色鮮やかだった緑葉が、まばらに赤く色づき始めていた。

 秋の象徴たる紅葉の盛りはもうすぐであろう。


 江戸中にる紅葉がすべてを赤く染め上げるのが先か、それとも我が子が生まれるのが先か、臨月を迎えている雪はそのときが間近に迫っていた。


(もうすぐ、会える)


 時折どこどこと腹を蹴り上げられては、元気に育っているのだと胸をで下ろしていたが、今日は一度も衝撃を感じてはいなかった。


 姿が見えない分、些細ささいなことで不安がぎる。


「おとっつあんがいないからさみしいのね」


 外に出ている辰巳に寂しさを感じているのは、雪の心だ。


 一人で父を待ち続けていたときには慣れていた孤独が、辰巳と暮らし始めてから耐える心がもろくなってしまった。

 辰巳が隣にいてくれることが当たり前だと思えるようにまで、空虚だった心は埋め尽くされている。


 今にも辰巳が姿を現さないか戸を見やった刹那せつな、腹に痛みが走った。


「…………っ!」


 前のめりにならなければ痛みに耐えられない。

 ついに来てしまったと察したすぐ後には、先程までは微塵も感じていなかった恐怖が襲う。


 戸が開いた。けれど、足を踏み入れようとする人は辰巳ではなかった。


「お雪ちゃん!」


 雪の様子を見て、和泉はつかさず駆け寄る。雪がここにおいてすがれるのは和泉しかいなかった。


「どうしよう……産まれそうなの」


 痛みに耐えるように、不安をぶつけるように、雪は和泉の腕を跡がつかんばかりの勢いでにぎりしめた。

 狼狽ろうばいしていた和泉は、その痛みで冷静になる。


「大丈夫。辰巳が用意してくれた産綱があるなら、無事に産まれるよ」


 天井からぶら下がった一本の綱は、雪が臨月を迎えたと同時に辰巳が準備したものだった。

 痛みが一旦治まった雪は産綱を見て、側にいない辰巳の想いを近くで感じた。


「長屋の人に声をかけてくる」


 雪が安心したのを確認して、和泉は外へとすっ飛んで行く。

 すぐに長屋の女房たちが駆けつけてきた。



「そう、もうすぐ産まれるのね。貴方が親になるなんて、想像がつかないわ」


 女はそう言って、床几しょうぎから腰を上げた。


 昔から何を考えているのかわからない女だった。

 ふらりと現れては、いつの間にか姿を消してしまう。

 猫のように気まぐれと言えばそうなのかもしれない。


 だが、過去を知っている女からすれば、ごもっともな言葉だった。


「やっと見つけた!」


 女が去っていた方とは反対の道から、息を切らして来たのは和泉だった。


「そんなにあわててどうした?」


「お雪ちゃんが……産気、づいて」


 呼吸を乱したままでつむがれた声を聞くや、辰巳は茶屋の代金を払うのも忘れて長屋に向かった。

 大声で呼び止める茶屋の主人を和泉がなだめて、代わりに支払うという顛末てんまつを迎える。


(出産祝いにしては安すぎるな)



