内職にはげむ雪は、針を持つ手を切りのいいところで止めては戸を見やる。

 用心棒をしている辰巳は長期に家を空けていたのだが、帰りは今日になると聞いていた。


 待つという行為に慣れている雪は、しかしそわそわとして落ち着かない。


 父を待っていたときとは違い、辰巳は必ず帰ってくる。

 その確証があるからこそ伝えたい言葉が喉につっかえたままで、もどかしい気持ちに支配されていた。


 辰巳が帰ってきたのは、外の景色が一層明るくなる昼の刻限だった。


「おかえりなさい、辰巳さん」


「ただいま」


 久しぶりに愛しい妻の姿を拝めて浮かれる辰巳の顔とは反対に、雪の顔はどこか強張っていた。

 てっきりいつものように笑顔で迎えてくれるのだと思い込んでいた辰巳は、当てが外れて戸惑う。


 雪の様子を慎重にうかがってみるも、内心を読み取ることはできなかった。


「あの……大事な話があります」


 帰ってきた早々に告げられ、辰巳は焦燥しょうそうする。

 雪の側に歩み寄る間に、何かしてしまったのだろうかと考えてみるも、家を空けていた辰巳は思い当たることが一つも浮かばない。


 ならば、家を空ける以前に、雪が気に病むようなことをしてしまったのかと考えれば、一つだけ思い当たる節があった。


 辰巳は冷やりとした汗を浮かべて、雪の隣に座った。


賭場とばに行ったことはことは謝る。黙ってて悪かった」


 程よいたしなみならいいだろうと、知人に誘われれば賭場に行くことがあった。

 勝ち続けるということはなかったが、大損をしたわけでも、悪人と関わりを持ったわけでもないと、自分に都合のいい理由を並べては足を向けていたのだ。


 だが、雪からしてみれば、いや、雪ではなくとも、夫を持つ身の妻であるなら、賭場通いに嫌悪感を抱いても当たり前というところである。


「辰巳さんが賭場に行っていることは知ってました」


「……どうして」


 予想外なことを言われたというように、雪はきょとんとしている。

 侮蔑ぶべつの色も浮かべていない。


「おとっつあんの着物と同じ匂いがしたから。身を崩すほど遊んでいなければ、私は何も言いません」


 辰巳に身体を寄せた際に、辰巳が吸わないはずの煙管きせるの匂いがして、同時に父の匂いを思い出していた。父もまた、吸わないのに匂いをただよわせていて、雪が本人に尋ねたときに、賭場でついたのだと悪びれもなく教えられたことがあった。


 父のように身を崩すほどのめり込んでいなければ、とやかく言うこともないだろうと知らぬふりをしていた雪である。


(違うのか……)


 妻の公認を得たとはいえ、賭場に行くことを辞めた方がいいと決めるも、肝心の雪が言わんとしていることがわからない。


 心配気な表情をする辰巳に、雪はやっと微笑んだ。


「私、赤ちゃんができたみたいです」



 つい先日、雪が尾花おばな屋を訪れたときのことである。


 体調を崩しておまちに介抱されていた雪は、食事をした折に嘔吐をするという事態を起こしていた。


 もしやと感づいたおまちは、最近の食事の好みについてや月のものがきているかを雪に聞いて、すぐに医者を呼び寄せた。

 医者にもおまちと同じようなことを聞かれた雪が、深刻な病なのではと不安になったのは少しの間である。


『私ったら、随分前に経験したことだから忘れてたよ。雪、おめでとう。新年から縁起がいいわね』



「お医者様の見立てでは、一月は経ってるそうです。秋には生まれるだろうって」


 医師からそう告げられたときのことを、雪は今でも鮮明に覚えている。

 うれしくて仕方なかった。それ以外の感情はなく、あるとすれば形容できないほどの、うれしいの最上だった。


「そうか……俺たちの、子どもが……」


 伸ばされた辰巳の手が、雪の腹に触れた。

 まだ膨らんではいない腹は、でも確かに命を宿らせている。


「辰巳さん……」


 黙ってしまった辰巳の本心を探るべく雪が見やれば、辰巳は静かに涙を流していた。


「私も同じです。辰巳さんとの子どもだからうれしいの」


 辰巳はどう思うのだろうかと、雪は正直に言えば不安があった。

 けれど、その涙には新しい生命への想いが込められている。

 どうでもよければ、ましてや辰巳が泣くわけがない。


 そして、二人の想いに差異はなかった。


 辰巳は涙を拭って、お腹の子を労わりながら雪を抱きしめた。


「お前のことも、生まれてくる子も大事にする。ずっとだ」


「辰巳さん、ありがとう」


 子どもに自分の両親と同じことはしないと、雪は固く自身をいましめる。

 たくさん愛して、愛に飢えさせい。

 辰巳となら、きっと叶うはずだ。



 和泉は戸を開きかけた手を硬直させたまま、受け入れたくない事実を頭の中で整理していた。

 ちょうど彼が戸口を開けようとしたところで、雪が子どもを授かったと辰巳に告げた声が聞こえてしまったのだった。


(子ども、できたんだ……)


