地面や庭木に至るまで、縁側から見える景色は真っ白な雪がおおいつくしている。

 信州松代まつしろにあって毎年のように降る雪に、少年は何の感慨も持てなかった。


 あるとすれば“無”だ。


 何もない景色が、自分と隣り合わせに存在していると、ふと思うときがある。そしてこの日も感慨にふけっていると、彼の唯一のり所によって、思考は消し去られた。


「坊ちゃま」


 松代藩士の嫡男である南雲なぐも幹之進みきのしんに声をかけるのは、女中のたえである。


 今まで無表情で庭先を眺めていた幹之進は、妙を見るなり子どもらしい無邪気な笑顔を浮かべた。


「まだお勉強の途中でしょう?部屋に戻りましょうね」


 とたんに幹之進はね顔になってみせた。


「嫌だ」


 困ったように笑う妙はそれ以上、無理強いをしない。

 幹之進の隣に座って、同じように庭先を眺める。


 盗み見た妙の顔が、幼心にとてもはかないと幹之進は感じていた。


「勉強しても、母上は褒めてくれない」


 勉学に勤しむのが嫌で放棄しているわけではなかった。

 どんなに頑張ったところで、母が振り向いてくれないから、何をする気力もないのだ。


「妙が母上ならよかったのに」


 この言葉を後悔することになるとも知らずに、幹之進──後に辰巳と名乗る少年は、正直な本音をさらけ出してしまった。

 妙の柔和な笑顔が、幹之進の冷たい心を溶かしていた。



 南雲家は代々江戸詰めの役職に就いていて、幹之進の父も当然ながら故郷に足を踏み入れることは少なかった。

 自身の父であるというのに、姿形は思い出せても、父の人柄や声までもを、幹之進は定かでない。


 父が側にいない分、母から愛情を向けられるはずだった。

 だが、母の早紀さきは幹之進に対して、実の子に対する態度とは思えないほどに冷たかった。


 一緒に遊んでくれたこともなく、それは幹之進が記憶として覚えているときだけではなく、生まれたときからである。

 甘えようものなら無視をして、笑顔すら向けられたことがない。


 母とはかくも冷たい存在ではないと本能でわかってしまうから、理由はわからないが、自分は嫌われているのだとさとり、虚しい気持ちだけが増えてゆく。


 幹之進には、母の代わりともいえる存在がいた。

 赤子の頃からずっと世話をして、母に愛されていないさみしい少年を気にかけるのは、南雲家で女中をしている妙だった。


 幹之進にとって、妙はかけがえのない存在ではあっても、藩士の嫡男と女中では大きな隔たりがある。

 冷たい母でも、幹之進の母は早紀しかいないのだ。


 妙もまた、早紀に嫌われた存在であり、それは幹之進に向けられる嫌悪よりもすさまじいものだった。


「どうしてお前はそんなに愚図ぐずなんだい!」


 鈍い音が部屋の中に響いた。

 早紀が木棒を手にして妙に振り下ろす姿を、幹之進は何度見ただろうか。


「申し訳ございません……」


 妙は何度も早紀に謝る。

 粗相そそうをしたわけでも、愚図でも鈍間のろまでもないというのに、ひたすら謝り続けるのだ。


 奥方と奉公人という関係上、歯向かうなどもってのほかなのかもしれないが、早紀の仕打ちは度が過ぎでいる。


 幹之進は見るに耐えなくなって、妙をかばったことがあった。

 母といえども許せないと、そう思ったのだ。


「母上、妙をいじめないでください!」


 さすがに子どもにさとされれば、早紀は我に返ってくれると確信していた幹之進の希望は、瞬時に打ち消される。


 早紀は、妙を庇った幹之進に、まるで親の仇を見るような目を向けていた。


 この人は本当に自分のことが嫌いなのだと、いつか母に愛されたいと願っていた幹之進は嫌でも理解した。

 とどめを刺すように、早紀が木棒を振り上げる。


 早紀が微塵の愛情もくれないことに呆然ぼうぜんとしてしまった幹之進の前に出たのは、妙だった。


「…………っ!……妙!」


 幹之進に当たるはずだった衝撃を、妙が受け止める。

 妙はそれでも謝り続けた。


 その後、早紀が妙を痛めつけるたびに庇っていた幹之進は、自分が庇えば早紀の仕打ちがもっとひどくなることを知って、早紀の怒号に耳を塞いで自身の無力を嘆くことしかできなかった。


