五
「
誰かに殴られたのだと一目でわかる辰巳の頬を見て、さとは少しだけ驚いたように言った。
昨日、辰巳と一緒にいたところを雪に目撃され、その偶然の出来事にさとの口角は上がっていた。
逃げる雪を追いかけて行った辰巳だったが、その後のことは何となく想像できる。
三年間も姿を消していた夫を受け入れるお人好しの女でも、さすがに今回ばかりは許せたものではないだろうと、さとは辰巳が戻ってきてくれるのを待っていた。
そして、辰巳は自分の元を訪れた。
辰巳の傷は雪にやられたのか、それとも彼の親友である和泉にでも殴られたのか、はたまた
「終いにしよう」
瞬間、さとは目を見開いて辰巳を見る。
「……もしかして、あの人は辰巳のこと許したっていうの……?」
「お前を抱いたときに雪との関係は終わっていたんだ。俺はこれ以上、雪を裏切りたくない」
辰巳は自分のものになったと確信していたさとは
「どうして!どうして私のことを捨てるの!
辰巳がしてきたこと全部、あの女にばらしてやるんだから」
さとは最後の切り札を出すも、辰巳の決断は揺るがなかった。
「構わない。
……お前が見ているのは、俺じゃないだろ。お前は……」
さとは髪に刺していた簪を引き抜いて、先を辰巳に向けた。
許さないと言わんばかりに、さとの目は怒りに満ちている。
「さと……」
彼女の名前を呼んだ、その言葉が合図になった。
さとは迷うことなく簪を、辰巳の脇腹に貫く。
「……うっ…………!」
鋭利でない簪が脇腹を貫いた痛みは、じんわりと身体に侵食する。
さとは怒っている。けれど殺そうとまではしていないことを知っていて、傷つけてしまった報いを受けることにしたのだ。
さとは急に我に返って、自分のしでかしたことに手を震わせて身を引く。
指先には辰巳の血が
「辰巳が悪いのよ。……もう、貴方の顔なんか見たくない」
思ったよりも出血していて、痛みで冷汗が浮かぶ。
貧血のような症状に見舞われながら目指したのは、
しかし表戸ではなくて裏戸に手をかける。
裏戸は、卯吉とお松夫婦が起居している部屋に通じているからだ。
「辰巳?どうした……」
珍しくも裏戸から入ってきた辰巳に、はじめに気づいたのは卯吉だった。
そして、辰巳が押さえている脇腹から滴っている血に、声を失くす。
お松も気づいて、慌てて辰巳に駆け寄った。
「この怪我が治るまでいさせてくれ……」
辰巳は力なく、その場に座り込んだ。
今度こそ、もう帰ってこないとわかるから、雪の心はまるで空っぽになってしまったように虚しかった。
食欲もなく、辰巳がいなくなってからお腹が空いたと思ったことがない。
何をする気にもなれず、家事もおざなりになる。
内職もしなければならないのに、針を持った手は進まなかった。
(ちゃんとしなきゃ……静介も心配しちゃう……)
だけど身体思うように動かないのだ。
「おっとちゃ、いつ帰ってくる?」
静介の無垢な瞳が、雪を見上げる。
どんなに期待しても辰巳は帰ってこない。
そんな父を待ち続ける静介が、雪には過去の己に見えて仕方なかった。
自分だけは静介から離れてはいけないと、改めて誓った。
話を聞いてもらえたら少しはましになるのかもしれないと、雪は紫乃の家に向かっていた。
静介も紫乃の娘である李々と遊べば、父を待つ寂しさが和らぐに違いない。
道程の途中で、雪はお松に声をかけられた。
「そんなにやつれて……!」
お松に心底不安気な表情で見られた雪は、自身がどのような姿をしているかなど自覚していなかった。
どうして、と理由の思い当たるお松は問わない。
ただ予想していたよりも雪が打ちのめされていて、かける言葉も中々見つからなかった。
「うちにおいで。食べなきゃ、倒れちまいそうだよ」
身体に症状が現れていない雪には、お松の言葉を大袈裟に感じた。
しかしお松を無下にすることはできなかったのでやんわり断ったのだが、よほど優れていない顔をしているのか、お松は引かなかった。
雪は招かれるまま
雪を見た卯吉も、お松と同じような視線で心配していた。
病人と思われたのか、卯吉が用意したのは卵粥である。
湯気が立つ小鍋を見つめても、雪の食欲は湧かなかった。
折角用意してくれた料理だからと、無理矢理に雪は喉に流し込んだ。
だが、雪が手を付けたのは半分にも満たない。
結局は隣で喉を鳴らした静介がほとんどを食べてしまった。
弥勒屋の料理は美味しくて、いつもは舌鼓を打っていたはずなのに、今日は味すらもあまり感じられなかった。
それは弥勒屋の料理に限ったことではなく、自身が作る料理さえも味がよくわからないのだ。
「ねぇ、お雪さん。実は……」
「お松」
何かを言おうとしてたお松は卯吉に止められる。
お松はかっと眉を吊り上げて、卯吉を見た。
「言わないわけにはいかないだろ!男の都合なんか知ったこっちゃないよ!」
そうだよなぁ、とお松に気圧された卯吉は小さい声で
お松は雪に向き直って言った。
「実は、うちに辰巳がいるんだよ」
「おとっちゃ!!」
襖を開けて入ってきた人物に驚くのも束の間、その人物が飛びついてきた拍子に傷口がぐっと痛んだ。
「いっ……!」
「ふん、いい気味ってもんだ」
痛みに耐える辰巳を冷たい眼で見降ろすのはお松である。
辰巳に飛びついたのは、お松に連れられてきた静介だった。
怪我を負った辰巳はお松と卯吉を頼り、二人の家で庇護されている。