 親友に子どもができたのであれば、祝福するべきことなのに、和泉の顔は沈んでいた。


 届かない存在だった。

 もしかしたらという可能性は微塵みじんも考えていなかった。


 想い人の近くにいるだけで満足しようと、本当の気持ちを封じ込めていた。


 けれど、雪が辰巳のものだという消えない証が生じてしまったことに、絶望に似た感覚を味わう。


 和泉はきびすを返して、自身の家へと引き返した。


  *


 江戸の町を覆った雪は、春の訪れとともに跡形もなく姿を消した。

 代わりに舞い降りたのは桜の花弁だ。


 冬よりもなお色鮮やかな景色に、うららかな日が続いていた。


「最近は悪阻つわりひどくないみたい。それに、紫乃さんたちが手伝いに来てくれるので助かってます」


 雪は大きくなり始めたお腹をさすりながら、家に訪れていた紫乃に語りかけた。


「あら、私は遊びに来ているだけよ。家事なんてできやしないんだもの」


 と言いつつ、雪は出産経験のある紫乃からはたくさんの助言をもらっていた。


 治まってきたとはいえ雪の悪阻は重く、幾日も寝具の上で過ごしていたのだが、紫乃も悪阻には大層悩まされたたちで、雪と共感するところが多かった。


「一人だと心細いから来てくれるだけでうれしい。可愛い李々ちゃんとも遊べるから」


 にこにこと笑う李々は雪が身重であることを理解していて、大人しく遊べる聞き分けの良い子どもだ。昼は紫乃と過ごし、夜になれば紫乃は仕事があるので紫乃の旦那、つまり父が世話をしている。


 雪はまだ紫乃の旦那を拝んだことはないが、紫乃いわく、我儘わがままをきいてくれる優しい旦那様であるとか。


「李々、よかったわね」


「うん!」


 そう言ってはにかむ顔は、やはり紫乃に似ていると雪は改めて思った。


 子どものことを特別好きだという感慨はなかった雪は、自分の子なら愛せるという確証もなく、不安を抱いている。だが、大事にしようという呪文に縛られるのではなく、心の底から慈しむことができるかもしれないと思うほどには、余裕ができるようになっていた。


「旦那はちゃんと雪に優しくしてくれてるの?」


「ふふっ、もう至れり尽くせりで。妊娠したての頃は井戸の水をむだけでも心配してました」


 井戸のおけを雪から取りあげて代わりに水を汲む辰巳を見た長屋の住人たちに、「そんなに心配しなさんな」と笑われた光景を思い出す。

 辰巳がそれほどまでに心配性になるとは思わなかった雪だが、悪阻が酷くて寝付いてしまい家事がおろそかになっても、文句を言うどころか徹底して看病をしてくれる辰巳に感謝をしていた。


「うちと同じね。私なんか李々がお腹にいたときは相当旦那にあたったけど、よく許してくれたって思うわ」


「私も辰巳さんのことをいっぱい困らせているど、文句ひとつ言われない」


 体調の悪化に続いて雪が悩まされたのは、気がふさいでしまうことだった。

 どんなに優しい言葉をかけられても、時には泣いてしまう日もあるくらいに、精神的にさいなまれてしまうときがあった。

 辰巳を困らせるだけの日々が明けるときはまだかと、雪は待ち望んでいた。



 辰巳は家路を歩いていると、二人の子どもとすれ違った。

 何かいいことでもあったのだろうか、満面の笑みで子どもたちが駆けている。


 子どもは苦手だった。今でも苦手意識は消えていない。


 それでも、子どもを授かったと雪から聞いたときには、自分でも思いがけないほどにうれしくてたまらなかった。

 だが同時に、不安も押し寄せていた。


 贔屓ひいきにしている弥勒みろく屋の女将お松に言わせれば、実際に自身の子どもと対面すれば、嫌でも好きになるそうだが、万が一にも子どもをいとってしまうことがあれば、子どもだけではなく雪を傷つけることにもなる。


 雪の方がずっと不安を抱えていて、身体だって思うようにならない。

 そう思えばこそ、自分の抱えている心配など、情けないものなのかもしれない。


 しかし辰巳もまた、親から愛されずに育っていた。


 大丈夫。雪も、お腹の子も、愛しいと感じているのだから。

 そう言い聞かせたとき、ふいに名前を呼ばれた。


「辰巳」


 あまりにも懐かしい声が、遠い記憶を呼び覚ます声が聞こえた。


 振り返れば女が立っている。


 ここは夢の中なのだろうか。そうでなければ、彼女に会えるはずがない。


 どこからか吹き上がった風で、二人の世界には桜の花弁が乱れ舞う。

 過去は、信濃しなのの雪に隠してきたはずだった。

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