ある日のこと、雪と静介は和泉から昼餉ひるげの誘いを受けていた。


場所といえばもちろん弥勒みろく屋である。


たまには二人に御馳走を食べさせてあげたいと言った和泉から奢ってもらったことは、すでに何度もあることだった。

そうでなくとも、辰巳がいなくなってからは静介の面倒を見たり手助けをしてくれたりと至れり尽くせりである。


和泉の助けがあってこそ、雪は今の生活が成り立っていた。


「卵がね、ふわふわだったの」


「ふふっ。よっぽど気に入ったのね。

卵なんて滅多に食べられないから、和泉さんにちゃんとありがとうって言うのよ」


「いじゅみ、ありがとう」


「おう。また食わせてやるからな」


和泉に肩車をしてもらいご満悦の静介、この二人の関係性を知らない他人から見れば親子に見えているのかもしれない。


一度も乞われたことはないが、静介は父親がいてほしいのだろうかと、雪はふと考えることがある。

まだ物心もつかない赤子の頃に去った父親の姿を覚えているわけがない。

だが、父親という存在そのものを求めていたら……

頼りない母親だけでは寂しい思いをさせてしまう。


雪は辰巳の代わりを求める気は起きなかったが、この先のことまでは自身でも断定はできない。


「雪」


さん、こんにちは」


何処どこかに行くのだろうか、尾花おばな屋への道とは違う方向を目指していたと偶然に出会う。


「あら、静介。遊んでもらってよかったわね」


会釈をした和泉に、も軽く頭を下げた。


「ちょうどよかった。

これからね、あの話を詰めにお伺いするところなのよ」


さん、まだその話は……」


「いいから、私に任せておいて。

取り敢えず会ってもらうことになってるから。

明日、店まで来てちょうだい」


はそう言って、すぐにその場を去ってしまった。

取り残された雪はしばらく浮かない顔をしたまま、家路を就くことになる。


静介が昼寝をしたところで、との会話が気になっていた和泉は雪に聞いた。


「もう一度、旦那を持ったらどうかって、さんが手配してくれているんです」


「え、でも……」


雪はずっと、辰巳を待っている……


はなから辰巳が戻ってくることはないと踏んでいて、雪を思ってのことだとしても、強引すぎやしないかと和泉は思った。


「相手は?」


「小間物屋の手代てだいをしている方で、子どもがいても構わないって言ってくださっているそうです。

……静介のためにも、おとっつあんがいた方がいいのかしら」


「お雪ちゃんの幸せはいいの?」


雪がまだ辰巳への想いが消えていないことを知って我慢しているのに、という言葉を和泉はぐっとこらえた。






『会ってみてくれないかい?私の顔を立てると思ってさ。

すぐに決めろってわけじゃないんだ。それに、嫌なら断ったっていいんだよ』


雪の再婚相手としてが紹介したのは、神田の小間物屋で手代てだいをしている蔵太くらたという人物だった。

数え歳で三十、じきに番頭になるだろうと目されているらしい。


ほぼ無理矢理に推し進められた話ではあるが、は心配で仕方ないからこその提案に、雪は断ることができなかった。


「初めまして、お雪さん」


物腰の柔らかそうな男ーー蔵太が雪に声をかける。

軽くお茶をする程度、として二人は顔を合わせることになっていたのだった。






和泉が訪れたのは弥勒みろく屋……ではなく別の料理屋である。


浮かない顔をして店に入れば、お松や卯吉に何かを言われてしまうだろうと、普段は通わない料理屋で一人酒を飲もうとしていた。


「隣、いいかしら?」


そう言いながら隣に腰を落ち着けたのは、見覚えのある女だった。


「あ、紫乃さん、だっけ?」


雪が仲良くしている妙に色気のある女で、たしか雪の祝言にも来ていたと、和泉は思い出した。


雪という共通の知り合いはいても二人だけで話したことはなく、親交もない。

話しかけられるのを、和泉は意外に感じた。


「ふふっ。子どもは旦那が世話をしてくれているし、私も飲みたくなっちゃって」


一人飲みを決め込んでいた和泉だったが、落ち着いた雰囲気のある紫乃と飲むのもいいだろうと、二人で杯を傾けた。


「雪から聞いた。再婚相手を紹介されたって。だから落ち込んでるんでしょ?」


今まさに雪はその相手と会っている。

和泉が落ち込んでいたのは、ずばりその通りであった。


「え……俺ってわかりやすいの?」


数えられるくらいしか会ったことのない紫乃もわかってしまうくらいに、自身の想いをさらけ出している。

そう思えば、和泉はいたたまれなくなった。


「さあ。私は色恋の機微には聡いのよ」


「辰巳も知ってただろうから、わかりやすいのかもな」


「……ねぇ、あの人がいなくなった理由に、心当たりはないの?」


「ない」


「嘘が下手ね」


どきりと、和泉は思わず杯が手から落としそうになった。

まさかそこまで見破るとは恐ろしい女だと、やはり正直な表情で紫乃を見た。


心当たりと聞いて、真っ先に思い浮かぶのはという名の女だった。

すでに縁が切れていたはずの二人は、江戸で再会した。


もしも、昔の想いが再び蘇っていたとしたら……


だが、辰巳にそんな素振りは見えなかった。

雪のことを大事にしていたし、静介が生まれて心底よろこんでいた。


「心当たりってほどじゃないんだ。あいつがいなくなった理由は、俺にもわからない」


親友が訳も告げずに姿を消したことに、和泉もまた傷ついているのだ。


「わからないままなら、雪はずっと自分を責め続けるよ。

仮にあの人が酷い男だったとしても、想いを断ち切ることなんてできやしない」


辰巳がいなくなったのは自分の所為せい

あの自信のない雪がそう思っていても、不思議ではない。


「雪はね、あんたにすごく感謝してんだ。和泉さんがいてくれるからって、いつも言ってる」


「そう、か」


気持ちが浮上して上手く言葉が出ない和泉に、紫乃は先を続ける。


「あんたも相当遠慮深いけどさ、また取られちゃうわよ」






夏の陽射しを受けて、川面が煌々と照り返す。

緩やかな流れと共に一そうの船が下っていた。


屋形船とまでは呼べない簡素な船には、二人の男女と、訳知らぬ船頭が乗っている。


屋根があるので陽を浴びることはないが、団扇うちわがあればもっと快適だろうと汗がしたたりそうな身体は言っていた。


「すっかり熱くなってきたなぁ。俺は暑いのが苦手でね」


「私も、蒸し暑い日は特に苦手です」


雪はに紹介された蔵太という男と会っていた。


初めて会っただけでは何もわからないに等しいが、蔵太の印象は良い。

商人だからか気遣いには事欠かなく、話の苦手な雪に対しても柔らかく語りかけるのだった。


「もしかして、今日は無理して来てもらったかい?

この歳まで独り者だから縁があればと俺は来てみたが、お雪さんの気持ちまでは考えなかったからよ」


「いえ……」


に断れなくて仕方なくと馬鹿正直に言えるわけもなく、雪は少し返答に困った。


「まぁ、気が向いたらでいいんだ。今度は坊も連れて来ていいから」


この日は顔合わせ程度に、船が川岸へ着けば早々にお開きとなった。






数日後、雪はに報告も兼ねて、尾花おばな屋を訪れていた。


「蔵太さん、いい人だったろう?

お前さんのことを気に入ったみたいでね、また会いたいって言ってたよ」


ろくに会話も弾まなかったというのに、本当に蔵太はそう言ってくれたのだろうか。

雪がの申し出を断れなかったように、蔵太も気を遣っているのだとしても、もう一度会ってしまえば断りづらくなる。


強引とはいえ、は断ってもいいと言ったことは嘘ではない。


断ることはできる。

だが、雪が言えないのはが紹介してくれたのに、断ることが失礼だからといった理由ではない。


に対して申し訳ない気持ちも芽生えるだろうが、このまま蔵太と一緒になった方が静介のためではないかと考えてしまうからだった。


商家の手代てだいで、じきに番頭になるとすれば今よりも豊かな生活が送れる。

それは私利私欲の透視ではなく、いつ静介が熱を出しても薬を買う余裕ができて、もう身体を売ってまで薬を手に入れる必要がなくなるのだから、静介の前で胸を張って母親でいられるのだ。


何より、父親がいることは静介に寂しい思いをさせずに済む。


静介が実の父親を覚えているわけもないので、新しい父親ができたとしてもさほど抵抗は生じないはずだ。


「どうだい、雪」


「私は……」


ーーお雪ちゃんの幸せはいいの?


和泉の声が、脳裏に蘇った。


愛しい人は、何処どこへ行った。


白雪を踏み分けて消えていった、あの人の足跡は何処へ続いているのだろうか。


吉野山での別れが最後となってしまった静御前と義経のように、もう一度も会えない運命ならば……


求めてしまうことは、愚かだとそしられることだ。


「…………」


この身体はまだ、の人の温もりを覚えていて忘れられない。

耳には声が残響して、孤独を埋めてくれた優しさが、こいしい。


「私は、辰巳さんのことが忘れられない」


「雪……」


は複雑そうな顔で雪を見た。

何かを言おうとしてはとどめて、慎重に言葉を選んでいる。


「留五郎が出て行ったときもそうだったね。

雪は健気にずっと待っていて、でも一度だって帰ってきやしなかったんだ」


雪の父、留五郎は雪を捨てて新しい妻と子どもを選んだ。

唯一のよすがすがっていた雪は、留五郎を待ち続け、辰巳と結ばれるまでは諦められなかった。


辰巳もまた、留五郎と同じだとは言いたいのに違いない。


「政が迎えに来ると言っても頑として首を縦に振らなかったお前を、無理やりにでも説得させていたらってずっと後悔して、でもやっと幸せになったと思ったら……」


だからこそ、は今回の話を雪の意思を通さずに進めてしまった。


痛いほどの想いが伝わって、辰巳を選んだことに胸が苦しくなる。


「辰巳さんはいつか帰ってきてくれる……

一緒にいたいって言ってくれたことは嘘じゃないって、いまだに信じているんです」


「いつかって……」


を呆れさせてまで通す想いは夢幻むげんだ。

確証もなければ、辰巳がいなくなってしまった理由さえわからない。


あのとき政と一緒に相模さがみへ行っていたら、蔵太と一緒になっていたら。

後悔して、これからも悔やみ続ける日々は目に見えているのに、雪は辛い道を選んでしまった。


「……雪がそこまで言うなんて、よっぽどなんだね」


「ごめんなさい。折角、さんが……」


「このまま蔵太さんと一緒になっても、雪は旦那のことが忘れられなくて苦しむだけだろうさ」


は一度息を吐いて、雪に笑ってみせた。


「私が勝手に進めた話だからって、丁重に断っておくよ。

祝言前提の話じゃなかったんだ。雪は何も気にしなくていい」


さんが私のことを考えてくれたからだってことはわかってます。

でも私は、静介の幸せより自分の幸せを選ぶような、だめな親だから」


「雪が幸せにならなきゃ静介だって幸せになれない。

子どもはちゃんと見てるんだ。あんなにおっかさんのことが大好きなんだから」


否定もさとしもしなかったに、雪は心底感謝したのだった。


「この子、具合が悪くなっちゃったみたい」


雪は蔵太と会っている間、静介を尾花おばな屋に預けていたのだが、面倒を見ていた女中が雪が帰ってきたのを確認して、小走りでやってきた。


女中の腕の中にいる静介は、雪がいることに嬉しそうに手を伸ばしていて、まだ寝込むほど悪化はしていないらしい。

だが、日が暮れてしまえば笑う余裕がないほどになってしまうだろう。


「うちで寝かせてもいいんだよ。お医師の方も早く呼ぼうかしら」


「家まですぐですから帰ります。それに移したら申し訳ないですし」


尾花屋は家人だけでなく、使用人や職人が多く雑居している。

その中に病人をおくことははばかられ、が許しても他の人には嫌な顔をされかねない。


幸い家も近いので、雪はすぐに尾花屋を後にした。



深夜になって静介は荒い呼吸を繰り返し、なかなか寝付けないでいる。

今までが大丈夫だったからといって次も助かるという保証はなく、雪は片時も静介から目を離すことができなかった。


「こんなおっかさんでごめんね……」


静介の幸せを置き去りにしてまで選んだのは、忘れられない過去の幸せだ。


心の中で整理しきれていない想いをの前で初めて口にしたとき、自身の想いが強いことを雪はさとった。


父のときのように、他にすがれるものがなかったからというあわいものではない。

この人しかいないという気持ちは降り続けて止まず、万年雪のように確かに存在していた。


雪は辰巳が帰ってきてくれることを信じて待っている。


「静介がもう少し大きくなったらもっと働いて、嘉兵衛様と会うのはやめるから」


幼子を一人にさせることはできない。

身寄りのない雪は、親類に子どもを預けて働きに行くこともできなかった。


和泉やに支えられて、やっと日々を過ごしていた。


どうにもできない分を、身体で払っている。

静介が手のかからない歳まで成長しても、その生活から脱却できるかはわからない。

それが雪の選んだ道だった。






雪が橘花きっかに着くと、すでに嘉兵衛は来ていた。

いつもなら軽く談笑してから布団にいざなわれるのだが、この日の嘉兵衛は急いていて、雪は嘉兵衛のいる部屋に入ってすぐに手を引かれた。


「やはりい。雪の姿を見ただけで、儂は我慢できない」


「嘉兵衛様……」


暗い室内に、行燈あんどんの光が抱き合う二人の姿を映している。

なまめかしく舌を出して屈もうとした雪を、嘉兵衛が制した。


「雪、わかるだろ……?」


「…………」


「怖がらなくていい。おまいさんを捨てた旦那よりも優しくする」


誰からも言われなかったという言葉が、雪を打ちのめした。

悪意があるわけではなく、誰も彼もがそう思っていても言われなかっただけの、雪が避けていた言葉だ。


「薬が欲しいなら、儂の願いを叶えてくれ」


思い詰めた表情は覚悟を決めて、雪は嘉兵衛の前で帯を解いた。

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