「この……!泥棒猫!!」


 早紀は決まって、妙にこの言葉を浴びせる。


 妙は盗みを働いたことがあって、そのことをずっと早紀になじられているのだろうかと、幼い子どもはとらえていた。

 だが、妙は泥棒をするような人ではない。きっと早紀の勘違いに違いない。

 しかし、ただの一度も妙は反論したことがないので、真相まではわからなかった。


 いつしか、幹之進の母に対する愛情は冷めていった。


 早紀が母であるという事実に、相手にされなくても心のどこかでは振り向いてほしいという願いを抱いていたのだが、妙に対する仕打ち、決して愛してくれないことを知って、いつも抱えていた虚しさが現実のものだと打ちのめされる。


 何もない世界は、自分の世界だった。


 否、その世界にはたった一人だけ、大切な存在がいる。


 すべてが雪に覆われた殺風景な場所に、かの人がたたずんでいた。


「妙!」


 呼ばれた彼女は優しい笑顔と共に振り返る。刹那、突然の吹雪に襲われた。

 自然に腕を顔の前に出し、目をつむって耐える。


 風邪はすぐに止んで、顔を上げたときには妙の姿が消えていた。


 目の前には、白銀の景色だけが広がっている。

 左右を、後ろを見渡しても妙は何処どこにもいない。


「嫌だ……妙…………いなくならないで……!」


 幹之進はそこで夢から覚めた。

 うつつに戻ったことが自覚できても、妙が目の前から消えてしまう焦燥しょうそうは残っていた。


 武士の身分を失ってもいいから、妙と一緒にいたい。

 大きな家でなくても、今よりも質素な生活になったとしてもいい。

 妙ならきっと、本当の息子のように自分を可愛がってくれる。早紀よりも、大事にしてくれる。


 それは、母に愛されない少年の夢想だった。


 勉学もそこそこに放棄して、幹之進はいつものごとく縁側から庭の景色を眺めていた。

 昨夜に降った雪が積もった景色は、夢で見た白銀しろがねの世界と似ている。


 虚しい気持ちに駆られたとしても、恐れはない。

 もうすぐ妙が様子を見に来てくれるはずだから。


 ……そろそろか、と妙を待ちわびていた幹之進の耳に、近づいてくる足音が聞こえ、瞬時に音の方へと振り向いた。


「た、え……」


 幹之進に笑いかける女中は、妙ではなかった。


 期待を裏切られて、幹之進の顔が固まる。


 部屋へと戻るよううながしたその女中は優しかったが、どうして妙は来てくれないのかという不満が、態度に表れてしまった。


「妙は?いつも来てくれるのに、どうして今日は来てくれないんだ」


「……お妙さんは、少し体調が良くないみたいで、今日はお休みしています」


「じゃあお見舞いに行く」


「お坊ちゃまに熱が移ったら大変です。お坊ちゃまが心配していたことは伝えておきますから、我慢してくださいませ」


 このときは仕方がないとあきらめた。

 病人を働かせるような我儘わがままは持ち合わせていないし、ただ妙に会えないことが寂しかった。


 しかし次の日になっても、妙は姿を現さなかった。


 幹之進は気が気でないほどに心配して、女中に問いただしても、もうすぐ治るからと同じ答えが返ってくるだけである。

 使用人部屋で寝ているという妙を見舞おうと部屋を抜け出しては、屋敷の者に見つかって連れ戻されることをくり返していた。


 妙の姿を見なくなって五日後、運よく使用人たちが出払っているのか、幹之進は妙の元へ向かうところを誰にも見られずに、使用人部屋が近い裏口の方へと足を踏み入れた。

 もうすぐ妙に会えると意気込んでいた足は、家の中から出てくる男たちの姿を見て止まった。


 急いで隠れなくてはと身体をひるがえそうとしたとき、幹之進の目に、妙の姿が映る。


 家から出てくる男は二人で、それぞれが前後になって、戸板を運んでいた。

