春の到来にはまだ及ばない。

肌寒いのは相変わらずで、水仕事が辛い日々は続いている。


雪は静介の手を引いて、とある神社に訪れていた。

辰巳がいなかったときに、和泉に幾度となく悩み事などを聞いてもらっていた思い入れのある場所である。


和泉に会えないかと来てみるも、残念ながら彼はいないようだ。


というのも、出合茶屋であいぢゃやから出てくる辰巳との姿を目撃し、泣き崩れてしまった雪を和泉が自身の家に迎え入れた一件以来、雪と和泉は顔を合わせていなかった。


気まずいままで終わりたくはなく、ましてや原因が自分にあるので謝りたかったのだが、和泉の家や、弥勒みろく屋を訪れても会えないでいた。


境内けいだいには梅の木が植えられていて、わびしかったはずの神社が華やかだった。


「おっかちゃ、おまいりするの?」


「そうよ。静介も一緒に、神様にお願いしようね」


雪の所作にならって、静介も手を叩いて目を閉じる。

親子二人、名前も知らない神社に祈った。


(辰巳さんと和泉さんが、仲直りできますように……)


せめて二人が以前のように戻れたらと、雪は願う。


ふと、隣に誰かの気配を感じた。

祈りに集中していた所為せいか、足音さえ聞こえず、本当は誰もいないのではないかと自身を疑った。


「久しぶり」


確かに聞こえたその懐かしい声と共に、雪は隣を見やる。

会いたかった人がいた。


「いじゅみだ!」






「和泉さん、ごめんなさい」


「お雪ちゃんは悪いことしてないんだから謝らないでよ。

俺さ、しばらく一人になりたくて、家を空けてたんだ。でもよかった。辰巳と上手くいったみたいで」


和泉は雪の姿を見て、そう確信していた。

あんなに泣いて壊れていた雪は、もういない。


やつれた雪を放っておいたのも、こうなることを予見していたからだ。


「辰巳に、俺とのこと誤解されなかった?」


「ちゃんと話してわかってもらえました。辰巳さんのことも、全部誤解だったんです。

それに、もし和泉さんと関係を持ったとしても怒らなかったって、辰巳さんは言ってました」


(どうかな……)


嫉妬深い辰巳が怒らないわけがないと、和泉は心の中で苦笑する。


「あの……辰巳さんが会って話したいそうです」


「俺、けっこうあいつに怒ってるしな……」


雪がどうこうしたところで、あとは二人の問題なのだがら意味はない。

それでも何かせずにはいられなくて、辰巳の意思だけでも伝えたのであった。


「私は、和泉さんの優しさに救われました。

とても身勝手ですけど、辰巳さんが帰ってこなかったら、私はきっと、和泉さんに身を委ねていたと思います」


「本当……!それなら俺の戀は報われたかもしれない」


雪に向けた和泉の笑顔には、哀しみは微塵もなかった。


「辰巳さんには内緒で……」


「ああ。墓場まで持ってくよ」






雪と辰巳、そして静介は新しい生活を迎えていた。


辰巳が再び戻ってきたことが一番の変化ではあるが、辰巳の新しい仕事が決まり、他所へと引っ越していたのである。


雪が辰巳の帰りを待ち続けていた長屋は、住人たちの人柄も良く、住み心地はよかったと言える。

しかし、辰巳が雪ではない女性と逢瀬を重ねていたところを住人に目撃されたこともあって、それが噂の種となり、あることないことをささやかれるようになってしまった。


悪意をもって接してくる住人はいなかったものの、雪は耐えられず、何より静介を育てていく上では悪影響だとして、一行は辰巳が新しい仕事に就いたのを機に引っ越したのだった。


今までは口入屋から用心棒の仕事を紹介してもらい、その時々で不定期に仕事をしていた辰巳は、新しく創設された道場の師範代という役を得ていた。

道場は馬喰ばくろ町にあって、神田よりも西に位置する。

新しい住処すみかも神田の西方にある長屋に越したので、道場から近い場所にあった。


師範代は、門下生を教える立場であり、師範の下を意味する。

道場の師範代といえば、長年道場で流派を学び、認められた者のみがなれる役だ。

腕が立てばすぐに師範代になれる例もあるのかもしれないが、いきなりの抜擢は前例がないだろうし、そもそも辰巳は何かの流派を極めているわけでもない。


異例中の異例であるが、辰巳いわく「流派もないような道場で、師範も適当な人だから問題ない」とのことである。


兎に角、無事に師範代となった辰巳は、いかにも浪人風であった総髪を改め髷を結い、身形みなりも整えていた。

こうして新しい日常が始まった。






「馬鹿亭主!!二度と帰ってくるな!」


「ふざけんな!中に入れろ!」


雪はその怒鳴り声で目が覚めた。隣で寝ていたはずの辰巳も起きている。


「まただ……」


二人の怒鳴り声は、雪たちが住んでいる長屋の向かいに住んでいる夫婦のものである。


夜半の夫婦喧嘩は長屋中に響き渡り、それは一度や二度のことではなく、今では名物と化していた。


「静介が起きたら……」


と、辰巳はそこまで言いかけて、起きる気配もない静介を見やる。


「ぐっすり寝てます」


「将来は大物になるかもな」


夫婦の怒鳴り声は止んでいた。

喧嘩が始まり、旦那が家を追い出されて、また二三日が経った頃に旦那が帰って来て収まるというのがいつもの落ちである。


『あの夫婦の喧嘩は今に始まったことじゃないけど、最近はやたら多いわね』という長屋の住人が言っていた言葉を、雪はふと思い出した。



朝餉あさげを食べ、辰巳を見送った雪は諸々の家事を終えて裁縫に勤しんでいると、家を訪ねる者がいた。


「お雪さん、いる?」


雪は裁縫をしていた手を止めて、戸口を開ける。

戸口の前には不満顔の女がいた。


「おすがさん、太郎たろうちゃんもいらっしゃい」


お清は向かい長屋に住む女房で、雪と同年にあたる。また、お清の子どもである太郎も静介と同年であった。


女房としての立場も同じながら、二人は早々に打ち解けて、気軽にお茶を飲む仲になっていた。

子どもたち同士も仲が良く、静介に友達ができたことを雪はよろこんでいる。


静介と太郎は外に走り出した。


「おっかさんたちの見えるところで遊びなさいよー」


元気の良い子ども二人の返事に、お清の表情はやわらいだ。


「ごめん、内職の途中だった?」


「いえ、辰巳さん……主人の羽織を作っていたので」


雪は用意したお茶をお清に差し出した。

お清がよく家を訪ねるようになってから用意している煎餅せんべいも忘れてはいない。


「今度こそ怒らないって決めたのに……しかも太郎はもう慣れちゃったみたい」


お清は、昨晩の件を悔いていた。

長屋名物の夫婦喧嘩の張本人はお清と夫である弥七やしちだった。


喧嘩をした翌日、お清は雪を訪ねて悩みを相談するのが常である。


「昨日はどうして喧嘩になったんですか?」


「あいつ、また博打ばくちをやったのよ。しかも大損して帰ってきて、こっちはかつかつだっていうのに。

まあそれが発端で、あとは……」


夫婦になる前は弥七の博打癖も大目に見ていたお清だったが、太郎が生まれてからはさすがに控えるだろうと踏んだものの、弥七に改善の色は見られなかった。


父としての自覚が足りないとたしなめ、しかし喧嘩へと発展するのは別の理由である。


「怒るとさ、昔のことを言いたくなっちゃうのよね」


太郎を身籠っているとき、お清は弥七に浮気をされたのだという。

それを愚痴愚痴と掘り返せば、弥七も昔のことだと憤慨して大喧嘩になっていた。


本意ではない浮気とはいえ、それは雪も辰巳もお互いに経験していることである。

もしもお清のように、一度は許せても、後から怒りをぶつけてしまうような日がいつか来てしまうのだろうかと、雪は内心危惧きぐした。


「ねぇ。お雪さんのところは何で上手くいってるの?秘訣は?」


夫をいまだに名前で呼び、仲睦まじい姿は幾度と見ても、喧嘩をしている姿は一度として見たことがない。

喧嘩ばかりしているお清には不思議でならなかった。


「辰巳さんも博打はやっているんですけど、約束をしているんです。

博打は自分のお金でやることと、身を崩すほどのめり込まないって」


「へぇ。あの人もするんだ。意外」


「あと、私たちも上手くいかないときがあって、別れる寸前までいったことが……」


「え、うそ!」


お清は思わず、かじりかけの煎餅を持ったまま、前のめりで雪に聞いた。


「そのときはどうやって解決したの?」


「お互いの問題を洗いざらいすべて話して、きちんと向き合いました。

私も辰巳さんも、一人で抱え込んでしまったから、駄目になった……私たちが上手くいかなくなった理由もわかって、これからは改善しようってなったんです」






「あの、すいやせん」


道場からの帰り道、辰巳は男に呼び止められていた。


「この前はお見苦しいところを聞かせちまって……」


辰巳に声をかけたのは、目下お清と別居中である弥七だった。

大工を営む弥七も帰り道であったらしい。ただし長屋の方向とは違うが……


「うちの子はぐっすり寝てたから問題はねぇけどよ」


もしも静介が起きてしまっていたら文句の一つも言っていると脅されているようで、弥七は帯刀する師範代に委縮した。


「はぁ、面目ねぇ限りで」


「今は何処どこにいるんだ?」


「独り身の仕事仲間んところに泊まらせてもらってやす。

ところで、明日飲みに行きやせんか?」


妻同士は仲が良いが、辰巳と弥七の親交はないに等しかった。

お互い日中は仕事で家を空けていて、たまに仕事帰りに顔を合わせて挨拶を交わす程度だ。


なのに急に弥七に誘われて、嫌ではなかったが、辰巳はすぐに返事ができないでいる。


「その、相談したいことがあるんでさぁ」


「……わかった」


しばらく友と酒を酌み交わしていない辰巳はその寂しさからか、弥七の申し出を受け入れた。






つい先日のことである。


雪は紫乃からあることを告げられていた。


「この前、雪に付いていた客が話したいそうよ」


「伊吹さんが?」


はじめの頃は伊吹と良好な関係を築けていたのだが、伊吹に辰巳との関係を誤解され、それからは嫌われていたはずだった。

むしろ会いたくもなかっただろうに、雪は戸惑ってしまう。


「雪にどうしても謝りたいことがあるって言ってたわ。

無理強いをするつもりはないから、来るか来ないかは雪に任せるって」


辰巳の気を引くために雪が鈴鹿すずかで働いていた日、雪は伊吹と再会した。

しかし二人は何も話せぬまま終わり、伊吹は店を後にする前に紫乃に言伝を頼んでいたのだ。


伊吹が指定したのは、以前一緒に行ったことある湯島天満宮近くの甘味屋だった。


「来てくれたんだ」


雪が伊吹を最後に見たのはおよそ四年前。

その歳月を思わせるほどに伊吹の姿は変わっていたが、向けられる笑顔は昔のままである。


「あ、その子……」


「辰巳さんとの子です。静介っていうの」


静介は恥ずかしがって雪の後ろに隠れていた。

しかし伊吹が優しく声をかければ、静介は小さい声で「こんにちゃ」と言った。

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