江戸の町中、雪は不思議な気持ちで歩いていた。


 早く歩かなければ、母にちゃんとついていかなければと、いつもなら気が気でない母との外出も、今日にいたっては、母が歩調を合わせて歩いてくれる。


 繋いでくれる手も、温かい。


「雪、行きたいところはあるかい?好きなところを言ってごらん」


 ここで我儘わがままを言わない子か、母は試しているのだろうか。

 それとも、単純に好きなところに連れて行ってくれるのか。


 雪は考えに考えても、何を言ってよいかがわからなかった。


(怒られる……)


 母はぐずぐずしている雪が嫌いだった。

 早く答えなさいと怒鳴られることを覚悟しても、はつの怒声は降りてこない。


 何も答えられないで反応をうかがう雪に、はつは言った。


「お花でも摘みに行こうかしら」


「……うん」


 雪は母に連れられるまま、浅瀬の穏やかな河原に着いた。


 陽の光に反射した水面は、凝視ぎょうしできないほどにまぶしい。

 河原の土手には、無数の小さい花が咲いている。


 花を摘む娘を優しく見守る母。

 そんな穏やかな場面に、雪はいた。


 ぷつりと手折る花を集め、一つのかたまりを形成させる。


 母とこうして過ごすことなど、今まで一度たりともなかった。


 町中で見かける仲睦なかむつまじい親子の姿を見かけてはあこがれ、自分では叶わないと思いながらも、母の愛を求めていた。


 いつか、母と二人で笑い合って、他愛のない話をして過ごしたい。

 それが雪の願いだった。


 はじめは母の態度に戸惑っていた雪だったが、夢にまで見た現状に、心から満ち足りていた。


「おっかさん、はい」


 雪は集めた花をはつに手渡した。


 事あるごとに怒鳴られ、みじめな思いをしていても、雪は母のことが嫌いではない。

 唯一の母親に依存し、嫌いにはなれなかった。


 一度、何かを考えるような表情をして、はつは花を受け取る。


「ありがとうね」



 存分に河原で遊んだ雪は、次いではつにあめを買ってもらった。

 今まで可愛がってあげなかった分の愛情を与えるかのように、とことん雪を甘やかす。


 雪の顔には普段の暗さはなく、晴れ渡った笑顔があった。


 いつしか人通りが絶えず、近くには長屋が点在している場所に足を踏み入れていた。

 店もなく、しかも初めて訪れた場所に、なぜ母はここに連れてきたのだろうかと、雪は少し疑問に思ったが、幸せな瞬間を噛みしめている雪は黙って従った。


 はつは雪を道の端までうながす。


「おっかさん、少し用を済ませてくるから、雪はここで待ってるんだよ」


「うん」


 雪の手をにぎっていたはつの手が、温もりと共に離れてゆく。

 それでも雪はさみしくなかった。


 母は自分を愛してくれていたと実感したのだから。


 だから、名残惜しそうにしたはつの表情も、仕草も、雪の目には映らなかった。


 雪は買ってもらった飴を食べて、はつが戻ってくるのを待っていた。

 口の中に広がる甘い味と香りは、永遠には続いてくれない。

 母が戻ってきてくれるなら、刹那せつなにしか堪能たんのうできない飴を惜しんだりはしなかった。


 声を張り上げて商売に勤しむ棒手振ぼてふりや、長屋住まいの女房達が、雪の目の前を通り過ぎる。


 道端にぽつんと一人でたたずむ子どもを見て心配になった何人かに雪は声をかけられたが、母が戻ってくることを伝えれば、皆は安心して引き返していった。


 そしてまた一人、雪に声をかけた者がいた。


「誰か一緒じゃないの?」


 十五、六歳くらいの女だった。

 雪の背丈まで屈み、穏やかそうな顔で女は語りかける。


「おっかさん用事があるの。だからここで待ってる」


「そう。小さいのに偉いわね」


 褒められてくすぐったくなった雪は、すぐに首を振って否定した。

 女は偉い偉いと雪を納得させるように、まるで真綿に触れるような力で雪の頭をでる。


「私も一緒に待ってあげるね。一人じゃ危ないわ」


「ううん、大丈夫」


「お姉さんの用事は終わったから、遠慮なんてしなくていいのよ」


 母は戻ってくる。けれど一人で待つという行為に心細さを感じていた雪は、女の親しみやすさも相まって、甘えることにした。


 やがて陽はかたぶき、仕事帰りであろう男衆の姿が目立つようになった。


 雪が母を待ち続けて二刻ふたとき(約四時間)が経っている。

 女はそのあまりにも長い時間を知らなかったが、流石さすがに様子がおかしいと思い始めた。

 もしや母に何かがあったのではと、雪も気が気でない。


 どうしようかと女が考えあぐねていたところで、雪たちの方に近づいてくる男がいた。


「お政ちゃん、こんなところで何を……あれ、お雪ちゃん?」


「竜次さん」


 声をかけた男は、雪と同じ長屋に住む竜次だった。

 女、もとい政の知り合いでもある竜次は、二人から事情を聞く。


「そりゃあ心配だな。お政ちゃん、悪いけどお雪ちゃんを家まで送って行ってくれ。俺はおはつさんを探してみる」


「わかったわ。……さ、お雪ちゃん」


 雪は差し出された手をつかもうとして、躊躇ためらった。


 ここで動いてしまえば、待っていてという母の言い付けに背くことになる。

 背いてしまえば、また母は毎日のように自分を怒鳴るのではないか。もう愛してくれないのではないかと思ってしまった。


 同じ長屋に住んでいて雪を知っている竜次は、何となくではあるが、雪の気持ちを察した。


「子どもは帰る刻限だ。家でおっかさんのことを待っていれば、お雪ちゃんは悪い子じゃないよ」


 竜次に説得された雪は不安を取り除けないまま、政に手を引かれて帰って行ったのだった。


 政は竜次に会いに何度か長屋を訪れたことがあったため、湯島にあるその場所を知っている。

 雪のことは今日初めて知ったのだが、とても大人しくて遠慮深い子だと感心しつつ、寂しそうな子だとも感じていた。


 二人が着いたとき、雪の住んでいる部屋には、誰もいなかった。


「おっかさんの他に、誰かいないの?」


「おとっつあんがいる」


 偶々たまたま帰りが遅くなっているのだろうか。それとも、仕事で夜は家を空けているのかもしれないと、政は思った。

 だが、雪が続けた言葉に何も言えなくなる。


「おとっつあん、あまり家に帰ってこない。どこかで飲み歩いてるんだって、おっかさんが言ってた」


 父が家に帰ってこないのはいつものことだ。寂しくても、母が一緒にいてくれた。


 母と離れた日なんて一度もない。


 その日、雪は母を待ち続けていたが、はつが帰ってくることはなかった。



 雪は重いまぶたをこじ開けた。


 しまった。自分は寝てしまったのだと雪は勢いよく身を起こす。


 かまどから煮え立つ音が聞こえる。

 起きたばかりのまだ視界がかすむ目で、雪は竈の方を見た。

 そこには、母の後姿が……


「おっかさん……!」


 しかし振り返ったその人は、母ではなかった。


 鮮明になってゆく視界に映し出されるのは、髪の結い方も着物も、顔さえ別人の政だ。


「おはよう、お雪ちゃん」


 昨日、はつは帰ってこなかった。

 深夜になっても母を待ち続けていた雪だったが、襲ってくる眠気には勝てずに今まで眠っていたのである。


 一方、雪を家まで送り届けた政は、雪を一人にさせることができずにずっと側にいたのだった。


「勝手に台所借りてごめんね。昨日の夜も食べなかったからお腹空いてるでしょ?それとも、もう少し寝ててもいいのよ」


「おっかさんは?」


 空腹や眠気よりも、雪には大事なことがある。

 母は何処どこにいるのか。母の身には何も起きていないのか。

 雪の頭を支配しているのはそれだけだった。


「まだ帰ってきていないみたい」


 一瞬にして顔をゆがめた雪に、政の胸は痛くなる。

 自分まで不安な顔をしていれば雪をあおるだけだと、笑顔を努めた。


「今ね、竜次さんたちが探してくれているから。お雪ちゃんはここで私と待っていようね」


 雪の瞳からは止めどない涙が溢れ出す。

 声を出して泣きたいはずなのに、不安を叫びたいだろうに、雪は静かに泣いていた。


 政は雪を抱きしめながら、雪が抱えている哀しみを少しだけ思い知った。



 すっかり昼の刻限となってしまったが、雪は政が用意した食事を少しずつのどに通した。


 雪はずっと、無口なままだった。

 母が帰ってこない不安の所為せいもあるだろうが、まだ子どもだというのに、この状況下での様子としては大人しすぎるのではないかと政は感じた。


 もしも自分だったら、いまだに泣き止まずに、周囲の人になぐさめられなければ気が済まないだろう。


 健気けなげに母を待ち続ける雪の姿を見ているだけで辛かった。


 政の胸中を破るように、家の戸が開いた。

 姿を現したのは竜次だった。


 雪と政の視線は竜次に釘付けで、母の所在を聞きたがってる。


