足が地についている感覚がしなかった。

 それなのに身体は重くて、味わった生々しい感覚をまだ覚えている。


 町の喧騒も、雪の耳には届かない。

 静かに、それは雪が降り積もるような音にしか感じられないのだ。


 辰巳を信じて待っていたはずの雪は、彼を裏切る行為をしてしまった。

 しかし、今までの嘉兵衛に対するなぐさめも、裏切りに値する行為で、嘉兵衛を受け入れた今日に至っては、より罪が明確となってしまったのである。


 雪は辰巳を待つことよりも、裏切ってしまったことの方が辛かった。


 かつて暴漢になぶられた身体を許し、きれいだと言ってくれた辰巳に対する侮辱ぶじょくでしかない。


 力なく長屋に辿たどり着いた雪は、静介を預けている向かい部屋の住人を訪ねた。


「おっかちゃ!」


 雪を見るなり勢いよく駆けてくる静介の声で、雪の耳は正常に聞こえるようになった。

 立っている感覚も、飛びついてきた静介の温もりも、確かに伝わってくる。


「お雪さん、おかえりなさい。ほんとにこの子はおっかさんが大好きなのね」


 雪の目が、ぴくりと痙攣けいれんする。一瞬のゆがみは誰にも気づかれなかった。


「いつもすみません。迷惑はかけませんでしたか?」


 嘉兵衛に会いに行くときは、和泉が来ていれば彼に静介を預けてしまうこともあったが、嘉兵衛との関係を知られている和泉や紫乃には頼みづらいので、ほとんどは長屋の誰かに預けていた。

 長屋の女房たちは雪の環境を哀れんでいて、雪のお願いに嫌な顔をする者はいなかったのである。


「とんでもない。大人しくおっかさんのこと待ってたよ。お雪さんは偉いね。一人でも子どもを立派に育ててるんだから」


「そんなこと……」


 どこが立派な母親だと、雪は自嘲じちょうの笑みを漏らしたくなった。


 無邪気な子どもと善意の住人には言えない行為をしている。

 罪は、辰巳に対してだけではない。


 静介を家に連れて帰った雪は、腰を下ろすなり目頭を押さえた。

 酷い眩暈めまいのような症状が雪を襲っていた。

 何もしたくない。静介のことも構う余裕がない。辰巳のことも忘れていたい。


 消えてしまいたい……


「おっかちゃ」


 水底に沈んでいこうとする雪を引き戻したのは、静介の頼りない声だった。


「お布団敷いて、ねんね。おくしゅりも飲むの」


 そう言って静介が雪に差し出したのは、静介が発熱したときに飲んでいる薬だった。

 あと一回分にも満たない量の薬は、雪が嘉兵衛に会ってきた理由である。


 薬をしまっていた箪笥たんすを見やれば、誰かが開けた痕跡があって、静介が取り出したのだとわかった。

 雪の袖をぐいぐいと幼い力で引っ張るのは、静介が広げたのであろうしわくちゃな布団がある場所だ。


「おっかちゃ、早く元気になってね」


 静介は雪の様子を見て、雪が自分のように熱を出してしまったのだと勘違いしていた。

 そして、母の至誠しせいを思い出してならい、必死になっている。


「静介……」


 その姿は切なくて、雪の瞳からは幾筋もの涙がしたたり落ちてゆく。

 さらに不安をあおられた静介を、つかさず雪は抱きしめる。何度も抱き上げたことのある体は重かった。


「おっかさん馬鹿だね。静介を一人ぼっちになんてさせられないのに。大丈夫……静介がいい子だから、もう治っちゃった」


  *


 景色が一段暗く感じられるのは、季節が変遷してしまったからなのだろう。

 思い返せば、肌を焼くような陽射しは感じられない。


 道端に咲く花はすでに秋の香りをただよわせている。

 目を奪われる朱い曼珠沙華まんじゅしゃげは、いつ咲き始めたのか、気づいたときにはすでに事実が過ぎ去ったあとだった。


 ただ雪にとって、余裕がないことは幸いなのかもしれない。


 幼子を育ることで精一杯の日々は、哀しいことを一時的にでも忘れさせてくれる。


 雪はふと思うのだ。

 もしも静介がいなかったら、自分はどうなっていたのだろうかと。


 涙に暮れて、辰巳を待ち続けていたかもしれない。

 あるいは……


 雪をこの世に繋ぎとめているのは静介だった。


 静介が夜泣きをしなくなったときに、雪は内職を増やしていた。

 雪は裁縫が得意な方なので、職人の羽織を仕立てたりと、転々と請け負っている仕事をこなし、静介の面倒を見れば、一日はあっという間に終わってしまう。


 そして、雪が考えていることの大半は静介のことで、他人の好意も憎しみも、見落としてしまうことを自覚していなかった。


「お雪さん」


 内職で請け負っていた品を納めた帰り道、声をかけてきた意外な人物に、雪は少し目を見開いた。


「蔵太、さん」


 おまちに紹介され、一度だけ顔を合わせた彼に、呼び止められた。


 おまちから聞いているのは、雪が断ったことに、蔵太は気持ちをんでくれて、特に怒りもせずに了承してくれたということだ。


 何となく気まずい思いがある雪は、どう話していいのかを戸惑ってしまった。


「あんたに聞きたいことがあるんだ。出て行った旦那が忘れられないから、俺との話を断ったっておまちさんから聞いたが、あれは嘘だったのかい?」


「……嘘じゃありません」


 一度会ったにもかかわらず、すぐに話を断るなど蔵太にとっては失礼な話だ。

 だから蔵太が怒っていたとしても、ごもっともだと思っていた雪は、蔵太の怒りが別にあるのをさとる。


「まだ旦那のことを好きっていうなら、俺だって納得できたんだ。でも本当の理由は、そうじゃないんだろ?」


「え……?」


 蔵太はさげすむような目で、雪を見下ろしている。

 思わず震え出した手を雪はにぎり合わせた。


橘花きっかって店、知ってるよな」


 その名前を聞いて、背筋が凍りついた。


 糾弾きゅうだんするに値する行いを、蔵太は見てしまったのだ。


身形みなりのよさそうな爺さんと店から出てきたのはお雪さんだった。それだけじゃない。町で見かけたときには違う男と歩いてたよな」


 嘉兵衛と橘花で逢瀬おうせを重ねたのは片手で数えられる程度。

 その偶々たまたまを、運悪く目撃されてしまったらしい。


 町で見かけた男というのは、和泉のことだろうか。

 和泉に関してはきっぱりと否定できるが、橘花の件は言い訳すらもできなかった。


「俺との話を断ったのは、もう遊べなくなるからか?」


「違います……!」


「だったら何で、旦那を待ってるはずのお雪さんが出合茶屋であいぢゃやなんかにいたんだ!」


 沈黙を、蔵太は言い逃れができなくなったと理解する。

 雪からしてみれば、正直に打ち明けることもできないので、ただただ黙ることしかできなかった。


「……案外、男好きなんだな」


 季節外れの蝉の声が聞こえた。

 近くで鳴いているというよりも、耳にこびり付いているような残響──記憶の声だった。


 汗が肌を伝う感覚、そこで雪は今感じている、違うと否定したいのに相手は頑とした意思に包まれていて、どうにもできない虚しさを、過去にも味わっていたことを思い出した。


 蝉の声は、過去の、あの夏の日の記憶。

 耳にはもう、声までもがよみがえっている。


──お雪ちゃんが、そんなに汚い子だとは思わなかったよ。


 かつて雪は、前に住んでいた長屋の住人たちから、身に覚えのない噂をささやかれ、悪し様にされていた。

 唯一かばってくれていたその人は、出会ったばかりだった雪と辰巳の仲を誤解して、雪を見放してしまった。


 蔵太の姿が、伊吹の姿と重なった。


 黙ってうつむいたままの雪に、蔵太はいらつきを隠さなかった。


「暗くて何を考えているかわかんねぇ女だ。だから旦那に捨てられたんだよ」


 雪は泣き出したいのを必死にこらえる。

 蔵太の言葉はまるで暗示のように、雪をおびやかした。


「ほんと、見苦しいよね。振られてむきになるなんてさ」


 突如として現れた声が、雪の思考をさえぎった。雪はその声に、どこか安心する心地を覚える。


 見上げれば、目の前に立ちはだかってくれる和泉がいた。


「何言って……お前も、この女にだまされてるんだ」


 蔵太は和泉を見て、雪と一緒に歩いていた男だと合点する。

 帯刀した和泉に怖気おじけづいている蔵太の声に勢いはなかった。


「商人のくせに怒りっぽい性格は難儀なんじゃない?それともまさか、女の前では偉ぶってるような小さい男なの?」


 怒り心頭の蔵太に対し、和泉はいたって冷静だった。


「馬鹿みてぇ……」


 蔵太はそう言い残して、雪たちの前から姿を消した。



 小径こみちを抜けた先にある神社とは、何とも風情がある。

 規模はそれほど大きくはない、一つの区域に一つは必ず存在するようなありふれた神社ながら手入れもされていて、木漏れ日に照らされている姿に心がんでゆく。


 ついて来てと言われ和泉を追えば、雪の知らない世界がそこにあった。


「こんないい場所が近くにあったなんて……」


 居を構えている神田といえど、すべてを把握しているわけではないが、この神社は長屋や尾花おばな屋からはそう遠くもない距離にある。

 用もなしに人気のない小径を通ることがなかったとはいえ、近くに心落ち着く場所があったことを気づけなかったことに、少し自分が情けなくなった。


「俺も最近見つけたんだ。ここなら人も滅多に来ないし、落ち着くでしょ」


 蔵太に言われた言葉に滅入っていた雪を神社に連れてきたのは、和泉の至誠しせいである。


 雪は和泉の意図がわかって、強張っていた表情が緩んだ。


 それぞれお参りを済ませ、和泉にうながされた雪はやしろの脇に腰を落ち着かせた。


「男はさ、変に矜持きょうじが高いところがあるから。お雪ちゃんは気にしなくて大丈夫だよ」


 雪は辰巳のことを忘れられない。一度会ってみたのは、おまちに断れなかったからだという理由ならば、蔵太は納得できたのかもしれない。


 だが、思っていたような健気な人ではなく好色家だと、誤解ではあったがそう思ってしまえば、断られた本人は矜持を傷つけられてしまった。


「初めから、私が断っておけばよかったんです」


 そうすれば蔵太を傷つけることはなかった。

 蔵太と会ったところで、辰巳を待つという意志は決まっていたのだ。


「俺と一緒にいるところ見られたから……」


「蔵太さんが怒っていたのは、私が……色を売っていたからで……」


「会ってるだけじゃ…………いや、本当はそうなんじゃないかって思ってた」


 二人に間に沈黙が落ちる。

 風邪でなびく木々のざわめきが、耳に五月蠅うるさかった。


 やがてかすかな声で、和泉がつぶやく。


「……ごめんね」


「私が自分で決めたことです。借金しても、こつこつ働いて少しずつでも返済して、その道だって選べたのに私は楽な方を選んだ。嘉兵衛様はぞんざいにしないから甘えて、その優しさにつけこんでいるんです」


 出合茶屋であいぢゃやで色を売っている。男をたぶらかす悪い女だ。

 雪が何度も苦しめられた昔の噂は、皮肉にもその通りになってしまった。


「子どもがいるのに、借金して働くなんて無理だ。それにお雪ちゃんから誘ったわけじゃない。俺に負担をかけたくないから、お雪ちゃんは……」


 どうしようもないことだった。

 借金を苦に身体を壊すか、辰巳を裏切るか。


 静介と共に生きるためには前者を選べなかった。

 しかし後者の代償は、己の精神だけではなく、和泉までもを苦しめているのだ。


「知らず知らずの内に、辰巳さんのことも傷つけていたのかもしれない。辰巳さんは私のことが嫌いになって……」


 思い返せば、静介が生まれてからは子どもにつきっきりで、辰巳のことをおろそかにしていた。

 文句こそ言われはしなかったが、内心不満がまっていた可能性もある。


「まさか。あいつさ、他人には心を開かないのに、お雪ちゃんにはすんなりだった。俺にはなかなか開いてくれなかったよ」


 和泉は辰巳と出会ったばかりの時分、常に仏頂面で他人にも自分にも興味がなさそうな男だという印象を彼に抱いていた。

 二人が打ち解けるには時を要したが、信濃しなのを去ったときに、共に江戸へ来るくらいの仲にはなったのだから、辰巳にとっては和泉も特別な存在といえる。


 辰巳が他人を信用していないことを知っている和泉からすれば、急速に辰巳と打ち解けられた雪の存在というのはまれだった。


「お雪ちゃんのことになると気が短くなるし、子ども嫌いだったくせに親馬鹿だし。だから……」


 そんな辰巳が雪を嫌いになるなどありえない、ましてや、静介のことも捨てるような人ではないと、和泉は言った。


 しかし、辰巳は雪と静介の元から去ってしまったという事実がある。

 辰巳の心中を推し量ることはできないが、あらゆる可能性が混沌こんとんとしたまま、もやとなっていて晴れないのだ。


「一日でもいいから辰巳のことは忘れて、お雪ちゃんの好きなように過ごしてみたら?」


「え……?」


「要するに気晴らしが必要ってこと。思いつめちゃうと周りも心配しちゃうしさ」


 仕事に没頭していないときに、例えば紫乃と過ごしているときでも、頭の片隅では辰巳のことを考えている。

 思い出しては気持ちが沈んでしまうということをくり返していた雪だからこそ、おまちはお見合い話をもちかけたのだ。

 雪はそのことに思い至った。


「静介の気が済むまで一緒に遊びたい。内職を増やしてから静介に構ってあげられないことが多くて、あの子ずっと我慢してるから」


 そこで芝居見物でも決め込もうと言わないあたりがやはり雪であると、あわよくば雪を何処どこかに誘おうとしていた和泉は肩を落とす。


「……俺も我慢してるよ」


「和泉さんも?」


「お雪ちゃんに思うところがあるんだ」


 一気に困り顔になる雪を、和泉は落ち着きのある笑みで見つめる。そして謝ろうとした雪の唇を、人差し指でふさいだ。


 きょとんと、今度は子どものような顔をする。雪から人差し指を離して、和泉は自身の唇にその指を充てがった。


「これが、俺の思うところ」


 いつもの飄々ひょうひょうとした和泉は、そこにはいない。

 優しくてさみしそうな彼の笑顔が、雪の目に焼き付いた。

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