雪の疑問は、どうして辰巳は出て行ってしまったのか、ということだけではなかった。


 辰巳が姿を消した日、彼は静介を連れて行こうとした。

 偶然会った和泉に静介を手渡して姿を消したのだが、もしも和泉と会わなかったならば、そのまま静介も共に姿を消していたのではないだろうか。


 静介がいなくなれば雪が哀しむと辰巳が思ったのだとしたら、言い換えれば、辰巳は雪を連れて行こうとは考えていなかったことになる。


 静介に対しては未練があっても、雪にはなかった。


 ならば辰巳が姿を消したのは自分の所為せいだと、雪は思い詰めるようになっていた。



 部屋の中には雪と静介の二人だけ。

 それが日常となりつつあった二年前、辰巳が姿を消した直後のことである。


 心は憔悴しょうすいし、食欲も沸かなかったのだが、乳を出すためには、ろくに味も感じられなくなった食事をしなければならない。


 雪はかまどの火をくべりながら、ぼんやりとその火をながめている。

 背中に負ぶった静介の重みも感じられないまま、米を炊き上げることだけを考えていた。


「う、うぇ」


 突如泣き出した我が子の声で、雪は我に返った。


 一際大きい声で泣くときは、腹を空かせているわけでも、襁褓むつを汚したわけでもなく、理由がわからないときだ。

 あやしてもあやしても泣き止まない、非常に困った事態なのである。


「静介、いい子だから泣かないで」


 こうなれば四半刻しはんときは泣き続けてしまうと必死になったところで、とどまるところを知らない。


 雪の心は限界だった。


 がたがたと、戸口がきしむ音が聞こえた。雪の眼は戸口に釘付けになる。


 戸口を開けようとしている誰かは、もしかしたら……

 しかし刹那の淡い希望は見事に砕け散った。


「和泉さん……」


 雪が辰巳を思い描いていたことに気づいた和泉は、けれど気づかないふりをして、雪に歩み寄った。


「静介は俺が見てるから、ご飯作っちゃって。あ、たかりに来たわけじゃないよ。様子を見に来ただけだから」


 和泉が頻繁に来てくれるのは心配してくれているからであり、今も落ち込む自分に冗談を言って和ませてくれたことに、雪の胸は軽くなった。

 同時に泣きたくなったのは、和泉に甘えたくなったからだ。


 食事の支度を終えるころに、静介はやっと泣き止んでいた。


「笑ってる」


「可愛い」


 やはり我が子の笑顔というのは愛おしくて、その小さい手をぎゅっとにぎりしめた。


(静介も、辰巳さんがいなくなってさみしいのね……)


 最初に静介の異変に気付いたのは、ある真夜中のことだった。


 静介を寝かしつけた後、内職に勤しんでいた雪はしばらく進んだところではたと気づいた。


(今日は大人しい……)


 毎日必ず夜泣きをするはずの静介が泣き声一つ上げないことを不審に思った雪は、すぐに手を止めて、眠っているはずの静介の様子を見た。


「静介っ……!」


 苦しそうに息を吐いている静介は泣くことも、声を上げることもできないでいる。

 肌に触れればこれでもかと熱が伝わってきた。


 医者にせ事なきを得るも、それから同じようなことが何回も続くようになり、雪は医者から勧められた薬を買いに、薬種問屋へ足繁く通うようになっていた。


 薬を買うたびに貯めていたお金も減り、やがて米も満足に買えない生活が続くことになる。

 静介はまだ乳飲み子なので食事の心配をする必要はなかったが、ひもじい思いをするのは雪だ。

 乳の出も悪くなれば、それは静介へも繋がることになり、途方に暮れていた雪の前に救世主が現れた。


「こんなにいただけません」


 雪の窮状を知って、せめて静介の薬代にと大金を渡したのは和泉だった。


「いいからもらって。博打ばくちもうけたお金で悪いけど、しばらくは足りるだろうから」


「ちゃんと、自分で稼ぎます。和泉さんに迷惑はかけられない」


「夜鷹なんてされたら、寝覚めが悪いよ」


「…………」


 夜鷹、とは夜にあって客を引く街娼のことであり、雪が金を稼げる最悪手の方法である。

 長い間、静介を預けていられるような親戚もいない雪は、長時間も働きに出かけることはできない。

 夜鷹は一人の客で蕎麦一杯分というお金しか稼げないが、幼い静介が寝入っている間に、あるいは一時的に誰かに見てもらって行える仕事だった。


 今晩にも茣蓙ござをもって客を取ろうかと思い詰めていた雪を、和泉はすんでのところでとどめた。


「……必ず返します」


「俺が持っててもすぐ使っちゃうだけだからさ、ありがたく受け取って」


 なぜ和泉は博打をする人ではないと、このとき不思議に思わなかったのだろうか。辰巳は好んで博打をしていたが、彼は好まず、一度も博打場に足を運んだことがなかった。

 実はそのお金が、博打で儲けたものではなく借金をして手に入れたものだと知ったのは、約一月後のことだった。


 静介の夜泣きも次第に落ち着きを見せ始め、以前よりも手がかからなくなったときに雪は内職を増やしていた。

 少しずつでも和泉に借りたお金を返済しようと、雪は和泉を訪ねて家や、和泉がよく利用している弥勒みろく屋に足を運んだのだが、いつも会うことができなかった。


 弥勒屋の女将おかみであるお松に尋ねてみれば、何かを隠している様子だったので、お松や事情を知っていそうな常連客に問い詰めてみれば、和泉は日雇いの仕事を始めたという。


 求人の少ない用心棒では間に合わず、日雇いをしてまで銭を稼いでいるのは、和泉が借金の返済を迫られているからだったのだ。


「かっこつけていたのがばれちゃったか」


 辛いはずの和泉は、いつもの飄々ひょうひょうとした感じで雪を責めなかった。

 だから余計に、雪は胸をえぐられるような罪悪感に襲われた。


「ごめんなさいっ……和泉さんが大変な思いをしてたのに、私……」


「お雪ちゃんは悪くない。俺が勝手に借金をしてるだけ。……俺は、お雪ちゃんには笑っていて欲しいんだ」


 それだけの理由で尽くしてくれているのかと、そんな残酷な質問は雪にはできなかった。


「私、仕事を増やしたんです。だからもう、和泉さんに甘えたりなんかしません」


「お雪ちゃん……」


「大丈夫です。絶対に、夜鷹はしませんから」


「約束、だよ」


「はい」


 その後、静介が発熱する事態は頻繁に起こり、たくさんの薬が必要となった雪は、今度は自身が借金をすることになる。


 雪が嘉兵衛と出会ったのはこの頃だった。



「お父様、お変わりないようで何よりです」


「お前も相変わらず精が出るな」


 日本橋で薬種問屋を営んでいた嘉兵衛が息子に主人の座を譲ったのは一年前である。

 慣れない主人の風格に右往左往しながらも、商売に励む息子の姿を微笑ましく感じるようになったのは、隠居して落ち着いた生活ができるようになってからだった。


 息子に任せてもよいと思い隠居をしたが、自身が営んでいた店という存在は気になってしまうもので、こうして顔をのぞかせていた。


「頻繁に来られるのなら、一緒に住めばよろしいのに」


「なに、散歩のついでだ」


 妻に先立たれた嘉兵衛としては、一人気楽に過ごしていたかった。


 立派な息子、受け継がれる店、嘉兵衛の人生は順風満帆で、あとは静かに余生を過ごすだけだと思っていた。


「すみません、いつもの薬を下さい」


 嘉兵衛は自然と、その女性を目で追っていた。

 何度か見かけたことのあるその人は、どこかはかなげで、妙に印象に残っていたのだ。


 隠居後、嘉兵衛は店がある日本橋にほど近い、神田に移り住んでいた。

 その日は知人の家を訪ねた帰りで、すっかり身体に馴染もうとしている神田の道を歩いていたときのことである。


「どうか、どうか静介が健やかに育ってくれますように……」


 またある日のこと。


 近くには神社もなければ、ただの一本道が続くだけの景色に、その声の主は何処どこで祈っているのだろうと、嘉兵衛は周りを見やった。


 聞こえてくるのはすぐ近くで、よくよく探してみると、いつもは見落としていた小さいほこらがあった。祠の前では幼子を背負った女性が手を合わせている。


(あれは……!)


 祈る女性は、先日店に薬を買いに来ていた女性だった。


 女性の願いから、彼女が足繁く店に通っていたのは、息子のためではないかと思い至った。

 嘉兵衛の胸に込み上げたのは憐憫れんびん、それ以上に、言いようのない、激しい想いが込み上げてくる。


 女性が去ったあとも、嘉兵衛はしばらくその場から動くことができなかった。

 子どもに向けていた笑顔が美しくて、でもさびし気な表情が忘れられない。


 嘉兵衛はその足で、日本橋の店へと向かった。

 いつもは訪れない刻限に来たことで、首をかしげた番頭を、嘉兵衛は密かに呼び寄せた。


「ある人を調べてくれ」


「彼女、丸髷まるまげですよ?」


 番頭──平太の反応はこうである。


 余計な口は出さない平太でも、さすがに人妻という事実を流すことはできなかったようだ。

 年甲斐もなく若い娘を……と言われないだけ、嘉兵衛としてはありがたい。


「……わかっとる」


 それ以上、平太は何も言わずに、数日後には雪のことを調べ上げた。


「一昨年の秋に祝言を挙げて、すぐに子どもにも恵まれたそうですが……」


 聞くだけでは幸せな人生を歩んでいるように思えるが、ならば彼女の影は、平太の言葉の先に原因があるのだろうと、嘉兵衛は静かに耳をかたむける。


「旦那が、出て行ってしまったみたいで……」


「なに?」


 雪が背中に抱えていた子どもはまだ赤子で、生まれてから一年も経っていないのではないだろうか。

 そんな幼子を置いて出て行かれたともなれば、憂いの表情をたたえていても、おかしくはない。


「どうして妻子を捨てたんだ?」


 雪に対するあわれみから、怒気の混じった声となった。


「それが、はっきりしないんです……夫婦仲は良好だったそうで、他に問題を抱えていたわけでもなく、世間話のていを装って話をうかがった長屋の女房も、いまだにいなくなったのが不思議だとらしていました」


