陽が沈み始めるころ、紫乃たちは雪の家を後にした。

昼過ぎには帰ると言っていた辰巳は、まだその姿を見せない。


少しは遅くなることもあるだろうと、雪は気に留めていなかった。


だが、その日は待てども待てども辰巳は帰ってこない。


体調も落ち着きはじめ、塞ぎがちだった気持ちも辰巳がいればこそ保てていた雪は、夫の不在に充分な食事を摂ることができなかった。

部屋には辰巳の分の夕餉ゆうげが虚しく置かれている。



辰巳が帰ってきたのは、皆が寝静まった刻限だった。


「遅くなった……雪?」


背を向けたまま黙り込む雪は、辰巳に一瞥いちべつをくれようともしない。


雪が怒るのはごもっともだという自覚を持ちながら、けれど雪にどう声をかけていいのか辰巳は迷った。

躊躇ためらう理由は罪悪感である。


そして、部屋に置かれた雪が用意してくれたであろう食事を見て胸が痛んだ。


「まだ食べてねぇんだ。雪はもう寝てて……」

「嘘」


雪は人の言葉をさえぎったりしない。

それは、相当に雪が追い詰められている証左だった。


「外で食べてきたなら、無理して食べなくていいです」


図星だった。

食事をすでに済ませていた辰巳は、雪の言ったように無理をしなければ食事を受け付けることができない。


しかも雪は用意した食事を食べなかったことに怒っているのではなく、側にいてくれなかった心細さを哀しんでいた。


「……ごめんなさい」


「俺が悪いのに、雪が謝ることはねぇだろ」


「だって、辰巳さんが帰ってこないのに自分が心細いから不安になって……

もしかしたら辰巳さんの身に何かがあったのかもしれなかったのに、自分のことばかり考えてた」


これから母親になろうとする人が自分よがりな考えでは、まともな親になれないかもしれない。

雪の不安は著しくそれだった。


「身重なのに他のことなんか気にするな。そうでなくても、お前は我慢してばかりだ」


辰巳が安心させようと雪を後ろから抱きしめようとすれば、確かに受け入れようとした雪は寸前で振り向き、辰巳の腕をとどめた。


やっと視線を交わらせた雪は、怯えたような顔をしている。


「……もう休みます」


雪はそう言って、寝具を広げて夜着よぎにくるまった。


どんなに気持ちが落ちても、辰巳は怒りもせずに慰めてくれる。

現に、その優しさを受け入れようとした雪だったが、辰巳が近づいた瞬間にただよってきた匂いに、煙管きせるでも酒の匂いでもなく女の芳香を感じた。


自分以外の誰かを抱いたのかもしれない。

切なさに混じった嫉妬が辰巳を拒絶した。


子どもを身籠って以来、二人の間に身体を重ねる行為はなかった。

貯まった鬱憤は、辰巳を悪所へと導いたのだとしたら、責めることはできないと雪は口を閉ざした。


一時の遊びなら目をつぶれる。

だが、遊びでなかったのならば……


(違う……辰巳さんは、そんな人じゃない)







時にして一月ひとつき、春の最盛期を和泉は浅草で過ごしていた。


用心棒を所望している岡場所を口入屋に紹介してもらい、和泉は二つ返事で受け入れていた。

たちの悪い客が出入りするようになったので、騒ぎを起こすようなことがあれば追っ払ってほしいという依頼であった。


幕府非公認の遊郭である岡場所は、目立つような行動を起こされたくはない。

しばらく用心棒に居ついてもらい睨みを効かせることも目的だった。


用心棒をしている間はその岡場所で起居していたのだが、桜の花にも女にもうつつを抜かせない代わりに待遇は良かった。

たしなむ程度の酒を用意されていたり、一悶着が起きようとすれば持ち前の腕っぷしで鎮火した実績に、岡場所の主人の信頼も得ていた。


悪漢が店を遠のくようになり落ち着きを見せたところでいとまを出されてしまった今、自由の身と報酬に和泉は浮かれている。

岡場所を出て行く前に主人の厚意で、昼見世の女も抱かせてもらっていたので満足しているといったところだ。


懐が豊かになれば、心の余裕も持てるようになる。

いた人が子どもを身籠ったことで落ち込んでいたことが、いかに愚かなことだったかを思い知った。


ただでさえ助けを必要としている時期に、支えてあげなくて何としようか。

明日は久しぶりに雪と辰巳に会いに行こうと決めたところで、浅草の賑わう夜半の道を歩きながら、数あるうちのどの飲み屋に入ろうかを見定めていた。


(あれは……)


