「あのときは酷いことを言ってごめんっ!!」


雪は団子を口元直前に持ってきたまま、その手を止める。

茶屋の床几しょうぎに座り、運ばれてきた団子にもそぞろだった伊吹は、手を合わせて雪に謝った。


「俺、お雪ちゃんのことが好きだったんだ。でも、お雪ちゃんが他の人を好きになって、それが許せなくてあんなことを……」


雪と辰巳、出会ったばかりの頃の二人は、言葉のない関係にお互いの気持ちがれ違っていた。

他人から見ればただの割り切った関係にしか見えなくて、伊吹もまたその一人だった。


男好きでふしだらな娘だという、雪からすれば不本意な噂を伊吹は信じなかったのだが、自身の目で雪と辰巳の擦れ違ったままの姿を見て、こいあきらめと同時に、その悔しさをぶつけてしまったのだ。


雪は団子を皿の上に戻して、伊吹に向き直った。


「あの頃の私は、ううん、つい最近まで私は周りが見えていなかった。

手を差し伸べてくれる人はいるのに一人で殻に閉じこもって……もしも私が伊吹さんの想いに気づけていたら、ずっと良い関係でいられたかもしれないのに」


「今は、辛くない?」


「はい。誰かに頼ることも大切だって、わかりましたから」


伊吹は雪に懸想をしつつ、暗い子だと思っていた。

だからいつも笑っていてほしくて、可哀そうだとも感じていたのに、今、目の前にいる雪は昔見た少女ではなかった。


「お雪ちゃん変わったね。幸せそうでよかったよ。独り者の俺には眩しいくらい」


雪がただ嫌われていただけだと思い込んでいたのは、伊吹の優しさを受け入れられなかった所為せいだ。

鈴鹿で伊吹と会わなければ、一生わだかまりが残ったままだった。


過去から取り戻せたものを噛みしめて、雪は伊吹のに微笑みを返した。


「あ、そうだ!もう一つ言いたいことがあったんだ。

もしかしたら俺、お雪ちゃんのおとうに会ったかもしれない」


「え……!」


雪が長屋を去ったあとに、一人の男が雪の住んでいた家を訪ねてきたことがある。

そのとき伊吹は男と話していたのだが、誰もいないとわかると、男は特に何も言わずに引き返してしまった。


知らない他人であったし、伊吹も何かを問うことはしなかったのだが、後になって、男の容姿に雪の面影があることに思い至る。


だが、男の所在はわからず、確証は得られないままだった。


「名前くらい聞いておけばよかったのに、俺の気が回らないばかりに……

お雪ちゃんの事情も知らなくてよ」


雪は生まれたときから以前の、伊吹も住んでいた長屋にいたのだが、母は幼い時分に、父は再婚を機に雪を置いて出て行っていることを伊吹が知ったのは、雪が長屋を去った後だった。

古参の長屋の住人の間では有名な話だったそうだ。


親がろくでもないから子どももろくな娘に育たなかったと、心無い言葉には伊吹も閉口した。


「おとっつぁん……来てくれたんだ」


長屋を訪ねて来たのが留五郎だったという証拠はない。

だけど雪には、希望的観測に過ぎないが、それが留五郎であったと確信した。


ずっと待っていた。ーー今も待っているのかもしれない……


目に涙をためて、子どもの頃に戻ったように、その表情は幼く見えた。


どんなに嫌な噂をささやかれても、雪は辰巳と一緒になるまで長屋を越さなかった理由を、伊吹が理解した瞬間だった。


雪は辰巳と祝言を挙げる前に、辰巳と留五郎を訪ねていた。

しかし、再婚後に移り住んでいた茅場かやば町にはすでに留五郎がいなかった。

夫ができたことを留五郎に報告したかった雪の覚悟は肩透かしを食らい、それどころか留五郎との接点は完全に途絶えていたのだ。


そこで一つあきらめがつくも、もう二度と会えないと思えばやはり寂しくて仕方なかった。

しかし留五郎が会いに来てくれたのならば、また救われた心地になる。


「今は神田界隈で貸本業をやってるんだ。見かけたら声かけて」


字を読めない雪は、伊吹から書物を借りることはできない。

それが少しだけ、雪はみじめに感じた。






「最近じゃお清の奴、離縁したいとまで言ってきて……このままじゃ本当にそうなるんじゃねぇかって……」


とある飲み屋には、辰巳と弥七の姿があった。

弥七から相談があると誘われ来てみれば、相談というのは妻との不和をどうしたらよいかというものだった。


てっきりならず者と問題を抱えていて追い払ってほしいだとか、その手のことを辰巳は想像していた。


「何で、俺に聞くんだ?」


辰巳と弥七は知り合って間もなく、気心の知れた仲でもない。

妻との揉め事ならば家族なり友なりに相談するだろうに、辰巳は自分に相談されるいわれが結びつかなかった。


「だって、夫婦仲が良いじゃねぇですか。

どうしたら喧嘩もしねぇでいられるのか是非教えてくだせぇ」


傍目はためには雪との関係がそう見えていると、いや、事実に違いないが、辰巳は少し上機嫌になって、慣れない相談事に耳を傾けることにした。


「お清のことが嫌いじゃねぇし、むしろ大切に思ってやす。

だけどお清は済んだことを毎回掘り返してきやがって……」


弥七の言い分はこうであった。


弥七はお清の妊娠中に、他の女性と酒を一緒に飲んだのだという。

太郎を身籠ってからお清は酒を飲まなくなり、お清と酒を飲めなくなった弥七は、一晩くらいはいいだろうと下心も含めて他の女性と相伴を預かったそうだ。


だが、お清を裏切ってしまうことに躊躇ためらいと罪悪感を覚えた弥七は、結局致すところまでには及ばず家に帰ったところ、感の冴え切ったお清にことが露呈してしまったのだった。


「別に抱いてねぇんならいいだろとか、俺が素直に謝らなかったこともお清がいまだに引きずっている理由かもしんねぇけど、もう一回謝ったところでしでかしたことはしでかしたこと。

安易な考えだったって、思っちゃいるんです……」


弥七の話を聞いて、辰巳は我が事のように思えてならなかった。


生まれたばかりの静介と雪を置いて出て行き、三年ぶりに帰ったと思えば謝りもしなかったこと、何よりと関係を持ったことを、雪は気にしていないわけではないのだ。


雪が許してくれたとはいえ、いつか思い出して、責められるような事態もあるかもしれない。

そして、自分もしかり……


「俺は言葉足らずで雪を傷つけてきたから、言いたいことは言うようにしている。

あとは静介の父親として、自覚したってところだな」


(そういえばお清も、太郎の父親なんだからって何回も言ってらぁ)


愛想が良いとは言えないが、悪い人ではなさそうというのが、弥七が抱いた辰巳に対する印象だった。


酒が回って女房との惚気のろけ話を始めたときには弥七の方が恥ずかしくなるも、女房への愚痴一つない辰巳になるほど道理でと思った。


夫婦仲が円満なのは、二人の相性と、辰巳が女房を立てているからだろうと合点する。

きっと、女房も辰巳を立てているに違いない。

ただ好きでいるだけで夫婦間が上手くいくわけはなかったのだ。


弥七が家に帰ると、お清はまだ起きていた。


「楽しかった?」


「ああ。また飲みに誘ってみてぇな」


「……ねぇ」


お清は真剣な顔で、弥七に切り出した。


博打ばくちをやめろとは言わないから、せめて行く回数は減らして。

いざというときに、太郎がひもじい思いをしたら可哀そうでしょう?」


「わかった。約束すらぁ」


太郎をないがしろにしているような父親の振る舞いにお清が怒っていたことを、弥七は辰巳と話すまでわからなかった。

弥七の真摯しんしな眼差しに、お清はほっと胸をで下ろした。


「私も、もう昔のことは言わないから」


「やってなきゃいいって、そういう考えがお清は嫌だったんだろ?」


「うん」


「俺が軽率だった。俺にはお前しかいねぇからよ……許してくれ」


「次はなしだからね」






雪は戸口が開く音で目が覚めた。

辰巳が帰ってきたのだとわかり起きようとするも、まぶたは重く体を動かすことも困難だ。


音をたてないようにゆっくりとした足取りで、辰巳が寝床に来る気配がした。

再び意識が夢の中に向かおうとしていた直後、背後から抱きしめる感覚で意識が冴え渡った。


「起こしたか?」


辰巳は酔っているのか、気怠そうな声が雪の耳をくすぐる。

ただよう酒の匂いだけで雪は酔ってしまいそうだった。


「辰巳さんは、我慢していませんか?」


酒を含んだ辰巳は、普段よりも口が回りそうな気がして、雪は尋ねた。


道場の師範代という仕事は、剣が捨てられない辰巳にとってはありがたい仕事なのかもしれないが、今まで気楽に用心棒をしていた辰巳が、毎日汗みずくになっていることに不満があるのではないかという懸念を、雪は聞きたかった。


「今の生活は前よりも生きやすい。これでも道場では上手くいってるから安心しろよ」


くるりと身体を反転させて、雪は辰巳を見た。

優しく頬を愛でる辰巳の、その手が欲しくて。


「雪は、我慢してねぇか?」


「我慢はしてないけど、不安がいくつか……」


言ってみろと問う辰巳の声は、やはり酩酊めいていが混じる甘ったるさだ。

雪はときめく心を抑えて、つぶやいた。


「師範代になってから身形みなりがきっちりしたから……その……言い寄られたりするんじゃないかって」


辰巳が他の女から口説かれることが不安だという雪に、辰巳は自分に魅力を感じてくれていること、それに雪が嫉妬をしてくれることに高揚した。


(雪って、こういうところあるよな……)


