三
江戸の町中、雪は不思議な気持ちで歩いていた。
早く歩かなければ、母にちゃんとついていかなければと、いつもなら気が気でない母との外出も、今日にいたっては、母が歩調を合わせて歩いてくれる。
繋いでくれる手も、温かい。
「雪、行きたいところはあるかい?好きなところを言ってごらん」
ここで
それとも、単純に好きなところに連れて行ってくれるのか。
雪は考えに考えても、何を言ってよいかがわからなかった。
(怒られる……)
母はぐずぐずしている雪が嫌いだった。
早く答えなさいと怒鳴られることを覚悟しても、はつの怒声は降りてこない。
何も答えられないで反応を
「お花でも摘みに行こうかしら」
「……うん」
雪は母に連れられるまま、浅瀬の穏やかな河原に着いた。
陽の光に反射した水面は、
河原の土手には、無数の小さい花が咲いている。
花を摘む娘を優しく見守る母。
そんな穏やかな場面に、雪はいた。
ぷつりと手折る花を集め、一つの
母とこうして過ごすことなど、今まで一度たりともなかった。
町中で見かける
いつか、母と二人で笑い合って、他愛のない話をして過ごしたい。
それが雪の願いだった。
はじめは母の態度に戸惑っていた雪だったが、夢にまで見た現状に、心から満ち足りていた。
「おっかさん、はい」
雪は集めた花をはつに手渡した。
事あるごとに怒鳴られ、
唯一の母親に依存し、嫌いにはなれなかった。
一度、何かを考えるような表情をして、はつは花を受け取る。
「ありがとうね」
存分に河原で遊んだ雪は、次いではつに
今まで可愛がってあげなかった分の愛情を与えるかのように、とことん雪を甘やかす。
雪の顔には普段の暗さはなく、晴れ渡った笑顔があった。
いつしか人通りが絶えず、近くには長屋が点在している場所に足を踏み入れていた。
店もなく、しかも初めて訪れた場所に、なぜ母はここに連れてきたのだろうかと、雪は少し疑問に思ったが、幸せな瞬間を噛みしめている雪は黙って従った。
はつは雪を道の端まで
「おっかさん、少し用を済ませてくるから、雪はここで待ってるんだよ」
「うん」
雪の手を
それでも雪は
母は自分を愛してくれていたと実感したのだから。
だから、名残惜しそうにしたはつの表情も、仕草も、雪の目には映らなかった。
雪は買ってもらった飴を食べて、はつが戻ってくるのを待っていた。
口の中に広がる甘い味と香りは、永遠には続いてくれない。
母が戻ってきてくれるなら、
声を張り上げて商売に勤しむ
道端にぽつんと一人で
そしてまた一人、雪に声をかけた者がいた。
「誰か一緒じゃないの?」
十五、六歳くらいの女だった。
雪の背丈まで屈み、穏やかそうな顔で女は語りかける。
「おっかさん用事があるの。だからここで待ってる」
「そう。小さいのに偉いわね」
褒められてくすぐったくなった雪は、すぐに首を振って否定した。
女は偉い偉いと雪を納得させるように、まるで真綿に触れるような力で雪の頭を
「私も一緒に待ってあげるね。一人じゃ危ないわ」
「ううん、大丈夫」
「お姉さんの用事は終わったから、遠慮なんてしなくていいのよ」
母は戻ってくる。けれど一人で待つという行為に心細さを感じていた雪は、女の親しみやすさも相まって、甘えることにした。
やがて陽は
雪が母を待ち続けて
女はそのあまりにも長い時間を知らなかったが、
もしや母に何かがあったのではと、雪も気が気でない。
どうしようかと女が考えあぐねていたところで、雪たちの方に近づいてくる男がいた。
「お政ちゃん、こんなところで何を……あれ、お雪ちゃん?」
「竜次さん」
声をかけた男は、雪と同じ長屋に住む竜次だった。
女、もとい政の知り合いでもある竜次は、二人から事情を聞く。
「そりゃあ心配だな。お政ちゃん、悪いけどお雪ちゃんを家まで送って行ってくれ。俺はおはつさんを探してみる」
「わかったわ。……さ、お雪ちゃん」
雪は差し出された手を
ここで動いてしまえば、待っていてという母の言い付けに背くことになる。
背いてしまえば、また母は毎日のように自分を怒鳴るのではないか。もう愛してくれないのではないかと思ってしまった。
同じ長屋に住んでいて雪を知っている竜次は、何となくではあるが、雪の気持ちを察した。
「子どもは帰る刻限だ。家でおっかさんのことを待っていれば、お雪ちゃんは悪い子じゃないよ」
竜次に説得された雪は不安を取り除けないまま、政に手を引かれて帰って行ったのだった。
政は竜次に会いに何度か長屋を訪れたことがあったため、湯島にあるその場所を知っている。
雪のことは今日初めて知ったのだが、とても大人しくて遠慮深い子だと感心しつつ、寂しそうな子だとも感じていた。
二人が着いたとき、雪の住んでいる部屋には、誰もいなかった。
「おっかさんの他に、誰かいないの?」
「おとっつあんがいる」
だが、雪が続けた言葉に何も言えなくなる。
「おとっつあん、あまり家に帰ってこない。どこかで飲み歩いてるんだって、おっかさんが言ってた」
父が家に帰ってこないのはいつものことだ。寂しくても、母が一緒にいてくれた。
母と離れた日なんて一度もない。