 和泉からの知らせを聞き、辰巳が急いで家に戻れば、取り上げ婆に子どもが産まれるまでは家に入るなとどやされ外に出される。


 視界の端に見えたのは、痛みに耐えて苦悶くもんの表情を浮かべる雪の姿だ。


 雪の側には取り上げ婆と、長屋の女房が何人か付き添っている。

 自分がいなくてもよいのだとわかっていても、側にいられない不甲斐なさを嘆いてしまう。


 長屋の周りを何度もぐるぐると歩き、落ち着きのない様子に長屋の住人からは大丈夫だと声をかけられるも、少しも安堵あんどできなかった。


 出産で命を落とす人もいれば、死産の可能性もある。

 そればかりを考えているわけではないが、全く気にしていないわけでもない。


 命懸けで戦っている雪の無事を確認したい。我が子に会いたい。

 はやる気持ちを抑えることなどできなかった。


「ふぇ」


 短い一瞬の声、それは確かに耳を貫いた生命の叫びだった。

 すでに闇に包まれた夜半よわの出来事である。


  *


 赤子が母体を離れてから七日目をお七夜という。

 親族一同が集まり、赤子の成長を祝う儀式も、身寄りのない二人の下ではわびしかった。


 雪たちの親族に代わり長屋を訪れたのはおまちだった。

 雪の子どもが産まれたことがよほどうれしいのか、祝言のときのように豪勢な料理やらを用意していた。


 だが雪には、おまちにお礼を言う余裕も、目の前に並べられた料理に舌鼓したづつみを打つ余裕もない。

 布団に支えられてやっと座っているが、産後の負担が重くしかかっている。

 目を閉じれば夢の中へ行ってしまいそうで、それでも懸命に目を開けていたのは我が子の名前が知りたかったからだ。


 丁寧に紙の上に筆を動かす辰巳は、名前はそれほど悩むこともなく決まったと言っていたが、果たして……


 辰巳は書き終えた紙を、雪とおまちに見える所へと置いた。

 字が読めない雪は、紙に書かれた文字を読むことはできないので、辰巳の言葉を待った。


静介せいすけ。これしかねぇって決めたんだ」


「おとっつあんがいい名前を付けてくれたよ」


 おまちに頬を突かれる静介はしっかりと目を閉じて眠っている。

 産まれた直後は皺くちゃだった顔は、今では張りのある柔らかい触感へと変わっていた。


「せいすけ」


 無事に七日目を迎えられた我が子の名前を、雪はそっとつぶやいた。

 明日も、何十年先も、静介が無事で過ごせますようにという祈りとともに。


  *


 なまりのように重たい瞳をこじ開ける。

 静介を寝かしつけて少しだけ休憩するつもりで横たわったまま、ぐっすりと眠ってしまったようだ。


 過ぎてしまった時を計ることはできないが、早く夕餉ゆうげの準備をしなければ辰巳が帰ってきてしまうと、雪は身体を起こした。


 あせったのは、寝過ごしてしまったことだけではない。

 隣で寝ていたはずの静介の姿が見えないことに、一瞬で目を覚ますことができた。


 冴えわたっていく五感の中で、味噌と出汁だしの匂いがただよっているのに気づく。


「あ、辰巳さん」


 静介を負ぶさりながら鍋をかきまわしているのは辰巳だった。

 作っているのはおじやだろうか。


「ごめんなさい、代わります」


「疲れてるだろ。それに、もうできる」


 自分の代わりに食事の用意をしてくれた辰巳に申し訳なく思うも、当の辰巳は嫌がる素振りを見せることはない。

 辰巳の気遣いは、静介がまだお腹にいるときから続いていた。


 静介が無事に産まれた今でも、辰巳の手をわずらわせてばかりでは、いつか辰巳に見放されてしまうのではないだろうかと一抹いちまつの不安がぎる。

 でも、辰巳が両親のように自分を見捨てるはずがないともささやく心の声は自惚うぬぼれだろうか……


 雪が起きたのを見て、じたばたと静介が辰巳の背中で動き出した。


「おっかさんの方がいいのはわかるが、そんなに暴れるな」


 背中に固定していた紐を解かれ、雪の腕に抱きかかえられた子どもはうれしそうに笑っている。

 首がすわるようになって背中でも負ぶされるようになった静介は、今でも雪に抱えられているときが心地よいらしい。


 夕餉を食べる段階になっても、雪が静介を寝かせようとすれば嫌がり、果ては泣きそうになるので、静介を抱えながら食べる羽目になる雪であった。


「静介は雪に似てるな」


「辰巳さんったら何言ってるの。この子は辰巳さんにそっくりです。おまちさんも、特に口元がそっくりだって言ってましたよ」


「そうか……?」


「おとっつあんに似てよかったね。いい男になるよ」


 辰巳としては男だろうが女だろうが雪に似て欲しかったのだが、静介に語る雪の言葉を聞けば悪い気もしない。


 新年を迎えても二人の熱は冷めやらず、いつもの日常だった。



 毎夜、二人を悩ませているのは静介の夜泣きだった。


 乳を含ませて落ち着くときもあれば、原因がわからずに泣きわめかれるときもある。

 今日に至っては、三度目の夜泣きに入る静介は、後者だった。


「外であやしてくる」


 辰巳は静介を抱えて外に出た。


 中々泣き止まないときには、長屋の住人に迷惑がかからないように夫婦は交代で外に連れ出していた。

 何度も起こされてはあやすことを繰り返し、二人の寝不足の原因でもある。


『私は絶対、おっかさんとおとっつあんみたいに静介を捨てたりなんかしない。いつまでも可愛がってあげる』


 ある日、雪はそうつぶやいていた。

 自分は捨てられた。だけど、だからこそ、我が子を同じ目に合わせないという雪の確固たる意志である。


 雪が子育てに気負い過ぎるところを辰巳は危惧きぐしていたが、一つだけ安心したこともあった。


 雪は眠っている最中、無意識に父を求めて孤独だった過去に震えていたが、静介が生まれてからはぴたりと父を乞わなくなっていた。


(お前は俺たちにとって、特別な存在だ)


 空には星が瞬いている。

 まぶしすぎるくらいのその輝きの下、静介はやっと泣き止んでいた。


  *


 井戸におけを放り込めば、表面を覆っていた薄い氷がいとも簡単に砕けた。

 水をすくい上げて自らが持ってきた桶に移し終えると、肌を刺す冷気に耐えられず、手をり合わせながら白い息を吐いて温める。ほんの一時の気休めにしかならないが、手がかじかんで仕方ないのだ。


 気づけば指に、小さい結晶が落ちてきた。それはすぐに溶けて小さな水滴となる。

 灰色の空からは雪が降り始めていた。


 昨日に降りしきった雪はまだ溶けていない。

 屋根の上、道の端、わずかながらではあるがその痕跡が確認できる。


 家の前に並べられた二羽の雪兎を見て、辰巳と雪兎を作ることが毎年の慣例となりつつあることを思う。

 いずれは静介も一緒に雪兎を作る日が来ることを想像しては、幸福にひたった。


「少し出る」


 夕餉ゆうげの準備にとりかかろうとしたとき、かけられた声に振り向けば、静介を抱える辰巳の姿があった。


「静介も連れて行くの?」


 外は雪が降っていて、先ほど井戸をみに行ったときに感じた寒さの中にいれば、幼い静介は体調を悪くしてしまうのではないか、と雪は聞いた。


「せっかく雪が降ってるんだ。静介に見せてやりたい」


「長くはだめですよ」


「ああ、わかってる。…………雪、……いや、何でもない」


 何かを言おうとしていた辰巳の顔からは表情が読み取れない。


 でも伝えたいことがあるのなら帰ってきた後にでも言ってくれるだろうと、雪は何も言わなかった。

 それに、辰巳の言うように、気にする必要もないことかもしれない。


「待っていますね」


 雪は笑顔で二人を送り出す。

 今日は夫の好物であるけんちん汁を作ろうと決めていた。



「おーい、辰巳」


 和泉は道すがら、辰巳を見つけて呼び止める。

 振り返った辰巳は静介を抱えていて、相変わらずの子煩悩こぼんのうぶりを茶化すことにした。


「てて親姿が板についてきたんじゃない?子ども嫌いだった辰巳が丸くなるなんてなぁ」


 辰巳はふんと短く答えただけだった。

 いつもなら何かしら言ってくるものをと、予想していなかった反応に茶化す気が失せてしまった。


「静介を家に連れて行ってくれ。どうせまたたかりに来たところなんだろ」


 いかにも図星であり、和泉は差し出してくる静介を否応なしに無言で抱きかかえた。


「ははっ、お見通しってわけか。それより辰巳は戻らないの?」


「用事を思い出した。飯は先に食っていていい」


 野暮用を思い出したのだろうか。

 しかし和泉は深く問いただす主義ではなく、ましてや真冬の外にいつまでも静介をいさせるわけにはいかない。


 父と離れたことが寂しいのか、静介がぐずりはじめそうだったので、和泉は小走りで急いだのだった。


  *


「なんだ、息子は連れてこなかったのか」


 男は意外そうな顔をした。

 近くで旅装を整えている女は興味がないのか、顔を上げようともしない。


「こんな寒い日に長旅は無理だ」


「お前が決めたならいい。早く着替えて行くぞ」


 後ろは振り返らなかった。

 街道の先は、雪が降り積もり続けるだけで何もない。

 いつか夢で見た、白銀しろがねの世界が広がっていた。


  *


 外から赤子の泣き声が聞こえた。静介だろうと、雪は戸口に手をかける。

 帰りが遅いと心配していたところだった。


「和泉さん」


 静介が帰ってきた。しかし、静介を抱えているのは辰巳ではなく和泉である。


「さっき辰巳と会ったんだ。ほら、おっかさんだよ」


 泣きわめく静介を、和泉は雪に手渡した。


 しばらくあやすこと四半刻しはんとき、やっとのこと静介は落ち着きを見せた。


「辰巳さんは?」


「用事があるから先に食べてていいってさ。まったく、気が抜けてるんだよ」


 和泉の冗談のような言葉に、雪は無理矢理に口角を上げる。


 作りたてのけんちん汁を食べてほしかったという気持ちを封じ込めて、雪は辰巳の帰りを待っていた。


 しかし次の日も、また次の日も辰巳は帰ってこなかった。

 冬が明けても、なお……

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