第五幕 草の縁

 鈴鹿すずかの帳場で、主人が一つ溜息を吐いた。


 昼の刻限に懇意にしている同心が訪れ、近頃取り締まりが厳しくなっているので、しばらくは二階を使わない方がよいと、親切に忠告を受けていたのだ。


 表向きは飲み屋ということになっているが、鈴鹿で働いている女たちは客を取っている。

 二階はそのためにあった。


 岡場所しかり、幕府非公認で色を売る店は、常々取り締まりの対象となっていて、鈴鹿は今回のように同心からの耳打ちがあればただの飲み屋になり、ほとぼりが冷めたころに通常の営業に戻る。


 客を取ればその分、給金も多くなるので、女たちの不平不満は尽きそうにない。


(明日から二階は閉鎖ね……)


 我慢を強いられるのはいつものことだが、嫌気がさすというものだ。


 紫乃が鈴鹿の主人となったのは、十年前のことである。

 妾奉公を生業なりわいとしていた紫乃が、鈴鹿の先代主人に才を見込まれ、店ごと譲り受けた経緯いきさつがあった。


 親友である雪は、紫乃のことを少し歳上くらいだと思っているが、実は雪の旦那くらいには歳を取っているということは、極秘事項である。


 店の商いにも慣れたころ、紫乃は今の旦那と出会い、生涯の伴侶を得た。

 そして李々が生まれ、昼は紫乃が、夜は旦那が子どもの面倒を見ている。


 母恋しさに夜になれば泣いていた李々も、今ではもう平気だった。

 手習所にも通い始めたので、紫乃の手はほとんどかからなくなっていた。


 妾奉公をしていた過去と、女たちが色を売る店の主人をしていることに、旦那は何の偏見も持たずに我儘わがままを聞いてくれるので、紫乃は感謝している。

 李々もまだ子どもとはいえ、母の仕事については少し感づいているだろうに、文句を言われたことはない。親友の雪も、旦那と同じ反応だった。


 家族にも、友にも恵まれて、思えば満ち足りた人生だ。


「紫乃姐さん、あの人が……」


 意識を現実に戻せば、夜の喧騒が響いている。

 鈴鹿で働く女が困ったように紫乃に尋ねてきた。


 すぐに正面から、険しい顔をした男が近づいてくる。


「やっと来たわね」


「どういうつもりだ」


 辰巳が家に帰ると、雪と静介の姿はなく、代わりに書置きが残されていて、「雪は鈴鹿にいる」とだけが書かれていた。

 書置きにあった鈴鹿を訪ねてみると、静介は紫乃の旦那に預けていて、雪は鈴鹿で働いていると紫乃に告げられ、今に至る。


「雪の意思で働いているのよ」


 鈴鹿は客を取る店。つまり、雪が働いているということは……

 同意がなければ客とは寝ない店だと紫乃は言っているが、そうでなくとも、他の男と一緒にいられるだけで虫唾むしずが走るというものだ。


 辰巳が雪を連れ戻そうとすれば、紫乃は雪の元に行かせまいと有無を言わせず、その場に留まらせる。


「散々雪にひどいことをしたくせに、勝手な男ね。私だって恨み辛みがたっぷりとあるんだから」


 このままではその恨み辛みとやらを永遠に聞かされてしまいそうだが、紫乃の言うことはごもっともだった。

 雪がありのままのすべてを紫乃に言っているかはわからない。けれど、雪の親友として、雪にした仕打ちを許せないのは当たり前であろう。


 紫乃の悪態は続く……



 鈴鹿の客である男は一人、女が来るのを待っていた。

 ふと視線を上げると、他の客が女を連れて二階に上がっていくのが見えて、男は溜息を吐いた。


(客を取る店なのに……岡場所に行った方がよかった……)


 男は寝ることが目的で、別嬪べっぴんぞろいと評判の鈴鹿に来てみれば、鈴鹿の主人から「初めてここで働く子をつけるから、指一本触れないでね」というお達しを受けていた。


 他の客は寝ることができるのに、どうして自分だけができないのか。

 浮かれている客を見れば文句を言いたかったのだが、主人の圧に負け、大人しく店にいた。


 今宵は酒だけを楽しむことになりそうだと気持ちを切り替えたとき、女がお出ましになった。


「いらっしゃいまし」


 慣れない所作で、女は三つ指をつく。


(やけに丁寧な……娼妓しょうぎ特有の色気はないけど、かわい……)