ある飲み屋から出てきた男は辰巳だった。


(浅草まで来るなんてめずらしいな)


和泉にしろ辰巳にしろ、飲み屋なら神田の弥勒みろく屋を利用するのが常であった。

自分のように浅草で用心棒の仕事をしていたからか、それとも誰かに誘われたのだろうかと、和泉は思案する。


雪が身籠ってからは仕事以外のほとんどの時を一緒に過ごしていた辰巳が浅草にいることは、やはり珍しかった。


(一緒に飲もう……いや、早く家に帰れと釘を刺すべきか)


どのみち声をかけようと動かした足は、数歩を進めたところで地面に縫い付けられたように止まった。


辰巳のあとから飲み屋の暖簾のれんを潜った女の姿を見たからだ。


(まさか……どうして、あの子が)


和泉の知っているその女は、信濃しなのにいるはずだった。


江戸に来ていたとして、今さら何だというのだ。


二人が何を思い、何を話していたのか、その全貌はわからない。

雪の平穏を脅かそうとする片鱗を見せられた和泉の中で、沸々と怒りが芽生える。


和泉は気配を消して、二人の後をつけたのであった。






雪は子どもを身籠ってから、とかく甘味を所望するようになった。

紫乃とはよく茶屋に通うようになり、団子やら善哉ぜんざい堪能たんのうしている。


米などの普通の食事はできなくとも、甘味なら受け付けるという日もあるのだから不思議だ。


さて今日も雪は、目の前にある甘味に目を輝かせていた。


「こんなに高級そうな羊羹ようかんなんて初めて。ありがとうございます、和泉さん」


「実入りのいい仕事をしてたから余裕があるんだ。

いつも手ぶらで来てたけど、今回はお土産を持ってこれてよかったよ」


和泉は奮発して、少々高級な羊羹を雪のために買ったのだった。

雪が甘味を好むようになったのを聞いて、ぜひとも美味しいものを食べさせたいと思ったわけである。

案の定、雪は歓喜している。


「俺のはいいよ。お雪ちゃんが食べて」


「独り占めしたら罰が当たっちゃいます。それに和泉さんが買ってきてくださったんだもの」


雪はそう言って、羊羹をちょうど六等分に切り分ける。

二切れずつ和泉と自身の分として皿によそい、もう二切れを残していた。


(辰巳の分か……)


