五
そして、政と竜次の出立の日がやってきた。
「お雪ちゃん、元気でね」
雪の選択、それは江戸に残り留五郎と一緒にいることだった。
悩みに悩み抜いた雪は結局、父を残して行くことができなかったのである。
「今までありがとうございました。
私、ねーねたちがいてくれなかったら生きてこれなかった」
雪の選択を聞いたとき、二人は何日も雪を説得した。
しかし最後まで考えを曲げなかった雪に、
「どうしようもなく辛くなったら、いつでも言ってね。
私たちはずっとお雪ちゃんの味方だから」
「ねーね……」
政の手が名残惜しそうに離れていく。街道の入り口、別れはすぐそこにあった。
雪は政と竜次の姿が見えなくなるまで立っていた。
途中、何度も振り返っていた政の姿は街道の先に消えていった。
(大丈夫……私にはおとっつあんがいる)
家に帰っても留五郎の姿はない。
激しい孤独が押し寄せようと、雪が自ら選択した生活だ。
もしも政たちと一緒に付いて行ったならば……
そんな後悔は決してしないと、奮い立たせた心は虚しいだけだった。
政たちは無事に相模に着き、晴れて夫婦となった。
もう二度と会えないかもしれないとはいえ、雪と政の親交が途絶えたわけではない。
政からは月に一度、
字が読めない雪の代わりに、尾花屋の内儀である
「最近、おとっつあんがあまり酒を飲まなくなりました。
真面目に仕事も始めたようで驚くばかりですが、こんなにうれしいことはありません」
雪は政からもらった手紙の返事をするため、
政を安心させるために吐いた嘘ではなく、留五郎が真面目になったというは事実であった。
何がきっかけとなったのかは雪はわからなかったが、毎日のように家に帰ってきてくれる父親の前では理由など、どうでもいい。
終いには銭をせびることもなくなって、それでも側にいてくれるのだから、雪は本当に欲しかった愛情が手に入ったのだと信じていた。
政たちに付いて行けばという後悔はしなくていいのだと、そう思っていた。
「おとっつあん、もう一度所帯を持つことにしたんだ」
留五郎と過ごす日が当たり前になりつつあったある日のこと、前触れもなく雪は言われたのだった。
「いい人だから雪も気に入ると思う。
今度、雪も一緒に飯でも食いに行こうって話しててな」
「……そうなんだ。よかったね、おとっつあん」
留五郎が再び所帯を持つこと、それに不満はない。
自分が言っても酒癖の悪さを改めなかった父が真面目になったのはその人のお陰だと思うと、雪は嫉妬を覚えた。
しかし留五郎の手前、口に出すことはできず、そんな聞き分けのない子どものような愚痴は言いたくなかった。
留五郎と変わらず一緒にいるためには、新たに母となる人に気に入られなければならない。
もし気に入られなくても、留五郎は自分を見放したりはしないと、雪は淡い期待を抱いていた。
「お雪ちゃん、初めまして」
雪は丁寧に頭を下げて
「あら、お行儀がいいのね。うちの子とは大違いだわ」
料亭には来ていなかったが、きりには一人息子がいるらしい。
雪よりも四つは下で、前の旦那との子どもだそうだ。
雪が褒められたことで、留五郎までがうれしそうにしている。
きりはおっとりしていて、はつとは似ても似つかない人だった。
この日は何事もなく、雪はきりと会話を弾ませながら穏やかに収めたのだった。
数日後、きりとの顔合わせが無事に済み
きりに対して、雪は不満どころか好印象を抱いている。
何より留五郎が幸せになるのならそれでいいのだと、恐れさえもなかった。
留五郎が家に帰ってきたら、きりたちと住むのはいつになるのかと尋ねようとしていた雪は、当の留五郎が浮かない顔をして帰ってきたのを見て尋ねるどころではなくなってしまった。
「どうしたの、おとっつあん?」
体調が悪いのか、それとも嫌なことでもあったのか、留五郎の表情は深刻じみている。
雪の鼓動が激しく脈打つ。ーー悪い予感がした。
「雪は一人でも大丈夫だよな」
雪は瞬時に理解することができなかった。
聞き返したいのに、身体は何かを察しているのか、喉が動かない。
無情にも、先を続ける留五郎がいた。
「きりが雪と一緒に住むのを渋っちまってな……
苦労をしてきた人だから、なるべくきりの気持ちに寄り添ってあげたいんだ」
耳に嫌と言うほど響くのは張り裂けそうな鼓動だった。
(何で……)
きりとの顔合わせは上手くいったはずだった。
それとも自分がそう感じていただけで、きりが不快に感じたことがあったというのだろうか。
留五郎の言葉には、雪と一緒に暮らすという片鱗さえも見つけることができない。
「……おとっつあん、いなくなっちゃうんだね」
「ごめんよ……雪」
空っぽの心を持った少女は、静かに泣いた。
留五郎はその涙に気づかない。
雪は留五郎を恨みがましく見つめるでもなく、感情は
翌日、早々に留五郎は家を出るという。
雪も一緒に行こうとは、
「
せめてもの救いは、留五郎と会えることだ。
毎日は無理だが一月に一度は会えるか、三月に一度か、父と会えるのならば雪はずっと待っていようと鋼のような心で決めた。
「うん。おとっつあんも元気でね。
……私、おとっつあんが来てくれるまで待ってる」
留五郎は自分を捨てたわけではない。
実の子どもよりも、きりの子どもと過ごすことを選んだとしても、どんなに
反発しなければ、泣いて困らせなければ、父はまだ自分を愛してくれる。
こんなにも虚しい気持ちを抱いてしまったことに、雪は目を背けた。
(来ない……)
一日、また一日と雪は留五郎を待ち続け、気づけば一月が過ぎていた。
新しい生活が慣れていなくて、会いに来るほどの余裕がないのかもしれないと必死に言い聞かせては、父に会いたいと
(会いたいよ……)
待っていると言ってしまった手前、自身から父に会いに行くことを雪は
それに父に会いに行って、きりに嫌な顔でもされれば迷惑をかけてしまうのではないかとも考えてしまう。
父が出て行ったことを、政には教えていなかった。
政に心配をかけるわけにはいかない。
政への手紙を代筆してもらっている
「政にお願いして迎えに来てもらったらどうだい?
