政と竜次の出立の日がやってきた。


「お雪ちゃん、元気でね」


 雪の選択、それは江戸に残り、留五郎と一緒にいることだった。

 悩みに悩み抜いた雪は結局、父を残して行くことができなかったのである。


「今までありがとうございました。私、ねーねたちがいてくれなかったら生きてこれなかった」


 雪の選択を聞いたとき、二人は何日も雪を説得した。

 しかし最後まで考えを曲げなかった雪に、あきらめるしかなかったのだ。


「どうしようもなく辛くなったら、いつでも言ってね。私たちはずっと、お雪ちゃんの味方だから」


「ねーね……」


 政の手が名残惜しそうに離れていく。街道の入り口、別れはすぐそこにあった。


 雪は政と竜次の姿が見えなくなるまで立っていた。

 途中、何度も振り返っていた政の姿は街道の先に消えていった。


(大丈夫……私にはおとっつあんがいる)


 家に帰っても留五郎の姿はない。

 激しい孤独が押し寄せようと、雪が自ら選択した生活だ。


 もしも政たちと一緒に付いて行ったならば……

 そんな後悔は決してしないと、奮い立たせた心は虚しいだけだった。



 政たちは無事に相模さがみに着き、晴れて夫婦となった。

 もう二度と会えないかもしれないとはいえ、雪と政の親交が途絶えたわけではない。


 政からは月に一度、尾花おばな屋に文が送られてくる。

 字が読めない雪の代わりに、尾花屋の内儀であるおまちが雪の前で文を読み上げ、返事の代筆もしていた。


「最近、おとっつあんがあまり酒を飲まなくなりました。真面目に仕事も始めたようで驚くばかりですが、こんなにうれしいことはありません」


 雪は政からもらった文の返事をするため、おまちに返事の内容を声に出していた。


 政を安心させるために吐いた嘘ではなく、留五郎が真面目になったというは事実であった。


 何がきっかけとなったのかは雪はわからなかったが、毎日のように家に帰ってきてくれる父親の前では理由など、どうでもよい。

 しかも銭をせびることもなくなって、それでも側にいてくれるのだから、雪は本当に欲しかった愛情が手に入ったのだと信じていた。


 政たちについて行けばという後悔はしなくていいのだと、そう思っていた。



「おとっつあん、もう一度所帯を持つことにしたんだ」


 留五郎と過ごす日が当たり前になりつつあったある日のこと、前触れもなく雪は言われたのだった。


「いい人だから雪も気に入ると思う。今度、雪も一緒に飯でも食いに行こうって話しててな」


「……そうなんだ。よかったね、おとっつあん」


 留五郎が再び所帯を持つこと、それに不満はない。


 自分が言っても酒癖の悪さを改めなかった父が真面目になったのは、その人のおかげだと思うと、雪は嫉妬を覚えた。


 しかし留五郎の手前、口に出すことはできず、そんな聞き分けのない子どものような愚痴は言いたくなかった。


 留五郎と変わらず一緒にいるためには、新たに母となる人に気に入られなければならない。

 もし気に入られなくても、留五郎は自分を見放したりはしないと、雪は淡い期待を抱いていた。



「お雪ちゃん、初めまして」


 雪は丁寧に頭を下げて挨拶あいさつをする。


 八百善やおぜんには遠く及ばないものの、普段は足を向けない庶民的な料亭で、雪と辰五郎、そして新しい母となるきりが顔を合わせていた。


「あら、お行儀がいいのね。うちの子とは大違いだわ」


 料亭には来ていなかったが、きりには一人息子がいるらしい。

 雪よりも四つは下で、前の旦那との子どもだそうだ。


 雪が褒められたことで、留五郎はうれしそうにしている。

 きりはおっとりしていて、はつとは似ても似つかない人だった。


 この日は何事もなく、雪はきりと会話を弾ませながら、穏やかに収めたのだった。



 数日後、きりとの顔合わせが無事に済み安堵あんどしていた雪は、母と弟と暮らす日を今か今かと待ちわびていた。


 きりに対して、雪は不満どころか好印象を抱いている。

 何より留五郎が幸せになるのならそれでよいのだと、恐れさえもなかった。


 留五郎が家に帰ってきたら、きりたちと住むのはいつになるのかと尋ねようとしていた雪は、当の留五郎が浮かない顔をして帰ってきたのを見て、尋ねるどころではなくなってしまった。


「どうしたの、おとっつあん?」


 体調が悪いのか、それとも嫌なことでもあったのか、留五郎の表情は深刻そうである。


 雪の鼓動が激しく脈打つ。──悪い予感がした。


「雪は一人でも大丈夫だよな」


 雪は瞬時に理解することができなかった。

 聞き返したいのに、身体は何かを察しているのか、喉が動かない。


 無情にも、先を続ける留五郎がいた。


「きりが雪と一緒に住むのを渋っちまってな……苦労をしてきた人だから、なるべくきりの気持ちに寄り添ってあげたいんだ」


 耳に嫌と言うほど響くのは張り裂けそうな鼓動だった。


(何で……)


 きりとの顔合わせは上手くいったはずだった。

 それとも自分がそう感じていただけで、きりが不快に思うことがあったというのだろうか……


 留五郎の言葉には、雪と一緒に暮らすという片鱗さえも見つけることができない。


「……おとっつあん、いなくなっちゃうんだね」


「ごめんよ……雪」


 空っぽの心を持った少女は、静かに泣いた。

 留五郎はその涙に気づかない。

 雪は留五郎を恨みがましく見つめるでもなく、感情はうつろであった。



 翌日、早々に留五郎は家を出ていこうとしていた。

 雪も一緒に行こうとは、ついに口にはしなかった。


たまには顔を見せる。元気でな」


 せめてもの救いは、留五郎とはまた会えることだ。

 毎日は無理だが、一月に一度は会えるか、三月に一度か、父と会えるのならば雪はずっと待っていようと鋼のような心で決めた。


「うん。おとっつあんも元気でね。……私、おとっつあんが来てくれるまで待ってる」


 留五郎は自分を捨てたわけではない。

 実の子どもよりも、きりの子どもと過ごすことを選んだとしても、どんなにみじめさが押し寄せようと、雪は留五郎の前では泣かなかった。


 反発しなければ、泣いて困らせなければ、父はまだ自分を愛してくれる。


 こんなにも虚しい気持ちを抱いてしまったことに、雪は目を背けた。



(来ない……)


 一日、また一日と雪は留五郎を待ち続け、気づけば一月が過ぎていた。


 新しい生活に慣れていなくて、会いに来るほどの余裕がないのかもしれないと必死に言い聞かせては、父に会いたいとはやる気持ちを抑えることが限界だった。


(会いたい……)


 待っていると言ってしまった手前、自身から父に会いに行くことを雪は躊躇ためらっている。

 それに、父に会いに行って、きりに嫌な顔でもされれば迷惑をかけてしまうのではないかとも考えてしまう。


 父が出て行ったことを、政には教えていなかった。

 政に心配をかけるわけにはいかない。

 政への文を代筆してもらっているおまちをあざむくことはできなかったが、文だけの会話になってしまった政には嘘を吐き続けていた。


「政にお願いして迎えに来てもらったらどうだい?いつでも頼っていいって言ってくれたんだろ。まったく……一番辛いのは雪だっていうのに」


 雪から事情を聞かされたとき、おまちの留五郎に対する怒りは相当なものだった。


 今までどんな思いで雪が過ごしていたのか、どんな思いをさせていたのかを本人の前で怒鳴ってやりたいところだったのだが、雪がそれを望まないことを知っているので、気持ちを抑えていたのだ。


「もう少しだけ、待つつもりです。……おとっつぁんは来てくれるって、言ってくれたから」


 あんな父親、待つ価値がないという言葉を、おまちは飲み込んだ。

 雪にとっては、唯一無二の父である。



 会いに行くわけではない。

 一目見れば満足する。


 我慢ができなくなった雪は、留五郎の姿を見ようと密かに、父の家へ足を向けることを決意した。


 子細までは教えてもらわなかったが、雪は留五郎から茅場かやば町に住むと、聞いていた。

 地道に留五郎の場所を訪ね歩き、やがて雪は留五郎の場所を突き止めたのであった。


 家から出てくる留五郎の姿を遠目で見て、雪は破顔する。

 前へと踏み出す足を、雪は止めることができなかった。


 見るだけでは満足できない。

 少しだけでいいから、父の声を聞きたい。


 自身の膨れ上がる欲に逆らえなくなった雪は、だけど父の様子をうかがいながらゆっくりとした足取りで、足を踏み出した。


「とと」


 留五郎が出てきた家から、違う人物が——幼い男の子が留五郎を父と呼び、留五郎の足に抱きつく。

 また違う人物が——きりが姿を現した。


 優しい親の顔をした留五郎は、軽々と男の子を抱える。

 その様子を微笑ましく見るきり。


 幸せな家族の姿を、雪はまざまざと見せつけられた。


(なんだ……私が来ちゃいけなかったんだ……)


 ここで留五郎を困らせてしまったら、二度と会えなくなる。

 会いたいのなら、待っているしかない。


 今日の留五郎たちの姿を早く忘れてしまいたかったのに、まぶたにこびり付いて、その光景を忘れることができなかった。


 留五郎の幸せの中に、雪はいない。


 血の繋がった子どもよりも可愛い子がいる。

 そして、新しい妻が側にいてくれる。


 雪は留五郎の新しい家庭を見て、うらやましく思った。

 だが、どう描いても雪がその中に入れる隙間はなかった。


 優しい母が、新しい弟が欲しいとは望まない。

 父がいてくれれば、満たされていた。


(ふと思い出したときでいい。少しのあわれみでいい。会いに来て、おとっつぁん……)


 本当は、留五郎はもう帰ってきてはくれないことを知っている。

 捨てられてしまったという事実を認めたくなかった。


 見世物小屋へ連れて行ってくれたときの、字を褒めてくれたときの、数少ない思い出が忘れられない。


 虚しい期待を抱きながら、雪は毎夜あやとりをする。

 風の音にさえ反応して、来ないはずの留五郎を何年も待っていた。


  *


 夜分遅く、誰かが扉を叩く音がした。

 こんな刻限に、一体誰が……


 もしかしたら。もしかしたら……

 わかっている。父が帰ってこないことなんて……

 でも、どんなにみじめでも、期待してしまう。


「帰ってきてくれたの?」


 それは、雪が生涯忘れられない人となる彼との出会いであった。


  *


 外気に触れる肌が冷たい。なのに手の温もりだけは心地よかった。

 手に力を籠めれば、にぎり返してくる力が伝わる。


 今は一人ぼっちではないと安心できるのは、この感触だった。


「辰巳さん……」


 目が覚めたばかりの舌足らずな声で、彼を求めた。


 辰巳は時々こうして、眠っている間に手を握りしめてくれる。

 それは決まって、過去を思い出してしまったときであった。辰巳に甘えてばかりはいけないと思っていても、すがってしまうのだった。


「寒くねぇか?」


「ううん。すごく、温かい」


 自身の頬に辰巳の手を引き寄せて、彼の温度に酔いしれる。

 意識が鮮明になったとき、無意識に求めてしまったことにあわてて手を離した。


「ごめ……んっ」


 言葉の途中で、雪は唇をふさがれる。

 再び繋ぎ合わされた手はしっかりと指を絡められて、苦しくてなまめかしい彼の動きに身体をくねらせた。


「俺は、お前に甘えられるのが好きだ。遠慮しねぇで俺を求めてみろ」


 甘え過ぎれば嫌われてしまうと、身についてしまった習慣は消えてはくれない。

 いい子でいなければという不安を抱く必要はもうないのに。


 辰巳は側にいてくれる。彼の側にいたいと想っている。


 優しい辰巳に甘えるのは悪いことではないのかもしれないが、朝餉あさげの準備をする刻限となってしまった。


「朝から、そんな……」


「もうその気になってんだろ?」


 身体の底から込み上げる熱い吐息、それに煽情的せんじょうてきな顔は、辰巳が欲しいという証左だ。


 初雪はまだ降り止まない。

 辰巳は雪と一緒に舞い散る雪片を眺めたかったのだが、その前に愛する人を堪能たんのうする余裕はあるだろうと、雪の肌に触れた。

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