安を想像したのも束の間、珊石は優しい口調で言った。


「なら教え甲斐があるというもの。そうであろう、寬石」


「はい。まだまだ端くれとはいえ、珊石先生の弟子であるからには、筆を執らせていただきます」


 弟子の言葉に満足した珊石は、何も言わずに部屋を去っていった。

 寬石と共に残された雪は、状況が呑み込めないでいる。


「今日はお雪さんに助けていただきましたから、そのお礼に、字を教えて差し上げます」


 気難しい師とは違い、寬石は物腰も穏やかだ。

 雪は寬石の言葉を信じられない思いで聞いていた。


「本当に、私なんかが……」


 今起きている出来事が嘘ではないと実感すると、雪は顔にも表れてしまうくらいに浮かれてしまう。


 歳は取ってしまったけれど、行きたかった手習所で指南を受けているような心地になった。


 しかし雪は、はたと我に返る。


「寬石様の大切なお時間をいただくわけにはまいりません。それに私は、字が書けないどころか、読めもしないのです……きっと、ご迷惑になります」


「貴女はすごく謙虚でいらっしゃる。お雪さんが望むなら、私は学んでほしいと思います。それに字を読める読めないにかかわらず、人に教えることは難しいのですよ。ですから私の勉強にもなるのです」


 望むなら……寛石の言葉が、雪の身体に溶け込んだ。


 かくして雪は文字を習うことになり、寬石の手ほどきを受けて四半刻しはんときが経とうとしていた。


「……お雪さんは手習所に通っていたのですか?」


「はい。でも数回通っただけで、そのとき習ったことはすべて忘れてしまっています」


「…………」


 やはり無学に等しい者が、学者に勉学を乞うなど烏滸おこがましかったのだろうか。

 寬石に呆れられているのではないかと、雪の声は小さくなる。


 何かを考えるようにして、寬石は腰を上げた。


「珊石先生のところに行ってまいります」


 寬石はなかあわただしく、部屋を出た。

 小走りで駆け込んできた弟子に、珊石は文机に向かったまま、返事だけで応える。


「お雪さんのことですけど……」


「間違ってもれたりするなよ。なにせ夫の嫉妬深さときたら、この塾を打ちこわしにされかねんからな」


「冗談を言っている場合ではないのです。あの方は……」


 一方、寬石に席を立たれた雪は、気が気でなかった。

 雪なりに一生懸命、寬石の話を聞いていたつもりであるが、つたない所作はどうしようもなく、ついに寬石を怒らせてしまったのではと、筆を持つ手が震える。


 文字が書けることに浮かれて、失礼な振る舞いをしてしまい、珊石の叱責しっせきを受けるかもしれない。


 厳しい顔をして部屋に入ってきた珊石に、雪はただただおびえることしかできなかった。



 道場での指導を終えると、早々に辰巳は克草塾へと向かっていた。

 虫干しのことではなく、別件が気になっていたからである。


 克草塾まであと少しというところ、寺の前でべそをかきそうになっている静介を見つけた。


「お、おとっ……」


 泣かないように踏ん張っている姿は成長している証か。

 静介と共に立ち尽くしていた僧は、辰巳が静介の父親だとわかり安堵あんどの表情をした。


「おっかさんの帰りが遅くて、さみしくなってしまったみたいです」


 寺で遊んでいた童たちは皆、家に帰ってしまい、静介一人が残されてしまったのだった。


「ほら、おっかさんを迎えに行くぞ」


 克草こっそう塾の門を潜ると、開け放された部屋に並べられた書物が目をいた。

 しかし雪たちの姿は見えず、辰巳は克草塾の中へと足を踏み入れる。


 行き当たった部屋から、人の声が聞こえた。

 ぼそぼそと漏れ聞こえる声は、珊石と雪のものである。


 母の声を聞いた静介は、待ちきれないといったように戸を開けてしまった。


 部屋の中には雪と珊石、それに寛石がいた。

 筆を持つ雪の正面にいるのは、手ほどきをしている珊石といった構図である。


「おっかちゃ……」


 雪の邪魔をしてしまったと立ち尽くす辰巳とは別に、静介はお構いなしに雪に泣きつく。


「ごめんね。おっかさん、夢中になって静介を迎えに行くのが遅れちゃった」


「この……馬鹿たれがっ!!」


