第四幕 昔を今に

「辰巳さん……!」


 目の前の光景を疑わずにはいられない。


 無造作に伸ばした髪を一つにまとめ、無精髭ぶしょうひげを生やし、やつれた風情をかもし出しているその人は、ずっと待ち続けていた人である。


「雪……今帰った」


 自分を呼びかける懐かしい声に、涙が込み上げた。


 今まで何処どこにいたのか、どうしていなくなってしまったのか、聞きたいことはたくさんあるのに、それよりも彼が帰ってきた安堵あんどの方が勝った。


「お前、辰巳なのか……?」


「幽霊にでも見えるのかよ」


 突然の来訪者に戸惑っている静介は、和泉の背中に隠れている。

 戸惑っているのは和泉も、雪も一緒で、思考が追いつけないでいる頭で和泉は彼に聞いた。


「その憎まれ口は辰巳、だな……今まで何処どこに行ってたんだ?お前が急にいなくなって、俺も、お雪ちゃんもずっと心配して……」


 口を開いてしまえば、和泉は彼にこれまでの怒りをぶつけそうになった。

 雪がどれだけさびしい思いをしていたか、そして雪の苦悩を、彼に問い詰めてやりたいという激しい衝動をすんでのところで和泉は抑える。


 和泉の衝動をとどめたのは、背中に感じる静介の感触だった。


「……信濃しなのにいた」


 それは、彼の故郷である。


 初めて知る事実に、雪たちは驚きを隠せない。


「どうして今更……」


 かつて属していた剣客けんかく集団を抜けたときに、和泉は彼と二人で、もう帰ることはないと振り返りもせずに故郷を後にしていた。


 過去は捨てたつもりだった。

 なのに辰巳は、ずっと捨てられずにいて、また故郷へ帰ったというのだろうか。


一寸ちょっとばかし用があったんだ」


(一寸だって……?)


