ひどい顔」


 誰かに殴られたのだと一目でわかる辰巳の頬を見て、さとは少しだけ驚いたように言った。


 昨日、辰巳と一緒にいたところを雪に目撃され、その偶然の出来事にさとの口角は上がっていた。

 出合茶屋であいぢゃやから出てきたところを、信じられないといった様子でたたずんでいた雪に、見せつけることができたのだから。


 逃げる雪を追いかけて行った辰巳だったが、その後のことは何となく想像できる。


 三年間も姿を消していた夫を受け入れるお人好しの女でも、さすがに今回ばかりは許せたものではないだろうと、さとは辰巳が戻ってきてくれるのを待っていた。

 そして辰巳は、予想していたようにやってきたのだ。


 辰巳の傷は雪にやられたのか、それとも彼の親友である和泉にでも殴られたのか、はたまた何処どこぞで喧嘩にでも巻き込まれたのか、考えを巡らせてみたけれど、さとにとってはどうでもいいことだった。


「仕舞いにしよう」


 瞬間、さとは目を見開いて辰巳を見る。


「……もしかして、あの人は辰巳のことを許したっていうの……?」


「お前を抱いたときに雪との関係は終わっていたんだ。俺はこれ以上、雪を裏切りたくない」


 辰巳は自分のものになったと確信していたさとは狼狽ろうばいした。


「どうして!どうして私のことを捨てるの!辰巳がしてきたこと全部、あの女にばらしてやるんだから」


 さとは最後の切り札を出すも、辰巳の決断は揺るがなかった。


「構わない。……お前が見ているのは、俺じゃないだろ。お前は……」


 さとは髪に刺していたかんざしを引き抜いて、先を辰巳に向けた。

 許さないと言わんばかりに、さとの目は怒りに満ちている。


「さと……」


 彼女の名前を呼んだ、その言葉が合図になった。

 さとは迷うことなく簪を、辰巳の脇腹に貫いてみせる。


「……うっ…………!」


 鋭利でない簪が脇腹を貫いた痛みは、じんわりと身体に侵食する。


 さとは怒っている。けれど殺そうとまではしていないことを知っていて、彼女を傷つけてしまった報いを受けることにしたのだ。


 さとは急に我に返って、自分のしでかしたことに手を震わせて身を引く。

 指先には辰巳の血がまとわり付いていた。


「辰巳が悪いのよ。……もう、貴方の顔なんか見たくない」



 思っていたよりも出血していて、痛みで脂汗が浮かぶ。

 貧血のような症状に見舞われながら目指したのは、弥勒みろく屋だった。


 しかし表ではなくて裏戸に手をかける。

 裏戸は、卯吉とお松夫婦が起居している部屋に通じていた。


「辰巳?どうした……」


 めずらしく裏戸から入ってきた辰巳に、はじめに気づいたのは卯吉だった。

 そして、辰巳が押さえている脇腹からしたたっている血に、声を失くす。


 お松も気づいて、あわてて辰巳に駆け寄った。


「この怪我が治るまでいさせてくれ……」


 辰巳は力なく、その場に座り込んだ。


  *


 今度こそ、もう帰ってはこないとわかるから、雪の心はうつろなってしまった。


 食欲もなく、辰巳がいなくなってからお腹が空いたと思ったことがない。

 何をする気にもなれず、家事もおざなりになる。


 内職もしなければならないのに、針を持った手は進まなかった。


(ちゃんとしなきゃ……静介も心配しちゃう……)