辰巳が血だらけになりながら来たときにすぐに医師を呼び、手厚く看病を受けてはいたのだが、お松はずっと今のように冷たい態度だった。
卯吉は生来の性格もあってか、常の優しい態度は変わらない。
しかしお松には逆らえないので、居心地は悪かった。
「おとっちゃ、怪我してゆ」
「どうってことねぇよ」
息子の手前強がってはみても、かなり身体の負傷は激しく、しばらく遠出はできそうになかった。
それよりも、もう会わないと思っていた静介がいることの方に戸惑っている。
静介がいる……ということは……
辰巳は緊張した面持ちで、開け放たれた襖の先を見た。
「お雪さんはあんたに会いたくないってさ」
お松には、考えていることを見透かされていたらしい。
雪がいたらどうしようという情けない考えは、杞憂に終わった。
会いたくない、と聞いてしまうと、勝手ながらに落ち込む自分がいるのだ。
「……雪はどこにいる?」
「友達のところに行くって言ってたよ。
あんたがいなくて静介が寂しがっているから、静介だけは会わせてあげたいって」
友達、ということは紫乃の家だろう。
何の事情も知らない静介の笑顔が辛かった。
「まったく……あんなにやつれて可哀そうにさ……」
お松の怒りの正体は、男に無下にされた雪への
「信じられない……」
ここにも怒れる女が一人いた。
しかも当事者である雪から詳細を聞いた紫乃の怒りは、静かに、けれど底冷えのするものだった。
「今すぐ殴りに行ってやる……!」
「待って……」
雪は立ち上がった紫乃の袖を掴んで引き留めた。
「雪が庇うことなんてないよ」
「……もう、辰巳さんとは縁が切れたから」
すべては自身の過ちによって、断ち切ってしまった。
紫乃にどれだけ雪は悪くないと説かれても、雪は自分を責めて嘆くことしかできなかった。
紫乃にたくさん話を聞いてもらった雪は、一路
「一回、辰巳と話したらどうだい?」
雪は即座に首を振った。
会ったら哀しくなる。泣いてしまう。
……側にいたくなる。
今以上に、辰巳に嫌われたくなかった。
「辰巳の言い分なんか聞かなくていいからさ、お雪さんの言いたいことをぶつけてやりゃあいいんだ。
このままじゃ、お雪さんがずっと可哀想な気がしてね……」
「でも、静介が……」
「静介は私が見てるから、気が済むまで二人で話しておいでよ」
「店が始まってしまうのに、申し訳ないです」
あと
仕事中のお松に静介のことを預けることはできない。
「今日はうちの次男が店を手伝ってくれることになってんのよ。私と静介は他のところにいるから大丈夫」
ここで断固会わないとしてしまえば、二度と話す機会も、会うこともないかもしれない。
それでも雪が
「辰巳さんも、私に会いたくないと思うから」
「そんなことあるわけない。
お雪さんが会いたくないなら仕方ないけど、辰巳はそうじゃないって私が保証するよ」
「…………」
「…………」
雪は辰巳にもう一度会う決心をした。
が……お松に案内された部屋で二人は無言のまま向かい合って座っている。
はしゃいでいた静介はお松に預けてしまったので、余計に気まずい空気が
どれくらいそうしていたのか、当の本人たちにはわからない。
やがて忌々しそうな顔で腰を上げた辰巳を見て、やはり来られて迷惑だったのだと雪は下を向いた。
「……これを取りに来たんだろ」
辰巳は一枚の紙を取り出して、雪の前に差し出す。
紙はおろか辰巳には何も貸してすらいない雪には見当がつかない。
折りたたまれていた紙をめくってみると、思わず呼吸を忘れた。
紙には三行と半分に渡って文字が書かれていて、文字が読めない雪でもそれがいわゆる
「……っ……う……」
喉につかえた声は、やけに響いてしまう。
雪は溢れ出す涙を止められずに、嗚咽を漏らしながら顔を覆った。
辰巳に会いたいと、ただ純粋な想いで辰巳に会いにきた。
だが、形式的にも別れを決定づけられる結果になってしまったのだ。
(早く泣き止まなきゃ……)
子どものようにいつまでも泣き続けていたら、辰巳に迷惑をかけてしまう。
辰巳との関係が修復することはないとはいえ雪の中に残る未練が、辰巳に嫌われたくないと必死だった。
「雪……」
その声は、あまりにも懐かしかった。
名前を呼んでくれるときの、優しい彼の声。
鼻腔をくすぐるのは彼の匂いだ。
信じられないことに、辰巳に抱きしめられている。
辰巳はいつもこうして慰めてくれていたことを、雪は思い出した。
「お願い……少しだけでいいから、このままでいて」
雪の切なる願いに、辰巳の胸は締めつけられる。
もう会うこともないだろうと思っていた雪が来てくれた。
しかし久しぶりに会った雪を見て、彼女のやつれように愕然としたのだ。
だから、そこまで追い詰めてしまった自分が泣いている雪を見て、慰めてあげたいのに触れることを
辰巳が選んだ行動は、自身の変わらない気持ちだった。
腕の中におさまる雪は以前よりも細くて、力を入れてしまえば折れてしまいそうだ。
さらに驚くことに、触れられることを嫌がらない。
拒絶が当たり前と思っていたのに……
「私が自分で手放した幸せだから、ちゃんと受け入れる……」
そもそもの根幹を誤解しているのだと、辰巳は悟った。
雪もまた、真実を明かされずにいるのだ。
「雪の
見上げる雪の涙を、辰巳はそっと拭った。
「雪が自分の所為だって苦しんでいるなら、俺はすべてを打ち明ける」
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