言わなきゃばれないと、紫乃は言っていた。


 嘉兵衛と逢瀬おうせを重ねていたことを辰巳に打ち明ける勇気はないが、関係が終わった今となっても、罪悪感は降り積もってゆく。


 罪が消えないのなら、いっそ打ち明けた方がいいのだろうか。


 いや、できるはずがない。

 彼と絡んだ糸が千切れてしまうのだから。


 雪は橘花きっかからの帰り、深呼吸をした後に戸口を開けた。


「おっかちゃ!!」


 雪の姿を見て、静介は駆け寄る。

 しまいには抱っこをせがんでいた。


「あのね、みろくやにいったの」


 はしゃぐ静介を見て、雪はその理由が自分が帰ってきたからだけではないとさとる。


「そう。おとっつぁんに連れて行ってもらったのね。よかったね」


 今まで待たせていた静介が、こんなにうれしそうにしていたことはなかった。

 辰巳のことを覚えていないとはいえ、親子の縁というものは幼子でも感じるところがあったらしい。


「辰巳さん、静介を見ていてくれてありがとう」


「……いや、大人しかったからたいして手間はかからなかった。……なぁ、雪」


 辰巳は重々し気に、雪を呼んだ。

 雪は静介をおろして辰巳の正面へと座す。

 まだ雪に抱えられていたかった静介は、母の背中に手を置いて飛び跳ねていた。


「悪かった。許してくれ」


 辰巳の目は真摯しんしに雪をとらえている。


 出て行った訳はわからぬまま、一緒にいてほしい。

 彼の身勝手な願いを、雪は責められない。


 雪もまた、彼に秘めていることがあるのだから……


「……これだけは教えて。私のことが嫌いになったから、出て行ったの?」


「違う。雪は関係ない」


 辰巳は即座に否定した。けれど、雪の胸は晴れなかった。


 嘘を吐いているとは微塵みじんも疑っていない。

 自分にも言えないことがあるのだから、なぜ訳を言ってくれないのかと辰巳を責めたい気持ちもない。


 勘ともいえる何かが、このまま上手くいくのだろうかといぶかしがっているのだ。


「……わかりました」


 雪の微笑に、辰巳はほっと息を吐いた。


 しかしわだかまりは残ったままで、過去の幸福へは戻れない。

 互いに触れもしない、いや、触れることができないのがその証左だった。


  *


 冷たい体温は、肌を重ねるうちに熱く火照ってゆく。

 荒い吐息が交わる中で、彼女はそっとつぶやいた。


「……どうして、あの人の肌に触れないの?溜まっちゃうじゃない」


 愛撫あいぶを止めて、ちらと彼女を見る。


「私はあの人の代わり?」


 何一つ答えない自分に構わず、彼女は続けた。


「私が憎い?……いいよ、殺しても」


 それ以上、言葉をつむいでほしくなくて、彼女の唇を塞いだ。

 彼女はしおらしくなって、身体をゆだねてくる。


 辰巳、とよがる声は、甘い蜜を装いながら毒気を含んだものだった。


  *


 その光景を目にしたのは偶然だった。


 ひどく裏切られた心地がしたのは、まだ親友のことを信じていたからだ。


 気づいたときには駆けだしていて、辰巳の前に立ちはだかっていた。

 きっと自分は、怒りに満ちた顔をしているのだろう。


 辰巳は動揺も、逃げもしなかった。


「言い訳できるならしてみろ」


 和泉は冷静に、冷酷に辰巳に問う。


 和泉が町で偶然に目撃したのは、出合茶屋であいぢゃやから出てくる辰巳の姿だった。

 しかも、辰巳が過去に関係を持っていた女──と一緒にである。


 辰巳が失踪する前にも、和泉は彼がと一緒にいるところを目撃したことがあった。

 そのときは出合茶屋ではなくただの飲み屋で、辰巳からもすでにとは縁が切れているときっぱり断言されていた。


 だが、今回のことはどう説明するつもりなのだろうか。