 だが、身体思うように動かないのだ。


「おとっちゃ、いつ帰ってくる?」


 静介の無垢むくな瞳が、雪を見上げる。


 どんなに期待しても辰巳は帰ってこない。

 そんな父を待ち続ける静介が、過去の己に見えて仕方なかった。


 たまらず、雪は静介を抱きしめる。

 自分だけは静介から離れてはいけないと、改めて誓った。



 話を聞いてもらえたら少しはましになるのかもしれないと、雪は紫乃の家に向かっていた。

 静介も、紫乃の娘である李々と遊べば、父を待つさみしさが、やわらぐかもしれない。


 雪は紫乃の家に向かう途中で、お松に声をかけられた。


「そんなにやつれて……!」


 お松に心底不安気な表情で見られた雪は、自身がどのような姿をしているかなど自覚していなかった。


 どうしてとは、理由の思い当たるお松は、あえて問うことはしない。

 ただ予想していたよりも雪が打ちのめされていて、かける言葉も中々見つからなかった。


「うちにおいで。食べなきゃ倒れちまいそうだよ」


 身体に症状が現れていない雪には、お松の言葉を大袈裟に感じた。

 しかしお松を無下にすることはできなかったので、やんわり断ったのだが、よほど優れていない顔をしているのか、お松は引かなかった。


 雪は招かれるまま弥勒屋に入る。雪を見た卯吉も、お松と同じような視線で心配していた。


 病人と思われたのか、卯吉が用意したのは卵粥である。


 湯気が立つ小鍋を見つめても、雪の食欲はかなかった。

 折角用意してくれた料理だからと、無理矢理に雪は喉に流し込む。


 だが、雪が手を付けたのは半分にも満たない。

 結局は隣で喉を鳴らした静介がほとんどを食べてしまった。


 弥勒屋の料理は美味しくて、いつもは舌鼓したづつみを打っていたはずなのに、今日は味すらもあまり感じられなかった。

 それは弥勒屋の料理に限ったことではなく、自身が作る料理さえも味がよくわからないのだ。


「ねぇ、お雪さん。実は……」


「お松」


 何かを言おうとしてたお松は卯吉に止められる。

 お松はかっと眉を吊り上げて、卯吉を見た。


「言わないわけにはいかないだろ!男の都合なんか知ったこっちゃないよ!」


 そうだよなぁ、とお松に気圧けおされた卯吉は、小さい声でつぶやく。

 お松は雪に向き直って言った。


「実は、うちに辰巳がいるんだよ」



「おとっちゃ!!」


 ふすまを開けて入ってきた人物に驚くのも束の間、その人物が飛びついてきた拍子に傷口がぐっと痛んだ。


「いっ……!」


「ふん、いい気味ってもんだ」


 痛みに耐える辰巳を、お松は冷たい眼で見降ろしている。辰巳に飛びついたのは、お松に連れられてきた静介であった。


 怪我を負った辰巳はお松と卯吉を頼り、二人の家で庇護されている。二人は辰巳が血だらけになりながら来たとき、すぐに医者を呼んでいた。辰巳は手厚く看病を受けてはいたのだが、お松はずっと、今のように冷たい態度だった。


