昼下がりの弥勒屋には、仕事の合間に昼餉ひるげを済ます男衆やらで賑わいを見せている。


座敷には常連客が固まって車座になり、その中には和泉の姿もあった。


「辰巳に先を越されるとはなぁ。てっきりお前さんの方が所帯を持つのは早いと思ってたくらいだぜ」


もう一人の常連、辰巳の話題となっていたが本人の姿はない。

ここぞとばかりに最近の彼の様子について、話題に上っているのだ。


「俺はじっくり攻略してから手に入れるから」


「そんな悠長な攻め方じゃ、他の奴に取られちまうよ」


痛いところを突かれたと、和泉は内心苦笑する。

最近になって自覚した想いに、気づいたときには求めた人が手の届かない存在となっていた。


気づくのに遅れたから、それもあるが手に入れられなかった一番の理由は遠慮をしたことだ。


「この前、辰巳を岡場所に誘ったんだ。そしたらあいつ、何て言ったと思う?

『女房以外抱けなくなった』ってよぉ」


「あはっ、そりゃいい。辰巳の奴、そんなこと言ったんだ」


揶揄からかうように笑う和泉たちの頭に、鈍い衝撃が落ちた。


「いてっ……」


弥勒屋の女将お松が、盆で頭を叩いたのだった。


「所帯を持ったばかりの男に、岡場所なんて誘うんじゃないよ。

あんたらも羨ましいんなら早くい人を見つけるこった」


まったくここの女将は容赦がないと、それでも料理に舌鼓を打ちながら和泉は頭をさする。


「まあ岡場所は兎も角、付き合いが悪くなったわけじゃねぇから、できた女房を見つけたってとこだな」


辰巳は相変わらず、弥勒屋に足を向けていた。

和泉たちと飲み明かす日もあれば、たま賭場とばに足を向ける日もある、とこれは内緒の話である。


「お雪ちゃんは狭量じゃないからね」


「なんだ、和泉はそのお雪さんを知ってるのか。

辰巳を骨抜きにするようないい女だろ。一回会わせろって言ったら絶対嫌だって断られちまったんだ」


「嫉妬深いんだよ、辰巳は」


昔は好きな女が他の男と会おうが何も言わない無頓着な男だった。

少しは嫉妬していたのかもしれないが、今の雪に対するものとは比べ物にならない。


(本当に、お雪ちゃんは特別なんだな……)


悪いように変わったわけではない親友のことを考えながら、和泉は弥勒屋を後にした。


昼になれば江戸の町に舞い降りた初雪は降りやみ、陽射しが雪を溶かしてゆく。

和泉は気の向くままに、会いたくなった人の住む長屋へと足を進める。


同じ神田にある長屋は、弥勒屋からはすぐに辿たどり着くことができた。


「あら、久しぶりね」


和泉に声をかけたのは確か、雪が住んでいる家の隣に住む女房だった。


足繁く長屋に通う和泉は、長屋の住人たちとも顔見知りとなっていた。

以前、雪が住んでいた長屋の住人たちとは違い、好感の持てる人がほとんどである。


雪も住み心地がよさそうで、安堵あんどしていたのだった。


「近くまで来たから様子を見に来たんだ」


「今ね、旦那の方は外に出てしまったみたいだけど、お雪さんは中にいるわ」


親友の不在をうれしがる自分に、苦い感情を覚える。

辰巳は良いように変わった。けれど自分は、悪いように変わっていると危惧きぐした。


「ふふっ、あそこの夫婦はいつも仲睦なかむつまじいわ。

今日の朝なんか、二人で雪兎を作ってたのよ」


思い出して微笑ましくなったのか、穏やかな顔で言った。


「……へぇ。それは何よりだ」


雪の家の前には、仲良く並んだ二羽の兎がいる。

明日か、それとも早ければ夜には溶けてしまう兎は、そのときまで寄り添っていようといまだ形を留めていた。


にごった感情が込み上げる前に、和泉は早々に戸を叩いた。


「和泉さん、こんにちは」


程なくして姿を現した雪の前では、自然に笑顔を向ける。


(こんなに可愛い子なら、骨抜きになるよな)