 竜次は言葉を選ぶように、何度か言葉をつむごうとしてはとどめ、やがて口を開いた。


「ごめんよ……まだ見つからないんだ。もう一度、探しに行ってくるから」


 雪はうつむいて、目をうるませる。

 その様子を見た竜次が奥歯を噛んでいるのを政は見た。


 雪にはわからないように、竜次は一寸ちょっとと言って政を外へうながした。


 長屋の外では住人たちが、がやがやと何かを話している。

 もしや雪の母のことではないかと、政は胸騒ぎを覚えた。


「出ていっちまったみたいなんだ」


「……え?」


「お雪ちゃんを残して、他所よその男と江戸を出たんだとよ」


 投げやりな言い方だが、その声音には悔しさのようなものがにじんでいた。

 家の中にいる雪には聞こえないように小声で、だけど事実までは変えられない。


「だってあの子、ずっと待ってるんだよ。あんなに小さいのに、あんなにいい子なのに……」


 これ以上何かを言えば、政は泣いてしまいそうだった。

 必死で涙をこらえたのは、一番泣きたいはずの雪が我慢しているのに、自分が泣くことなどできなかったからだ。


「だいたい、こんなときに留五郎さんは何処どこにいるんだい」


「どうせ飲み屋に入りびたってるか賭場とばにでもいるんだろ。そんなんだから、女房にも出て行かれるんだ」


 長屋の住人の声は大きい。

 これでは家の中にいる雪にまで聞こえてしまう。


 竜次と政がそう危惧きぐしたときにはすでに遅く、雪が家の中から姿を現していた。


「おっかさん、もう帰ってこないの?」


 子どもの純粋な問いではなく、達観したような、あるいは絶望の淵にいるような頼りなさだった。


 しんと静まり返ったその場で、竜次も政も、残酷な答えを言えずにいた。


「可哀想にねぇ。何もお雪ちゃんまで置いていくことはなかったのに」


 誰が言ったのか、政にはわからない。

 何故あっけらかんと雪に事実を打ち明けられるのかという憤りが、早鐘を打った。


 雪は事実を知って、そのまま家の中へと戻っていった。


「おっかあが出て行ったっていうのに泣きもしねぇ」


「仕方ないよ。おはつさんはお雪ちゃんのこと可愛がってなかったんだから。毎日怒鳴られてばかりじゃ、親と言えども嫌いになるってもんだ」


 竜次は怒りが沸き上がるよりも、呆気あっけにとられていた。


 どうしてこうも雪に対して冷たいことを言えるのだろうか。

 はつと留五郎に対する非難よりも、まずは雪を慰めることが先決のはずだ。


 同じ長屋の住人たちとはいえ言い過ぎだと、竜次がたしなめようとするよりも早く、つかつかと住人たちに政が歩み寄っていた。


「お雪ちゃんは充分に傷ついているのに、そんな言い方をするなんて失礼よ!母親のことが嫌いなら、ずっと待ってやしなかったわ!何でお雪ちゃんのことをわかってあげないんですか!」


 政は滅多に、いや、竜次の前では一度も怒ったことのない温厚な性格だった。

 それが、昨日会ったばかりの雪のために憤っている。


 胸の内がすっとしたような気持ちになった竜次は、政に感心している暇まではなかった。


「な、なんだい」


 他人に口をはさまれたことで、住人たちは政に嫌悪感を示している。

 多勢に無勢、政の危険を感じ取った竜次は、政をかばうように前へと出た。


「お政ちゃんの言う通りだ。本当にお雪ちゃんのことを可哀想って思うなら、余計なことは言わないでくれ」


 反論すれば争いに発展しかねないと足を引き返す者や険しい顔をする者、竜次の意見に従う者、その胸中は様々であったが、人垣は方々に散っていった。


「ごめんなさい……お雪ちゃんのことを思ったら、私……」


「いいんだ。何も、間違ったことは言っていない」


 竜次と政は戸を開けてそっと、雪の様子をうかがった。


「お雪ちゃん……?」


 雪の姿は見えなかった。もう一つの奥の部屋にいるのだろうと、政は慎重に障子戸を開ける。

 微かな音でも雪の心を傷つけてしまいそうで、それでも戸のこすれる音が静寂しじまの中に響いた。


 戸を開けた先に、盛り上がった夜着よぎが見えた。

 人の気配を感じたのか、夜着が一度揺れる。


 政は雪の身体を夜着ごと抱きしめた。


「大丈夫。私が側にいるわ」


 次第に聞こえてきたのは小さな嗚咽おえつなのに、政は雪の悲鳴が耳をつんざくように聞こえてならなかった。

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