言わなきゃばれない、と紫乃は言っていた。


嘉兵衛と逢瀬を重ねていたことを辰巳に打ち明ける勇気はないが、関係が終わった今となっても、罪悪感は降り積もってゆく。


罪が消えないのなら、いっそ打ち明けた方がいいのだろうか。


いや、できるはずがない。

彼と絡んだ糸が千切れてしまうのだから。


雪は橘花きっかからの帰り、深呼吸をした後に戸口を開けた。


「おっかちゃ!!」


雪の姿を見て、静介は駆け寄る。

しまいには抱っこをせがんでいた。


「あのね、みろくやに行ったの」


はしゃぐ静介は、その理由が自分が帰ってきたからだけではないとさとる。


「そう。おとっつぁんに連れて行ってもらったのね。よかったね」


今まで待たせていた静介が、こんなにうれしそうにしていたことはなかった。

辰巳のことを覚えていないとはいえ、親子の縁というものは幼子でも感じるところがあったらしい。


「辰巳さん、静介を見ていてくれてありがとう」


「……いや、大人しかったからたいして手間はかからなかった。

なぁ、雪」


辰巳は重々し気に、雪を呼んだ。

雪は静介をおろして辰巳の正面へと座す。

まだ雪に抱えられていたかった静介は、母の背中に手を置いて飛び跳ねていた。


「悪かった。許してくれ」


辰巳の目は真摯しんしに雪を捉えている。


出て行った訳はわからぬまま、一緒にいてほしい。

彼の身勝手な願いを、雪は責められない。


雪もまた、彼に秘めていることがあるのだから。


「……これだけは教えて。私のことが嫌いになったから、出て行ったの?」


「違う。雪は関係ない」


辰巳は即座に否定した。けれど、雪の胸は晴れなかった。


嘘を吐いているとは微塵も疑っていない。

雪は自分にも言えないことがあるのだから、何故訳を言ってくれないのかと辰巳を責めたい気持ちもない。


それは勘ともいえる何かが、このまま上手くいくのだろうかといぶかしがっているのだ。


「……わかりました」


雪の微笑に、辰巳は安堵した。


わだかまりは残ったままで、過去の幸福へは戻れない。

互いに触れもしない、いや、触れることができないのがその証左だった。



冷たい体温は、肌を重ねるうちに熱く火照ってゆく。

荒い吐息が交わる中で、彼女はそっとつぶやいた。


「……どうして、あの人の肌に触れないの?溜まっちゃうじゃない」


愛撫を止めて、ちらと彼女を見る。


「私は、あの人の代わり?」


何一つ答えない自分に構わず、彼女は続けた。


「私が憎い?……いいよ、殺しても」


それ以上、言葉をつむいでほしくなくて、彼女の唇を塞いだ。

彼女はしおらしくなって、身体を委ねてくる。


辰巳、とよがる声は、甘い蜜を装った毒気を含んだものだった。






その光景を目にしたのは偶然だった。


酷く裏切られた心地がしたのは、まだ親友のことを信じていたから。


気づいたときには駆けだしていて、辰巳の前に立ちはだかっていた。

きっと自分は、怒りに満ちた顔をしているのだろう。


辰巳は動揺も、逃げもしなかった。


「言い訳できるならしてみろ」


和泉は冷静に、冷酷に辰巳に問う。


和泉が町で偶然に目撃したのは、出合茶屋であいぢゃやから出てくる辰巳の姿だった。

しかも、辰巳が過去に関係を持っていた女ーーと一緒にである。


辰巳が失踪する前にも、和泉は辰巳がと一緒にいるところを目撃したことがあった。

そのときは出合茶屋ではなくただの飲み屋で、辰巳からもすでにとは縁が切れているときっぱり断言されていた。


だが、今回のことはどう説明するつもりなのだろうか。

目的もなしに出合茶屋に訪れるわけがないのだから。


「……できねぇな」


和泉の右目がぴくりと痙攣けいれんした。


信じていたものは、はじめから存在しなかったのだ。


「……女房以外、抱けなくなったっていうのは嘘だったんだ。

もしかして、わざわざ嫌がらせしに帰ってきたの?」


「…………」


「また黙ったまま何も言わないわけ?

