第三幕 入りにし人の、跡ぞ戀しき

化粧をするのもすっかり慣れてしまった。

覚束なかった手は、今ではなめらかに動かせる。


背後から聞こえる静介の声を聞いて、機嫌が良いことを確認した。

機嫌が悪いときには出掛けることを躊躇ためらうほどに泣かれるので、一安心する。


最後に紅をさして、雪は鏡の前から立ち上がった。


「静介、おっかさん出掛けてくるから待っててね」


途端、哀しい顔になった息子に罪悪感が芽生える。

小さい子どもの気持ちを抑圧して耐えさせてしまうのは、泣かれるよりも辛い。


「おっかさんが帰ってくるまで俺と遊んでいような」


和泉に頭をでられた静介は頷きはしないが、反抗もしない。

黙って耐えているのだった。


「和泉さん、お願いします」


「うん。気をつけてね」


これ以上留まっていれば静介が泣き出してしまう。

そそくさと家を出ようとしたところで雪は和泉に呼び止められた。


「……もう行かないで。お願い」


和泉の辛そうな顔が、雪をより一層切なくさせた。

自分の行為が大切な人たちを哀しませていることは罪が重なるだけで、化粧のようには慣れない。


「大丈夫です。会うだけですから」


「ごめん、俺の所為せいだ」


「違う……和泉さんの所為じゃない。誰が悪いとか、そう思いたくはないの」


後悔よりも胸をえぐるのは、誰かの優しさだった。






「蓮が見頃になっただろう。特等席で雪に見せてあげたかったんだ」


上野は不忍池に咲かせた蓮が旬を迎えた。

寸前に池を拝める茶屋の一室は、嘉兵衛かへえが雪のために手配したのだった。


嘉兵衛は日本橋に構える薬種問屋のご隠居で、値が付く部屋を手配するなど朝飯前である。


「きれい……」


蓮は極楽浄土に咲く花とも言われ、その蓮の上に人間は生まれ変わるのだという。


だが、極楽に行けなかった人間は地獄で苦しみ続けるのだろうか。

静介とも、…………会えずに。


雪はぎった考えを目の前に広がる蓮の景色で誤魔化した。


「…………っ」


池に見入っていた雪は、嘉兵衛に後ろから抱きしめられた。


上野の茶屋に呼ばれたという時点で予想はしていた。雪は短い言葉と共に、覚悟を固める。


「そろそろ、いいだろう。旦那がいなくなって二年も経っているんだ。

こっちの口で構わないから」


顎を掬い取られ、指の腹は下唇をなぞる。

もう片方の手は着物の合わせ目から膨らみをまさぐった。

雪は慌ててその手をとどめると、嘉兵衛へと振り向く。


「閉めてください……」


池に繋がる戸を閉ざせば、部屋の中は薄暗くなった。






「静介、おいで」


雪は政へ文を送るため、代筆をお願いするべくの元を訪ねていた。

実の孫のように可愛がってくれている静介も連れてくるのが常で、今もは緩み切った笑顔で静介を迎えている。


「あら、前より大きくなったんじゃない。

生まれたときから小さい子だったから心配してたけど、雪の育て方がいいみたいだね」


の言葉に、雪はずきりと心臓が痛むような感覚がした。


ろくな育て方はしていないという自覚と、に隠していることへの自責が渦を巻いて巣くっている。


静介はあまり喋ることはなく、話せるようになるのも遅かった。

それがどうということではないが、そうなったのは自分の育て方が悪いか、自分に似てしまった所為せいで、あるいは寂しい思いをたくさんさせてしまっているからだと信じていた。


