物心ついたときから、兄のことが好きだった。

一緒にいられればいいと、はじめはそんな純粋な想いだけを抱いていた。


だけど、歳を取るにつれて、兄と一生共にいることは叶わないと嫌でも理解した。


何度兄に対する気持ちをあきらめようと試みても、むしろ想いが増す一方で、いつしか歪んだ形で愛を求めるようになってしまった。


誰か、兄の代わりとなり得る人はいないだろうか……


たくさんの男に身体を許して、目を閉じては兄を想像する。


中でも一番兄に近いと感じたのが辰巳だった。

しかし、辰巳は辰巳であって、藤次郎ではない。


辰巳が藤次郎を裏切った瞬間に、辰巳のことは大好きな兄の敵と見なすようになってしまった。


藤次郎がさとの夫を見つけてきたのは、さとが辰巳と別れてすぐのことだった。


さとの好意も、辰巳が代わりに過ぎなかったことも、藤次郎は知っていたのだ。

兄に自身の気持ちを知られているとわかってからは、兄の言いつけ通りに大人しく祝言を挙げて、粛々しゅくしゅくと妻というものをこなした。


夫のことを兄の代わりとは思わず愛するように努力して、人柄も良かったからか、兄に対する想いを奥底に封印することができるようになった。


だが、順調で満たされていた日々が壊れ始めたのは、祝言を挙げてたった二年の歳月を迎えたときである。


「何回も子種を注いでやってるっていうのに、どうして子どもができないんだ!」


「子どもがいなくでもいいじゃない。私は、貴方がいれば……」


荒々しく怒鳴るだけだった夫も、次第に手を上げるようになった。


子どもができないだけで殴られ蹴られることが、さとには理解できない。


今まで数々の男と交合まぐあってきたけれど、一度として子どもを身籠ったことがなかったら、きっと自分は石女うまずめだとさとは思っている。


欲しいか欲しくないかで問われれば、子どもは欲しかった。

けれど、石女だから仕方ないと冷静に感じていたことと、子どもがいなくても夫がいればいいという考えで、嘆いたことさえない。


納得がいかないのは夫の方だった。


そんなに子どもが欲しいのなら養子をもらおうと言えば、更に強い殴打が飛んでくる。

夫が望んでいるのはさとの子ども、否、自身の血の繋がった子どもだ。


いつかきっと、子どものことは諦めてくれる。

子どもができないことも理解してくれる。


だって、暴力を振るわれるような悪いことはしていないと、さとは精神をも傷つけられてゆく中で祈っていた。


「…………さと」


久しぶりにさとに会った藤次郎は、さとの姿を見て自身の決断ーー選んだ男が間違っていたことを一瞬でさとった。


褒められない、言わば汚れた仕事をしている自分が、やっと幸せをつかんださとの元を訪れてはと遠慮して、藤次郎はなかなか足を運べずにいた。


それが、しばらくぶりに会ったさとは、顔は腫れ、一目で憔悴しょうすいしているとわかるほどに傷ついている。


藤次郎はさとを連れ去り、強引にと夫を引き離して離縁させた。

さとも文句を言わなかった。


封印した想いは解けて、さとはまた振り出しに戻られた。


人としての道徳観が、禁忌には踏み込めないと言っている。

ならば代わりを見つけないと……


「兄さま。私、辰巳と一緒にいたい」


「……わかった。見つけてやるよ」


藤次郎は有言実行、辰巳の所在を明らかにしたが、辰巳は所帯を持っていて、妻は子どもを身籠っているという予想だにしない事実があった。


「ちっ……似合わない暮らしをしてやがる。さと、あいつは諦め……」


「辰巳がいい。辰巳じゃなきゃだめなの。

あの女を殺すって脅せばいいじゃない。本気で惚れてるっていうなら、辰巳は言いなりになるはず。

信濃しなのに帰ったら、また兄さまたちと同じ仕事をさせるのよ。そうすれば、辰巳は江戸に戻れなくなるわ」


