辰巳が帰ってきてから半月が経とうとしていた。

 以前と同じく用心棒を勤め始めた辰巳は、家を空けることも多くなり、相変わらず雪とのわだかまりは解消されずに、静介との距離も縮められずにいる。

 雪は毎日彼と顔を合わせるよりも、今の生活に安堵あんどしていた。


 辰巳といると、どうしていなくなったのかを問いたくて仕方なかったし、彼に対する罪悪感にも押しつぶされそうになる。


 もはや夫婦として比翼連理ひよくれんりもあったものでない。


 おまちはおろか、紫乃からも辰巳と離れた方がいいと言われる始末だった。


 このままだらだら辰巳といても、よくないことはわかっている。

 未練、執着、恋慕。雪が辰巳から離れられないのは、そのすべてだ。


 ただ、辰巳が帰ってきてから一つだけ良いことがあった。

 それは、静介が熱を出す頻度が、少なくなったからである。

 成長するにつれて、身体が丈夫に育ってきているだけかもしれないが、いつもならとっくに熱を出していてもおかしくはないほどの日数が経ち、静介は元気そのものだった。


 静介の発熱は、身体が弱かったという理由だけでなく、精神的な問題もあったのかもしれないと、雪は考えさせられる。

 内職をしてばかりで静介をかまってあげられないことが多く、何より、頼りになる父親がずっといなかったことがさみしかったから、心も弱っていたのかもしれない。


 辰巳と会話すらできない静介だが、その戸惑う気持ちを除けば、辰巳に対してはそれなりの感情が芽生え始めているのだろうかと、最近は思うようになっていた。


 なら、まずは自分が変わらなくてはいけない。


 蟠りができてしまったとはいえ、親が気持ちを通わせていなければ、子どもが懐くわけがないのだ。


 辰巳と一緒にいたいと願ったのは己自身。

 言いたいこと、言えないこと、すべてを封じ込められなければ、残された道は辰巳と別れることである。

 それが嫌なら、我慢をしてでも辰巳を許して受け入れる。

 三人での幸福を求めた雪は、ぎこちなく笑ってみせた。


 用心棒の仕事を終えて辰巳が帰ってくる日、雪は意気込んで彼の帰りを待っていると、一人の男が家を訪ねてきた。


「ご無沙汰しております」


 この丁寧な男は平太である。

 彼が訪ねるときは、嘉兵衛との逢瀬おうせが約束されたときで、それ以外に来たことがない。

 どうしてと思いつつ、雪は応対する。


 辰巳が帰ってきて、しかも静介が熱も出していなければ、逢瀬を求める印である紐を祠に結んでもいない。

 雪の身体は強張っていた。


「音沙汰がなかったもので……坊ちゃんはお元気ですか?」


「ええ……近頃、熱が出ないものですから」


「よかったですね。ご隠居が聞いたら喜びます。うちの薬は良く効くってはくがつきますし」


 嘉兵衛が静介を案じているのは本当のことだった。

 雪に会いたいがためにわざと薬の量を減らしたりはせず、そのときの容態に見合っただけの量をくれる。


 辰巳以外に身体を許すことが嫌なだけで、雪が嘉兵衛に対しての嫌悪感がないのは、嘉兵衛の為人ひととなりゆえだ。


「その……ご隠居が会いたいと仰っております。明日のひつじの刻、橘花きっかで待ってると」


 犯した罪に対しては、きちんとけじめをつけなければいけない。

 逃げることは通用しないのだと、雪はさとった。


「わかりました。必ずうかがいます」



 見覚えのない男が家を訪ねていた。そして、見知った感じで雪と話している。


 辰巳は咄嗟とっさに物陰に隠れて二人の会話を盗み聞いた。


 わかったのは、雪は誰かの誘いを受けていて承諾したこと。