……どの面下げて、お雪ちゃんと一緒にいるつもり?」


どんなに辛くても寂しくても、雪は辰巳のことをずっと待っていた。

その身を汚してまで我が子を護り、帰ってきた辰巳に文句の一つさえ言わなかった。


美しくて、はかなくて、もろい。


そんな雪を、和泉は……


だけど、和泉は雪の芯までもを歪めようとはしなかった。


手に入らなくてもいいから、側で、たとえ雪にとっては影の存在だったとしても、支えるだけの道を選んでいた。


和泉にとって、守りたいのは雪の幸せ。

辰巳は雪の幸せを、芯をも踏みにじったに等しい。

そして、和泉自身も裏切られた。


絶対、許さない……


もう肩を並べて酒を酌み交わすこともないのだろうと、和泉は諦めたように目を閉じる。

瞼の裏には過去の、何の変哲もなくて、それでも楽しかった、辰巳と過ごしていた日常が映し出された。


長い月日をかけて築いてきた絆は、一瞬で崩れ去った。






「出かけてくる」


そう言って辰巳が腰を上げれば、静介が行かせまいと腕にしがみついた。


まだ静介が「おとっつぁん」と口にしたことはない。


しかし、先日弥勒みろく屋に二人で出かけてからというもの、静介は何を言うでもなく辰巳の側にいることが多くなった。

今も辰巳が出て行こうとすれば、こうして引き止めている。


「おとっつぁんに無理させちゃだめよ。

ご飯までには帰ってくるんだから、それまでおっかさんと遊んで待っていようね」


静介は納得のいかない不満顔をしたが、辰巳を引き止めることはやめた。


「聞き分けが良くて静介はいい子だな」


思わず雪はどきりとした。蘇ったのは、かつて父の留五郎に言われた言葉だった。


『雪はいい子だな』


辰巳に頭を撫でられている静介が、子どもの時分の、己の姿と重なる。


酒におぼれ、滅多に帰ってこない父親。

それでも雪は留五郎の愛情が欲しくてになっていた。


留五郎はただ、文句を言わないで銭をくれる娘の機嫌を良くしようと褒めていただけで、父親としての愛情を注いでいたわけではない。


そんな留五郎に気づいていないふりをして、本当は虚しかった過去の自分と静介を重ねてしまったことに、雪は無理矢理に思考を途切れさせる。


「行ってらっしゃい、辰巳さん」


静介も辰巳に、徐々にではあるが懐いてきた。

日常は、戻りつつある。


これでいい……はずなのに、最近の辰巳は、三年前に失踪する直前の、何かを隠しているような、思い詰めたような様子だったときと同じに思えてならなかった。






和泉が家に訪ねて来たのは、静介がひとしきり遊んでお昼寝に至った後だった。


「ごめんなさい。折角来てくれたのに辰巳さんは出掛けていて……

よかったら夕餉をご馳走になっていってください。その頃には辰巳さんも帰ってきますから」


「あ、いや……

近くに用があったから、その前に一寸ちょっと顔を見せただけなんだ」


出合茶屋であいぢゃやで辰巳を目撃した一件以来、とても彼と顔を合わせられない和泉は誤魔化す。


今日は雪に会いたかっただけで、辰巳がいないことを確認してから訪ねていた。


「……和泉さん。辰巳さんの様子、変わったところありませんか?」


和泉は少しだけ目を泳がせてしまった。

戸惑いが伝わってしまったかと雪を視界に収めれば、雪は下を向いていて、どうやら気づかれはしなかったと安堵あんどする。


「前よりやさぐれたとは思うけど、あんなもんでしょ」


「私には、今の辰巳さんは出て行く前の辰巳さんと同じような気がして……

またいなくなったら……」


女の勘は鋭いというが、雪は辰巳の様子に何かを感じ取っている。

まさか浮気をしているとは夢にも思っていないだろうが……


ーー辰巳は、他の女と肌を重ねている。


心の声が、和泉の喉元にまで到達していた。


待ち続けていた夫が帰ってきたというのに、雪の顔は晴れていない。

辰巳が戻ってきても雪が幸せでないのならば、いっそ、真実を言ってしまった方がいいのではないか……


いや、雪にとって辰巳は特別な存在だ。

真実を聞いた雪は、壊れてしまうのではないか……


(どっちが正しいんだ……)


「好きでもない女房の元に帰ってくるわけないって。

そりゃあすぐに前みたいにはならないだろうけど、また出て行くようなことをするほど辰巳はひどい男じゃない」


和泉が選んだのは、残酷な言葉だった。

ただし和泉が真実を打ち明けていたとしても、残酷な言葉を選んでいたことには変わらない。


正しい選択肢なんて、はなから存在しなかったのだ。






日々は否応なく過ぎてゆく。

暦でいうところの睦月むつきに差し掛かっていた。


そぼ降る雨は、雪交じりの雨へと転じた。


辰巳が家を出たときにはまだ曇天の模様で、傘を持たずに出た夫は、何処どこかで傘を調達せずにずぶ濡れで帰ってくるだろうと、雪は辰巳を迎えに行くことにしたのだった。


静介の体調がよくなったとはいえ、こんな天候の日に外を連れまわすことはできない。

それに、幼子の体調に油断はできないものだ。


雪は静介を同じ長屋に住む女房に預けることにした。


「すみません、少しの間だけ静介をお願いします」


「はいよ。

静介ちゃん、熱が出なくなったみたいでよかったわね」


「きっと辰巳さんが帰ってきてくれたお蔭です。

静介にはずっと、寂しい思いをさせていたから」


長屋の女房は、雪の予想と反して浮かない顔になる。

哀れみとは違って、案じているような印象だった。


「……あのね、お雪さん。余計なお節介かもしれないんだけど……

うちの人が見たって言うもんだから」


「見た……?」


「お雪さんの旦那が、出合茶屋から出てくるのを見たらしいのよ。

しかも知らない女と一緒だったって言うもんだから……

もういっそのこと、別れた方がいいんじゃない?上手くいきっこないよ」


地上のありとあらゆるものを打ち付ける雨の音が、うるさいほどに響いている。

なのにどうして、この言葉をかき消してはくれなかったのだろうか。



早く、早く彼の元に行かなければ。

でないとこの胸は、不安で押しつぶされてしまう。


冷たい雨がより一層、みじめな心を駆り立てていた。


(違う……きっと、勘違いしてるだけ……)


誰が何と言おうと疑うことはできない。

自分がどう思うかは自分が決める。


いわれのない噂を蔓延まんえんされていたとき、彼はそう言ってくれた。

あの言葉に、どれだけ救われたか。


この目で見るまでは、信じない……



雪は辰巳の姿を見つけて、安堵あんどで微笑む。


今日で呉服問屋の用心棒が終わると言っていたが、ちょうど帰りに鉢合わせることができたようだ。


「た…………」


彼の名前を呼ぼうとした刹那、その目に飛び込んできた光景に身体が動かなくなる。

辰巳が出てきた店は何の店だろうか。正確には二人が出てきた、だ。

店から借りたのであろう傘を差しだされた女は、それを受け取らずに辰巳に抱きついた。

見せつけるかのように、辰巳の背中に手を回した女は雪を見据えている。雪は思わず一歩、後退あとじった。

女は不敵に、笑っている。

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