他人は藤次郎を冷酷だとそしるが、このとき自然にまくし立てた言葉に、さとは自分の方が冷酷な人間だと感じた。


辰巳に再び人殺しをさせて、罪の意識から妻子の元に帰れなくする。

そんなことを言える女は滅多にいない。


結果は、さとの思惑通りとなった。


「あの人の代わりでいい。一緒にいて……」


かつてさとがそうしていたように、辰巳はさとに雪を重ねて抱く。

いびつな関係は、江戸より離れた信濃の地で始まった。






辰巳が信濃しなのに帰還して、三年の月日が経とうとしていた。


再び藤次郎の下で剣客けんかく商売を始めた辰巳に反抗心はなく、むしろ取りかれたように仕事をこなしている。

辰巳の瞳からは情が失せ、氷のように冷たい。どことなく風体もやさぐれてしまった。


そんな辰巳にも、憧憬どうけいとも呼べるような感傷に浸っていることがたまにある。

そのときは決まって、江戸の方角を見つめていたのだ。


さとは秘かに、顔をしかめていた。


欲しい人を手に入れたのに、さとの心は満たされていなかった。


辰巳の心には、江戸に置いてきた妻子の姿が残っている。

辰巳は忘れようと努めているらしいが、いつまで経っても忘れてくれない。


江戸の方角を見ているときも、さとに雪を重ねているのも、辰巳が無意識に行っていることだった。


あとどれだけ我慢すれば、辰巳は江戸に残してきたすべてを忘れてくれるのだろうか……

もしかしたら……と、さとが危惧きぐしていたときに事件は起こった。


「大変だ……!」


ある日、同じ剣客仲間の一人が辰巳の住処すみかに飛び込んできた。

顔は切羽詰まっていて、仲間の様相は事の重大さを物語っている。


「藤次郎が、やられた……」


藤次郎負傷の知らせは、寝耳に水だった。

今までどんな強敵だろうとあの手この手で掻い潜り、何より腕っぷしが強かった藤次郎に限って、意外だと言う他はない。


追い詰めた相手も気になったが、兎にも角にも、容態を確認するために辰巳は急いで藤次郎を訪ねた。


「……たつ……」


「動くな。大人しく休んどけ」


命に別状はなかったものの、藤次郎が負った傷は深い。

全身を数ヶ所斬られていて、出血が多い所為せいか気力がなかった。

意識があるだけでも頑丈な身体であることを示している。


普段はおとしめることはあっても、貶めらた姿を見たことがないだけに、今の姿は哀れに思えた。


「ざまあねぇな……」


しわがれた声は、ひどく弱々しい。


藤次郎を襲った敵は、最近信濃で幅を利かせている別の剣客集団だという。

いずれは対立するだろうと辰巳が暢気のんきに構えていた一方では、すでに起こるべき事態は過ぎていた。


藤次郎だけでなく、他の仲間も深手を負っているか、あるいはこと切れてしまったかだった。

敵討ちとは名はいいが、みすみす黙っているわけにはいかないと立ち上がりかけた辰巳を、藤次郎が制する。


「お前は江戸に帰れ」


辰巳はその言葉に一瞬目を見開き、黙ったまま藤次郎の言葉を待った。


「相当仲間がやられた。残ってる連中は解散させる」


そのとき辰巳は、藤次郎の来し方をさとったような気がした。


自らが頭に上り詰めた集団をいとも簡単に解散させる決断をした藤次郎に、未練は感じられない。

藤次郎も自分と同じで、流れるままに剣客をしていただけなのかもしれないと、内なる片鱗を見つけてしまった心地になる。


「今さら帰ったところで、もう無理だ」


会いたいという気持ちは最後まで消えてくれなかった。

けれど、残酷なほどに月日は流れ、取り戻せないものがある。


「女房と子どもの顔を拝むくらいなら許されるだろ」


身体の痛みに耐えかねた藤次郎は、顔を歪ませる。

言葉をつむぐのもやっとだろうに、辰巳が止めても、藤次郎は先を続けた。


「……さとのことは俺が何とかする。…………すまなかった」






