結局のところ、信じられるのは己だけ。

きれいな生き方をしていても、災厄は突然に訪れて、大切なものを奪ってゆく。


南雲家を出奔しゅっぽんし、一人ぼっちとなった幹之進の生活はすさんでいた。


生きるためには他人を傷つけることも、盗みを働くこともいとわなかった。

護身に覚えたのは、粗削りな剣法だ。


武家の嫡男として大切に育てられていた頃の面影はとうにない。


しかし武士の血が混じっているからか、剣は性に合っていたらしい。

剣客けんかく集団に腕を買われ、属することとなった。


幹之進は、この頃から辰巳と名を改める。

そもそも南雲家を出奔してから幹之進の名を捨てていた。


名前がないと不便だと剣客仲間に言われて、そのときに適当に付けてもらった名である。


剣客集団に属する前から刀でもって人を脅し、傷を負わせることをしてきたが、殺めたことは一度もない。

剣の使い手の猛者たちとはいえ、その内実は依頼人から命じられた標的を暗殺して金を稼ぐ者たちだ。


辰巳もまた、人を殺めて生きる道を選んだことになる。


初めて人を殺めたのは十三のとき。依頼は、ならず者たちの暗殺。


恐ろしくも一人目を斬るときに躊躇ためらいがなかった。

辰巳は、自分が人ではない化け物のように思えて、こと切れた死体を前に自嘲の笑みを浮かべようとするも、脳裏に蘇った記憶を振り払いたくて、すぐに二人目に手をかける。


『坊ちゃま』


妙は決して、幹之進とは呼んでくれなかった。


『妙が母上ならよかったのに』


今生の別れに、握れなかった妙の手。


自分の世界から妙は姿を消してしまったのに、思い出までもは消えてくれない。


きっと妙は極楽にいて、化け物の自分は死んだ後にも妙に会えないのだ。


汚れてもなお、妙に会いたかったのだと辰巳は自覚した。






およそ十年の歳月が過ぎ、辰巳は過去に惑わされることもなく、淡々と仕事をこなしては剣を振るっていた。


その日、辰巳は沖倉おきくら藤次郎に呼び出されていた。


前の年に剣客集団の頭が亡くなり、代わりに頭を務めるようになったのが、藤次郎である。

歳は、辰巳よりは少し上と若い身空ながら、抜きん出た才覚によって頭に抜擢された人物である。


冷酷無慈悲。

藤次郎を表すなら、その言葉が的確だろう。


目的のためなら手段を選ばず、あくどいこともしてのける男だった。

絶対に敵には回したくないと、辰巳は思っている。


庭木は枯れ果て、今にも倒壊しそうな廃寺を、藤次郎はいつも待ち合わせ場所にしていた。

おそらく次の仕事を指示されると踏んで赴いた廃寺には、先客がいた。


藤次郎ではなく、若い女だった。


極寒とまでは言わないが、じっとしているには寒い冬の午後。

その女は体を小さくさせて、うずくまっている。


女も、誰かと待ち合わせをしているのだろうか。

辰巳が来たことに気づいたものの、動く気配はない。


真っ当な暮らしをしている若い女ならば、辰巳を見ればその雰囲気に危機を感じるのか、逃げ出す者が大抵だ。

なのに興味がないと言わんばかりに、女は一度ちらと辰巳を見ただけで、そのままでいる。


「お前も、誰かを待っているのか?」


興味を持ったのは、辰巳の方だった。


そうよ、とつぶやいた女はそっけなくて、動いた唇のなまめかしさに、釘付けになる。


これが辰巳とさとの、邂逅かいこうだった。






とある飯屋にて、三人の男女が肩を並べていた。


「兄さま。私、田楽豆腐も食べたい」


「ああ、好きなだけ食え」


ほのぼのとした二人の会話を、辰巳は目を丸くして見ている。


藤次郎に呼び出された廃寺には、他にも人と待ち合わせているという女がいた。

女と二言三言交わしていると、ほどなく藤次郎が訪れたのだが、何と女ーーと待ち人が一緒だったのである。

しかも藤次郎とさとは、兄妹であった。


それぞれ別件ではあったが、三人は同じく飯屋に移動して今に至る。