 ゆっくりと顔を上げた女を見て、男の全身に衝撃が走った。


「お雪ちゃん……!」


 女もすぐに男に気づき、顔を強張らせた。


「……伊吹さん」



「そういえばあんた、おまちさんに起請文きしょうもんを書かせられたっていうじゃない」


 普段通りの気怠けだるさで接する紫乃の、その内実にある怒りは相当なものだった。

 本当は殴ってやりたいと言う紫乃は、殴る代わりに恨み言を辰巳にぶつけている。


 辰巳とやり直すことになったと雪から報告されたときに、紫乃は反対をしたが、おまちに比べれば優しい方だ。


 再び夫婦としてやり直すことを決めた後、辰巳は雪の母代わりであるおまちの元におもむいていた。もちろん頭を下げるためにである。

 だが、三年もの間いなくなっていたことを、そう簡単に許してもらえるはずもなく、挙句の果てには、おまちから平手打ちを食らっていた。


「どうせまた、雪と静介を捨てるんだろ。口ばっかりなお前さんを信じられやしないよ」


 どんな言葉も、おまちの前では信用に値しない戯言ざれごとだった。

 それでも辰巳は頭を下げ続けて、誠意を見せるしかなかった。


 雪とやり直すと決めたときに、苦難があることを承知で覚悟していたのだ。


 雪の取り成しもあって、やっとのことでおまちを説得できたのだが、口約束では足りないおまちは、雪を絶対に捨てないという起請文を辰巳に書かせたのである。



「雪は私といた方が幸せだと思うのよね」


 冗談か本気か、まるで雪に懸想をしているかのような紫乃の言い方に、辰巳は少しだけ胸がざわめいた。


「今日はこのくらいにしといてあげる。二階、使ってもいいわよ」


「……おう」


 解放されただけではなく、気前のいいことも言ってくれて、先ほどの胸の騒めきは何処どこへやら。

 辰巳はそもそもの目的である雪を探そうと、腰を上げた。


「ねぇ」


 最後に紫乃は、辰巳に問いかける。


「ここで働いているたちは訳ありが多いの。皆が皆、好きで身体を売っているわけじゃない。それでもあんたは軽蔑する?」


「するわけねぇだろ」


 考えるまでもなく言い切った辰巳に、紫乃はあでやかに微笑んだ。



「…………」


「…………」


 雪は偶然にも、以前同じ長屋に住んでいた伊吹と再会した。

 が、二人は無言のまま、再会を喜び合う気配すらない。

 二人が最後に会ったときの別れが暗い影を落としていたのだから、さもありなんだ。


──お雪ちゃんが、そんなに汚い子だとは思わなかったよ……


 雪の脳内では、どうしても伊吹に言われた言葉が木霊こだまする。


 伊吹は一気に酒をあおり、雪が酒を注ぐ。

 何度か繰り返したところで、徳利とっくりが空になった。


「他の人に代わってもらいます」


「待って……!」


 これ幸いに席を立った雪のそでを、伊吹がつかんだ。


「俺は、ずっとお雪ちゃんに……」

「雪」


 伊吹がすべてを言う前にさえぎった声の主──辰巳は、雪が伊吹に掴まれていない反対側の腕をにぎった。


「来い」


 引っ張られるままに、伊吹の手は自然に離れた。

 辰巳は後ろを振り返ることなく、雪を二階の空き室へと連れ去ってゆく。

 部屋の中にはすでに床が敷かれていて、隣の部屋から漏れ聞こえてくる嬌声きょうせいを気にしてしまうよりも前に、雪をあっという間に押し倒してみせる。

 雪の腕を掴んでいた手を離し、乱暴にえり元を広げて、雪の肌を明らかにした。


「…………!」


 雪は襲い来る辰巳の行為に恥じ入りながらも、すぐに目を閉じて受け入れる。


 首筋をう柔らかい感触の後、辰巳はそのまま顔をうずめて、ぴたりと動きを止めた。


「……辰巳さん?」


「悪りぃ」


 辰巳は起き上がって、雪の襟元を直してしまう。物足りなさに落胆しつつ、雪も起き上がった。


「何でこんな真似……いや、怒ってるわけじゃねぇんだ」


「私が紫乃さんの力を借りて少しだけでもきれいになれたら、辰巳さんが抱いてくれると思ったから……」


 辰巳と三年ぶりに再会し、夫婦としてやり直すことができた今となっても、辰巳は求めようとはしなかった。


 もう、自分を求めてくれないのだろうか……

 そばにいるのに、とてつもなくさみしくなって、雪は紫乃に相談したのである。


『あの人やきもち焼きだから、雪が鈴鹿で働けばすぐに抱いてくれるわよ』


 紫乃にそう提案され、雪は着飾ったのだが、結果は望むようにはならなかった。


「お前が哀しむと思って、触れられなかった」


 雪は好きで他人に身体を許したわけではない。

 それでも軽蔑するのかと、紫乃は問いかけていたのだ。


 かつて止まらぬ愛撫あいぶを繰り返していたはずの辰巳の手は、逡巡しゅんじゅんするように雪の頬に触れる。雪がよろこぶ愛し方も覚えているのに躊躇ためらってしまう。

 裏切ったみにくい身体を、雪は許してくれているのに。


 過去の裏切りをほじくるような言葉は、いらなかった。


「貴方が、欲しい……」


 雪はそっと、唇を重ねた。

 触れてくるだけのそれに、雪から求めさせるほど躊躇ためらっていたはずの辰巳は我慢できなかった。


 意識を摩耗まもうさせるほど深く、繋がりたい。

 たがが外れた二人が事後に覚えていたのは、その想いだけだった。

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