江戸に戻ることを決めたとき、雪と静介に会うつもりはなかった。

いや、合わす顔がなかった。


再び江戸の地を踏むことができるのならば、せめて一目だけでも、二人の姿を拝みたい。


しかし江戸に近づくにつれて、会いたい気持ちは増すばかりで、気づけば二人と住んでいた家の前まで来ていた。


そもそもすでに二人は引っ越してしまった可能性もあったが、戸の向こう側から聞こえてくる子どもの声は、おそらく、きっと静介のものだと思った。


雪はずっと、待っていてくれた。

だけど、空白の三年はどうやっても埋まらない。

許してくれた雪は、なじることもなく怒っている。


信濃では人を殺めていた。雪以外の女と生活していた。

それを言えば、雪に嫌われることは必定で、再び夫婦でいられなくなってしまうと、雪に姿を消していた理由を打ち明けることができなかった。


理由を言わない夫に納得しない雪を無理矢理に我慢させて、もう一度やり直そうという都合のいい考えは、やはりまかり通らないというものだ。


さとが、自分を追って江戸に来た。


しかも重症の藤次郎を置いて、さとが一人で訪れようなどと想像すらできなかった。


何としてでも代わりとなり得る自分が欲しいという執念なのだろうか。

さとは、雪が他の男と身体を重ねたという恐れていた事実を口にする。


「お願い、抱いて」


「できるわけねぇだろ」


再び関係を要求するさとは、ただ考えなしに言っているわけではなかった。


「辰巳が人殺しをしてたことも私を抱いたことも、あの人に全部言ってもいいの?」


絶対に服従するしかない選択肢を強いる様は、まるで藤次郎に脅されているかのような心地だ。


「寂しいだけなら、俺じゃなくて……」


「私は、辰巳じゃなきゃ満足できない。あの人と別れなくてもいいから、お願い」


再び雪を裏切ったのは、雪と離れたくなかったからだった。

決して雪が他の男と肌を重ねたからだとか、和泉との関係を疑ったからだという嫉妬ではない。


元より雪を責めることのできないこの身は、さらに罪を増大させていた。


出会った頃の関係よりも儚くて、ほころびが生じるのは必定だったのだろう。


今、二人の関係は終焉を迎えている。

辰巳はすべてを語り終えた。


語り終えた辰巳は、どこかき物が落ちたような表情をしている。

彼をむしばんでいた罪悪感が、正直に打ち明けたことで少しだけ薄らいだようだ。


辰巳に三行半みくだりはんを突き付けられて思わず泣いてしまった雪は、辰巳の話を聞いているときにはすでに泣き止んでいたのだが、再び一筋、二筋と涙をしたたらせた。


声は上げずに、しかし自然に沸き上がる涙までは制御できない。


辰巳が慰めの言葉をかけることを躊躇ためらっている間に、雪は目をこすって涙を抑えた。


「辰巳さんはずっと、私たちを守ってくれていたんですね」


壮絶な過去、そして今までずっと不明確だった辰巳の出奔しゅっぽんを雪は知ることになった。


はじめに抱いた感情は、可哀そう。

でも、どうしても、辰巳が他の誰かを抱いていたことが哀しかった。

それが自分と静介を守るために行っていたとしても、である。


「……あいつを抱いたのは、俺の弱さだ」


雪は目を伏せた。


事実はじ曲げようもなく存在している。


そういう自分はどうなのだという心の声を、雪は聞いた。


静介のためだったとはいえ、裏切る行為をした雪を辰巳は責めないけれど、辰巳も傷ついているのは同じである。


もしも他の人に心を移してしまっていたのなら、簡単に別れられたのかもしれない。

想う気持ちが残っていれば、別れは受け入れ難く、雪は三行半を手にできないでいる。


いつだって、幸せはつかめなかった。

辰巳は、雪が自ら手放した幸せではなかったという誤解を解いてくれたが、訪れる終焉を前にして、やはりこうなる運命だったのだと絶望する。


(辰巳さんも、一緒……)