「ふむ……」


「あと、これは最近の話ですが……借金をしているとか。どうも息子の体が弱くて、しょっちゅう熱を出してしまうみたいです」


「だからよく店に来ていたのか」


 更なる不幸に雪は見舞われている。

 何ともこくな話だと、嘉兵衛も平太も、胸を穿うがつものがあった。


「忙しい身なのに、すまなかったな」


「いえ、ご隠居のためでございます」



 雪は金貸し屋の前で、少ないお金を抱えながら中に入れずにいる。

 今日までに返済を迫られていたのだが、用意できたお金は、借りている半分にも満たない。


 何度も待ってくれるように頼んでいたこともあり、次は許されないだろうと、それでもないものをどうすることもできない。


 ずっとたたずんでいても打開策はなく、雪は覚悟を決めて店の中に入った。


「すでに返済されてますぜ」


「……え?」


 寝耳に水の事態に、雪の頭は混乱した。

 知らぬ間に借金が返済されている。そんな都合のいい話があるわけがない。


(まさか、和泉さんが……)


 和泉に借金のことは黙っていたのだが、もしかしたら和泉に露見してしまって、またしてもほどこしを与えてくれたのかもしれないと思うも、それは杞憂きゆうとなった。


「知らなかったんで?羽振りの良さそうな爺さんが、あんたの借金を肩代わりしたんでさ」


 その男に心当たりの一つもない雪は、ただただ戸惑うばかりで店を後にした。

 借金がなくなったことに喜ぶべきだが、そう簡単な話ではないだろう。


 考え込む雪を見計らったように、一人の男が声をかけた。


「お雪さん、だね」


 雪は一目で感じた。目の前にいる男こそが、借金を肩代わりしてくれたその人であると。


 男は嘉兵衛と名乗った。


 日本橋にある老舗しにせの薬種問屋の隠居の身であると明かした嘉兵衛の品の良さに、なるほどと雪は合点する。

 借金を肩代わりしてくれたその理由わけを話すとお茶に誘われた雪が、まったく警戒を解いたわけではないものの、嘉兵衛に言われるがままついてきたのは、その身形みなりゆえだった。


「何度か店で見かけたことがあってね。ずっと気になっていたんだ。随分と苦労をしているそうじゃないか」


「いえ……そんなこと」


 雪は薬種問屋で、店の者に名前すらも明かしていなかった。

 しかし借金を肩代わりしたということは、嘉兵衛がある程度の事情を知っていたことになる。

 自身が明かしていない以上、わざわざ調べたということだ。


「神田の祠で見かけたときが、一番胸にきたよ」


「…………」


 必死に祈る姿を可哀そうだと思ったとして、借金まで肩代わりするだろうか。

 余裕のある者は善意でそこまでできるのかと、腹の底の知れない嘉兵衛から、雪は顔をらした。


「必ず返します。もう少しだけ、待っていてください」


「おまいさんからお金を取ろうなんて、これっぽちも思っとらん」


 では、嘉兵衛の望むものとは……


 聞きたいのに、何故か言葉にすることができなかった。


「儂は毎朝散歩をするのだが、そのときに必ずあの祠がある道を通る。薬が欲しくなったら、祠に紐を結んでくれればいい。そうすれば、いつでも無代ただで薬をあげよう」


「そんなこと、できません」


 無代ただで薬が手に入れる。

 警戒する以前に、無代ただでもらうことにははばかりもあり、そんなうまい話があるのかとも警戒する。


「無償ではない。お代は……」


 雪の手に、嘉兵衛の手が重なる。

 嘉兵衛の意図がわかった瞬間だった。


「こうして一緒にお茶をしてくれるだけでいい。儂が望むのは、お前さんだ」


「……私には、旦那がいるんです」


「出て行ったんだろう?」


 嘉兵衛はほとんどの事情を知っているらしい。

 みじめだが、雪には貫き通したい想いがあるのだ。


「いつか帰ってきてくれます。だから、あの人を裏切ることはできない」


「…………」


 少し驚いた表情の嘉兵衛は、それでもあなどるような眼を雪に向けなかった。


(思ったよりも難攻不落、だな……)


「だが、今は一人で子どもを育てている。儂と会うだけで薬がもらえるなら、お前さんにとってもいい話だ。……お前さんが紐を結んでくれるのを、待っているよ」


 決めたのは、雪自身。

 次に嘉兵衛と会ったときから、すでに引き返せない道を歩み始めていた。

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