 目的もなしに出合茶屋に訪れるわけなど、ないに決まっている。


「……できねぇな」


 和泉の右目がぴくりと痙攣けいれんした。


「……女房以外、抱けなくなったっていうのは嘘だったんだ。もしかして、わざわざ嫌がらせしに帰ってきたの?」


「…………」


「また黙ったまま何も言わないわけ?……どの面下げて、お雪ちゃんと一緒にいるつもりなんだ」


 どんなに辛くてさみしくても、雪は辰巳のことをずっと待っていた。

 その身を汚してまで我が子を護り、帰ってきた辰巳に文句の一つさえ言わなかった。


 美しくて、はかなくて、もろい。

 そんな雪を、和泉は……


 だが和泉は、雪の芯までもを歪めようとはしなかった。


 手に入らなくてもいいから、そばで、たとえ雪にとっては影の存在だったとしても、支えるだけの道を選んでいた。


 和泉にとって守りたいのは、雪の幸せである。

 辰巳は雪の幸せを、芯をも踏みにじったに等しい。

 そして、和泉自身も裏切られた。


 絶対、許さない……


 もう肩を並べて酒を酌み交わすこともないのだろうと、和泉はあきらめたように目を閉じる。

 まぶたの裏には過去の、何の変哲もなくて、それでも楽しかった、辰巳と過ごしていた日常が映し出された。


 長い月日をかけて築いてきた絆は、一瞬で崩れ去った。


  *


「出かけてくる」


 そう言って辰巳が腰を上げれば、静介が行かせまいと腕にしがみついた。


 まだ静介が「おとっつぁん」と口にしたことはない。


 しかし、先日弥勒みろく屋に二人で出かけてからというもの、静介は何を言うでもなく、辰巳の傍にいることが多くなった。

 今も辰巳が出て行こうとすれば、こうして引き止めている。


「おとっつぁんに無理させちゃだめよ。ご飯までには帰ってくるんだから、それまでおっかさんと遊んで待っていようね」


 静介は納得のいかない不満顔をしたが、辰巳を引き止めることはやめた。


「聞き分けが良くて静介はいい子だな」


 思わず雪はどきりとする。よみがえったのは、かつて父に言われた言葉だった。


『雪はいい子だな』


 辰巳に頭をでられている静介が、子どもの時分の己の姿と重なる。


 酒におぼれ、滅多に帰ってこない父親。

 それでも雪は留五郎の愛情が欲しくて、いい子になっていた。


 留五郎はただ、文句を言わないで金をくれる娘の機嫌を良くしようと褒めていただけで、父親としての愛情を注いでいたわけではない。


 そんな留五郎に気づいていないふりをして、本当は虚しかった過去の自分と、静介を重ねてしまったことに、雪は無理矢理に思考を途切れさせる。


「行ってらっしゃい、辰巳さん」


 静介も徐々にではあるが、父親に懐いてきた。

 日常は、戻りつつある。


 これでいい……はずなのに、最近の辰巳は、三年前に失踪する直前の、何かを隠しているような、思い詰めたような様子と、雪は同じに思えてならなかった。



 和泉が家に訪ねて来たのは、静介がひとしきり遊んでお昼寝に至った後だった。


「ごめんなさい。折角来てくれたのに辰巳さんは出掛けていて……よかったら夕餉ゆうげをご馳走になっていってください。その頃には辰巳さんも帰ってきますから」


「あ、いや……近くに用があったから、その前にちょっと顔を見せに来ただけなんだ」


 出合茶屋であいぢゃやで辰巳を目撃した一件以来、とても彼と顔を合わせられない和泉は誤魔化した。

 今日は雪に会いたかっただけで、辰巳がいないことを確認してから訪ねていたのである。


「……和泉さん。辰巳さんの様子、変わったところありませんか?」


 和泉は少しだけ目を泳がせてしまった。

 戸惑いが伝わってしまったかと雪を視界に収めれば、雪は下を向いていて、どうやら気づかれはしなかったと安堵あんどする。