藤次郎に妹がいたことも驚きだが、甘える妹に甘やかしている兄の姿が、辰巳の知っている藤次郎とはかけ離れていて、まるで別人であるかのように錯覚してしまう。


「妹がいるのが、そんなに珍しいことか?」


「いや……」


感情が出てしまっていたのだろう辰巳に問いかける藤次郎は、常の無感情で冷たい雰囲気だった。


今度は妹との態度の違いにどこか口元が緩みそうになってしまったが、藤次郎の手前、こらえてみせた。


「今夜は和泉と仕事をしてもらう。詳細は和泉に伝えてあるから、あいつから聞け」


やはり藤次郎の用とは、依頼の話であった。


同じ剣客仲間とはいえ、辰巳は和泉のことをよく知らない。

和泉だけでなく、他の仲間とも仕事以外では付き合わないし、決して慣れ合うことをしなかった。


人によっては寂しいと思われてしまう人間関係だが、他人を信じられない辰巳に不満などない。


密室なら兎も角、おいそれと仕事の内容は口にできないので、藤次郎は必要最低限だけを伝えるだけだった。


再び妹には甘い兄を見せつけられ、奇妙な心持ちは続いた。



藤次郎から指定された場所へ赴くと、先に和泉が来ていた。


「はじめまして……って言うのはおかしいけど、今日はよろしく」


「…………」


歳は同じくらいか、しかし性格は大分違うようだ。


「俺、あんたと仕事してみたかったんだよ。

剣の腕もいいって聞くけど、何考えているかわかんない御仁だから気になってたんだ」


「随分と不躾ぶしつけな奴だな」


言われてにっと笑う和泉に、とても暗殺を生業としている者には感じられなかった。


剣客集団の中にいるのは、見るからに凶悪そうで、見た目に表れていなくても辰巳や藤次郎のように、醸し出す雰囲気には優しさなど微塵も感じられない者たちである。


だから尖ったところがなく和やかで気さくな和泉は、まれに思えた。


その後も和泉から色々尋ねられたりしたのだが、すべて適当に答えるか、無言を貫いていた。


だが、いざ刀を抜くときになって、和泉が隠していた冷血を知る。


人を殺めるときの動き、表情は自分と同じで、その腕も確かだった。






「また会ったわね」


「お前が、会いに来るんだろ」


ふっと笑ってみせるさとは、何とも艶美だった。


辰巳が常から利用している飲み屋で、二人は頻繁に顔を合わせるようになっていた。

といっても、辰巳は普段の頻度で訪れているだけで、さとが飲み屋によく訪れるようになっていたのだ。


時々くれる流し目は色っぽくて、初めて会ったときには感じられなかった娼妓かと見紛う雰囲気や所作に、喉を鳴らしそうになる。


「でね、兄さまったら……」


さとは、口を開けば藤次郎の話ばかりをする。


一緒に酒を酌み交わすとはいえ、口達者でない辰巳から話を振ることはそうない。

代わりに話をするのはさとなのだが、ほとんどは兄についての話題であった。


さとから聞く話によると、先日見てしまったように、やはり藤次郎はさとには甘いようだ。

藤次郎の意外な一面を知ったのだが、どうにもあの冷酷な彼とは結び付かない。

もしや二重人格ではないかと思えるほどに、である。



さとの他愛ない兄に対する愚痴をひとしきり聞いたあとで、家路に就いた。


夜分に、しかも藤次郎の妹に何かがあってはいけないと、毎度辰巳はさとを家まで送っていたのだった。

家の前まで着いたところで、さとは言った。


「私のこと、興味ないの?」


幼い顔をしているくせに、男を誘う目はいやらしい。


しかし一度たりとも、二人が肌を重ねたことはなかった。


「それとも、股が緩い女は嫌い?」


さとが、とっかえひっかえ違う男と一緒にいる姿を、辰巳はよく見かけていた。

だからといって嫌悪感は抱かなかったし、そもそも嫌いな女と酒を飲んだりはしない。


そういう性分なのだろうと、気にしてはいなかった。


「お前の兄貴が怖いだけだ。藤次郎とやり合うのは御免だからな」


多少、腕に自信のある辰巳でも、藤次郎には敵わないと思っている。

手を出したりすれば、妹のことは大事にしているのだろう藤次郎に斬られかねない。


それ以上引き止められることはなかったので、辰巳はきびすを返した。


「いくじなし」


さとの呟きは、背中に痛いほど聞こえていた。



運命というものは、ふとしたきっかけで変わることもある。


交わり、または解けてゆく糸は、得てして思い通りにはならない。


けれども人は、想いを貫くがゆえに、時にあらがってみせるのだ。


これは、まさかこのときに絡めた糸の所為せいで、大切な存在を手放してしまうことになるとは知らなかった頃の話である。






「何で俺を捨てたんだ。一緒になろうって約束したじゃないか」


「約束なんかしてない。貴方が勝手に言っていただけよ」


雪が解け、梅の花は盛りを迎えているある日の昼。

野暮用を終えて自身の住処すみかに帰ろうとしていた辰巳は、道中で男女のいさかいいを目撃した。


よくある男女のもつれだろうか。


興味もなければ、他人のことに口を出したくはなかった辰巳は二人を通り過ぎようとして、しかし足が止まってしまった。


男に見覚えはなかったが、女の方は最近よく知っている人物だったからだ。


それに聞こえてくる声は、さとに間違いなかった。


「お前と一緒じゃなきゃだめなんだ。

なあ、さと。あんなに愛し合った仲じゃないか。考え直してくれよ」


「……乱暴に抱くから、私はずっと嫌いだった」


瞬間、頭に血が上った男は、さとの腕を乱暴につかむ。


爪が食い込むほど握られて痛いはずなのに、さとの顔は痛みに屈していなかった。

むしろ「ほら、そういうところよ」と言わんばかりに、男に非難の目を向けている。


「俺は、一緒になってくれれば、それでいいんだ……」


嘲笑のような笑みを浮かべて、男が懐から取り出したのは匕首あいくちだった。

さとをめがけて、振り下ろそうとしている。


危機をさとって、さとの表情は一転、恐怖におののいた。


声も上げられないさとは、目を閉じて衝撃に耐えようとする。


だが、衝撃はやってこない。代わりに聞こえたのは、男の悲鳴だった。

気づけば男に掴まれていた腕の痛みも消えていた。


「死にてぇなら、手前一人で死にやがれ」


目を開けたさとの前に立っていたのは、見たことのある背中だった。

その向こうには、腕を斬られてうずくまる男がいる。


「辰巳……」


斬り落としてはいない。

素人相手には少し斬っただけでひるむことを辰巳は知っていた。


しかも失せろ、とにらみを利かせれば男は去っていった。


「腕、見せろ」


「え?」


「怪我してんじゃねぇのか?」


さとは腕を垂らしたまま見せようとしないので、辰巳はさとの手を取って、男に握られていた箇所を見ようと袖をまくった。


「お前、これ……」


辰巳は目を見張った。

さとの腕は、手首から下にかけて痣だらけだったのだ。


今日やそこらでつけた傷ではない。


何度も飲み屋で会っていたというのに、さとの異変を気づいてあげられなかった。


「あいつが、やったのか?」


さとは静かにうなずく。


他の男と肌を重ねたことを知られて、何度も殴られたという。

しかもことの最中も日々乱暴になっていったらしい。


浮気をしたさとも悪いが、だからといって暴力で制裁をしていいわけではないと、さとが哀れに思えた。


「貴方って、意外と優しいのね」


そう言ったさとは、背伸びをして辰巳の口に吸い付いた。

辰巳は応えるように、さとの背中に腕を回す。


さとの息が荒くなった寸前で唇を離し、彼女の口の端から漏れた唾液を舐めとった。


「優しくしてやるから、俺のところに来いよ」

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