 とてつもなく悪い予感がするのは気のせいだと自身に納得させるため、辰巳はしばらくその場から動けなかった。


  *


 嘉兵衛の前では小綺麗でいなくてはと、雪はいつも入念に化粧を施していた。


 いた人の前で見栄を張るのとはどこか違う。

 相手が大店のご隠居だからと気を遣ってもいたが、一見取りつくろうことで。嘉兵衛を利用していたのだ。


 ああ、すごく嫌な人間になってしまったと、鏡に映る自分を軽くにらんだ。


「出かけてきます。静介を見ててください」


 雪は静介を辰巳に預けて、家を後にした。



「雪、会いたかった」


 薄暗い部屋の中で、嘉兵衛は雪の手を引いた。


 雪が嫌がってしまう前に、柔肌を隠す着物を剝がそうとする。


「待って……!」


 あらわになった小さい肩へと吸い付こうとした嘉兵衛は、雪の抵抗にあって動きを止める。


 はじめは本音を隠せない雪でも、静介のためとささやけば、やがては従順になるのに、今日は泣いてしまいそうなほどに瞳を揺らしていた。

 いつもとは様子の違う雪を見て、嘉兵衛は雪から身体を離す。


 雪は、はだけた着物を整えてから、嘉兵衛に向き直った。


「お願いします……どうか今日限りで、終わりにさせてください。旦那が……辰巳さんが帰ってきてくれたんです」


「雪……」


 床に額をつけたまま、雪は頭を下げ続けた。


「肩代わりしてくださった借金は返します。必ず、すべて返しますから……」


「……雪、顔を上げなさい」


 嘉兵衛にうながされた雪は、再び嘉兵衛に向き直る。

 嘉兵衛がどんな顔でいるのか、雪は恐れた。

 一方的におどされていたわけではない。

 嘉兵衛が雪を利用していたのは事実だが、雪が嘉兵衛を利用していたのも事実だ。


 一度身体を許しておきながら、もうやめてと懇願する。

 もしも嘉兵衛が納得してくれなかったらと、いや、納得してくれるはずはないだろうと、危惧きぐしていた。


「よかったじゃないか。ずっと健気けなげに旦那を待っていた雪を、あの祠の神様はちゃんと見ていてくれたんだ」


「…………!」


 雪の目の前には、穏やかな笑みを向ける嘉兵衛がいる。とても雪の身体を欲しているような顔ではない。

 雪は言葉に詰まってしまった。


「すまなかった。年甲斐もなく雪にこいをして、雪の弱さにつけこんだ。旦那を裏切る真似までさせて、でも雪はいつだって旦那のことだけを想っていたね」


「嘉兵衛様……」


「ああ、そうか……今日で雪と会うのは最後になるのか……」


 哀しい笑顔が、雪の心をくすぐった。

 自分がとてつもなくひどいことをしていると、そんな気にさせられる。


「よかったと言ってくれたのは、嘉兵衛様だけです」


 言ってくれなかった他の人を悪く言っているわけではない。

 大事な人を想えばこそ、誰もが否定したのだとはわかっている。


 だが、嘉兵衛の嘘偽りのない言葉に、素直にうれしいと感じた。


「儂は旦那のことをよく知らんからな。無責任な言葉かもしれん」


「嘉兵衛様はいつも優しかったから……私のことをおざなりに扱っていたなら、きっと痛くて仕方なかったはずです」


 どうでもよくて、ただ身体だけを求めていたのならば、行為の最中は激痛にさいなまれていたはずだ。

 かつて暴漢に襲われたときのように……


 でも嘉兵衛の導く手には、至誠しせいがあった。


「それ以上褒められると、雪をあきらめきれなくなるぞ……普段は大人しいのに意外にも芯がある。儂はそこにれたのだよ。最後のお願いだ……今だけでいいから、儂の想いを忘れないでくれ」


