江戸に来てからも、刀を捨てることはできなかった。


 武士だったころの矜持きょうじか、それとも刀を振るうことしか術を知らないからか、どちらにしても、捨てることができたものだ。


 殺しをしなくなった。けれど、誰かを傷つけなくなったわけではない。


 手にまとわり付いた血は、ぬぐっても拭っても、消えてくれなかった。


 汚れたこの手を、そっとにぎりしめる手がある。

 触れたら汚れてしまうだろうに、いとわない手は誰のもの……?



「冷たい……」


 雪はそう言って、ぎゅっと両手で包み込むように温めてくれる。


 信濃を去り、和泉と共に流れ着いたのは江戸だった。

 流れ者の多い江戸で、隠れるように雑踏の中にまぎれていたいという、二人の意見は一致していた。


 江戸での生活がすっかり馴染んだ三年後、一人の少女と出会った。


 お互いにかれ合って、紆余曲折うよきょくせつはあったものの、一緒になるのに時はかからなかった。


「雪、ありがとよ」


 孤独に父を待ち続けていた少女は、いわれのない噂に耐えながら日々を過ごし、明るさというものが欠如していた。

 だが、一緒に過ごすようになってから、雪はよく笑うようになった。


 目の前で、陽だまりのような笑顔を浮かべる雪は、単に手を温めてくれたことへのお礼だと思っているに違いない。


 過去も、何もかもを受け入れてくれたことに対する感謝は、永久とこしえに尽きることはないだろう。


「辰巳さん、お願い。私より先に死なないでくださいね」


「そりゃ、難しいな……」


 雪より十年も長く生きている自分は、順当にいけば先にこの世を去ることになる。

 死ぬ最後の瞬間までそばにいてほしいという、はかない願いだ。


 切なくて、なのに心は満たされてゆく。


 たとえ誰が雪の幸福を壊そうとしても、命を懸けて護る。

 そう、誓ったのだった。


 やがて雪が子どもを身籠った。


 まったく考えていなかったわけでもなければ、何度も愛し合っていたのだから、いつかはそういう日が来ると期待していた。


 まさか自分が泣いてしまうほどに嬉しがるとは予想もしていなかったが、子ども嫌いだったくせに我が子の誕生となると、かくもよろこんでしまう。


 男というのは単純で、身籠った雪がどんなに不安を抱えているのかを、考えてあげることができなかった。


 雪は、親の愛というものを知らずに育っている。

 そんな自分が、果たして子どもをきちんと育てられるかという不安に襲われていることくらい、少し考えればわかったはずなのに、毎日浮かれていたのだからあきれてしまう。


 意外と、いや、それとも予想していたように、母になると自覚した雪は強かった。


 腹に宿した子どもを守るのに必死で、大切に育ててあげようと、すでに母性というものが芽生えている。


 己も父親になることを自覚しなければならない。

 気づくのが遅すぎる情けない始まりだった。


 その隙を狙ったように、着々と毒牙が迫っていた……


「辰巳」


 信濃の雪を思い起こさせる、と再会したのだった。



「藤次郎はまだか」


「……兄さまは来ない」


 記憶の中のさとは幼い顔立ちなのに、久しぶりに会った彼女は大人びている。そして彼女に触れた感触を覚えているほどに、きつけられるものがあった。


 話してみれば、再会したさとはあの頃と少しも変わっていない。


 せめて時の流れを感じさせるくらいに変わっていたならば、鮮明に過去を思い出すことはなかったのかもしれないのに……


「だって兄さまが来るって言わなかったら、来てくれなかったでしょう?」


 さとが藤次郎と共に江戸に来たのは一月前のこと。


 二人の目的は、辰巳に会うことだった。


 そして居所の知れるところとなった辰巳は、藤次郎が話したいことがあるとさとに言われ、浅草の飲み屋に呼び出されていたのである。


 今さら何の用だというのが辰巳の本音だった。

 過去を捨て、剣客集団から足を洗った辰巳からすれば、特に藤次郎とは会いたくない。


 だが、もし無視をすれば、あの冷酷無慈悲な男が雪に危害を加えかねないと思い、会うことにしたのだが、藤次郎の話というのはさとの嘘であった。


 妊娠中の妻を一人にして、昔縁のあった女と二人きりになってしまったことに、罪悪感を抱かないわけがない。

 やましい気持ちも、過去の情熱がよみがえることも一切ないとはいえ、雪の顔がちらついて仕方なかった。


「辰巳が所帯を持つなんて意外ね。私も夫がいたのよ。もう別れたけど」


 お前は藤次郎のことが……という言葉を、辰巳は飲み込んだ。


 あきらめて違う人を見つけたのか、それにしても、常に複数の男と関係を持っていたさとが、まさかとは思ってしまう。


「お前の方が意外だろ」


「ふふっ、そうね」


 この日、他に何を話したのか、辰巳は覚えていない。後に話したことは、すべて取るに足らない話だったからだ。

 気まずい別れ方をした二人が上手く話すことは叶わず、早々に店を後にすることになった。



 数日後、辰巳の元に藤次郎が訪ねて来た。


信濃しなのに戻れ。お前はと一緒に暮らすんだ」


 藤次郎は前置きもなく、言い放った。


 しかも突き付けられた言葉が突拍子もなくて、辰巳の藤次郎に対する警戒がさらに増した。


「何言って……」


「まだ腕は鈍っちゃいねぇだろ。お前が戻ってくれば、他の奴らも歓迎するさ」


 もう一度、剣客集団に入り、しかもと復縁しろと迫られる。


 藤次郎ともとも喧嘩別れをしたというのに、二人の意図が読めなかった。


「俺が戻るとでも、本気で思ってるのかよ」


「雪っていったか」


 辰巳は瞬間、目を見開く。どくんと一度、心臓が跳ねた。


「地味だがいい女だ。俺の食指が動かないわけじゃねぇ」


 手は自然に、刀のつかを触っていた。素早く抜刀して、ねらうは藤次郎の身体……

 だが、甲高い音を立てて、見事に藤次郎はその斬撃を防いだ。


「二度と再起できねぇくらいに痛めつけることなんて、造作もねぇよ。たしか今は身籠ってるんだっけな。もしかしたら流れちまうかもな」


「その前に、お前を殺す……!」


 目的のためには仲間を平気で裏切るような本性を、藤次郎はき出しにしていた。

 それがはったりではないことを、辰巳は知っている。


「結局お前はそういう選択しかできねぇんだ。どんなに取りつくろったところで、あの女の傍にいられるような人間じゃねぇ」


 かつて雪が暴漢に襲われたときも、刀で斬殺することで復讐を果たした。

 護るという前提を掲げたところで、血腥ちなまぐさい手段しか選べなかった。


 藤次郎はいつも、核心を突いてくる。

 人の弱い部分を掌握することにけていた。


「これは警告だ。お前が大人しく信濃に帰れば、あの女に危害を加えるつもりはない」


 雪を殺す、というおどしは辰巳には効果的だった。

 しかしそれは、辰巳が信濃しなの行きを了承しなかったときの、最終手段に過ぎない。

 はじめから雪を殺してしまえば、辰巳は決して信濃には行かないどころか、藤次郎の命を全力で奪いにかかるのだから。

 だが、すぐに雪が殺されはしないといっても、安心はできない。


 信濃へ行かなければ雪は殺されてしまうし、常に雪が危険にさらされている状況となってしまったのだ。


 藤次郎とは、逆らえない辰巳をいいことに、何度も説得のために呼び出していた。


「何が目的だ?」


 その日はさとに呼び出されていたのだが、人気のない場所でいきなり抱き着かれた。

 雪に内緒で女と、しかも過去に情を寄せていたと会っていることも充分に後ろめたいのに、さとは幾度も誘ってくるのだ。


「貴方と一緒にいたいだけ。だから会いに来たのよ」


 辰巳を信濃に連れ戻したいのは藤次郎ではなく、さとの意思だった。

 藤次郎は妹の願いを叶えるために、わざわざ江戸まで出向いて辰巳を探したのである。


 別れ際に嫌いと言ったくせに、さとの考えが読めない。


 夫と別れ、諦めたはずの禁忌のこいに身をやつし、またが欲しくなったとでもいうのだろうか……


「俺といても、お前は幸せにはなれない」


「……そんなにあの人のことが好きなんだ」


 たとえ純粋にさとから好かれていたとしても、昔ならいざ知らず、振り向くことなどあり得ない。


 どんなに美しい仙女でさえ、雪にはかなわないのだ。



「お前の色気でも落ちないとはな……」


 辰巳に会いに行っていた妹が秘かに打ちひしがれているのを見て、藤次郎は言った。


 藤次郎としても、かつて辰巳が本気でさとを慕っていたのを知っていたので、妻をめとっていたのは誤算だったが、さとに誘惑されればいつかは落ちると踏んでいた。

 一番の誤算は、辰巳がさとよりも想うひとができてしまったことである。


 子どもまで生まれるとあっては、ますます難しい。


 そこで藤次郎は、辰巳を脅し続けて音を上げさせることにしたのだ。


「大丈夫だ。手立てはいくらだってある」



 雪と生まれてくる子どもを捨てるか、それとも想いを貫き通す代わりに失うか。


 辰巳はそのどちらかを選ばなくてはならなかった。


 雪を殺そうとしているなら、その前に藤次郎を殺してしまえばいいと、相変わらずの物騒な考えは浮かんだものの、藤次郎は一筋縄でいくような人物ではない。


 力量の差もあるのだが、臆病風に吹かれているのではなく、問題はもっと別のところにある。


 まずは気持ちの問題だった。


 これから父親になろうとしている自分が、人を殺めて物事を解決しようとすることに躊躇ためらいが生じた。

 そんなきれいごとを言っていられるほど、藤次郎が生易なまやさしい人物ではないからこそ、辰巳は何も決断できずに、神経をすり減らしていくことしかできなかったのである。


 さとが心変わりをして、二人が信濃へ帰ってくれる甘い期待を抱いては、そんなことにはならないだろうとも、どこかで諦めていた。


「どうかしました?」


 腹が大きくなった雪と往来を歩いているときに、視線を感じることは一度ではなかった。


 藤次郎か、それとも藤次郎が雇った手下でもいるのか。


 わかるのは、辰巳が想いを曲げられないように、藤次郎も考えを改めることはないということだった。

 常に危険は隣り合わせにあった。


 心配そうに振り返る雪は、常日頃の辰巳の態度に不安を覚えている。

 辰巳は決断のときを迫られていた。



 静介は、弱々しい泣き声を発して、この世に生まれ落ちた。


 はじめは抱き上げることも怖くて、少しでも間違えてしまえば消えてしまう命に、愛しいという感情は雪と共に確かに備わっていた。


 傍にいて、護ってあげなくては。

 この頼りない命を見捨てることなんて、できないと思っていた。


 夜泣きをする静介をあやすことは日課だった。

 静介は一日に何度も目を覚ましてしまうので、雪と交代であやしている。


 その日も雪が再び起きてしまわないように、ぐずり始めた静介を外の空気に触れさせていたのだが、やっと静介を寝かしつけたところで、背後から禍々まがまがしい気配が近づいてきた。


「俺は信濃しなのには戻らない。お前が雪と静介を殺そうとするなら、覚悟を決めてやる。妹のことを思うなら諦めろ」


 辰巳といることが、果たして本当にさとのためになるのかと、藤次郎は一度でも考えたことがあったのだろうか。

 無理矢理に作るものを、幸福とは呼ばない。


 どうしてそこまでして自分にこだわるのかが、辰巳は解せなかった。


「さとはお前と別れた後、俺はあいつに優しくて大事にしてくれる男を見つくろってやった。さとも心を許すほどに男に心酔していたし、他の男に気持ちをかたむけることもなかった。だが、そいつは二年が経っても子どもができなかったさとに、暴力を振るうようになったんだ。ひどい話だろ」


 わずかに辰巳かられた同情の色を、藤次郎は見逃さなかった。


「……さとから聞いてなかったのか」


 子どもができなくて離縁される妻というのは、特に血筋を重んじる武家では、客観的に言えばよくある話だ。

 それは常識として存在しているとも言える。


 つまり、責められるのは妻の方だ。


 もしも南雲家を継いでいて、決められた相手をめとったとして、その妻に子どもができなかったならば、離縁をしていたかもしれない。

 だが、たとえ雪に子どもができなかったとしても、雪を責めることはしなかっただろうと、辰巳は確信している。

 ましてや雪に暴力を振るうことなど、ありえない話だ。


 子どもができないことを嘆いたとしても、誰かを責めてよい道理までは存在しない。


「ガキは一緒に連れて行ってもいい。さとも了承している」


「勝手ばかり言うな。俺が愛しているのは雪だけ……」


 白刃のきらめきが、一瞬にして空を切った。

 藤次郎が向けた刃は、静介の額の前で止まっている。

 夜風がざわめいた。


 どちらが動いても、静介の命は簡単に潰えてしまう状況下だ。


「ほら見ろ。覚悟を決めたところで、お前は誰も守れない」


 しかも辰巳は丸腰である。

 藤次郎がただ脅すだけの人物ではないとわかっていたのに、油断をしていた。


「仮にガキとあの女を守れたとして、すべての人間を守ることは不可能だろ」


 生半なまなかな脅しも、同情を誘っても効かない。

 ならば詰めとして藤次郎が取った手段を察して、辰巳は戦慄せんりつした。


 雪と静介だけではなく、和泉やお松と卯吉など、藤次郎が定めている相手は自分と関わりのあるすべての人間だということだ。紫乃やおまちといった、雪に関係のある人間もそこには含まれているに違いない。


 全員を同時に守ることなど、どんなに腕の立つ剣客だろうと土台無理な話だ。


「あと三日、猶予ゆうよを与える。……必ず来い」


 静介を連れて行くことを許可したのは、藤次郎との譲歩である。

 雪を手放す代わりに、静介だけは傍にいることを許された。


 信濃行きを決断したとき、辰巳は自然と静介を抱えて家を出た。


 我に返ったのは、和泉に呼び止められたときだった。


 このまま静介を連れて行ったら、雪はどうなってしまうのだろうか。


 我が子を奪われた母の姿を見たことがある。

 蘇ったのは、狂気の混じった泣き叫ぶ声。

 隣には雪もいた。


(ああ、そうか……)


 辰巳が思い出していたのは、かつて雪と観た、静御前しずかごぜんを描いた芝居だった。


 静御前は生まれたばかりの我が子を取り上げられ、その子は殺される運命を辿たどった。


 静介を連れて行くことは、雪を静御前と同じ境遇へとおとしめるに等しい行為だということに気づいた。


 こうして辰巳は静介をも手放し、白銀しろがねの雪を踏み分けて、江戸を旅立ったのである。

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