四
「あんな女、すぐに忘れちまいな」
留五郎はそう言ったきり、はつの話をすることはなかった。
はつが出て行ったことに心当たりがあるのか、それとも未練などないのか、留五郎の心情を察することはできない。
けれど雪は、自分を置いていった母のことを忘れることができなかった。
もしも、りんのように愛想のいい子どもだったのなら、利発であったならば、捨てられることはなかったのかもしれないと思い続けて、雪は日々を過ごしていた。
はつがいなくなってからしばらくは家に身を置いた留五郎だったが、時が経てばまたいつものように
留五郎が側にいないことも不安だったが、何より困ったのは生活だった。
普段、はつの手伝いをしていた雪は米を炊くことができても、おかずまでは作れるに至らない。
一膳飯屋でおかずを買うにしても、家に残されていた少ない銭と父の
雪は幼くして、家の生計を心配しなくてはならなくなった。
真っ先に思いついたのは、はつもしていた内職に勤しむことだ。
はつは定期的に何処からか内職を請け負っていたが、内職をするにしてもまずは針を覚えなければならない。
雪が頼りにしたのは、同じ長屋の住人だった。
政に頼ろうかとも思ったのだが、毎日のように気にかけてくれる政にこれ以上の負担はかけられないと、長屋の住人を頼ることにしたのだ。
特に誰と親しいというわけでもなかった雪は、隣に住む住人に声をかけてみた。
「ごめんねお雪ちゃん、他の人に頼んでみて」
突っぱねこそはしないが、考える間もなく断られる。
仕方なく次の家、次の家に順繰りに声をかけても、誰一人として承諾してくれる者は現れなかった。
「こっちは忙しいっていうのに、お前さんの面倒なんかみてられないよ」
誰もが雪のお願いを断ったのには理由がある。
雪のことが嫌いでというわけではなく、母がいなくなり父もろくに家に帰ってこない子どもの面倒をみるのを
飯をたかりにこられたら、生活を委ねるようなことを言われれば面倒なことこの上ないと。
幼い雪に大人の思惑がわかるはずもなく、自分は母の言っていたようにだめな子だから皆が嫌がるのだと解釈していた。
雪に暗い影が増えていく中で、それでも雪がめげずに生きられたのは、政が側にいてくれたからだった。
「針は私が教えてあげる。お雪ちゃんは子どもなのに気を遣えていい子ね」
結局は、政に頼るしか術がなかったのだ。しかも政は厭わずに、丁寧に優しく教えてくれる。
他にも生活に必要な家事などを教えてくれたのは政だった。
「いい子じゃないよ。おっかさんがいなくなったのにけろっとしてる冷たい子だから」
それはきっと、心無い誰かの言葉だ。
雪に対する仕打ちがあまりにも
「違うわ。お雪ちゃんはとってもいい子よ」
誰が何と言おうと、雪の本心は孤独で寂しいのだということを、政は知っている。
*
はつが姿を消してから五年の月日が経っていた。
雪は政から紹介された内職を請け負うようになり、針を動かしているか、それとも政が教えてくれたあやとりをしているかという生活を送っている。
内職の請負先は、
着物を作った際に余った生地で
使い勝手がいいと、密かに常連客や子どもたちの間では人気があった。
はじめは政一人で請け負っていた仕事だったのだが、政が雪にも仕事を与えるように尾花屋の内儀に頼み込んで今に至る。
政のお陰で雪は生活に苦しむことはなかったが、代わりに失ったものがある。
雪は、政に針を教えてもらうようになってから手習所を辞めていたのだ。
手習所に通いながら針を覚えて内職をする生活など、幼かった雪にできるはずもなく、否応なしに手習所を辞めるしかなかった。
一度、手習師匠に字を褒められたことがうれしくて、雪は
留五郎は相変わらず、不定期に家に帰ってくる。
その日も雪は、帰ってくるかもわからない留五郎を待っていた。
「お雪ちゃん、入るわね」
聞こえた声に、雪はあやとりをしていた手を止める。
家に足を踏み入れたその人を見て、雪は瞬時に笑顔になった。
「ねーね」
雪が一人でも針や家事ができるようになってからも、政は雪の様子を見に、たびたび家に訪れている。
母が出て行ってから、ますます雪は口数の少ない大人しい子どもとなってしまったのだが、政や、政と一緒に雪を気にかけてくれる竜次といるときは、相好を崩していた。
「私もあやとり混ぜて」
雪は父を待っている間、あやとりをしていることが多かった。
一人でもできる遊びであるが、政とするあやとりはより楽しい。
「今日、おっかさんの夢を見たの」
政は指を動かし続けたまま、雪の声に耳を
「おっかさんと別れた最後の日の夢だった」
夢は希望のままを見させてくれた。
母と二人、河原で花を摘んだ、穏やかで
「あれからずっと、
「違うの……」
雪は決して賞賛を受け取ろうとはしない。
遠慮深く、すっかり自信のなくなってしまった雪を、政は心配していたのだ。
「おっかさんが私を置いて行ったのは、仕方のないことだったから。私がいなきゃ、おとっつあんと一緒にならなかったって散々聞かされてた。おっかさんは元々、私のことが好きじゃなかったみたい」
はつは雪を身籠ったことで、留五郎と一緒になっていた。
ろくでなしの男と一緒になったことを、悔いていたのだ。
「でもね、私にはおとっつあんがいる。おとっつあんは私のことを捨てたりなんかしない」
だから幸せだと、言葉は無しに伝える雪の顔は、寂しそうだった。
ある日のこと、留五郎は
普段は銭をせびってくる父でも、こうした親子の時間というものは、雪にとってはかけがえのないものである。
雪は軽業師たちの鮮やかな芸を目に焼き付けた。
(ねぇ。おとっつあん。おとっつあんは、私のこと捨てないよね……)
*
季節は巡り、雪が十二歳になったときだった。
「ねぇ、お雪ちゃん。私たちと一緒に来ない?」
政と竜次が江戸を出て行く。
ある日のこと、二人にそう打ち明けられた雪は、さらに驚くことに、一緒に連れて行くという誘いを受けていた。
竜次は
雪も知っていたことであったが、政と竜次は想い合う仲だ。
相模に着けば、二人は祝言を挙げるという。
「……ごめんなさい。少し、考えさせて」
母が出て行ったときからずっと気にかけてくれた二人がいなくなってしまえば、雪の喪失感は大きい。
寂しくて
正直、気持ちは政たちに
それでも即決できなかったのは、留五郎の姿が浮かんだからだった。
「すぐに決めなくていいのよ。私たちが江戸を出るのは一月後、それまでに考えてほしいの」
「俺たちはお雪ちゃんを大事にする。寂しい思いもさせない。だから、一緒に来てほしいんだ」
二人の気持ちに噓偽りがないことは明らかで、大切にしてくれるからこそ、二人の
相模に行ってしまえば、留五郎を置いていくことになる。
留五郎を一人ぼっちにしてしまうのだ。
逆に言えば、江戸に残れば政と竜次の気持ちを振り払ってまで得るのは、寂しい生活である。
留五郎といるよりも、政たちといる方が幸せになるのではないか。
自身の幸せのためだけに、留五郎を見捨てることは
それに、雪は留五郎が嫌いではなく、むしろ一緒にいたいと願っている。
最善の選択がどちらなのか、雪にはわからなかった。
雪を一緒に連れて行こうと初めに言ったのは竜次だったが、政の気持ちも同じであった。竜次が言わなかったとしても、政は彼にお願いするつもりだったのである。
「やっぱり、迷ってるみたいね」
「あんな父親でも、お雪ちゃんにとっては離れられない存在なんだな」
このまま留五郎といても雪が辛いだけだ。
「お雪ちゃん、時々お腹を空かせていて、理由を聞いてもお金を使い過ぎちゃっただけだって。……本当は、留五郎さんにお金をあげてるみたい。お雪ちゃんにはもう、そんなことしてほしくないの」
雪にとっては優しい父。
留五郎が帰って来たときの、雪の喜びが込み上げた顔を思い出して、政は切なくなった。
「おとっつあん、飲み過ぎだよ」
外で飲み歩くのでは飽き足らず、留五郎は家に帰ってからも酒を飲む。
雪が何度注意したところで、留五郎は言うことを聞かない。
「あのね、おとっつあん……」
「ん?」
「ううん、何でもない」
(出て行くって言ったら、寂しいって思ってくれるかな……)
出て行くな。一緒にいてくれという言葉が欲しかった。
でも、何を言われるのか恐くて聞けない雪は、政たちと一緒にいる未来を思い描く。
今の生活よりも幸せな自分の姿が想像できた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます