四
右手でさしていた傘、辰巳に渡そうと持ってきた左手に
辰巳が音に気付いて、
「雪……!」
雪の視界が
瞳を覆っているのは雨か、それとも
その場にいたくなくて、雪は一目散に
信じていた。疑いもしなかった。
なのに真実は想いに反するもので、すべてを否定する。
冷える身体よりも、雨を吸った着心地の悪い着物よりも耐えがたいのは、この目で見た光景だ。
辰巳たちのいない方へと闇雲に走る雪は、人目も気にせず走る姿を、すれ違う人に奇異な目で見られる。
雪を追う辰巳の声が、響いていた。
だが、雪の感覚には何も入らない。
「待て!……雪!」
手首をぐいと引っ張られた衝撃で立ち止まる。
抵抗しないのを感じて、辰巳はそっと腕を離した。
雪は振り返った。
引き止めても言い訳すらできない辰巳は、黙ったまま、
対して雪は、何の感情も
「私も、他の人と寝たの……だから辰巳さんが他の人と寝ても、私は何も言えない」
辰巳は驚くどころか、表情すらそのままだった。
それを見て、雪は
「知ってたの……?」
「雪が……
雪が橘花で
辰巳は自身の目で見るまでは信じないと、不安を
(ああ、なんだ……私が嘉兵衛様と寝たから、辰巳さんも……)
裏切られたことを知ったから、辰巳も裏切った。
つまりは、因果応報……
帰ってきてくれた辰巳と、昔のように一緒にいたかった。
しかし、その幸せを手放したのは自身の
母は自分を置いて出て行った。父は自分を捨てて出て行った。
何をしたわけでもなく零れた二つの過去。
今度は自らの手で過去を零してしまったのだ。
「聞いてくれ。お前の所為じゃ……」
「もう、いい」
雪は再びその場を駆けだした。
裏切られた哀しみは尽きなくて、その原因が自分にあるのだとしたら、訪れた痛みこそ
すべてはもう、崩壊していた。
こうなることは決まっていた。
今までも求めたものは、願うも虚しく離れていってしまったではないか。
同じように、離れていっただけ…
……いや、違う。
薬欲しさに彼を裏切らなければ、戻ってきた幸せは離れることはなかった。
手放したのは、私自身。
泣いているのかさえ定かではなかった。
どうしようとは思わない。どうもできないのだから。
彼を失った喪失は、恐怖そのものだ。
感覚の鈍る身体は、いつの間にか人気のない道端に
「どうした…‥って、お雪ちゃん?」
肌と着物に水が落ちなくなったのは、誰かが傘を差しだしてくれたからだった。
聞き覚えのある声も、
「……立てる?このままじゃ体に障るから」
差し出された手を、意図せずに
その大きな手は温かかった。
我に返ったように見上げた先には、和泉がいた。
まるで頼りない幼子を連れているようだと、雪の手を引く和泉は思った。
手を離してしまったら、
時折横を向いては、雪がいなくなっていないかを確かめる。
繋がれた手があるのに、確かめずにはいられないほど、消えてしまいそうな雰囲気があった。
雪の様子は明らかにおかしい。
何があったのか、予想しなくてもわかる気がして、和泉は特に理由を問わなかった。
辰巳に会わせてはいけない。しかし放ってもおけないので、和泉は雪を自身の
「脱いで。俺のしかないけど、冷えるよりはましだろうから」
雪が立っている床にはぽたぽたと、とめどなく水が
普段なら和泉の家ということもあって、床を汚していることを気にするであろう雪は、ただ
「えっ!いや、待って。俺は嬉しいけど……」
突然肌を
しかし雪はといえば、足下に着物を絡めたまま、
(こんなときでも、男ってやつは…)
だからといって、このまま襲ってしまうほどの神経も持ち合わせてはいないが……
和泉は急いで、手拭いと自身の着物を雪に差し出した。
「……辰巳さんが、女の人と
雪が真実を知ってしまうことを、和泉は恐れていた。
和泉は一度、真実を知っていながらも雪に知らないふりをした。
あのとき言っていればよかったのだろうか……
でも、真実を知った雪は、こんなにも壊れている。
決められた運命だとしたら、あまりにも
「私が嘉兵衛様と寝たから……」
和泉の差し出した物を受け取らずに、裸体の雪はその場に
空虚だった雪は、その言葉を吐き出すと同時に感情が
顔を覆いながら声を上げて泣いていた。
「辰巳は知らないだろ。それに、お雪ちゃんは悪いことはしていない」
雪は受け入れがたい真実の
それでも雪の身体が冷たいことには変わらない。
和泉は雪の肩に、着物を羽織らせた。
「
皮肉にも、互いが互いの逢瀬を同じ状況下で目撃してしまった。
でも……という言葉を飲み込んだ和泉は、いたたまれなくなって雪の身体を抱きしめた。
「お雪ちゃんは静介を護ってあげたんだ。誰かにそれを責めるなんて、許されない」
泣きながら首を振る雪は、自分を責めている。
どうして辰巳は雪を苦しめるのか。
雪のことをまだ愛していたから帰ってきたのだと、雪もそう思ったから何も言わない辰巳を許したのだ。
なのに、辰巳がいなくなったときよりも、雪は今の方が苦しみに
「雪!」
盛大な音を立てて、戸口が開いた。
戸口を開けて押し入ったのは、信じられないものを見るかのように二人を見つめる辰巳だった。
ほぼ裸体の雪を、和泉が抱きしめている。
その光景に衝撃を受けて動けない辰巳に、和泉は足早に近づき、恨みのこもった拳を振り下ろした。
「っ……!」
雪は息を止めて、和泉が辰巳を殴りつける瞬間を見ていた。
尻餅をついた辰巳の口からは、
突然の出来事に、雪は声も上げられず、涙も止まっていた。