「静介が聞き分けのいい子だから、私は子育てに苦労していないんです。

近頃、少しずつ野菜も食べれるようになって」


「よかったね、静介。おっかさんが褒めてるよ」


「おっかちゃ、いいこ」


ふふっと、雪とは笑い合った。


もしも静介がいなかったら、こうして笑うことはできなかったと雪は改めて実感する。

大切な存在が側にいてくれることは、どんなに心強いか。

それに、育児の忙しさにの人を一時でも忘れることができるのだから。


「お菓子をあげるから食べておいで」


女中を呼んだは静介を連れて行かせて、雪に真剣な顔で向き直った。


「いくら静介がいい子でも一人で育てるのは大変ってもんさ。私も母親だからわかるよ」


が何を言いたいのか、その前置きだけで雪はさとった。

以前から言われていたことだが、は本格的に考え始めたらしい。


「ええ……でも、さんたちが助けて下さるから何とかやっていけています」


「静介も母親だけじゃ寂しいだろ。

今度は私が、雪を大切にしてくれる男を紹介する。もう目星はつけているんだ」


「まだ、そんな気には……」


いなくなった夫のことなんかは忘れて、新しい男と所帯を持て。

それがの願いであった。


「まさか、和泉って男に懸想してるんじゃないだろうね」


は和泉のことを嫌って、雪と和泉が一緒になることをいとっているわけではない。

和泉はいなくなった夫、つまり辰巳と同じ浪人だから二の舞になるのではないかと危惧きぐしているのだった。


生活を困らせることもなく、穏やかな性格をしているという知己ちきの商家の手代てだいをとは考えていた。


「違います……和泉さんは優しいから、私たちのことが放っておけないんです。

今は静介のことしか考えられなくて」


雪は嘘を吐いた。

静介のことで手一杯というのは本当だが、どうしても辰巳のことが忘れられずにいるのだ。


訳も言わずに出ていった辰巳は、何処どこにいるのだろうか。

彼の痕跡は、いなくなった日に降りしきっていた雪が消してしまった。


そして、政への文にも嘘を吐き続けていたのだった。



一人遊びをしていた静介が急に大人しくなる。

それは、いつもの合図だった。


ぐったりとしていて、とろんとした瞳、もはや一目瞭然ではあったが額に手をかざして確信した。


「静介、辛いね。おっかさんが変わってあげられたらいいのに」


熱を出した静介をすぐに寝かしつける。

息を吐くのも苦し気で、小さい子どもに襲い掛かる苦しみはむごいものだった。


静介は二月ふたつきに一回は必ず熱を出して寝込んでしまう。


幼児の死亡率が高かった江戸時代、熱を出した子どもが亡くなることはまれではなく、たかが熱と侮ることはできなかった。

常に身近に潜む死の影に、雪は常につきっきりで看病にあたっていた。


引き出しから薬を取ろうとして、残りが少ないことに気づく。

次に熱を出したときにはすでになくなっている分量だった。


(お薬、もらってこないと……)


今回を乗り越えたとしても、静介が熱を出すことは止まない。

いつ静介の体調が悪くなるかもわからない中で、薬の常備は必須だった。






尾花おばな屋から長屋に帰る道のりの途中に、古びた小さいやしろがある。

今まで見向きもしなかったその社は、静介がよく熱を出すようになってから目につくようになった。


何を祀っているのか、はたまた何の後利益があるのか。

手入れをされた様子の見られない社からは知ることはできなかった。


けれど手を合わせずにはいられなくて、雪は尾花屋からの帰り道や社の前を通ったときには必ず静介の健康を祈っていた。

いつの日からか、通るたびにではなく、自ら赴いて祈るようになっていたのだが、信心深くなったというわけではない。


祈ることも目的だったが、社に紐を結ぶことが第一の目的だった。


雪は薬が欲しくなったら紐を結びに来る。

その次の日には、長屋に一人の男がやってくるのだ。


「三日後、橘花きっかに来てほしいと、ご隠居からの伝言です」


「わかりました。よろしくお伝えください」


雪は薬をもらいに嘉兵衛という男に会いに行く。

かつて嘉兵衛が主人をしていた薬種問屋の番頭である平太へいたが二人の仲介をしていた。


平太に言付かった茶屋に行けば、で薬が手に入るのだ。






「あ、せーすけだ!」


神田の町中を静介と歩いていた雪は、背後から聞こえた子どもの声に振り向いた。


人の隙間を潜ってかけてくるのは李々だった。

李々がいるということは……


「雪、久しぶりね」


偶然に出会でくわした紫乃に、雪は内心で戸惑った。

紫乃のことは故意に足を遠のけていたからである。


「李々、せーすけと遊ぶ。お家来るって」


静介と李々はよく遊んでいたこともあり仲が良い。

あまり話さない静介を、李々は子ども同士通じるものがあるのか分かり合えていた。


「少し寄っていって。子どもたちも遊びたいみたい」


「……はい。そうさせてもらいます」


雪たちは一路、紫乃の家へと向かった。



「李々、奥の部屋で遊んであげて」


「うん!」


気兼ねなく雪と話したかった紫乃は、子どもたちを会話が聞こえない距離へと行かせた。


「ふふっ。弟ができたみたいでうれしいのね」


李々が静介の前ではねーねという一人称で話していることからも、その踊る心がうかがえる。

微笑ましい子どもたちの様子に、母親の目の保養にもなっていた。


雪と二人きりになったところで、紫乃は茶をすすり、沈黙が続いていた空間の中でつぶやく。


「私のこと嫌いになっちゃった?」


「嫌いになんてなっていません。

忙しくて、中々紫乃さんに会うことができなくて」


「…………」


薄情な自分を、紫乃の方こそ嫌いになってしまったのではないか。

そう思えど、弁解もできずに雪は口を閉ざした。


紫乃が悪いことをしたわけではなく、避けているのは自分の行いの所為せいだ。

子どものためとはいえ汚れた行為をしていることに、紫乃と会う資格がなくなってしまったと足を向けられずにいた。


「雪が嫌いになったのならいい。そうじゃないなら、私から離れないで」


「でも私…………ごめん、なさい」


「……何かあったの?」


泣きそうな顔で懸命に首を振ったところで、紫乃を誤魔化せることはできない。

嫌われる。紫乃という大切な友を失おうとしている。

言ってはいけないと全身が忠告しているのに、誰かにさらけ出さなければ悲鳴を上げそうなほどに心は憔悴しょうすいしていた。


「とても優しくしてくださる方がいるの。

ただ会うだけでいいって、そうすればその人から無代ただで薬が手に入る」


「うん」


「静介が熱を出すたびにその人に会ってた。

今でも頻繁に熱は出すけど、昔に比べれば頻度は減ってたからその人に会うことも少なくなって……寂しくなったってその人は言ったの。

だから最近は会うだけじゃなくて‥……」


触れるだけでいい。舌をわせるだけでいい。吸うだけでいい。

次第に増してゆく要求に、薬をもらうためには断ることができなかった。


「次に会うときには、きっと……」


その人が求める最大の懇願をされる。

訪れるであろう未来に、抗う術を雪は知らない。



静介がまだ一人で立つこともできない赤子のときには、月に一度は必ず熱を出していた。

当然、必要な薬の量は多大で、そのためには銭を工面しなければならないほど困窮する事態におちいってしまった。


はじめは知らずに和泉が借金をしてまで手に入れてくれた銭で事足りたのだが、静介が寝込むことは治まりを見せずに再び銭が入用となる。

まさかもう一度と和泉に事情を話すこともできず、ましてや紫乃やから銭を借りることははばかられた。


今度は雪が借金をする羽目になり、日々の生活も貧しくなって借金を返せないという状況下に、雪は嘉兵衛と出会った。


すでに隠居の身であった嘉兵衛だが、かつて主人を営んでいた薬種問屋の様子をうかがいに来たときに、雪のことはよく見かけていて存在を知っていたという。

雪の事情も知っていたようで、借金を肩代わりしてくれただけではなく、条件付きではあるが無代ただで薬を渡してくれるようになった。


借金の件があり、雪は嘉兵衛の申し出を断ることができないのである。


「昔ね、おばあちゃんと住んでたの」


急に身の上話を始めた紫乃に、雪は瞬きしながら見つめた。


「身内はおばあちゃんしかいなかった。優しかったし、大好きだった。

だけど病に罹っちゃったから、どうしても銭が必要になって、雪と一緒よ」


「紫乃さん……」


「妾奉公をしてたんだ。

でも、雪とは違うかな。私は最初から体を許してたし、いろんな人に抱かれてたから」


雪がそうであるように、紫乃もまた好き好んで色を売っていたわけではない。

どうしようもない状況がその道を選ばせてしまったのだ。


「初めて雪と会ったときさ、雪は私のこと軽蔑しなかったでしょ。今は?」


すでに妾奉公をやめているとはいえ、紫乃が主人をしている店はただの飲み屋ではない。

それでも雪は何もいとうことなく、紫乃との交友を続けている。


過去を知ってもなお厭わないかという紫乃の問いに、雪は嘘を吐かなかった。


「これから先も、紫乃さんを軽蔑することなんてあり得ない」


ふっと笑う紫乃の顔はきれいで、どこにも汚れを感じさせない。

いや違う、紫乃はどこも汚れてはいないのだ。


紫乃が本当に言いたいことを雪は理解した。


「紫乃さんは優しいね。私も、紫乃さんみたいに強くなりたい」


紫乃は雪の行為をとがめるどころか、むしろ同情さえしている。避けていたことさえも怒りはしない。

一人で抱え込む辛さを知っているからこそ、雪を一人で悩ませることをさせなかった。


「聞いてほしいことがたくさんあります。紫乃さんだから、話したい」


誰にも言えない悩みを、紫乃になら打ち明けられる。

子どもたちは遊びに夢中で、しばらくは紫乃に甘えてしまう雪だった。

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