 卯吉は生来の性格もあってか、常の優しい態度は変わらない。しかしお松には逆らえないので、困った顔をしていることが多かった。


「おとっちゃ、けがしてゆ」


「どうってことねぇよ」


 息子の手前強がってはみても、かなり身体の負傷は激しく、しばらく遠出はできそうになかった。

 それよりも、もう会わないと思っていた静介がいることの方に戸惑っている。


 静介がいる……ということは……

 辰巳は緊張した面持おももちで、開け放たれた襖の先を見た。


「お雪さんはあんたに会いたくないってさ」


 お松には考えていることを見透かされていたらしい。

 雪がいたらどうしようという情けない考えは、杞憂に終わった。

 しかし会いたくないと聞いてしまうと、身勝手ながらに落ち込む自分がいるのだ。


「……雪はどこにいる?」


「友達のところに行くって言ってたよ。あんたがいなくて静介が寂しがっているから、静介だけは会わせてあげたいって」


 友達、ということは紫乃の家だろう。

 何の事情も知らない静介の笑顔が辛かった。


「まったく……あんなにやつれて可哀そうにさ……」


 お松の怒りの正体は、男に無下にされた雪への憐憫れんびんだった。



「信じられない……」


 ここにも怒れる女が一人いた。


 しかも当事者である雪から詳細を聞いた紫乃の怒りは、静かに、けれど底冷えのするものだった。


「今すぐ殴りに行ってやる……!」


「待って……」


 雪は立ち上がった紫乃のそでつかんで引き留めた。


「雪がかばうことなんてないよ」


「……もう、辰巳さんとは縁が切れたから」


 すべては自身のあやまちによって、辰巳との関係を断ち切ってしまった。

 紫乃にどれだけ自分は悪くないと説かれても、雪は自分を責めて嘆くことしかできなかった。


 紫乃にたくさん話を聞いてもらった雪は、一路弥勒屋へと引き返した。


「一回、辰巳と話したらどうだい?」


 雪は即座に首を振った。


 会ったら哀しくなる。泣いてしまう。

 ……そばにいたくなる。


 今以上に、辰巳に嫌われたくなかった。


「辰巳の言い分なんか聞かなくていいからさ、お雪さんの言いたいことをぶつけてやりゃあいいんだ。このままじゃ、お雪さんがずっと可哀想な気がしてね……」


「でも、静介が……」


「静介は私が見てるから、気が済むまで二人で話しておいでよ」


「店が始まってしまうのに、申し訳ないです」


 あと半刻はんときもすれば、夜の開業が始まってしまうだろう。仕事中のお松に、静介のことを預けることはできない。


「今日はうちの次男が店を手伝ってくれることになってんのよ。私と静介は他のところにいるから大丈夫」


 ここで断固会わないとしてしまえば、二度と彼と話す機会も、会うこともないかもしれない。

 それでも雪が躊躇ためらっているのは……


「辰巳さんも、私に会いたくないと思います……」


「そんなことあるわけない。お雪さんが会いたくないなら仕方ないけど、辰巳はそうじゃないって私が保証するよ」


  *


「…………」

「…………」


 雪は辰巳にもう一度会う決心をした。

 が……お松に案内された部屋で、二人は無言のまま向かい合って座っている。

 はしゃいでいた静介はお松に預けてしまったので、余計に気まずい空気がただよっていた。

 どれくらいそうしていたのか、当の本人たちにはわからない。

 やがて忌々いまいましそうな顔で腰を上げた辰巳を見て、やはり来ては迷惑だったのだと雪は下を向いた。


「……これを取りに来たんだろ」


 辰巳は一枚の紙を取り出して、雪の前に差し出す。

 紙はおろか、何も貸してすらいない雪には差し出された物が何なのか、見当がつかなかった。


 折りたたまれていた紙をめくってみると、思わず呼吸を忘れる。


 紙には三行半に渡って文字が書かれていて、文字が読めない雪でも、それがいわゆる三行半みくだりはん……離縁状だとわかった。


「……っ……う……」


 喉につかえた声は、やけに響いてしまう。

 雪はあふれ出す涙を止められずに、嗚咽おえつらしながら、顔をおおった。


 辰巳に会いたいと、ただ純粋な想いで会いにきた。

 だが、形式的にも別れを決定づけられる結果になってしまったのである。


(早く泣き止まなきゃ……)


 子どものようにいつまでも泣き続けていたら、辰巳に迷惑をかけてしまう。

 辰巳との関係が修復することはないとはいえ、雪の中に残る未練が、辰巳に嫌われたくないと必死だった。


「雪……」


 その声は、あまりにも懐かしかった。

 名前を呼んでくれるときの、優しい彼の声。


 鼻腔びこうをくすぐるのは、彼の匂いだ。


 雪は信じられない思いだった。いま、辰巳に抱きしめられている。

 辰巳はいつもこうしてなぐさめてくれていたことを、雪は思い出した。


「お願い……少しだけでいいから、このままでいて」


 雪の切なる願いに、辰巳の胸は締めつけられる。

 いつか最後の別れと決めつけて、彼女がすがり、結ばれた夜を思い出して、懐かしくなる。


 もう会うこともないだろうと思っていた雪が来てくれた。

 しかし久しぶりに会った雪を見て、彼女のやつれように愕然がくぜんとした。

 そこまで追い詰めてしまった自分が泣いている雪を見て、慰めてあげたいのに触れることを躊躇ちゅうちょする。


 だが、辰巳が選んだ行動は、自身の変わらない気持ちだった。


 腕の中におさまる雪は以前よりも細くて、力を入れてしまえば折れてしまいそうだ。

 さらに驚くことに、拒絶されると思っていたが、彼女は嫌がらなかった。


「私が自分で手放した幸せだから、ちゃんと受け入れる……」


 雪の言葉で、そもそもの根幹を彼女は誤解しているのだと、辰巳はさとった。


「雪の所為せいじゃない。雪に嫌われなくなかったから、ずっと言えなかった……」


 見上げる雪の涙を、辰巳はそっとぬぐった。


「雪が自分の所為だと苦しんでいるなら、俺はすべてを打ち明ける」

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