 その戸板の上に、妙が仰向けで乗っていたのだ。


「妙!」


 幹之進の声で、男たちが足を止める。

 男たちはまずいという顔をしたが、幹之進には妙のことしか頭にない。


 戸板に寝かされている妙の側に寄り、何度も名前を呼びかける。


 げっそりとした顔色は悪く、幹之進が思っていた以上に、妙の容態は深刻だった。


「…………」


 妙はまぶたをこじ開けて、幹之進を見つめた。

 意識があるだけでも億劫おっくうで、言葉は声になってくれない。


 けれども、妙は懸命に幹之進へと手を伸ばした。


 妙の瞳からあふれた涙に戸惑って、幹之進はその手を取ろうとする意識を遅らせてしまった。

 幹之進の手が、妙の手に触れる間近、ふいに幹之進の身体は宙に浮いた。


「お坊ちゃま、早く戻りなさい」


 自身の身体は宙に浮いたままくるりと景色も変わって、妙から遠ざかってゆく。

 誰かが自分を抱き上げて妙から引き離したと理解したときには、すでに遅かった。


「嫌だ!離せ、離せ……!妙!!」


 妙は病気になったので、女中をできなくなった。

 身寄りのない妙は寺に預けられて療養している。


 後で幹之進が聞いた顛末てんまつは、このようなものだった。


 妙の体調は良くなったのかと度々誰かに尋ねてみるも、まだ治らないという決まった答えが返ってくるだけで、詳細までもは教えてくれない。


 妙が療養しているという寺に行きたいとせがめば、我儘わがままを言うなとたしなめられる。


 いっそのこと、家を抜け出してしまおうか……

 そう考え始めた矢先に、早紀が懐妊したのである。


 家の中は祝福に包まれ、誰しもが早紀のお腹に宿る生命のことで頭がいっぱいだった。

 妙の所在を聞ける雰囲気でもなく、いつしか妙という存在が忘れ去られていくような気がして、幹之進は怖かった。


 もう一つ、幹之進は恐れていたことがある。


 それは、早紀の笑顔だった。


 愛おしそうにお腹をでる早紀の顔は、母性による慈しみとでも言うのだろうか、その正体は幹之進にはわからない。

 早紀の慈愛に満ちた笑顔を、一度も見たことがないのだから。

 わかるとすれば、早紀は自分を可愛がることはないけれど、生まれてくる子は可愛がるということだ。


 その後、早紀は無事に出産し、男子おのこを産んだ。


 幹之進は、弟の誕生を素直に喜べなかった。

 早紀は弟の方を可愛がると、弟が生まれる前からわかっていたのに、いざその光景を目の当たりにして事実を受け入れられないでいた。


 赤子を抱いて、優しく微笑む母。


 欲しかった愛を、弟はいとも簡単に手に入れている。


 嫉妬は、衝動に変わった。


「どうして母上は、私のことが嫌いなのですか」


 同じ腹から生まれたのに、その差異は何だというのか。

 何故、愛してくれないのか。


 妙がいなくなった今、誰も自分を愛してくれないのに。


 たまりかねた幹之進は、早紀を問い詰めたのだった。


「私は、お前の母上ではありません」


 何を言っているのか、すぐに飲み込めなかった。冗談にしては残酷だ。


「ずっと、お前といるのが嫌で嫌で、どうにかなってしまいそうだった。お前は……あの泥棒猫の子どもなんですもの」


「え……」


 早紀は決まって、妙を泥棒猫とののしっていた。

 つまり、泥棒猫とは妙のことである。


「だって、私は……」


 南雲家の嫡男で、武士の子だ。使用人の子であるはずがない。


「あの女はね、昔から旦那様とねんごろだったのよ。私が嫁いできてからも、裏で旦那様をそそのして……子どもがいなかったからって、何でお前を私の息子にしなければならなかったのか……お前と、あの女が憎くて、はらわたが煮えくり返るわ」