 約三年もの月日を雪は待っていた。

 それを一寸と済ませ、しかも明確な理由を言わない辰巳に、和泉は怒鳴りたい気持ちを必死に隠す。


 小さい子どもがいる前で怒鳴りたくはない。ましてや、一番に怒りをぶつけたいのは雪だ。


「帰ってきてくれたの?」


 涙をこぼしながら問う雪の言葉は、初めて彼と出会ったときにかけた言葉と同じだった。


 もしも過去の幸せに戻れるのなら……

 雪の願いは、時が無常に過ぎてゆく中でははかないものだった。


「ああ。もう、雪の前からいなくなったりしねぇよ」


  *


 静介を抱えながら、雪は小走りで道を急いでた。

 人波をかき分けて駆けこんだ先は、紫乃の家である。


「紫乃さん、いる?」


「雪?入っていいわよ」


 戸を叩いた手も、呼び声も、そして雪の様子があわてているのを見て、紫乃は目を丸くした。

 こうも雪が感情を表に出していることがめずらしい。


「どうしよう……辰巳さんが、帰ってきた」



 雪は紫乃からもらったお茶を、火傷やけどをしないように気をつけながら、喉へと流し込む。

 湯飲みを持つ手は、微かに震えていた。


「黙って出て行った男だけに、帰るときも急なのね」


 のんびりと話す紫乃だが、内心では辰巳に対する疑心や怒りに満ちている。

 だが、雪の言葉を待たずして、気持ちを吐露とろしなかった。


「昨日帰ってきたんです。朝起きても隣にいたから、夢じゃないって……」


 ありきたりな頬をつねるという行為をしても、辰巳が側にいることが夢ではないとわかった。

 辰巳がいなかった三年という月日は、すぐに埋まるわけもなく、むしろ辰巳がいることが違和感でしかない。

 どうすればいいのかがわからずに、雪は紫乃を頼った次第だ。


「今まで何処どこにいたのよ」


「……信濃しなのにいたみたい」


「何でいなくなったのかは聞いたの?」


 首を振る雪の表情はかげっていた。


 二人の馴れ初めは、怪我を負った辰巳が雪の家に転がり込んだことから始まる。

 素性の知れない辰巳に、しかし雪は何も聞かなかった。

 そして今回もまた、雪は何も聞かないでいる。


 聞いてしまえば、辰巳との関係が終わってしまうと危惧きぐしていたのだが、今回に至っては是が非でも訳を聞きたいと、さすがの雪も思っていた。

 それでも問わなかったのは、辰巳が絶対に話してはくれないという、確たる意思を感じ取っていたからだ。



『お前は、何も聞いてこないんだな』


『……聞いたら、どうして出て行ったのかを教えてくれるんですか?』


 辰巳は沈黙して、それきり何も言わなかった。



「一発くらいぶん殴ってもいいわよ、そんな男。雪、すごく怒ってる」


「え……」


 紫乃に言われて、雪は初めて自分が怒りを覚えていることに気づいた。


 どうして何も言ってくれないのか。

 ずっと一緒にいてくれると約束してくれたのに……


 自分に非があるにしろ、言ってくれなければ気持ちの整理はつかない。

 三年という月日の寂寞せきばくは、心に巣くって離れないでいる。


「でも、私は……辰巳さんを裏切った。辰巳さんを責めることはできない」


 雪が辰巳に怒りをぶつけられない理由は、彼以外に身体を許しているからだ。


「言わなきゃわからないわ。それに、雪は悪くないのよ。……静介はどうなの?父親だってわかってるのかしら」


 辰巳がいなくなったのは、静介がまだ赤子のときだった。

 だから辰巳を父親だと認識しているわけもなく、いきなり家に居座る辰巳に戸惑いを見せていた。



『おとっつぁんよ。静介のおとっつぁん』


 その言葉の意味自体がわからないのか、それとも辰巳が父親だと結びつかないのか、雪が教えても静介は首をかしげるだけだった。



 雪は李々と遊んでいる静介を見やる。

 静介はきっと、辰巳が父親だとわかっていない。

 いつか、辰巳のことをおとっつぁんと呼ぶ日が来るのだろうか。

 それとも……



 雪が紫乃の家にいる頃、長屋には一人の来訪者がいた。


「辰巳……どうしていなくなったりなんかしたんだ」


 自分を責めて聞けないでいるであろう雪の代わりに詰め寄るのは、彼の親友の和泉である。


 辰巳が口を閉ざしていることに腹を立てるのは当然で、言えないということは、辰巳にもそれなりの事情があるのだと思えばこそ、頼ってくれない薄情さに傷ついてもいた。


「出て行く前、辰巳はあの女と会っていた。もしかしたらって何度も考えたけど、まさか……」


 辰巳は本気で雪を愛しているように思えた。いや、本当に愛していたのだ。


 だが、再会した昔の女を選んでしまったとしたら。過去の想いを忘れられずにいたのなら。


 そんな訳はないと何度も首を振っても、何一つわからない状況では完全に否定できなかった。


「お前が聞きたいのは、どうしていなくなったじゃなくて、どうして帰ってきた、だろ?俺が帰ってこなければ、雪と一緒になれたかもしれねぇのにな」


「辰巳、俺は……」


「お前の雪に対する感情は、ずっと前から知っていた」


 やはり辰巳には気づかれていたと、和泉は今さら恥ずかしい気持ちにもならなかった。


 すでに気持ちを雪に打ち明けているとはいえ、今の今まで言わずに内に秘めていたのは、辰巳との関係がぎくしゃくしてしまうことを恐れたためでもある。

 それは、和泉の気持ちに気づいていて何も言わなかった辰巳も同じだった。

 絶対に惚れるなと、釘は刺していたが……


「でも、辰巳のことを心配していたのは本当なんだ。お前が帰ってこなければなんて、一度も思ったことはない」


「…………」


「お雪ちゃんは、ずっとお前だけを想って待っていた。なのにお前はだんまりだ。今までお雪ちゃんがどれだけ苦労したか、たっぷり恨み言を聞かされるといい」


 和泉はそう言い捨てて、長屋を後にした。


「……言えるもんなら言ってるさ」