「嘉兵衛様のことは明日も、その先も忘れません」



 好きになったひとがいた。

 手に入れたくて、彼女の弱みに付け込んだ。


 彼女は泣いた。帰ってこない旦那を想って。


 彼女は笑った。帰ってきた旦那を想って。


 今この瞬間だけは、彼女は自分を想っている。

 嘉兵衛はそれで満足だった。


  *


 雪が出かけるときに泣きそうだった静介は、けれど辰巳と一緒にいることに拒否感を示さなかった。

 てっきり自分と一緒にいることを嫌がるだろうと身構えていた体は脱力する。

 同時に、静介の父親でいられるような気がして、内心気持ちは高揚していた。


 しかし、いざ雪の帰りを二人で待っていると、静介の様子は普段と変わらない。

 静介はただ聞き分けが良かっただけで、自分に懐いたわけではないのだと思い知らされた。


 一人であやとりをする静介に何を話せばいいのか、考えあぐねても言葉は浮かばない。


 結局、辰巳は貸本に目を落とすことにする。

 それぞれ交わらない親子は、そこに雪の姿がいないというだけで、いつもと同じだった。


 しばらくして、静介はあやとりを止めて落ち着かない素振りをした。辰巳は貸本に夢中になっていて、まだその様子に気づいていない。


 今度は立ち上がって、その場を行ったり来たりとせわしなくなって、辰巳も気づくところとなった。


「静介、どうした?」


 何かに耐えるような表情で、静介は辰巳の前まで駆け寄る。

 やがて我慢できなくなったというように、口を開いた。


「ちっち!」


 辰巳はすぐに言葉の意味を理解しかねた。


 聞いたことがある……たしか、静介は雪にもそう言っていたことがあった。

 雪はそのあと急いで静介を抱えて……


 合点した瞬間、辰巳は雪と同じ行動をした。


(間に合った……)


 正確には、静介が間に合ったという意である。


 子ども言葉で尿意を示したことは可愛いとはいえ、子どもから初めて言われた言葉が「ちっち」とは、何とも味気ないものだ。

 初めて静介から言われる言葉は「おとっつぁん」がよかったというのはここだけの話……


「もう終わったか?」


 静介は首を振る。やはりまだ話してはくれないようだ。

 さっきの言葉だって、我慢できなくなった末の叫びで、父親と話したくなったからというわけではない。


 かわやで静介を支えながら座り込んでいると、どこからともなく声が聞こえてきた。


「ほら、帰ってきてるみたい」


 ひそひそと囁く、複数人の声が聞こえる。

 嫌に視線を感じて、それが自分のことを指しているのだと、辰巳はすぐにわかった。


 隠しているわけではないが、自分が帰ってきたことは長屋の住人に知られるところとなったらしい。

 後ろを振り向けば、長屋の女房連中の好奇の目と合うことになる。

 辰巳は気づかないふりをした。


「でもお雪さんはあの人とできてるんじゃ……」


「そうよ。いきなり帰ってこられて、一番困ってるのはお雪さんよ」


 あの人を指しているのは和泉か、それとも今日会っている人物か。

 決定的な証拠もないのに、そもそも疑うこと自体、自分には許されていないはずなのに。

 雪が男と会っていると想像するだけで、とてつもなく不快になるのだ。


 辰巳が一番憂いているのは、雪と和泉の関係だった。


 和泉は雪のことをいていた。雪がその気持ちに応えていたら……


 何故、雪を信じてあげることができないのか。

 雪との空白の三年間は、どうあらがっても埋まりようがないことを知っているからだ。


 じっと固まってしまった体を、静介が身じろぎしたことで我に返った。


「少し出かけるか」


 静介は小さくうなずく。微かに笑ってくれたことに、辰巳は安堵あんどする。


 赤子の頃より重くなった静介を抱えて、辰巳は神田の町を歩いていた。

 あめでも買ってあげようか、それとも静介は外で走り回る方が好きなのか。

 何も知らない我が息子は眠っているかのように大人しい。


「行きたいとこあるか?」


「みろくや」


 返事は期待していなかった。

 ただ小腹が空いているだけかもしれないが、意外にも返事をくれて浮かれてしまう。

 だが、その場所に足を向けるのは躊躇ためらいがあったので、すぐに心は落ち着いた。


 きっと、自分が帰ってきていることを弥勒みろく屋を営んでいる夫妻はすでに知っているのだろう。


 悪戯いたずらをしてしまい、怒られるのが嫌で家に帰りたくない子どものような気持ちで、辰巳は江戸に帰ってきてから一度も、弥勒屋へは足を運んでいなかった。

 それに、常連客である最近気まずいままの和泉と顔を合わせる恐れがあったので、なおさらである。


(逃げてばかりだな……)