 妙が、本当の母親だった。


 早紀の口から語られる真実は、妙のことが好きでも、使用人として接してきた幹之進には結びつかない。


 何も言えないでいる幹之進に畳みかけるように、早紀は言った。


「一日外にいたくらいで、あっけなく死ぬなんて思わなかったけど」


「死ぬ……?誰が?」


「妙に決まっているじゃない。松の木に縛りつけてやったのよ」


 目障りな女が死んで清々したとでも言うように、早紀の顔は冷ややかだ。


 てつく真冬の外に放置された妙は、寝込むようになってしまった。

 治る兆しはおろか悪くなる一方なので、仕方なく寺で療養させることにしたのは慈悲だと、早紀は語る。


 だが、妙は寺に運ばれている途中で息を引き取った。


 あの日、戸板に乗せられた妙が伸ばした、幹之進が触れられなかった手は、消えゆく命に残された刹那だった。


──妙が母上ならよかったのに。


 その言葉は妙にとって、どれほど残酷だったのだろうか。


 早紀が愛してくれなかったから、優しい妙が母親だったらと夢見て、身分という現実があるから夢のままで言っただけなのに。

 妙が本当の母親だなんて、考えもしなかった。


 武士の子と、使用人。

 妙はそれ以上を踏み出さずに、ずっと我慢していたのだ。


 どうしてひどいことを言ってしまったのだろう。

 どうして妙が最後に伸ばしてくれた手をにぎれなかったのだろう。


 妙の死後には後悔だけが降り積もって、やがて訪れるのは無だ。

 妙がいなくなって、あとには何もない。目の前に広がるのは、何もない世界である。


 優しくて、温かくて、寂しかった妙は、白銀の世界から姿を消してしまった。


 南雲家に仕える女中が身籠った。女中は、主のお手つきだった。

 主が使用人に手を出すことなど、よくある話といえばそうなのかもしれない。

 身籠ってしまった以上は、めかけにするなり里に帰すなり、その手の方法が取られるはずだった。

 だが、南雲家の当主には子がいなかった。

 早紀を正妻に迎えたのは五年前、誰もが早紀の懐妊をあきらめていた。


 ならば、その女中の子を嫡男に、早紀の子どもとしてしまうのはどうだろうかという話が出た。


 子どものいない妻の面目は保たれて、女中は女中のまま、嫡男を生んだ妾として偉ぶることはできない。

 女中は身寄りがなかったので、近くで我が子の成長を見届けられる代わりに、一生母として名乗ることを許されなかった。


 上手いこと収まった、とは表面上だけのこと。


 当人たちの気持ちよりも、血を絶やしてはならないという武家の秩序が優先されたのだ。


 もしも、正妻である早紀が身籠ったら……などと、考える者は早紀自身も含めて誰もいなかった。



 それは、夕餉ゆうげを食べていたときの出来事だった。


「ううっ……!」


 幹之進は味噌汁を口に流し込んだ瞬間、喉が焼けるように苦しくなり、込み上げる血を吐き出した。

 その場に倒れこみ、畳を赤く染め上げる。


 喉が、腹が、尋常でないほどに悲鳴を上げていた。


 助けを求めて顔を見上げた幹之進が、遠のく意識の中でとらえたのは、何事もないように食事を続けている早紀の姿だった。


 幹之進が目覚めたのは、倒れてから三日後である。


 原因は服毒。


 大量の血を吐いて身体を毒にむしばまれたものの、一命は取りとめた。


 目覚めたときには恐怖しかない。

 殺されかけたと、すぐにわかったからだ。


 自分を排除しようとした人物は、考えるまでもなく、苦しみもだえていた姿にまゆ一つ動かさなかった早紀だ。


 実の子ができて、どうして幹之進を嫡男として認められるだろうか。


 今夜にでも、早紀が寝首をきに来るかもしれない。

 幹之進は、言うことの聞かない身体を無理やり叱咤しったして、家人が寝静まっている刻限に家を抜け出した。


 その後、南雲家に幹之進が帰ってくることはなかった。


 早紀は、初めから冷酷な性格だったわけではない。

 むしろ温厚で、人並み以上に慈愛に溢れていた。


 そんな早紀を変貌へんぼうさせたのは、夫の裏切りが原因である。

 子どもを殺めるまでに鬼と果てたのは、実の子を腹に宿したときに、母性と共に芽生えたものだ。


 南雲家嫡男、病による急死。

 後世に伝えられる事実は、このようなものであった。

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