「はー……またやっちまった……」


飲み屋の喧騒の中で盛大な溜息を吐いたのは、辰巳と同じ剣客集団に属している喜介きすけだった。


それは昨日のこと、辰巳は喜介と共に仕事をすることになったのだが、喜介の失態により一人を取り逃がしてしまっていた。

何とか翌日になって捕らえることができたものの、喜介の失態は今日に限ったことではない。


辰巳は落ち込む喜介を見かねて、飲みに誘っていたのだ。


「向いてないのはわかってるんだけどな……」


「どうして、剣客けんかくなんかやってるんだ」


喜介はどちらかと言えば大人しく、むしろ及び腰で仕事に挑むような人間だった。

性格でいえば、剣客に向いていないのは以前ともに仕事をした和泉もそうだが、和泉は腕が立つので問題ないといったところか。

しかし、剣客仲間でも一番弱いのではと思われる喜介は、やはり向いていないと言えよう。


「まあ、金が欲しかったんだよ。

俺、身内が妹しかいないからさ、小さい頃から苦労させてたし楽してやりたくて」


妹、という言葉を聞いて、真っ先にさとの姿が浮かんだ。


もしかしたら藤次郎も、喜介と同じ理由で剣客を始めたのではないかと、頭の隅で考える。


「今度、妹がい人と結ばれることになったんだ」


「そりゃ、めでたいな」


うれしそうにはにかむ喜介は妹が大事なようだ。

とかく兄というものは、妹に大層な思い入れができるものなのだろうか。


喜介も、藤次郎も他に身寄りもいないから、たった一人の家族のことを大事にするのは、ごく自然だとも思える。


「妹が嫁ぐ前に、まとまった金を渡したい。

その分を稼いだら俺は剣客を辞めるよ。俺が抜けたところで、とやかく言う奴もいないだろうし」


妹の話になってか、喜介の機嫌は直ったようだ。

正直に言ったところで喜介は怒らないだろうが、本人も認めているように、喜介は剣客には向いていない。


だから生きづらいことを選ぶよりも、今度はましな生き方をしてほしいと密かに辰巳は祈った。


「そういえば辰巳って、藤次郎さんに似てる気がする」


唐突に言われたことに、辰巳はどう反応していいのかがわからなかった。


藤次郎と顔は似ていないから、おそらく中身が似ているという意なのだろうが、いまいち辰巳は得心できない。

自身に冷酷さは充分にあることは承知していて、それを言われることに嫌悪したわけではないが、藤次郎とは似て非なるものだと何かが訴えていた。

ただ、他人と似ていることが嫌なのかもしれない。


「俺のことは誘ってくれなかったくせに」


聞き覚えのある声が、背後から聞こえた。

辰巳たちが振り返ると、そこには和泉が立っていた。


「ちょうどいい。和泉も一緒に飲もう」


どうやら喜介と和泉は、すでに親交を重ねている仲のようだ。

剣客集団にあって二人は異質で、当然の成り行きともいえる。


「で、何の話をしてたの?」


辰巳の隣に腰掛けた和泉は、ちゃっかり辰巳の分の酒を飲んでいる。

自分で頼めと嫌な顔をすれば、和泉は悪戯いたずらを助長する子どものような表情をした。


呆れて物が言えない辰巳を他所よそに、二人は会話を続ける。


「辰巳が藤次郎さんに似てるって話」


「え、そう?俺は似てないと思うけどな」


「冷たく装っていても、根っこの部分では優しさがあるっていうか。

ここだけの話、藤次郎さんって妹にはすごく甘いんだよ。ただの冷酷人間じゃないってね」


「へぇ、意外だ。あの人もそんなところがあるんだ」


藤次郎がさとに甘いことは、喜介にも知られていたらしい。

妹のことになると抜けているのだろうか。


「馬鹿言え。俺の何を知ってるっていうんだ。

俺は、誰かのために剣を振るうことなんてできない。……そういう生き方ができる、喜介が羨ましいよ」


一生縁のない生き方に憧れていたことに、辰巳自身が内心驚いていた。


「あの子のためでも?」


じろりと和泉を睨むも、彼は真剣な顔をしていた。

茶化していたわけではなく、しかもとの関係を知られていたようである。


気づけば、何もなかった自分の世界に、さとが立っていた。


そして、さとにかれていたことを思い知った。






行為の後の冷めた感情では、しなだれかかるさとの肌に高ぶりを見せることはなく、ただ落ち着くといった塩梅あんばいだ。