 いい大人が、しかも一児の親が、かっこ悪いことをしていると、辰巳は腹をくくった。


「よぉ」


 昼時を過ぎて、ちょうどお松は暖簾のれんを下げているところだった。


「辰巳……」


 お松は辰巳を前に、放心したように立っていた。

 やがて泣いているような、怒っているような顔で辰巳に詰め寄る。


「今まで何処に行ってたんだい!急にいなくなったと思ったら、今日和泉から帰って来たって聞いて、これから会いに行こうとしたら……」


 勢いでまくし立てるお松は混乱している。

 お松の言葉は、本来雪が言いたい言葉のようにも聞こえた。


 店の中に入れば、主人の卯吉は安心したように目を細めた。


「本当に帰って来てらぁ……静坊、おとっつぁんが戻ってきてよかったな」


 うんうんと頷くお松は、涙まで流している。

 今さら、二人がどんなに自分を気にかけていてくれたのかを思い知って、二の足を踏んでいた自分がひどく情けなくなった。


 静介は泣いているお松を心配そうに見ていた。その静介を心配させまいと、お松は笑顔で言う。


「なんでもないよ。そうだ、美味しいものを作ってあげるからね」


「すまねぇな。暖簾下げちまったのに」


 お松はかぶりを振った。


「お前さんが帰ってきてくれて、私だってうれしいんだから」


 じんわりと、生温かいものが心に染み込む。辰巳は久方ぶりにその感覚を味わった。


 雪は変わってしまった。自分が帰ってきたことがうれしくないのかもしれない。

 だって和泉とねんごろになっていれば、邪魔な存在でしかない。

 和泉だって、邪魔者が帰ってきたと思っているに違いない。


 とは、なんて愚かな考えだったのか。

 自分がどう思われているかを気にしてばかりで、雪のことも、和泉のことも考えていなかった。


 お松と卯吉に対しても、二人の気持ちをないがしろにしていたのだ。


 店内には胡麻油の香りと共に、何かを油で揚げる音が聞こえる。


 待ちきれない様子の静介は、時折厨房の方を眺めたりしていたが、隣で寡黙かもくに座る辰巳を見て、真似るように座った。


 そう時を経たずに厨房から現れたお松は、二人の前に料理を運んだ。


「餅か?」


「そう。手軽に食べれて腹も膨れるし、最近ちょっとしたおかずにって、うちで出し始めたのよ」


 一寸(約三センチ)程度の丸い形をした餅が数個、皿の上に乗っている。

 餅には醤油と鰹節がかけてあって、雪が焼餅を食べるときの味付けと同じだった。


 辰巳が餅を食べようとしたとき、視界の端でまだ箸の使えない静介がやっとのこと、さじで餅をすくい上げているのが見えた。

 しかし口の中に入れるすんでのところで、餅はころんと座敷の上に落ちてしまった。


 とたんに哀しい顔をした静介がいたたまれなくなって、辰巳は自身が食べようとしていた箸でつままんでいる餅を、静介の口へと運んだ。


「ん!おいちいの!」


 静介が落としてしまった餅を片付けているお松は、二人の親子を微笑ましく見やる。


 辰巳も静介の反応に幾分表情を和らげて、自身も餅を口に入れた。


 かり、もち。

 餅は油で揚げられていて、表面はかりかりだった。中身は餅本来の柔らかさがあり、二つの感触がちょうど良く、染み込んだ醤油と噛みしめるごとに味わい深くなる鰹節が、さらに舌をうならせた。


