嘉兵衛との逢瀬も三度目を迎えようとしていたとき、和泉にその関係を気づかれてしまった。


「俺の所為せいだ……俺が借金なんかしたから、お雪ちゃんは……」


「私が決めたことです。それに嘉兵衛様は優しい方だから、会うだけで薬をくれる。

だから、和泉さんも私も、苦労しなくていい楽な道を選んだだけ」


「お雪ちゃんの弱さにつけこんでる男のどこが優しいんだ!」


和泉の怒りは、嘉兵衛と己自身に対するものであり、切ない気持ちだけを雪に向けていた。

彼がどれほどまでに気にかけてくれているのか、それを思えば身が裂けそうなほどの気持ちになる。


「今はいいけど、そのうち……」


会うだけでいいと言った嘉兵衛の言葉に嘘はなかった。

だが、次第に約束が変遷していくことも事実で、先に待ち受ける未来を悟れないほど、雪は初心うぶではない。


嘉兵衛がいなければ、もっと悲惨な思いをすることになる。

天秤にかけるまでもなく選ぶべき道は決まっていたのに、躊躇ためらってしまったのはまぶたの裏にあって忘れられない存在がいるからだ。


「どうして、辰巳は……」


雪の前だからか、和泉はその先の言葉をつむぐ前に奥歯を噛みしめた。


辰巳がいなくならなければ、雪はこんなに辛い思いをしなかった。


そう言いたいのは和泉だけではなかった。

恨み言をぶつけようにも、誰一人として知ることはできない辰巳の所在に、生死さえも定かではないのだ。






辰巳が姿を消してから、三度目の冬を迎えていた。


変わらないのは、雪の想いと和泉の想い。

擦れ違い続ける糸を、無理矢理にでも片方が絡ませたとしたら……


雪がやっと、和泉の想いを感じ取った、ある日の出来事である。


「静介、じっとしてなさい。めっ、よ」


「めっ!」


昼時の弥勒みろく屋は繁盛していて、騒がしさに浮き足立ち、静介がうろうろと歩き出したので、雪は静介を膝の上に抱える。


母に抱かれるのが心地よい静介は、雪に注意されれば大人しくなった。


「ちゃんとおっかさんの言うこと聞いて、偉いわね」


弥勒屋の女将であるお松に褒められて、静介はうれしそうに笑った。


お松や主人の卯吉などは、実の孫のように静介を常日頃から可愛がってくれている。

しかし、時々漏らす「おとっつぁんにそっくりだね」という言葉には哀しみが混じっていた。


「あ、いじゅみ!」


静介の声に、思わず雪はどきりとした。

彼に触れられた感覚がまだ唇に残っていて、内心動揺せずにはいられない。


雪が顔を向けられずにいれば、いつの間にやら座敷の正面に、和泉が座っている。


この上なく気まずい雪とは反対に、和泉はいつも通りであった。


「よかったね、和泉の奢りよ」


和泉と弥勒みろく屋を訪れたときにはいつも和泉の奢りで、お松もそれに慣れているから二人が顔を合わせたことで雪に言った。


「あ、でも……」


歯切れの悪さは、雪の心を表していた。

雪がそっと和泉を見やれば、やはり落ち着いたままの彼がいて、動揺している己に恥ずかしくなる。


「お雪ちゃんは相変わらず、遠慮深いなぁ」


「そこがこの子のいいところじゃない」


和泉に負担はかけられないという気持ちは存在するが、今日ばかりは気まずさのよりも敵うものがなかった。


やがてお松が雪たちの前に運んだのは小鍋だった。

出汁の匂いが香る鍋の中に、一口大に刻んだ葱が浮かんでいる。別皿には野菜と、まぐろの身が置かれていた。


「いわゆる『ねぎま鍋』ってやつさ。

今年の冬からうちで始めてみたけど、結構評判が良いんだよ」


「これって……」


猫またぎ、という言葉を雪は飲み込んだ。


鍋に入れる鮪の身は赤身ではなく、脂身の部位である。

生魚の保存技術が発達していなかった時代、鮪の脂身は親しみのない存在で、魚好きの猫も見向きもしない「猫またぎ」と呼ばれるほどであった。


雪は猫またぎを食べたことはないが、そもそも赤身自体も生まれてから数回程度しか食べたことがない。

美味しかった、という記憶がないから何となく気後れしてしまった。


「意外と美味しいんだから。苦手だったら赤身の方を用意するよ」


「美味っ!!お雪ちゃんも食べてみなよ」


先に箸をつけていた和泉が感嘆の声を上げた。


本当に美味しそうに頬張る和泉の手は止まらないようで、その姿に雪はごくりとつばを飲み込んでいた。


「おっかちゃ、食べる!」


静介も和泉を見て、猫またぎに興味を持ったらしい。

早く早くと、雪を急かした。


鍋の中に沈んだ身はすぐに火が通り、静介に食べさせるために小さく切り分けようと箸を入れれば、いとも簡単にほぐすことができた。

湯気が立った身を冷ましてから、待ちきれないでいる静介の口へと運んだ。


そして雪も、残った身を食す。


「ん……!」


猫またぎと侮っていた食べ物は想像を絶するほどに美味で、口の中に広がる旨みは初めて味わう未知のものだった。


「美味しいです、すごく」


「うまうま!」


静介もまた、雪と同じ反応をしたのだった。


気まずさを忘れられるのはこの一時だけだとしても、和泉と昼餉ひるげを共にすることは穏やかで心地良く感じていたと、雪は改めて思う。

寂しくないように、過去を振り返らないように、支えてくれているのだ。


(ずっと、見ようともしていなかった……)