相変わらず、雪と辰巳の仲は良好らしい。

和泉はそのことに嫌悪感を抱きはしなかったが、雪にとって知りたくないことを知っている以上、複雑な気持ちだった。


まるで子どものように顔を綻ばせて羊羹を食む雪は、辰巳を信じている。

一度だけ喧嘩をしてしまったが、それは自身の気の浮き沈みが激しくなってしまっている所為せいだとも、雪は思っていた。






数日前の昼中、和泉は辰巳を訪ねていた。


「ねぇ、辰巳」


いつもは冗談を抜かしたりしている和泉の顔は真面目で、ただならぬ雰囲気を辰巳は感じた。


「昨日の晩、何してた?」


一度目を見開いた辰巳は、すぐに冷静になってみせる。


実は和泉が昨晩にこっそり後をつけていたことを、辰巳は知らない。

女と一緒にいるところを見られてしまったのだろうとは予想していた。


「あの子と切れてなかったの?わざわざ浅草まで来てたのは、お雪ちゃんに隠してたから?」


「お前だって知ってるだろ。あいつとはもう関係ない」


「なら何で、身重の妻を放っておいてまで会ったりなんかしたんだ」


「軽率な行動をしたのはわかっている。だが、お前が考えているようなことはしてねぇよ」


飲み屋から出てきた辰巳と女は、その後出合茶屋であいぢゃやに行くといったこともなく、辰巳はただ女を送って行っただけだった。


だとしても、昔の女と二人きりになる行為を咎めずにはいられない。


「……お互い、過去は捨てただろ」


「ああ、そうだな」


かつて側にあった温もりは、犯した罪とともに消し去ったはずだった。

もう会うこともないと思っていた存在は近くにいて、すべてを思い出させようと微笑んでいた。


--

弥勒みろく屋の暖簾のれんを潜ったのは、いつぶりだろうか。

たしか、腹がせり出す前に来たのが最後だった。


懐かしい張りのある声が、迎え入れてくれた。


「あら、お雪さん!」


「お松さん、ご無沙汰しててごめんなさい」


悪阻つわりが酷かったときは、料理の匂いが立ち込める弥勒屋にはとても足を向けられなかった。

食欲も戻った今、雪は辰巳に弥勒屋に行きたいと言って、昼下がりに二人で顔を見せていた。


「辛い時期に来れたもんじゃないよ。

でもこれからは、お腹の子のためにもたくさん食べないとね」


お松は、雪の腹に優し気な視線を送る。


和泉たちからもであるが、生まれてくることを祝福されている我が子に、雪は自身の心細かった境遇と比べて安堵あんどしていた。


座敷に上がった雪と辰巳は、それぞれ料理を注文した。


「辰巳、あんたお雪さんに面倒をかけちゃいないんだろうね。

頼りない旦那は捨てられるんだから」


「雪が俺を捨てるわけないだろ」


「まったく……

お雪さんが好きでたまらないんだね。ここに来て、口を開けば雪、雪って……」


「なっ……!いいから、さっさと戻れ」


揶揄からかうような表情をしてお松が去ったあとに座敷に残された二人は、気まずくなって視線を逸らしていた。



弥勒屋を出た二人は、雪の身体が障らない程度に散歩を決め込むことにした。


「川沿いでも歩くか」


雪が首肯しようとした瞬間、辰巳が鋭い視線で後ろを振り向いた。

誰かいたのだろうかと辰巳の視線を追ってみるも、人混みの中では判別がつかない。


「どうかしました?」


「いや……なんでもない」


辰巳は何事もなかったように歩き出すが、先程の鬼気迫る顔が思い出された。


「…………」


桜はすでに散っていて、春の名残も過ぎていた。

春眠から目覚めた生き物たちが、にわかに活気づく。


時々ばしゃっと飛沫しぶきをあげて、川の中から跳ねる魚が見えた。


次の季節は蝉の声が聞こえ、夏には蛍もいるだろう。

そして、子どもが生まれるころには、蟋蟀こおろぎが鳴いている。


雪は訪れるであろう未来に、想いをせた。


「辰巳さん」


立ち止まって呼び止める雪に、辰巳は振り返った。


「この子が生まれるまで、私から離れてもいいよ」


「……どうして、そんなこと言うんだ」


「だって、私といると辰巳さんは辛そうな顔をしている。でもこの子は一緒に育てたいの」


辰巳が一緒いて浮かばない顔をするようになったのは、自身の所業が彼を辛くさせているのだと思い至った。


悪阻に悩まされているときには充分に家事をこなせない日もあり、文句を言われたことはないが不便をかけていたのは事実だ。

何より精神的にもまいっている日には、辰巳はどれだけ気を遣ったのだろうか。


そうしたことが募って、一緒にいることを苦に感じ始めているのならば、雪は心にもないことを決断したのだった。


「最近俺が変だったのはお前の所為せいじゃない。単なる俺の問題だ」


辰巳は雪の腹に手を当てた。


「俺も雪と一緒に育てたい。それは、今でもだ」


だから離れるわけがない……

その言葉が幻影でないと祈れば祈るほど切なくて、けれども辰巳を信じた。


感触が、声が、想いはそこに存在しているのだから。

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