「前よりやさぐれたとは思うけど、あんなもんでしょ」


「私には、今の辰巳さんは出て行く前の辰巳さんと同じような気がして……またいなくなったら……」


 女の勘はするどいというが、雪は辰巳の様子に何かを感じ取っている。

 まさか浮気をしているとは夢にも思っていないだろうが……


──辰巳は、他の女と肌を重ねている。


 心の声が、和泉の喉元にまで到達していた。


 待ち続けていた夫が帰ってきたというのに、雪の顔は晴れていない。

 辰巳が戻ってきても雪が幸せでなければ、いっそ、真実を言ってしまった方がいいのではないか……


 いや、雪にとって辰巳は特別な存在だ。

 真実を聞いた雪は、壊れてしまうのではないか……


(どっちが正しいんだ……)


「好きでもない女房の元に帰ってくるわけないって。そりゃあすぐに前みたいにはならないだろうけど、また出て行くようなことをするほど、辰巳はひどい男じゃない」


 和泉が選んだのは、残酷な言葉だった。

 ただし和泉が真実を打ち明けていたとしても、残酷な言葉を選んでいたことには変わらない。


 正しい選択肢なんて、はなから存在しなかったのだ。


  *


 日々は否応なく過ぎてゆく。

 暦でいうところの睦月むつきに差し掛かっている。


 そぼ降る雨は、雪交じりの雨へと転じた。


 辰巳が家を出たときにはまだ曇天の模様で、傘を持たずに出た夫はずぶ濡れで帰ってくるだろうと、雪は辰巳を迎えに行くことにした。


 静介の体調がよくなったとはいえ、こんな天候の日に外を連れまわすことはできない。

 それに、幼子の体調に油断はできないものだ。


 雪は静介を同じ長屋に住む女房に預けることにした。


「すみません、少しの間だけ静介をお願いします」


「はいよ。静介ちゃん、熱が出なくなったみたいでよかったわね」


「きっと辰巳さんが帰ってきてくれたおかげです。静介にはずっと、寂しい思いをさせていたから」


 長屋の女房は、雪の予想と反して浮かない顔になる。

 哀れみとは違って、案じているような印象だった。


「……あのね、お雪さん。余計なお節介かもしれないんだけど……うちの人が見たって言うもんだから」


「見た……?」


「お雪さんの旦那が、出合茶屋から出てくるのを見たらしいのよ。しかも知らない女と一緒だったって言うもんだから……もういっそのこと、別れた方がいいんじゃない?上手くいきっこないよ」


 地上のありとあらゆるものを打ち付ける雨の音が、うるさいほどに響いている。

 なのにどうして、この言葉をかき消してはくれなかったのだろうか。



 早く、早く彼の元に行かなければ。

 でないとこの胸は、不安で押しつぶされてしまう。


 冷たい雨がより一層、みじめな心を駆り立てていた。


(違う……きっと、勘違いしてるだけ……)


 誰が何と言おうと、疑いたくはない。


 どう思うかは、自分が決める。

 いわれのない噂を蔓延まんえんされていたとき、彼はそう言ってくれた。

 あの言葉に、どれだけ救われただろうか。


 この目で見るまでは、信じない……


 雪は辰巳の姿を見つけて、安堵あんどで微笑む。

 ちょうど彼の帰りに鉢合わせることができたようだ。


「た…………」


 彼の名前を呼ぼうとした刹那、その目に飛び込んできた光景に身体が動かなくなる。

 辰巳が出てきた店は何の店だろうか。正確には二人が出てきた店、である。

 店から借りたのであろう傘を辰巳に差しだされた女は、それを受け取らずに彼に抱きついた。

 女は雪に気づいて、不敵に笑っている。そして見せつけるかのように、辰巳の背中に回した手をわせる。雪は思わず、一歩後退あとじさった。

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