その日、雪は母を待ち続けていたが、はつが帰ってくることはなかった。
雪は重い
しまった。自分は寝てしまったのだと雪は勢いよく身を起こす。
起きたばかりのまだ視界が
そこには、母の後姿が……
「おっかさん……!」
しかし振り返ったその人は、母ではなかった。
鮮明になってゆく視界に映し出されるのは、髪の結い方も着物も、顔さえ別人の政だ。
「おはよう、お雪ちゃん」
昨日、はつは帰ってこなかった。
深夜になっても母を待ち続けていた雪だったが、襲ってくる眠気には勝てずに今まで眠っていたのである。
一方、雪を家まで送り届けた政は、雪を一人にさせることができずにずっと側にいたのだった。
「勝手に台所借りてごめんね。昨日の夜も食べなかったからお腹空いてるでしょ?それとも、もう少し寝ててもいいのよ」
「おっかさんは?」
空腹や眠気よりも、雪には大事なことがある。
母は
雪の頭を支配しているのはそれだけだった。
「まだ帰ってきていないみたい」
一瞬にして顔を
自分まで不安な顔をしていれば雪を
「今ね、竜次さんたちが探してくれているから。お雪ちゃんはここで私と待っていようね」
雪の瞳からは止めどない涙が溢れ出す。
声を出して泣きたいはずなのに、不安を叫びたいだろうに、雪は静かに泣いていた。
政は雪を抱きしめながら、雪が抱えている哀しみを少しだけ思い知った。
すっかり昼の刻限となってしまったが、雪は政が用意した食事を少しずつ
雪はずっと、無口なままだった。
母が帰ってこない不安の
もしも自分だったら、いまだに泣き止まずに、周囲の人に
政の胸中を破るように、家の戸が開いた。
姿を現したのは竜次だった。
雪と政の視線は竜次に釘付けで、母の所在を聞きたがってる。
竜次は言葉を選ぶように、何度か言葉を
「ごめんよ……まだ見つからないんだ。もう一度、探しに行ってくるから」
雪は
その様子を見た竜次が奥歯を噛んでいるのを政は見た。
雪にはわからないように、竜次は
長屋の外では住人たちが、がやがやと何かを話している。
もしや雪の母のことではないかと、政は胸騒ぎを覚えた。
「出ていっちまったみたいなんだ」
「……え?」
「お雪ちゃんを残して、
投げやりな言い方だが、その声音には悔しさのようなものが
家の中にいる雪には聞こえないように小声で、だけど事実までは変えられない。
「だってあの子、ずっと待ってるんだよ。あんなに小さいのに、あんなにいい子なのに……」
これ以上何かを言えば、政は泣いてしまいそうだった。
必死で涙を
「だいたい、こんなときに留五郎さんは
「どうせ飲み屋に入り
長屋の住人の声は大きい。
これでは家の中にいる雪にまで聞こえてしまう。
竜次と政がそう
「おっかさん、もう帰ってこないの?」
子どもの純粋な問いではなく、達観したような、
しんと静まり返ったその場で、竜次も政も、残酷な答えを言えずにいた。
「可哀想にねぇ。何もお雪ちゃんまで置いていくことはなかったのに」
誰が言ったのか、政にはわからない。
何故あっけらかんと雪に事実を打ち明けられるのかという憤りが、早鐘を打った。
雪は事実を知って、そのまま家の中へと戻っていった。
「おっかあが出て行ったっていうのに泣きもしねぇ」
「仕方ないよ。おはつさんはお雪ちゃんのこと可愛がってなかったんだから。毎日怒鳴られてばかりじゃ、親と言えども嫌いになるってもんだ」
竜次は怒りが沸き上がるよりも、
どうしてこうも雪に対して冷たいことを言えるのだろうか。
はつと留五郎に対する非難よりも、まずは雪を慰めることが先決のはずだ。
同じ長屋の住人たちとはいえ言い過ぎだと、竜次が
「お雪ちゃんは充分に傷ついているのに、そんな言い方をするなんて失礼よ!母親のことが嫌いなら、ずっと待ってやしなかったわ!何でお雪ちゃんのことをわかってあげないんですか!」
政は滅多に、いや、竜次の前では一度も怒ったことのない温厚な性格だった。
それが、昨日会ったばかりの雪のために憤っている。
胸の内がすっとしたような気持ちになった竜次は、政に感心している暇まではなかった。
「な、なんだい」
他人に口を
多勢に無勢、政の危険を感じ取った竜次は、政を
「お政ちゃんの言う通りだ。本当にお雪ちゃんのことを可哀想って思うなら、余計なことは言わないでくれ」
反論すれば争いに発展しかねないと足を引き返す者や険しい顔をする者、竜次の意見に従う者、その胸中は様々であったが、人垣は方々に散っていった。
「ごめんなさい……お雪ちゃんのことを思ったら、私……」
「いいんだ。何も、間違ったことは言っていない」
竜次と政は戸を開けてそっと、雪の様子を
「お雪ちゃん……?」
雪の姿は見えなかった。もう一つの奥の部屋にいるのだろうと、政は慎重に障子戸を開ける。
微かな音でも雪の心を傷つけてしまいそうで、それでも戸の
戸を開けた先に、盛り上がった
人の気配を感じたのか、夜着が一度揺れる。
政は雪の身体を夜着ごと抱きしめた。
「大丈夫。私が側にいるわ」
次第に聞こえてきたのは小さな
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます