第三幕 入りにし人の、跡ぞ戀しき

 化粧をするのもすっかり慣れてしまった。

 覚束なかった手は、今ではなめらかに動かすことができる。


 背後から聞こえる静介の声を聞いて、機嫌が良いことを確認した。

 機嫌が悪いときには出掛けることを躊躇ためらうほどに泣かれるので、一安心する。


 最後に紅をさして、雪は鏡の前から立ち上がった。


「静介、おっかさん出掛けてくるから待っててね」


 途端、哀しい顔になった息子に罪悪感が芽生える。

 小さい子どもの気持ちを抑圧して耐えさせてしまうのは、泣かれるよりも辛い。


「おっかさんが帰ってくるまで俺と遊んでいような」


 和泉に頭をでられた静介はうなずきはしないが、反抗もしない。

 黙って耐えているのだった。


「和泉さん、お願いします」


「うん。気をつけてね」


 これ以上とどまっていれば静介が泣き出してしまう。

 そそくさと家を出ようとしたところで、雪は和泉に手首をつかまれた。


「……もう行かないで。お願い」


 和泉の辛そうな顔が、雪をより一層切なくさせた。

 自分の行為が大切な人たちを哀しませていて、罪が重なるだけで化粧のようには慣れない。


「大丈夫です。会うだけですから」


「ごめん、俺の所為せいだ」


「違う……和泉さんの所為じゃない。誰が悪いとか、そう思いたくはないの」


 後悔よりも胸をえぐるのは、忘れられないあの人の優しさだった。


  *


「蓮が見頃になっただろう。特等席で雪に見せてあげたかったんだ」


 上野の不忍池しのばずのいけに咲いている蓮が旬を迎えた。

 寸前で池を拝めることのできる茶屋の一室は、嘉兵衛かへえが雪のために手配していた。


 嘉兵衛は日本橋に構える薬種問屋で主人をしていたことがあり、今は隠居の身である。値が付く部屋を手配するなど朝飯前であった。


「きれい……」


 蓮は極楽浄土に咲く花とも言われ、その蓮の上に人間は生まれ変わるのだという。


 極楽に行けなかった人間は地獄で苦しみ続けるのだろうか。

 静介とも、……あの人とも会えずに。


 雪はぎった考えを目の前に広がる蓮の景色で打ち消そうとした。


「…………っ」


 池に見入っていた雪は、嘉兵衛に後ろから抱きしめられた。


 上野の茶屋に呼ばれたという時点で予想はしていた。雪は短い言葉と共に、覚悟を固める。


「そろそろ、いいだろう。旦那がいなくなって二年も経っているんだ。こっちの口で構わないから」


 あごすくい取られ、指の腹は下唇をなぞる。もう片方の手は着物の合わせ目から、膨らみをまさぐった。

 雪はあわててその手をとどめると、嘉兵衛の方を振り向く。


「閉めてください……」


 池に繋がる戸を閉ざせば、部屋の中は陰気に薄暗くなった。


  *


「静介、おいで」


 雪は政へ文を送るため、代筆をお願いするべくおまちの元を訪ねていた。

 実の孫のように可愛がってくれている静介も連れてくるのが常で、今もおまちは緩み切った笑顔で静介を迎えている。


「あら、前より大きくなったんじゃない。生まれたときから小さい子だったから心配してたけど、雪の育て方がいいみたいだね」


 おまちの言葉に、雪はずきりと心臓が痛むような感覚がした。

 ろくな育て方はしていないという自覚と、おまちに隠していることへの自責がうずを巻いて巣くっている。


 静介はあまりしゃべることはなく、話せるようになるのも遅かった。

 それがどうということではないが、そうなったのは自分の育て方が悪いのか、それとも自分に似てしまった所為せいで、あるいはさみしい思いをたくさんさせてしまっているからだと雪は思っている。


「静介は聞き分けのいい子だから、私は子育てに苦労していないんです。近頃、少しずつ野菜も食べれるようになってきて、安心しました」


「よかったね、静介。おっかさんが褒めてるよ」


「おっかちゃ、いいこ」


 ふふっと、雪とおまちは笑い合った。


 もしも静介がいなかったら、こうして笑うことはできなかったと雪は改めて実感する。

 大切な存在が側にいてくれるのは、どんなに心強いことか。それに、育児の忙しさにの人を一時でも忘れることができるのだから……


「お菓子をあげるから食べておいで」


 おまちは女中を呼んで静介を連れて行かせてから、雪に真剣な顔で向き直った。


「いくら静介がいい子でも、一人で育てるのは大変ってもんさ。私も母親だからわかるよ」


 おまちが何を言いたいのか、その前置きだけで雪はさとった。

 以前から言われていたことだが、おまちは本格的に考え始めたらしい。


「ええ……でも、おまちさんたちが助けてくださるから、何とかやっていけています」


「静介も母親だけじゃ寂しいはずよ。今度は私が、雪を大切にしてくれる人を紹介するわ。もう目星はつけているのよ」


「まだ、そんな気には……」


 いなくなった夫のことなんかは忘れて、新しい男と所帯を持て。

 それがおまちの願いであった。


「まさか、和泉って男に懸想けそうしてるんじゃないだろうね」


 おまちは和泉のことを嫌って、雪と一緒になることをいとっているわけではない。

 和泉は雪のいなくなった夫、つまり辰巳と同じ浪人だから、同じような結末になるのではないかと危惧きぐしているのだった。


 生活を困らせることもなく、穏やかな性格をしているという知己ちきの商家の手代てだいをと、おまちは考えていた。


「違います……和泉さんは優しいから、私たちのことが放っておけないんです。今は静介のことしか考えられなくて……」


 雪は嘘を吐いた。

 静介のことで手一杯というのは本当だが、どうしても辰巳のことが忘れられずにいるのだ。


 訳も言わずに出ていった辰巳は、何処どこにいるのだろうか。

 彼の痕跡は、いなくなった日に降りしきっていた雪が消してしまった。


 そして、政への文にも嘘を吐き続けていたのだった。


  *


 一人遊びをしていた静介が急に大人しくなる。

 それは、いつもの合図だった。


 ぐったりとしていて、とろんとした瞳、もはや一目瞭然ではあったが、額に手をかざして確信した。


「静介、辛いね。おっかさんが変わってあげられたらいいのに」


 熱を出した静介をすぐに寝かしつける。

 息を吐くのも苦し気で、小さい子どもに襲い掛かる苦しみはむごいものだった。


 静介は一月ひとつきに一回は必ず熱を出して寝込んでしまう。


 幼児の死亡率が高かったこの時代、熱を出した子どもが亡くなることはまれではなく、たかが熱とあなどることはできなかった。

 常に身近に潜む死の影に、雪は常につきっきりで看病にあたっていた。


 引き出しから薬を取ろうとして、残りが少ないことに気づく。

 次に熱を出した時には足りない分量だった。


(お薬、もらってこないと……)


 いつ静介の体調が悪くなるのかもわからない中で、薬の常備は必須だった。


  *


 尾花おばな屋から長屋に帰る道のりの途中に、古びた小さいやしろがある。

 今まで見向きもしなかったその社は、静介がよく熱を出すようになってから目につくようになった。


 何を祀っているのか、はたまた何の後利益ごりやくがあるのかはわからない。手入れをされた様子の見られない社からは、うかがい知ることもできなかった。


 けれど手を合わせずにはいられなくて、雪は尾花屋からの帰り道や社の前を通ったときには必ず、静介の健康を祈っていた。

 いつの日からか、通るたびにではなく、自らおもむいて祈るようになっていたのだが、信心深くなったというわけではなかった。


 祈ることも目的だったが、社に紐を結ぶことが第一の目的である。


 雪は薬が欲しくなったら紐を結びに来る。

 その次の日には、長屋に一人の男がやってくるのだ。


「三日後、橘花きっかに来てほしいと、ご隠居からの伝言です」


「わかりました。よろしくお伝えください」


 雪は薬をもらいに嘉兵衛という男に会いに行く。

 かつて嘉兵衛が主人をしていた薬種問屋の番頭である平太が、二人の仲介をしていた。


 平太に伝えられた茶屋に行けば、で薬が手に入るのだ。


  *


「あ!せーすけだ!」


 神田の町中を静介と歩いていた雪は、背後から聞こえた子どもの声に振り向いた。


 人ごみの隙間を縫って駆けてくるのは、李々だった。


「雪、久しぶりね」


 偶然に出会った紫乃に、雪は内心で戸惑った。

 紫乃のことは故意に足を遠のけていたからである。


「李々、せーすけと遊ぶ。お家来るって」


 静介と李々はよく遊んでいたこともあり仲が良い。

 あまり話さない静介を、李々は子ども同士通じるものがあるのか、分かり合えていた。


「少し寄っていって。子どもたちも遊びたいみたい」


「……はい。そうさせてもらいます」


 雪たちは一路、紫乃の家へと向かった。



「李々、奥の部屋で遊んでて」


「うん!」


 気兼ねなく雪と話したかった紫乃は、子どもたちを会話が聞こえない距離へと行かせた。


「ふふっ。弟ができたみたいでうれしいのね」


 李々が静介の前ではねーねという一人称で話していることからも、その踊る心がうかがえる。

 微笑ましい子どもたちの様子に、母親の目の保養にもなっていた。


 雪と二人きりになったところで、紫乃は茶をすすり、沈黙が続いていた空間の中でつぶやく。


「私のこと、嫌いになっちゃった?」


「嫌いになんてなっていません。忙しくて、中々紫乃さんに会うことができなくて……」


 薄情な自分を、紫乃の方こそ嫌いになってしまったのではないか。

 そう思えど、弁解もできずに雪は口を閉ざした。


 紫乃が悪いことをしたわけではなく、避けているのは自分の行いの所為せいだ。

 子どものためとはいえ汚れた行為をしていることが後ろめたくて、嫌われたくなくて、足を向けられずにいた。


「雪が嫌いになったのならいい。そうじゃないなら、私から離れないで」


「でも私…………ごめん、なさい」


「……何かあったの?」


 泣きそうな顔で懸命に首を振ったところで、紫乃を誤魔化せることはできない。

 嫌われる……紫乃という大切な友を失おうとしている。

 言ってはいけないと全身が忠告しているのに、誰かにさらけ出さなければ悲鳴を上げそうなほどに、心は憔悴しょうすいしていた。


「とても優しくしてくれる人がいるの。ただ会うだけでいいって、そうすればその人から無代ただで薬が手に入る」


「うん」


「静介が熱を出すたびにその人に会ってた。今でも頻繁に熱は出すけど、昔に比べれば頻度は減ってたからその人に会うことも少なくなって……寂しくなったってその人は言ったの。だから最近は会うだけじゃなくて‥……」


 触れるだけでいい。舌をわせるだけでいい。吸うだけでいい。

 次第に増してゆく要求に、薬をもらうためには断ることができなかった。


「次に会うときには、きっと……」


 その人が求める最大の懇願をされる。

 訪れるであろう未来に、抗う術を雪は知らない。


 静介がまだ一人で立つこともできない赤子のときには、月に二、三度は必ず熱を出していた。

 当然、必要な薬の量は多く、そのためにはお金を工面しなければならないほど困窮する事態におちいってしまった。


 はじめは知らずに和泉が借金をしてまで手に入れてくれたお金で事足りたのだが、静介が寝込むことは治まりを見せずに再びお金が必要となる。

 まさかもう一度と和泉に事情を話すこともできず、ましてや紫乃やおまちから銭を借りることははばかられた。


 今度は雪が借金をする羽目になり、日々の生活も貧しくなって借金を返せないという状況下で、雪は嘉兵衛と出会った。


 すでに隠居の身であった嘉兵衛だが、かつて主人を営んでいた薬種問屋の様子をうかがいに来たときに、雪のことはよく見かけていて存在を知っていたという。

 雪の事情も知っていたようで、借金を肩代わりしてくれただけではなく、条件付きではあるが、無代ただで薬を渡してくれるようになった。


 借金の件があり、雪は嘉兵衛の申し出を断ることができないのである。


「昔ね、おばあちゃんと住んでたの」


 急に身の上話を始めた紫乃に、雪は瞬きしながら見つめた。


「身内はおばあちゃんしかいなかった。優しかったし、大好きだった。だけど病にかかっちゃったから、どうしてもお金が必要になって……雪と一緒よ」


「紫乃さん……」


「妾奉公をしてたんだ。でも、雪とは違うかな。私は最初から体を許してたし、いろんな人に抱かれてたから」


 雪がそうであるように、紫乃もまた好き好んで色を売っていたわけではない。

 どうしようもない状況が、その道を選ばせてしまったのだ。


「初めて雪と会ったときさ、雪は私のこと軽蔑しなかったでしょ。今は?」


 すでに妾奉公をやめているとはいえ、紫乃が主人をしている店はただの飲み屋ではない。

 それでも雪は何もいとうことなく、紫乃との交友を続けている。


 過去を知ってもなお厭わないかという紫乃の問いに、雪は嘘を吐かなかった。


「これから先も、紫乃さんを軽蔑することなんてあり得ない」


 ふっと笑う紫乃の顔はきれいで、どこにも汚れを感じさせない。

 いや違う、紫乃はどこも汚れてはいないのだ。


 紫乃が本当に言いたいことを雪は理解した。


「紫乃さんは優しい。私も、紫乃さんみたいに強くなりたい」


 紫乃は雪の行為をとがめるどころか、むしろ同情さえしている。避けていたことさえも怒りはしない。

 一人で抱え込む辛さを知っているからこそ、雪を一人で悩ませることをさせなかった。


「聞いてほしいことがたくさんあります。紫乃さんだから、話したい」


 誰にも言えない悩みを、紫乃になら打ち明けられる。

 子どもたちは遊びに夢中で、しばらくは紫乃に甘えてしまう雪だった。

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