 彼のつぶやきは、誰にも届かない。


 幼子を一人で育てた雪の苦労は、想像しているよりも苦しかったであろうことは明らかだ。

 なのに、雪はどうして自分を責めてこないのか。

 いくら怒らない大人しい性格の雪とはいえ、せめて泣きつかれてもおかしくはない。


 愛が冷めるには充分な仕打ちをした。雪が待っているという確信はなかった。

 雪が他の人を選んでいる未来も想像していた。


 だから、雪が待っていてくれた事実に、身勝手ながら言いようのない高揚を覚えたのだ。


 願いの前には貪欲どんよくで、雪を苦しめることしかできなかった。


 茶碗や箸、自分が使用していた日用品は変わらずに存在を留めている。

 引き出しにしまったままだった髭剃りは、埃一つ被っていなくて、普段から雪が使いもしない出て行った夫の所持品に手入れを欠かなかった様子がうかがえる。


 変わってしまったのは息子の成長と、雪の態度だ。


 前者は喜ばしいもので、間近で成長を拝めなかった長い月日はあるが、すっかり赤子のときより様変わりした子どもを、実の息子だと認識できるほどに愛情は残っていた。


 手持無沙汰に、貸本屋から借りた書物に目を通していると、視線を感じて目を向ける。


 じーっと、こちらを見つめていたのは静介だった。


 視線が交われば、すぐに静介は視線をらして、内職に勤しむ雪の背にしがみつく。


「静介、もう少しで終わるからね」


 静介は一人遊びに飽きたら雪の元へと近寄り、今のように雪が針を動かしていれば何を言うでもなくただ側にいて、雪が作業を終えるのを待っている。

 雪の子どもながら、聞き分けのいい子に育っているらしい。


 だが、当たり前といえば当たり前に、父親には懐こうとしなかった。


 いきなり帰ってきた自分は、父親としては認められていないのだろう。

 嫌でも一緒にいるようになれば、その存在は気になってしまうところで、たまにではあるが、先ほどのようにじっと見てくることがあった。

 自分からも歩み寄らなければと何度か話しかけてはみたものの、すぐに雪の元へと逃げられてしまう。


 哀れだが、それは三年も妻子を置いて出て行った男の罰である。


「おまちさんのところに行ってきます」


「ああ」


 どうしていなくなったのか、雪はそう責め立てない代わりに、静かに怒っているような気がする。

 無視はしないが、必要最低限にしか話しかけてこない。


 もともと会話が多いというわけでもなかったが、心で通じ合っていたものが、感じられなくなっていた。

 かたくなに訳は言えないと心を閉ざしていれば、さもありなんだ。


 このまま、すべてを丸く収めることはできないと理解できないほど、愚かではない。

 むしろ、自分は雪と静介の平穏な生活を乱している。


 過去の幸福を今にできる方法があるのなら、罪にまみれながらもすがりたいと、願ってしまうのだ。



「えっ!!帰ってきたのかい?」


 雪は一度うなずく。

 辰巳が帰ってきたことをおまちに告げれば、驚いたあとに複雑そうな表情をした。


「……素直によろこんでやれないよ」


「私も、素直によろこべません」


「そりゃあそうよ。……で、今まで何をしてたって言うんだい?」


 今度は首を横に振った。

 わからない。だって何も言ってくれないと、彼を責めるように。


 辰巳が帰ってきてくれること、それは雪の願いだった。

 いつかきっと……周りからはどんなにはかない願いだと思われようと、信じて待っていた。


 なのに、いざ辰巳が帰ってきても、雪は手放しでよろこぶことができない。


 正確に言えば、雪の願いは叶っていないのだ。

 雪が望んでいたのは昔のように辰巳と、静介と暮らすこと。

 だが、辰巳が帰ってこようと、取り返しのつかない事実というのが今にある。

 彼を、裏切ってしまったのだ……


 何も言ってくれない辰巳への怒り、そして彼への罪悪感は洗い流すことができなかった。


「そんな男とはすぐに別れなさい。留五郎のときは後悔したけど、今度はそうならないように言わせてもらうよ」


「……いやです」


「雪!」


 おまちは雪を初めてしかった。


 雪が祝言を挙げた日、おまちは辰巳に、雪を大事にしてと言って頭を下げた。

 今まで苦労をしてきた雪に幸せになってほしくて、雪の選んだ男にたくしたのだ。


 しかし、辰巳が雪を幸せにしたのはほんの刹那で、むしろ雪の父である留五郎と同じ、雪の平穏をおびやかす、災厄の存在であるとおまちは思っている。

 目の前にいる雪は、かつて父の愛情欲しさに留五郎の言いなりになっていた、幼い少女に見えた。


「目を覚ましな!このままじゃ静介も幸せになれないんだよ」


 静介には、父と母の姿はどう映っているのだろうか。間違っても仲の良い両親だとは映っていない。

 顔を合わせれば喧嘩をしていた両親を見て育ったはずの自分が静介にしていることは、両親と同じことなのかもしれないとも、雪は思っている。


「辰巳さんが私のことを嫌いになったのならあきらめられます。でも、どうしても言えないことがあって、それでも私のことを想ってくれているなら、一緒にいたい。昔みたいに、また三人で暮らしたいんです」


 これが雪のしんであり、願いである。


 すべてを洗い流せないのなら流せないまま、けれど、望むのはこいだ。


「…………雪がこれ以上不幸になったら、お前に何と言われようと、あの男と引き離すからね」


「ごめんなさい……」


「謝るくらいなら幸せになりな」


 愛に飢えている。それだけが理由なら、他の人に求めればいい。


 雪はたった一人の男を愛して、求めている。


「おまちさん、ありがとう」


 やれやれと息を吐くおまちは、娘を案じる母親の顔をしていた。

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