親友が同じ人をいてしまったからあきらめたのだと、和泉は自身に言い聞かせて気持ちを抑えたのだった。



家の中は微かに熱気が立て籠もっている。

和泉はかじかんだ手を火鉢に当てて温めた。


近くには、先程まで雪が作っていたであろう巾着袋が置かれていた。


「ごめん、邪魔したみたいだね」


「ちょうど一区切りついたところだったので大丈夫です」


そう言いながら、手際よくお茶を淹れる雪の様子を和泉はじっと見つめた。

特別な所作はしていないというのに、一つ一つの動作にしなを感じてしまう。


お茶を手にして振り返った雪は、視線に気づいた。


「あの、何か付いてますか?」


和泉の胸中を知らないまま、和泉にお茶を手渡しす。


「いや。丸髷のお雪ちゃんも可愛いなって」


丸髷は既婚女性がする髪型であり、雪が他人ひとのものになってしまったという証だった。


言われた雪は、いつものように冗談だと受け止める。


辰巳と過ごし始めて、雪は笑顔になることが多くなった。

和泉だけではなくや紫乃までもがわかるほどに、雪の現状がいかに満ち足りているかが伝わっていたのだが、根本的な自信のなさは変わらない。


どんなに褒めたとしても、雪は自分のことを褒められる要素のない人間だと思い込んでいる。


筋金入りの性格に、和泉は気になって辰巳にどうしてそこまで自信がない子なのだと尋ねたことがあったのだが、過去に哀しいことが色々あったのだと、それ以上踏み入れてはいけないことだと理解していた。


「お餅、食べますか?」


「もちろん。お雪ちゃんの焼いてくれたお餅は美味しいから」


「誰が焼いても同じですよ」


弥勒屋で昼餉ひるげを食べてきたばかりの和泉だったが、雪の申し出とあれば断ることはしなかった。

それに、夕餉ゆうげを相伴に預かろうと思っていた和泉は、雪の料理を食べるためにも腹八分目に済ませていたので余裕がある。


火鉢の上に置かれた餅がぷくりと中身を割って膨れ上がった。

いい塩梅に焦げ目も付いたころ、雪はそっと皿の上に餅を乗せる。


別の小皿には味付け用の醤油が入っていて、その中にはたっぷりと鰹節も混じっていた。


醤油の染み込んだ鰹節をこびり付かせた餅は、触感と出汁の味が食欲に拍車をかけるのであった。


「和泉さんは、故郷に帰りたいって思いますか?」


唐突な雪の質問に、和泉は咀嚼そしゃくの速度が緩やかになる。


和泉は辰巳と同じく信濃しなの国の出身で、かつて辰巳が所属していた剣客けんかく集団で二人は出会っていた。


辰巳が打ち明けたことで、雪は辰巳が物騒なことをしていた過去を知っていたのだが、和泉も同じことをしていたとまでは辰巳は語っていなかった。

辰巳が気を遣ってくれたことはうれしかったが、隠し通したくはなかった和泉もまた、雪に過去を打ち明けていた。


過去を知っても敬遠しなかった雪に和泉は感謝している。

根掘り葉掘り聞いてこなかったのも、雪を想う所以ゆえんとなった。


「そうだな……帰りたくないけど、もう一度、信濃の景色を見たいとは思うかな。

辰巳が帰りたいって言ってたの?」


「いえ……でも、ふとしたときに懐かしむような顔をするんです。

白銀しろがねの景色を見ると故郷を思い出すとも言っていたから」


和泉が思い出す景色は、辰巳とは真逆であった。


和泉は夏の、青々とした空と緑葉を脳裏に思い出すことがある。

江戸人から見れば田舎かもしれないが、連なる山の景色が好きだったと、信濃を離れて思い知らされていた。


辰巳と和泉が信濃を離れた日は雪が降っていた。

凍てつくような寒さの中、二人は過去を捨て、江戸を目指したのだった。


(まだ、忘れられないんだな……お互いに)