『雪はあやとりが好きだな』


出会ったばかりの頃、彼を待っていた夜半よわにあやとりばかりしていたものだから、そう言われたことがあった。


『別に好きというわけじゃ……』


なら、どうして好きでもないのにあやとりばかりしているのかと、不思議そうな顔をしていた彼は、それ以上を問わなかった。


あやとりをするときは決まって、誰かを待っているときだ。

帰ってくるという確証のない人を待つとき、手に紐を絡めている。


『あやとりをしていると、ねーねを思い出すから』


『ねーね?……姉さんがいるのか?』


『血は繋がってないけど、子どものときに可愛がってくれた人がいたの』


ああ、そうか。

過去の幸せにひたっていないと、待ち続けられなかったんだ……






静介はすでに眠りについていた。

まだ終わっていない内職があったが、何となくあやとりをしたくなって、雪は引き出しに大事にしまってある紐を取る。


その紐は、かつて政がくれたものだった。


あやとりをすることよりも政と遊ぶことがうれしくて、政が教えてくれた遊びだから余計に思い入れのあるものとなったのだ。


後はひたすら、指に紐を通してゆく。時を忘れて、眠くなるまで。


「……お雪ちゃん」


夜更けの中で聞こえた声に、雪は一度びくりとする。だが、知人の声だとわかり胸を撫で下ろした。


雪は戸を開けて、和泉を招き入れる。


「こんな遅くに、どうされたんですか?」


和泉が訪れるときは日中で、夕餉を共にしたときも食べ終えれば家を辞していた。

こんな夜更けに訪れたのは初めてであり、何かあったのかと心配になった雪は尋ねる。


「お雪ちゃんに会いたくなって」


数日前に弥勒屋で顔を合わせて以来、二人は会っていなかった。

弥勒屋での和泉は普段通りだったとはいえ、彼も雪に気まずさは感じていたのだ。


「また、あやとりしてたんだ」


何も話さないのは失礼だと思いつつも、雪は言葉を見つけられずにいる。

雪の片手に絡まったままの紐を、和泉は自身の指に通した。


「いず…………っ!」


刹那の衝撃だった。


和泉が紐を力強く引き寄せたことで、自然雪の身体は和泉の前に倒れていた。

紐ごと指を絡められ、もう片方の手は雪の背中に回して離れない。


「お願い、離して……」


和泉の力に雪が敵うはずがない。

しかし、無理矢理にあらがうことはできるのに、雪は形ばかりの抵抗を示しただけだった。


温かい胸が近くにあって、抱きしめられていることに心地良さを感じていた。


「嫌だ。ずっと、こうしたかったんだ」


駄目だと、心の中では叫んでいる。

後戻りできなくなるような、嫌な予感がした。


絡められた紐を解かなくては……


忘れてはいけない存在があったはずなのに。


「初めて会ったときから、お雪ちゃんのことが好きだった」


切ない響きが胸に重く沈んだ。


泣きたくなったのは、今まで彼の想いに気づかなかった愚かさと、込み上げてくる彼にすがりたいという気持ちの所為せいだった。


「俺がお雪ちゃんを幸せにする。もう身を売らせたりなんかさせない」


和泉から離れられないでいるのは、辰巳を待つという意地ではなかった。

寂しいから。たったそれだけの理由で、彼を傷つけていいわけがない。


和泉に抱きしめられていることが嫌ではないのだから、受け入れられるべき対象であることの証左でもあった。


しかし、雪の想いはたとえ一時でも寂しさが埋まろうと、変わらずにあり続ける。

ひしひしと和泉の気持ちが伝わるほどに、雪は自身の変わらない想いを思い知った。


「私は、和泉さんを傷つけたくない。今のままでいたいの」


「……辰巳の代わりだろうと俺は傷つかないから。お雪ちゃんが楽になれるなら、それで……」


一度許してしまえば引き返せない。

すでに嘉兵衛のときに知っていた雪は、今度は本気で和泉の手を振り解こうとする。


遅かった、と自覚したときには、和泉の吐息が近くで聞こえた。


寂しい心が弱い意志を呼んだ。

和泉を傷つけ、辰巳を裏切り、そして己自身もまた苦しむことはわかっていたはずだった。


抵抗しても、抵抗しても、和泉はとらえてくる。


雪はまぶたをぎゅっと閉じた。

瞼の裏に愛しいその人を思い描く前に、二人の唇は触れ合う間近だった。


「……っ……おっかちゃ。どこ……」


その声に、弾かれたように二人は顔を上げた。


衝立の向こうで眠っていたはずの静介が、隣に母がいないことに気づいて泣いている。


静介の声が聞こえたときには、和泉は雪を解放していて、雪も慌てて静介の元に行こうとした。


「あっ……」


紐が絡まったままの手が、雪が立ち上がった拍子に和泉を引っ張ってしまった。

和泉は名残惜しそうに紐を解く。

あっけなく、絡まっていた紐は床へ音もたてずに落ちた。


「ごめん……」


「……寂しいからって和泉さんに甘えた私が悪いんです」


静介は、雪の胸に顔をうずめて泣いている。

もしも静介が泣き出さなければ、和泉は己を抑えられなかった。


「今日のことは忘れてって言うのは、図々しいかな」


雪は首を振って答えた。

忘れられるわけはないが、二人の間ではなかったことにする。

それが賢明だと、お互いが判断したのだ。


「俺が言うのも説得力はないけど、もう無理矢理にお雪ちゃんをどうにかしようなんてしないから、今のままでいてほしい。

静介とも遊びたいしね」


「はい。この前おごっていただいたお礼に、夕餉ゆうげを御馳走します」


和泉の笑顔に哀しい色はなかった。

曝け出した心を押し通すよりも、側で見守る方を選んだ、彼の覚悟の表れである。


だが、あきらめられないという点で、二人は共通していた。


「これだけは忘れないで。俺は、お雪ちゃんが振り向いてくれるまで待ってる」


「和泉さん……」


「本気なこいほど厄介だ。苦しむことが前提にあるのに、逃れられないんだから」


静介は雪の着物にしがみついたまま、眠りについている。

雪の和泉、二人の間にあるのは夜の静寂しじまだった。






江戸の町には雪が降っていた。

冷たい冬の風も、故郷の凍てつく寒さには及ばない。


男は足早に、懐かしい町並みを歩いている。

三年ぶりの外観は、およそ自身の知っている町と言えるほどに大きな変化はなかった。

全く知らない町になったとしても、それは浦島太郎になってしまったようで気味が悪いのかもしれないが、男にとってはさしたる問題ではない。


目的の場所はただ一つ。


いざその家を前にして、男は息を切らしてもいないのに呼吸が荒くなっていることに気づいた。


大きく息を吸って、落ち着かせてみる。

今度は心臓の音が早鐘を打っていた。


目の前にある長屋の戸を開けるまでには、自分は落ち着いていなければならない。


どうしたものか男が悩んでいると、視界に映ったそれに息が止まりそうになる。


家の前に置かれた雪兎は、男が入ろうとしている家の住人が作った物だろう。

他の家の前には雪だるまなんかも置かれていて、雪兎だろうとありふれた冬の風物詩に過ぎない。


何故こうも男が雪兎に打ちのめされているのかというと、それが三羽だったからだ。


三羽目は、誰が作ったのか。

そもそもこの雪兎自体、男の訪ね人が作った物なのかという疑問は、愚問だ。


見れば、誰が作ったのかなんてわかりきっている。

わからないのは三羽目の誰かだ。


いや、もしかしたらわかっているのかもしれない。


男は答えに辿り着く前に、戸を開けた。


家の中には訪ね人がいた。時が止まったように、目を見開いてこちらを見ている。

男が予想していた誰かもいて、訪ね人と同じ反応をしている。

赤子の姿しか知らなかった子どもは、ただただ見つめ返していた。


「辰巳さん……!」

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