 珊石は立ち上がり、本日二度目となる鉄拳を辰巳に喰らわせた。


「何しやがる!お前の所為せいで、静介が余計に泣いちまってるじゃねぇか!」


 珊石の剣幕に衝撃を受けた静介は、雪の胸の中で盛大に泣きわめいていた。

 雪と寛石が必死になって、静介をなだめている。


 珊石はそれを見て、一度咳払いをした。


「失礼した……儂が言いたいのは、何故なぜもっと早くに、お雪さんのことを儂に教えてくれなんだということだ」


「雪を……?」


 少しして、もしや珊石は雪に懸想したのではと、辰巳はよこしまな考えがぎった。

 だが、すぐに珊石は辰巳をにらみ返す。


阿呆あほうなことばかり考えているから、妻の才に気づけなかったというところか……辰巳、お雪さんは賢いぞ」


 はじめに気づいたのは寛石だった。


 寛石は雪にかな文字を教えていたのだが、明らかに雪の覚えは凄まじく、呑み込みが早かった。

 しかも覚えたばかりの文字を、教本にある文字のように書いてしまうのだから、驚かずにはいられない。

 しかも雪は、手習所に行っていないも同然ときたのだから、珊石に雪のこと告げたのである。

 雪は天才かもしれないと。


 寛石の言に興味を持った珊石は、自ら雪に手ほどきをして、寛石同様に雪の才を実感したのである。


「子どもの頃から学んでいれば、優れた逸材になっていたであろうに……いや、今からでも遅くはない!お雪さん、今後は好きなときに尋ねてきなさい。ここで思う存分、勉学に励むといい」


 好きなだけ勉学ができる。

 雪は高揚と共に、辰巳を見やった。


 優しい顔でうなずく夫と珊石に、雪は頭を下げた。



 辺りはすっかり茜色に染まっている。

 静介には寂しい思いをさせてしまったが、雪は目眩めくるめく充実したひと時を、克草こっそう塾で過ごした。


「辰巳さん、ありがとうございます。私が文字を習えるように、小山内先生に口利きをしてくれたのは、辰巳さんですよね」


 雪はもしかしたら字を読めるようになりたいのではないかと、辰巳は少なからず気づいていた。


 字を教えることくらいは自身でもできただろうし、労力をいといはしなかったが、今まで何もしなかったのは、字を教えると言っても、雪が固辞すると思ったからである。


 雪が字を読めないことに劣等感を抱いているのは確かで、それを傷つけてしまうと、触れることすらしなかった。


 だが、珊石と知り合い、彼が学者であったことで辰巳は、雪が字を学べるように取り計らうことを決めたのである。


 いつか雪が語ってくれた、思い出だった。


『こんな私でも一度だけ、おとっつぁんに褒めてもらったことがあるんです。手習所で書いた文字を見せたら、本当にうれしそうにしてくれて……あのときは嘘じゃなかったって、そう信じています』


 父は言いなりになってくれる娘に、偽りの愛を向けていた。

 しかし雪が褒められたのは、まだ母がいなくなる前で、小さい我が子を純粋に可愛がってくれていたときである。


 数少ない雪の、幸福の思い出だ。

 この父との思い出のような雪の幸せを、辰巳は願っている。


 文字くらい自分で教えてあげればよいと珊石に言われた辰巳が、頑としてでも雪が学者から教わることを望んだのは、手習所に満足に通えなかった雪を想ってのことでもあった。


「お節介にならなくてよかった。それよりすげぇじゃねぇか。あの人が褒めるなんてよっぽどだ。今まで雪の才能に気づいてやれなくてすまなかった」


「おっかちゃ、すごい!」


「……偶々たまたまです」


「偶々で、できるもんじゃねぇ」


 幼少期に母親に否定され続け、辛い過去ばかりの雪は、自信というものを持てないでいる。

 ただ、今日の雪は、相変わらずの謙虚さに加えて、少しだけ頬が緩んでいた。


『あの子は自信を持てばもっと可愛くなるのにねぇ』


 先日聞いたお松の言葉が、辰巳の頭によみがえる。


 今のままでも充分に可愛いけれど、自信のついた雪も見てみたい。が……


(もっと可愛くなったら、言い寄ってくる男が増えるじゃねぇか)


 狭量きょうりょうだと責める親友がいないことを、辰巳は思い出した。

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