雪が危惧きぐしているのは、いつか辰巳がいなくなってしまうのではないかということだ。

夫婦めおとになれたとはいえ、これまでの経験が不安をいざなう。


辰巳本人に漏らすことができないであろう不安が聞けただけでも、雪との仲はそれなりに親密であると、和泉の胸は高揚した。


「辰巳はお雪ちゃんの元からいなくなったりしないよ。

惚気のろけを言うくらいお雪ちゃんのこと好いてるんだから」


恥ずかし気に雪はうつむいた。


「大事にしてくれているのに、今でも一人ぼっちが怖いって不安に感じてしまうんです。

疑っているんじゃなくて、失うことが怖い……」


両親にすら愛されなかった自分を、辰巳は愛してくれた。

その想いを、夫婦となってからは一度として疑ったことがない。


だが、損失は両親が去って行ったときのように唐突に訪れる。

比翼連理ひよくれんりが共にいられるという絶対は、この世に存在しないのだから。


「お雪ちゃん……」


「ごめんなさい。こんな話をしてしまって」


「辰巳に言えないことなら相談してくれていいんだ。

だからって上手い答えが言えるわけじゃないけど……そうだな、安心するまでうんと辰巳に甘えてみたら?」


すでに充分なほど甘えていると思っている雪が遠慮していることなど、和泉にはお見通しであった。


「男は頼られたりするのがたまらなかったりするからさ」


単純だろ、と和泉が言いかけたとき、がたりと入口の戸が開いた。

家に踏み入るのは辰巳だった。


「またたかりに来たのか」


「お雪ちゃんの人生相談という大事な用で来てるんだよ」


「……ったく、訳の分からない奴だ」


外から棒手振ぼてふりの声が聞こえ、雪を急ぎ足で家を出た。

この刻限に来る棒手振りは、売れ残った野菜や魚を安値で売りさばきに来ている。

つましい生活を送る長屋の女房達なら飛びついていくというものだった。


「最近よく来るじゃねぇか。そんなに暇なのか?」


きつい言い方はしていないものの、不機嫌さの混じった問いに、和泉を内心少しだけあせる。


ただ邪魔者だと思われているだけならいい。

もしそうではなく、気持ちに感づかれているとしたら……


「まあね」


「和泉、お前…………いや、何でもない」


辰巳は何かを言いかけて止めた。

和泉がちらと、隣に座る辰巳を盗み見れば、常の表情をした辰巳がいた。


(気づかれてる、のか……?)


動揺すれば、内心をさらしてしまうようなものだ。

雪を想う気持ちに気づかれていたとしても、気づかないふりをしてくれているというのなら、この気持ちは厳重に封印しなければいけないのだと、和泉は餅をんだ。


「美味いね」


「だな」


帰りが遅い雪は話好きの住人につかまってしまったのだろうと予想して、二人は雪が戻るのを待っていた。






年が明けた江戸の町には、毎日のように雪が降りしきっている。

寒さが厳しくなる時候といえども、昨年よりも積雪と肌を刺す冷気は増していた。


鼻の頭を赤らめて肩を上がらせながらあるく人、寒さなどお構いなしに雪ではしゃぐ子どもと、神田の街を歩く人々は様々である。


特に冷たいという印象だけで子どもの頃にも心を躍らせなかった、自身の名前である雪を感慨深く思うようになったのはつい最近のことだった。


雪を見ると故郷に思いをせる夫が語る言葉には、その故郷の美しさと過去に対する切なさがい交ぜになっている。


ーー雪に覆われてしまえば何もない所だ。


それでも綺麗だと言った夫を魅了する雪に、いつの間にか見惚みとれるようになっていたのだった。


「今年はやけに寒いね。ろくに筆も動かせやしないよ」


雪国の出身でない者には、凍てつく寒さは耐えられないというもの。

は火鉢で何度も手を温めていた。


「辰巳さんったら、この寒さの中でまったく平気なんですよ」


雪が尾花おばな屋にいるのは、かつての恩人である政に送る文をに代筆してもらうためであった。


父が出て行ってしまったことやあらぬ噂を立てられていたことを隠し、心配をかけまいと政に嘘を吐き続けていた雪であったが、今では政に本当の幸福をつづることができていた。