「お雪ちゃんはずっと、お前だけを想っていたんだ!なのにお前は他の女と寝てただと!ふざけんな!」
普段は穏やかで怒りもしない彼は、たった一人の好いた女のために、感情を
「……俺は雪を苦しめている。謝って許してもらおうなんざ、もう思わねぇよ」
辰巳は
それは、絡まった糸が
きっと、雪は長屋に戻ってこない。
雪が自分の意思で和泉に会いに行ったとしても、彼女を責めることはできないし、責める気持ちを抱くことすら許されなかった。
一緒にいようと誓った大切な人を裏切ったときには、すでに終わっていたのだ。
辰巳は止まない雨に濡れながら、長屋を目指した。
気がかりなのは、静介だ。
雪は雨の中、傘を持って迎えに来てくれた。
ならば静介は誰かに預けられている。
雨が降っているから一緒に連れてこなかったとすれば、長屋の住人にでも預けているはずだ、という考えは、当たっていたらしい。
辰巳は声が聞こえてくる家へと足を踏み入れる。
「やだ、お雪さんと会わなかったのかい?あんたを迎えに行ったのに……」
帰ってこない母への
はじめ女房が驚いたのは、辰巳がずぶ濡れになっているからであったが、彼の頬に殴られたような
「迷惑をかけてすまない」
「……い、いや、いいんだよ。それよりお雪さんは……?」
「…………」
父の姿を見ても、なおもぐずる静介を抱えて、辰巳は自身の家へと帰っていった。
「お前が余計なことを言うから……」
旦那に
辰巳が
雪と辰巳はひと
「だって……知らない方が可哀そうじゃないか」
「帰らないと……」
冷たい身体を火鉢やお茶で温めて、取りあえずの落ち着きをみせた雪はそう言った。
「どうして……あんな奴、放っておけよ」
必死で引き止めようとする和泉に、雪は否定する。
「静介が待っているから……」
雪からしても、辰巳には会いたくない。
だが、預けたままの静介を放っておくことはできなかった。
打ちのめされてぼろぼろになり、それでも我が子のことを想う雪に、和泉は切ない気持ちに駆られる。
そんな雪だから、他人に身体を許してでも静介を護ったのだ。
「おっかさんもおとっつぁんも、私のことを捨てた。だけど私は、絶対に静介のことを捨てない」
「……お雪ちゃん」
雪は家族に恵まれていなかったと、和泉は辰巳から聞いたことがあった。
静介を大事にするその意思は、母としてだけではなく、哀しい過去から形成された思いだった。
早く静介の元に帰るべきだったのに、真実が辛くて、一人になりたくて、和泉が側にいてくれたら彼の前で泣きたくなった。
家の中から聞こえる静介の泣き叫ぶ声は、まるで帰ってこない自分を責めているかのようである。
静介を預けていた所ではなく、自身が住んでいる家から静介の声が聞こえるということは、辰巳も帰ってきているのだろう。
思わず、戸口を開けるのを
辰巳の顔を見れば、一層辛くなることが目に見えているからだ。
それでも母親である以上、覚悟を決めなければならない。
雪はそっと、戸口を開いた。
真っ先に、驚いたように視線を上げる辰巳が視界に入った。
辰巳の腕の中では、まだ母が帰ってきたことに気づかずに泣き続ける静介がいる。
「静介」
雪は辰巳と目を合わせないようにして、静介に聞こえるように
「……っ……おっかちゃ……!!」
静介は一目散に雪へと駆けた。
今度は雪の腕の中で、盛大な
こんな幼子を今まで放っておいたことに、雪の胸には更なる罪悪感が募った。
「ごめんね……おっかさんは静介のこと、絶対に捨てないから……」
もしも和泉の元に居続けていたら、帰りを待つように言い置いて行方をくらました、自身の母と同じことをしていたことになる。
母がいなくなった虚しさは、知っていたはずなのに……
泣きつかれてそのまま眠てしまった静介を、雪は寝床へと横たわらせる。
雪も隣で眠ったのだと、辰巳はしばらく物音のしない背後から感じていた。
……が、小さい
自分が近づきでもしたら、雪はもっと泣くに決まっている。
だから、できることは放っておくこと。
そして雪と静介の元から去って行くことだった。
早朝になって、やっと辰巳の決心が固まる。
寝ている二人に気づかれぬように、名残惜しく家を出て行った。
がたっという音がして、静介は目を覚ました。
はっと隣を見て、雪の姿を確認する。
よかった、おっかさんはいなくなっていないと、次に反対側の隣を見て、静介は
辰巳の姿も、彼が使用している寝具までもがない。
寝具は畳まれたままだった。
目に涙が込み上げたと同時に、戸口の閉まる音がした。
家に入ってきた人はいない。ならば出て行った人がいる。
それは……と気づいたときには、静介は外に向かっていた。
裸足のまま、戸口を開けて辺りを見渡す。
外気に触れて、冬の寒さを自覚する。長屋には朝
姿を隠してしまいそうな靄の中、静介は父の背中を見つけた。
「おとっちゃ!!」
立ち止まり、辰巳は振り返る。
しんとした世界で、静介の声がはっきりと聞こえていた。
出て行くところを静介に気づかれてしまった。
そんなことよりも辰巳の頭を占めているのは、静介が初めておとっつぁんと呼んでくれたことだ。
辰巳は複雑な感情で、否、押し寄せるうれしさのあまり静介を抱きしめていた。
これが、最後になると噛みしめながら……
「しばらく帰ってこられねぇんだ。悪いな」
俺のことは忘れろ。辰巳はその言葉を言えなかった。
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