辰巳もまた、妙の手を握れなかったときから、幸せというものを得ることができないとさとって、他人を遠ざけていた。


そんな二人は出会い、運命にあらがうように幸せを求めた。

しかし、幸福は一瞬だった。


「俺が帰ってきたことで、さらに雪を傷つけることはわかっていたのに、でも、どうしてもお前に会いたかった」


夫の裏切りも、自身の裏切りも知られることはなく、雪がもっと幸せになっていた世界の可能性を断ち切ってしまったのは、紛れもなく自身の所為せいであると辰巳は後悔する。

すべては言い訳にしかならなかった。


「私は、辰巳さんが帰ってきてくれてうれしかった」


「雪……」


何故、出て行ってしまったのかを言わない辰巳に怒り、態度もよそよそしくしてしまった雪だが、いつか帰ってきてくれると信じて待っていた辰巳に再び会えたことは、この上なくうれしかったのだ。


想う気持ちは、今も消えてはいない。


辰巳が身をていして守ってくれたが故に、彼を苛んだ受難は、そこはかとなく暗い瘴気しょうきだ。

傷を癒す術さえ知らず、雪は辰巳にしていた行いを嘆くばかりだった。


ひどいのは私の方です。意地悪ばかりしていたから」


「意地悪……?」


以前のように話してくれなかったことだろうか。

それとも、怒っていたことだろうか。


どちらにしても意地悪どころか寛大な態度として辰巳はとらえていたし、他に思いつくこともはなかった。


「辰巳さんが帰ってきてから一度も、けんちん汁を作りませんでした」


「…………ふっ」


しばしの沈黙の後、辰巳はこらえきれずに噴き出してしまった。


雪はいたって真面目で、余計に重い空気の中でも笑わずにはいられない。


笑ったのは、実に何年ぶりだろうか。

昔みたいに和んでしまって、懐かしい気持ちにさえなる。


「真剣に話しているのに」


雪は笑われたことが気に障ったようで、めずらしくも辰巳を責めた。

だって怒り方が可愛いとは言葉にできずに、こんなときに垣間見えた雪の一面が、身体を弛緩しかんした。


「そういや、食べてなかったな。明日にでも……」


言ってしまった後で、辰巳は慌てて口をつぐんだ。


明日にでも作ってくれ。

辰巳が言いたかったことは、未練以外の何物でもない。


折角やわらいだ雪との会話も、醜態をさらしては台無である。


「わかりました。明日は絶対に作ります」


雪の顔は真面目なままで、勇気を振りしぼった覚悟がにじんでいた。


雪は、消えなかった想いを通したかった。

無残に振られても、困惑されようと、今ここで想いを言わなければ一生をかけて悔やんでしまう。


情けない姿となり果てようと、最後まであきらめられない想いがある。


「私は今でも辰巳さんのことを愛しています。いついつまでも、辰巳さんと、静介と一緒がいい。

すぐには前のようには戻れないかもしれないけれど、何年かかってもいいから、辰巳さんの側にいたい」


「俺は……」


すでに雪と静介の側にいられるような人間ではない。

戻らないものもあるに違いない。


(また、雪を傷つけたら……)


すべてを知った上で、雪は許すという意志を示してくれた。

それは、辰巳の望みそのものである。


会いたいと、側にいたいと願ったからこそ、罪にまみれた身体で帰ってきた。


だが、災厄の存在たる自分が側にいて、雪を不幸にすることを恐れてしまった。


ーーもしもあのとき、妙の手を握れていたら……


妙が苦しまずに笑顔を向けてくれる、そんな世界を思い描いた。


きっと、妙が手を伸ばしてくれたあの瞬間だけは、母としての願いが込められていた。


また昔のように微笑んでくれるならば、今でもそうあってほしいと願う。

ただ素直に、その手を握ればよかったのだ。


「もう一度、やり直してくれ」


逡巡していた辰巳の手は雪の手を取った。

辰巳はこうべを垂れて、懇願する。


愛する人の前ではかくも愚かだ。

二人の決断は、一蓮托生。


運命は、二人が出会ったときに変わっていたのかもしれない。


「離さないで……何処どこにもいかないで」


有限の生涯において儚くとも、ひとえにこいしくて、狂おしい存在を求めた。

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