信濃しなのはもっと寒いところなんだろうさ。

初めて顔を拝んだときには荒くれ者かと思ったがね、雪を大事にしてくれる優しい男で安心したよ」


政への文には、やっと幸せになれたという日常を綴っていた。

ほとんどが辰巳のことを綴っているのだから、いかに雪が辰巳と一緒になれたことに至福を感じているのかが伝わってくる文となっていた。


不幸な雪を知っていたは、雪の幸せが続くことを願ってやまない。


雪がつむぐ言葉を、がさらさらと紙の上に筆を走らせる。

内容も中盤に差し掛かっていた。


「……えっと、それから……」


次第に雪の意識はぼんやりとし始める。

政に伝えたいことはたくさんあるのに、頭の中で言葉に変換できない。


火鉢に当たりすぎた所為せいだろうかと考えてみるも、何かを思考することが億劫おっくうだった。


「雪?」


が見上げた先には、青白い顔をした雪がいた。


「やだ、具合が悪いんじゃないかい?」


そっと雪の額にてのひらを当てれば、火照ほてった熱が伝わってくる。

当の雪は、座っていられないほどの体調の悪さも感じなければ、熱が出てしまったときのようなだるさとも違う、不思議な感覚に見舞われていた。


「何ともないみたいです。少し、ぼんやりするだけで」


「流行り風邪かもしれないじゃないか。文は今度にして、今日はゆっくり休んだ方がいいよ」


の言う通り流行り風邪にかかっているとしたら、留まってうつすわけにもいかない。

はっきりしない意識の中で、雪はの言に従った。


「旦那が家にいないんならここで休んでいきな」


「歩けるくらいには元気なので大丈夫です。

それに、さんに迷惑をかけちゃう」


「もう、雪ったら」


小さいころから遠慮をする雪に、が苦笑を浮かべながら溜息を吐いた。


結局はに押し切られる形で、雪は尾花屋の家屋に身体を休めることにしたのだった。


尾花おばな屋の一室に寝床を用意され、雪はに手厚く看病されていた。


「ほら、よく効くからこの薬を飲むんだよ」


は漢方を煎じたお茶を雪に手渡そうとするも、なかなかに受け取ろうとしない雪の姿があった。


「こればっかりは、昔から嫌いで……」


漢方独特の臭さと苦さが、雪は苦手だった。

具合が悪くなっても漢方を処方されたくないという理由で、医師に診てもらったことはない。


雪は鼻腔を刺激するその匂いに、思わず口を押さえた。


(子どもみたいな一面もあるんだね……)


我儘わがままだって一度として言わず、迷惑をかけないようにと常に気を遣っている雪の意外な一面に、は微笑ましくなる。


だが口元を押さえる雪の様子は、漢方を拒んでいるにしても本当に気分が悪そうだった。


「吐きそうかい?」


「いえ……大丈夫です」


やはり帰らせなくてよかったと一旦安堵あんどしただったが、ぐったりし始めた雪に心配の色を浮かべる。


一寸ちょっとでいいから、ね」


子どもを諭すように、は雪にお茶を差し出す。

には断れないと意を決したのか、雪は受け取ったお茶をちょびちょびと口に含んで、わずかばかりに減った湯飲みを戻した。


それ以上を飲ませることをしなかったに雪は感謝しつつも、口内に残る漢方の名残に眉根を寄せる。

すぐに横になることをうながされ、夜着よぎを被せてくれるの所作に居心地の良さを覚えた。


まるで小さい頃に求めていた母の愛のようで、ぼんやりとする意識の中、雪はに表情を緩めていた。


後でまた様子を見に来ると言ったが去れば、急激に寂しさが押し寄せてきて、火鉢のぜる音だけが拠り所となってしまった。






雪の体調は、日が暮れても回復をみせなかった。

それどころか悪くなる一方で、流石の雪も帰ると口走ることさえできない。


辰巳はとある商家に住み込みで用心棒の仕事をしているので、しばらくは家を空けることになっていた。

余計に雪を一人にさせておくことはできないと、の厚意もあって雪は尾花屋に泊まることになった。


「ごめんなさい、長居をしてしまって……」


「雪なら病じゃなくても長居していいってもんだよ。

今更だけど、あんたの世話を焼けてうれしんだから」


「私も、さんに甘えることができてうれしい」


元来の性格もあるのだろうが、雪は他人に甘えようとはしない。

こうして体調がすぐれないといった状況でもなければ甘えてこないのだ。

しかも相手にだからこそ、弱さを見せている。


すでに雪は夫を持つまでに成長してしまったが、甘えてくる様子が愛しくて、もっと甘えて欲しいとは密かに思っていた。


は自ら作ったお粥を器によそう。

湯気が立ったその器を見れば、しかもが自分のために作ってくれたのならば食欲が沸くはずなのに、雪は喉が苦しくなる感覚がしていた。


「ほら、栄養もつけないとね」


「……ありがとうございます」


食べたくない、というのが本音だ。

熱は上がっていないというのに、まだ身体が本調子ではないからだろうか。全身がお粥を喉に流し込むことに拒否反応を起こしている。


さんが作ってくれたのに……)


雪は無理矢理に自分の手を動かした。

折角作ってくれたお粥を食べれないとは口が裂けても言えない。ましてや拒否することもできない。


さじを口元に近づけた瞬間、お粥の匂いが身体中を駆け巡る。

それが引き金となり、胃の内容物が喉へと逆流を起こした。


「……ぅ…………!」


咄嗟に口元を抑えた雪の手から、椀が寝具に転がりお粥が染み込む。

汚してしまったことを気にする余裕は雪にはなかった。


「雪……!」


は念のために用意しておいた木桶を、すばやく雪の元に置く。

つかさずに雪は木桶へ吐き出した。

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