 ひとたび目を離せば、今度は口の周りに鰹節をつけて、危なっかしい手つきで餅を食べている静介がいる。


「こぼさねぇで食え」


 また箸で食べさせてやれば、静介は自分で食べようとしなくなった。

 食べ終えれば辰巳の方をじっと見て、食べさせてくれるのを待っている。


 溜息を吐きたい辰巳だったが、小さい子どもなのだから仕方がない。


 そういえば、雪も食事のときは静介に食べさせてばかりで、雪自身の食事が遅れることは常だった。

 気づかないだけで、さっきのようにこぼしてしまうこともあるだろうに、三年もの間、雪に任せっきりにしていただけではなく、今なお素知らぬ顔で食事をしていたということになる。


「お雪さんは偉いよ。こんな小さい子を一人で育ててたんだから」


 辰巳の心を見透かしたように、お松が言った。


「お雪さん、怒ってるんじゃない?」


「……ああ、すごく」


 馬鹿だねぇとつぶやくお松は、あきれてしまったようにそれ以上を言わない。

 代わりに、卯吉が辰巳に言った。


「素直に謝っちまった方がいいですぜ」


 辰巳は内心、はっとした。


(俺は、謝りすらしていない……どれだけ最低な男なんだ……)


 静介は父親の胸中も知らずに、笑顔で餅をんでいた。



 食事を終えた静介は、うとうとし始めたかと思うと、すぐに寝付いてしまった。


 まったく子どもは自由だと独りちながら、息子の寝顔が可愛くて表情が緩みきっていることを自覚できずにいる。

 

 辰巳は静介を背負って、弥勒屋を後にした。

 そして、歩き出した直後のことだった。


「辰巳」


 懐かしい声だとは思わなかった。

 聞き慣れたような、そんな感覚なのに、身体は強張っている。


 わかった……この声は……

 どうして、彼女の声が聞こえる……?

 振り返った先には……


「さと……!何で、お前がここに……」


 辰巳は目を見開いた。

 目の前にいる女は紛れもなく彼女で、信濃しなのにいるはずの彼女がここにいる事実に、頭が追いつかなかった。


「貴方に会いたかったから」


「…………」


 さとはふっと、頼りなげに笑ってみせた。


藤次郎とうじろうはどうしたんだ……?まさか、あいつもここに……」


「兄さまはいない。江戸へは一人で来たんだもの」


「一人って……」


 さとの思考が読めなかった。

 知っている彼女ではないような気がして、けれど声も所作も、彼女そのものだった。


「今日は辰巳に教えてあげたいことがあっただけ。久しぶりの親子水入らずを邪魔したら悪いし」


 まだ驚いたままの辰巳に構わずに、さとは続けた。


「今日、貴方の妻が何処どこに行ったのか知ってる?」


「……さあな」


 反射的に辰巳は答えてしまったが、さとが雪の話をしていることに、背中に汗が伝った。


「やっぱり知らなかったのね……あの人は身体を売ってるのよ」


「…………」


 あまりにも唐突で、反論よりも戸惑いの方が勝っていた。

 対するさとは淡々と、言葉をつむいでいる。


「その子、ずっと身体が弱かったみたい」


 さとの視線は、辰巳の背中から少しだけ寝顔をのぞかせている静介に向けられた。


「薬代が払えなくなって、借金までして、挙句の果てには身体を売って薬をもらっている。可哀そう……全部、貴方の所為せいよ」


「嘘だ。……そんなの、信じるわけねぇだろ」


「なら、自分で確かめてみればいいわ。橘花きっかってお店に、あの人はいる」


──橘花で待っていると……


 昨日、雪と話していた男の言葉が脳裏によみがえる。男は確かにその店の名を口にしていた。


 呆然ぼうぜんと立ち尽くす辰巳の頬に、空から小さい雪片が舞い降りた。

 何もない白銀しろがねの世界へと再び引き戻されそうになる暗示のようで、辰巳は忌々いまいまし気に、頬に付いた雪を拭った。

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