自分まで恥ずかしがってしまう言葉に、常ならまるで初心であるかのように反応するのだろうが、酔っているときは余裕が出てしまう。


「気配もねぇな」


「あと、もう一つだけ……

いつか辰巳さんを許せなくなったら……もしそんなことがあったらって」


この先どうなるか、未来を知ることができるわけもなく、もしもという事態を考えてしまう。

忘れてしまいたい過去に、嘆いているのだ。


「雪……繋ぎとめさせてくれ」


未来はわからずとも、今の雪の不安を拭い去ってやりたい。

雪が求めてくれるようにと願って……


「ふふっ……お酒の味がする」


「嫌か?」


「もっと味わいたい。頂戴」


夫婦円満の秘訣は、それぞれだ。






「めっ、それはおとっつぁんが借りたものよ」


部屋の隅に置いてあった、辰巳が貸本屋から借りた書物を静介が手にしているのを見て、雪は取り上げた。


小さい子どもは何をしでかすかわからない。

赤子の頃のように手にしたものを口に含んでしまうようなことはしないだろうが、書物をびりびりに破いてしまうことを平気でやってのけてしまうのだ。

悪意がないから推し量れないところである。


「おっかちゃ、読んで」


しかし静介は辰巳が読書をしている姿を見て、それが読むものであると認識していたらしい。

そういえば、静介は読書中の辰巳の膝の上によく乗って大人しくしていることがあると、雪は思い出す。


「叱ってごめんね。静介はちゃんと書物のことをわかっていたのね」


静介がにっこり可愛い笑みを浮かべるも、雪の表情は少し暗かった。


「おっかさんは……」


字が読めない、と言おうとしたところで、ちょうど辰巳が帰宅した。


「おとっちゃ!」


静介の興味が本から辰巳に移ったことに、雪は安堵あんどする。

帰ってきた辰巳に抱っこをねだる静介の姿は、日常となっていた。


「静介はおとっつぁんのことが大好きね」


辰巳の顔も、心なしか柔らかい。


その日の夜半よわ、雪は夜なべで内職の巾着作りをしていた。

三日後には尾花おばな屋に納品しなければならないため、家事や静介の世話でできなかった分を巻き返していたところである。


切りのいいところまで仕上がったので終わりにしようと裁縫道具を片付けていると、辰巳の貸本が視界に入った。


字が読めることが、羨ましいのだと思う。

手習所を入門してすぐに辞めた雪は、もっと勉強したかったという未練がまだあることに気づいた。


見たところで読めないというのに、雪は書物を手に取りたくなった。

そっと、手を伸ばすと……


「雪」


「ひゃっ」


呼びかけられた声に驚いて、雪はびくりと身体を震わせた。


「ごめんなさい、勝手に……」


「いや、構わねぇけどよ」


辰巳は雪が字を読めないことを知っていた。

だが、その雪が書物を手にしようとしたところを見て、辰巳は今までの予想が確信に変わった。


好奇心に満ちた雪の瞳はきっと、書物を、字を読みたいのだ。


「あの……少しだけ、読んでくれませんか?」


昔の雪なら本音を打ち明けずに寝入っていたのだろうが、雪はこうして辰巳に甘えることを覚えた。


雪のお願いを、辰巳が断るわけがない。


雪は辰巳に後ろから抱きすくめられる形で、書物と対峙たいじした。


こうして夜半の朗読が始まったのだが、雪は辰巳の言っていることのすべてを理解はできなかった。

手習所に行って学を身につけていれば理解できるだろうに、急に辰巳との距離を感じて内心落ち込んでしまう。


「……おっかちゃ」


隣に雪が寝ていないことに不安を覚えて起きてしまった静介は、眠たい目をこすりながら雪の元にやってくる。


雪が優しい言葉をかけながら静介を寝床に戻す様子を見ていた辰巳は、雪の肩越しに見てくる静介がふくれっ面をしていることに、夕方はあんなにじゃれてきたのにと息子の敵意に戸惑った。


いや、よく考えてみればわかることだ。


雪をとるなと、静介は言っている。


母のことが大好きで甘えん坊な静介に、ほんのわずかに嫉妬したことは、雪には内緒だ。

静介を寝かしつけた雪もそのまま寝てしまい、夫婦の時間はあっという間に終わった。



翌日、雪は道場から帰ってきた辰巳に告げられた。


「雪に、手伝いに行ってほしいところがあるんだ」

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