さとの身体中を埋め尽くしていた痣は一つの季節を巡ると次第に薄れ、滑らかな肌が常に誘ってくる。


腰をくねらせただけで魅了されるのに、手練れているさとの所作に骨抜きにされない男はいないだろう。


だが、自分だけのものにしたいだとか、一生を共にしたいという願いは皆無だった。

さとも、何より己がただ一人を想うような清い生き方ができないとわかっていて、その生き方を覆したいという気さえ起こらない。


求めているのは身体だけではないが、見返りを欲していないだけだ。


「貴方はかないのね」


ぼそり、とつぶやいた。


さとが自分以外とも時たまに肌を重ねていることを知っている。

しかし憤りはなく、黙認しているといったところだった。


「妬いてほしいのか?」


一緒に過ごす時が増えたものの、未だにさとの本心というものがわからない。

少なからず好いてくれているのか、それとも割り切った関係でいるのか、どうにも計りかねるのだ。


聞いてみようとも思わないのだから、さして辰巳の気にするところではなかった。


「辰巳は……兄さまに似てる」


喜介からも同じことを言われたが、やはり似ていると認めざるを得ないのだろうか。

いや、和泉は似ていないと言っていた。


頑なに否定するのは、きっと……


「そうだな……お前が藤次郎の話をするときだけは、妬いてるよ」


いつも藤次郎の話ばかりをするさとの側で、妬心を抱いているのは本当だった。






数ヵ月後、との関係は続いたまま、辰巳は日常を過ごしていた。


「お前が仲良しこよしとは似合わねぇな」


昨夜、無事に仕事を終えたことを報告するため、辰巳は藤次郎を訪ねていた。


藤次郎が指しているのはさとのことではなく、和泉と喜介のことである。


二人とは共に仕事もしているが、仕事以外で顔を合わせることが多く、会うといっても飲み屋がほとんどだが、辰巳は二人からの誘いを断りはしなかった。


誰とも慣れ合うつもりはなかったのに、素直に言えば二人といると居心地が良かったのだ。


藤次郎に言われるまでもなく、柄にもないことをしているとは自覚している。


「出るのか?」


「これから仕事だ」


と関係を持つようになって、恐れていたはずの藤次郎からの叱責はなく、それどころか、一度たりともさとの話をされたことがなかった。


だから辰巳にやはり、妹想いの兄という姿を、見たことがあるというのに藤次郎で想像できないのだ。


仕事に向かった藤次郎の顔は、いつにも増して冷ややかだった。



別れは、願いとは裏腹に突然にやってくる。


実の母とも知らずに、そして今生の別れになるとも知らずに妙の手を握れなかった、あの日のように……


「……和泉?」


めずらしく朝方に訪ねて来た和泉は、むっつりと黙ったまま、唇を引き結んでいる。

しかも和泉の格好は旅装束だった。


遠出の仕事を任されているのかもしれないと一瞬考えがぎったが、和泉の表情からは深刻めいたものを感じた。


「俺、抜けることにした」


どうしてと、辰巳はその先を問えなかった。


普段から和泉とは会っていたが、剣客けんかく集団を抜けようとしている片鱗を見てはいない。

だが、ひた隠しにしていたわけではないと、直感が言っている。


「喜介が……殺された」


剣客には似合わない笑顔を浮かべていた喜介の姿が、刹那に蘇った。

息が苦しくなって、呼吸が乱れる。

身体は、和泉の言葉を受け入れられなかった。


「そんなわけ……だって、妹の祝言があるって、あいつが……」


和泉は悔しさを、泣きたくなるのを必死で耐えている。

否応なく、事実は染み渡ってきた。


「誰がった……?」


和泉の返事を聞くなり、辰巳は外を飛び出していた。



「何で喜介を殺したんだ!!答えろ…………藤次郎!」


仕事をしていたときに、返り討ちにされたとしても、相手を絶対許したりはしない。

一番許せないのは身内に殺された場合だ。


「あいつが俺を殺そうとしたんだ。まあ、妹を殺されたんだから無理もねぇよな」


「妹……」


「喜介の妹が嫁いだ相手は、さるお方から依頼を受けていた、俺たちの標的だった。

だから二人を利用したんだ。あいつは妹のことになると自慢気にぺらぺらと口が軽かったからな、いい情報源だったぜ」


「ふざけるな……!」


辰巳は藤次郎の胸倉を掴んだ。

そうだ、藤次郎は冷酷無慈悲で、仲間だろうと簡単に裏切ってみせる人間だった。


「妹まで殺す必要はなかっただろ!お前にだって、大事な妹がいるじゃねぇか!」


藤次郎が標的を襲った刻限は、まさに祝言の只中だった。

その場にいた喜介は、さぞ藤次郎の登場に驚いただろう。

ましてや刀を振り回されるなど、想像もしていないのだから。


喜介が守ろうとする間もなく、旦那諸共、妹も凶刃にかけられて絶命した。


遺恨を残さず断ち切るのが、藤次郎の信念である。


目の前で妹を殺されたことに逆上した喜介は藤次郎に歯向かうも、あえなく妹の後を追うことになったのだった。


「たくさん人を殺めてきたお前が、きれいごとをぬかすな。お前は人殺しだ」


辰巳の力が弱まった隙を見逃さずに、藤次郎は辰巳の手をのける。

刺すような辰巳の視線だけは変わらなかった。


「和泉も、お前と同じことを吐いていきやがった。気に食わねぇなら、お前も好きにしろ」


自分がどういう人間かなんて、自分が一番よくわかっている。


藤次郎に言われたことは事実だ。


人殺しの自分が偽善者面したわけではなく、喜介を無残な形で殺されたことが許せなかった。


喜介に剣客けんかくをやめたあとは自分たちと関わるなと言っても、聞き入れようとはしなかった。

やめたところで背負う業までは消えないから、ならば友と酒を酌み交わすことはしていたいと言っていたのは、つい先日の話だ。


何より、妹の祝言が決まって、喜介の顔は緩みきっていた。


初めてだった。他人の幸せが、うれしいと感じたのは。


友と言われて素直に喜べなくて、でもこれからはまっとうに生きてほしかったから、関わってほしくないと心にもないことを返していた。


もう二度と、会えなくなるとも知らずに……


辰巳の決断は、考えるまでもなかった。


「さと。一緒に、江戸に行こう」


本格的に雪が降り始める前に、信濃しなのを発ちたかった。

そして、道中を共に歩みたい人がいる。


藤次郎との話が終わったあとで、辰巳は真っ先にさとの元へと駆けつけていた。


「どうして?」


「俺は喜介を殺した藤次郎が許せない。だから、抜けることにした」


「兄さまのことを裏切るの?」


「……先に裏切ったのは藤次郎の方だ。仲間を殺したんだぞ。

でも、俺はこれからもお前と一緒にいてぇんだ。お前のこと……」


「兄さまを見放す貴方なんか大嫌い」


さとはにべもなく言った。


兄を慕っているさとから反発があることは予想していた。

さとが一緒についてきてくれるという確信さえ持っていなかった。


だけど、兄と自分とで葛藤してくれるくらいには想われている自信はあったのだ。


しかしさとの目は、興味が失せてしまったかのように冷たい。


ーー辰巳は……兄さまに似てる。


ふと思い出した、さとの言葉。

さとは藤次郎の話ばかりをしていた。


「もしかして、お前……」


邪推したのは、さとが自分を選んでくれなかった腹いせだった。


そんなわけがないと、憤慨してくれても構わない。


でも、予想に反して、さとの感情が揺れることはなかった。


「私が愛しているのは兄さま。

貴方に抱かれているときはずっと、兄さまに抱かれていることを想像していたのよ」


さとが見ていたのは、辰巳を通した藤次郎の幻影だった。

叶わないこいに、彼女は歪んでしまったのだろうか。


辰巳の世界に存在したさともまた、幻影に過ぎなかったのだ。



事実の衝撃が大きく、損失感は襲ってこなかった。

誰かの代わりに抱かれていたことは、ひどく虚しい。


また一人に戻っただけ。


辰巳は街道まで来ていた。

街道の入り口に立っていた男を見つけて、足は止まった。


「和泉……」


「来ると思ってたから待ってたんだ」


まさか待っていてくれているなど露知らず、驚きを隠せない。


和泉は藤次郎とどうなったのかも、さとのことも聞かなかった。

この余計なことを言わない性格に助けられた。

今の自分がどう慰められても、ただ苛つくだけだから。


喜介の思い出話をすのは、しばらく落ち着いた後で……


「振られたから、ちょうど寂しかったところだ」


二人が街道を歩き始めると、雪が降ってきた。

すべては、信濃の雪が隠してくれると信じて、一路江戸を目指した。

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