いつでも頼っていいって言ってくれたんだろ。
まったく……一番辛いのは雪だっていうのに」
雪から事情を聞かされたとき、
今までどんな思いで雪が過ごしていたのか、どんな思いをさせていたのかを本人の前で怒鳴ってやりたいところだったのだが、雪がそれを望まないことを知っているので、気持ちを抑えていたのだ。
「もう少しだけ、待つつもりです。
……おとっつぁんは来てくれるって、言ってくれたから」
あんな父親、待つ価値がないという言葉を、
会いに行くわけではない。
一目見れば満足する。
我慢ができなくなった雪は、留五郎の姿を見ようと密かに父の家へ足を向けることを決意した。
子細までは教えてもらわなかったが
地道に留五郎の場所を訪ね歩き、やがて雪は留五郎の場所を突き止めたのであった。
家から出てくる留五郎の姿を遠目で見て、雪は破顔する。
前へと踏み出す足を、雪は止めることができなかった。
見るだけでは満足できない。
少しだけでいいから、父の声を聞きたい。
自身の膨れ上がる欲に逆らえなくなった雪は、だけど父の様子を
「とと」
留五郎が出てきた家から、違う人物が——幼い男の子が留五郎を父と呼び、留五郎の足に抱きつく。
また違う人物が——きりが姿を現した。
優しい親の顔をした留五郎は、軽々と男の子を抱える。
その様子を微笑ましく見るきり。
幸せな家族の姿を、雪はまざまざと見せつけられた。
(なんだ……私が来ちゃいけなかったんだ……)
ここで留五郎を困らせてしまったら、二度と会えなくなる。
会いたいのなら、待っているしかない。
今日の留五郎たちの姿を早く忘れてしまいたかったのに、
留五郎の幸せの中に、雪はいない。
血の繋がった子どもよりも可愛い子がいる。
そして、新しい妻が側にいてくれる。
雪は留五郎の新しい家庭を見て、
だが、どう描いても雪がその中に入れる隙間はなかった。
優しい母が、新しい弟が欲しいとは望まない。
父がいてくれれば、満たされていた。
(ふと思い出したときでいい。少しの憐れみでいい。
会いに来て、おとっつぁん……)
本当は、留五郎はもう帰ってきてはくれないことを知っている。
捨てられてしまったという事実を認めたくなかった。
見世物小屋へ連れて行ってくれたときの、字を褒めてくれたときの、数少ない思い出が忘れられない。
虚しい期待を抱きながら、雪は毎夜あやとりをする。
風の音にさえ反応して、来ないはずの留五郎を何年も待っていた。
夜分遅く、誰かが扉を叩く音がした。
こんな刻限に、一体誰が……
留五郎だと確定する欠片を確認できなければ、寂しい心は埋まらなかった。
「帰ってきてくれたの?」
それは、雪が生涯忘れられない人となる彼との出会いであった。
外気に触れる肌が冷たい。なのに手の温もりだけは心地よかった。
手に力を籠めれば、握り返してくる力が伝わる。
今は一人ぼっちではないと安心できるのは、この感触だった。
「辰巳さん……」
目が覚めたばかりの舌足らずな声で求めた。
辰巳は時々こうして、眠っている間に手を握りしめてくれる。
それは決まって過去を思い出してしまったときで、辰巳に甘えてばかりはいけないと思っていても
「寒くねぇか?」
「ううん。すごく、温かい」
自身の頬に辰巳の手を引き寄せて、彼の温度に酔いしれる。
意識が鮮明になったとき、無意識に求めてしまったことに慌てて手を離した。
「ごめ……んっ」
言葉の途中で、雪は唇を
再び繋ぎ合わされた手はしっかりと指を絡められて、苦しくて
「俺は、お前に甘えられるのが好きだ。遠慮しねぇで俺を求めてみろ」
甘え過ぎれば嫌われてしまうと、身についてしまった習慣は消えてはくれない。
いい子でいなければという不安は抱く必要はもうないのだ。
辰巳は側にいてくれる。
それ以上に、辰巳の側にいたいと特別に想っている。
優しい辰巳に甘えるのは悪いことではないのかもしれないが、
「朝から、そんな……」
「雪だって、その気になってんだろ?」
身体の底から込み上げる熱い吐息、それに
初雪はまだ降り止まない。
辰巳は雪と一緒に舞い散る雪片を眺めたかったのだが、その前に愛する人を
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