はつと留五郎とめごろうが出会ったのは、しがない飲み屋だった。


飲み屋で働いていたはつを常連客だった留五郎が見初みそめ、やがてはつが子どもを身籠みごもったことで二人は一緒に暮らすようになった。


産まれた子どもは、雪と名付けられた。


「お雪ちゃんはいつまで経っても赤ちゃんみたいね」


雪を抱きかかえるはつの手に力がこもった。


はつが暮らす長屋には雪の他に、りんという雪よりも一月後に産まれた子どもがいた。

りんは雪よりも後に産まれたのにもかかわらず、先に二本足で立つことができるようになっていたのだ。


長屋の住人に会うたびに雪はりんと比べられ、りんよりも成長が遅い雪は笑い者にされてしまっていた。


家に戻るとぐずり始めた雪に、はつは言った。


「お前は泣いてばっかりでほんと可愛くないよ」


雪が泣いている間にも、りんはどんどん先へと成長してしまう。

比べられて馬鹿にされ続けることが、はつには耐えられなかった。


はつは泣いている雪を放置して、夕餉ゆうげの準備を始める。

少しして、留五郎が帰宅した。


「雪が泣いてるじゃねえか」


留五郎は、はつに非難する目を向けて雪を抱えた。


留五郎にあやされた雪は泣き止み、きゃっきゃと嬉しそうに父に手を伸ばしている。

その姿が余計に、はつを苛々いらいらさせた。


「ろくすっぽ家に帰ってこないくせになんだい。

あんたがそうやって甘やかすから、雪はちっとも成長しない」


「雪はまだ赤ん坊だろうが。

成長に問題があるってんならお前の育て方が悪い」


「こっちは必死に雪の面倒を見てんだ。

夜泣きがひどくて眠れやしない。家にいないあんたに文句を言われる筋合いはないよ。

雪がいなきゃ、あんたなんかと一緒にならなかったのに……!」


二人の口論は激しさを増して続いた。

口論は日常になっていて、夫婦の関係はとうに冷めきっている。


泣き叫ぶ雪の声は、二人には届かなかった。






二年後、夫婦仲が修復されることはないまま時は過ぎた。


「何度教えたらできるようになるんだい。

りんちゃんはもう箸を使って物を食べてるっていうのに、どれだけ私に恥をかかせれば気が済むんだ」


雪は、箸が上手く使えなかった。

りんがとりわけ早く箸を使えるようになったのだが、またりんに先を越されたことではつは穏やかではない。


つかめてもすぐに落ちてゆく食べ物に、みじめさと母の叱りが相まって、雪は食事をする度に泣いていたのだった。


「泣くんじゃないよ。

お前がうるさい声で泣く所為せいで、私が虐待してるって思われてるんだから」


用意されたおかずを半分も食べきれないまま、これ以上は待ってられないとはつは自身の食事が終われば食器を下げてしまう。


雪が空腹なのは、食事を充分にできないことだけではない。

母からの愛情にえていたのだった。



何処どこぞで飲み歩きたまにしか家に帰ってこない父親と、何かにつけてしかりつける母親。

それは雪が五歳になっても、状況は変わらなかった。


りんと比べられていることは赤子の頃にはわからなかったが、もう理解できるまでには成長していた。


りんよりも雪の方が劣っている。

母はその事実を哀しみ、口うるさくなることも雪は知っていた。


周囲から褒められるりんに対して、雪は滅多に褒められることはない。

叱られるか、陰で笑われているかだ。


溌剌はつらつとしていて覚えの早いりんと比べられれば、雪は劣っているという表現で見なされてしまう。

否定され続ける雪は、暗さをただよわせるようになっていた。


「やあ、お雪ちゃん」


母との買い物帰り、雪に声をかけたのは同じ長屋に住む竜次りゅうじという青年だった。


雪は小さく会釈えしゃくをする。

縮こまって話せない娘を見て、はつは眉間に皺を寄せた。


「お前は挨拶あいさつもできやしないんだから」


とげのある口調で言われた雪は、余計に口を固く結んで下を向く。


「何言ってんだいさん。

お雪ちゃんは大人しくていい子じゃねぇか。俺の子どもの頃よりよっぽどましってもんだ」


竜次に頭をでられた雪だったが、表情は晴れなかった。


「あ、そうだ。菓子を持ってるからお雪ちゃんにあげる」


竜次が懐から菓子を取ろうとしたところで、雪はぐいと母に無理やり手を引かれた。


「竜次さんまでこの子を甘やかさないでおくれ」


よろけそうになりながらも母に付いて行く雪を、竜次は名残惜しそうに見つめる。


毎日、はつが雪を怒鳴りつける声が長屋からは聞こえ、その度に雪を哀れんでいた竜次だったが、他人の家庭に口出しをすることはできなかった。

竜次とて母に叱られたことはある。

はつだって、何も雪が憎くて叱っているわけではないのかもしれないと、自身に言い聞かせるのが関の山だ。


どうしてやることが正解なのか、竜次にはわからずにいた。






もっときちんとしなければ……


ご機嫌取りをすれば、母の心はより一層離れていく。

ならばと、雪は言われたことには逆らわず、家の手伝いをして母に尽くした。


それでも母からは怒られてばかりだった。


りんよりも劣る自分が、母は嫌いなのではないだろうか。


雪の中で鬱々うつうつとした気持ちが芽生え始めたころ、一筋の好機が射したのであった。






雪が手習所に入門して、まだ間もない日のことである。


入門したばかりの子どもたちは、覚えたてのかな文字を紙に向かって書いていた。

手習師匠の見本を見ながらとはいえ、文字というものに触れたばかりの子どもたちは、およそ文字とは言えない字を書いてしまったりという塩梅あんばいだった。


習い始めたばかりで綺麗な文字を書ける子どもなど、そうはいない。

手習師匠は、はちゃめちゃな字を書く子どもを微笑ましく見つめていると、一人の子どもが目に付いた。


「お雪ちゃん、紙を見せてみなさい」


黙々と字を書いていた雪は、一度びくりと身体を震わせた。

いけないことをしてしまったのだろうか。書いた字に問題があったのか。

雪の頭には、お前は何もできない子だと叱責しっせきする母の姿が浮かんだ。


手習師匠は雪が書いた紙をまじまじと見ながら尋ねた。


「違う手習所で文字を教わったことがあるのかい?」


雪は首を横に振った。

次第に他の子どもたちの視線が集まってきて、雪は全身に針を向けられているような気持ちになる。


「なんと……」


雪が恐る恐る顔を上げれば、感嘆の後に優しく微笑む手習師匠がいた。


「これは上手い。習ったばかりの文字をこうも上手く書けるとは。

帰ったら、おっかさんに見せてあげなさい」


予想もしていなかった言葉に、雪は目をしばたたかせる。


すごいすごいと雪の書いた紙をのぞき込む子どもたち、そして頭をでる手習師匠の手で、自分が褒められているのだと雪は自覚した。


何をしてもしかられてばかりで母に褒められたことのなかった雪は、褒められるという行為に戸惑いながらも込み上げてくる嬉しさは隠せなかった。


(おっかさんも褒めてくれる)


皆が褒めてくれた。ならば、母もきっと褒めてくれるに違いない。


雪は家に帰って母の姿を見るなり、はずんだ声で言った。


「おっかさん、これ見て!」


雪は母に紙を手渡し、念願の言葉を待っていた。

欲しいのは、たった一言でいいから母に愛されていると確信できる言葉だ。


「文字が書けたくらいで浮かれるんじゃないよ。

私は手習所に行かせてもらえなかったんだ。それをまぁお前はいい気なこと。

女の子が文字を書けたって何の役にも立たないんだからね」


はつは雪に紙を突っぱねる。

そのまま雪には何も言わずに、外に出て行ってしまった。


何故、女の子が文字を書いても役に立たないのか、そんな疑問はどうでもいい。

今度は誰よりも先に綺麗な文字を書けた。

誰かに劣っていなければ、母は自分を愛してくれる。

そう、思っていた……


はなから希望なんてなかったのだ。


雪は紙をくしゃくしゃに丸めて部屋に投げ捨てる。


それでも母に対する執着しゅうちゃくまでは捨てることができなかった。


おっかさん、と声に出してしまえば涙がこぼれてしまいそうで、どんよりと重くなった身体の中にはみじめな心がわだかまっていた。



十日ぶりに留五郎が帰宅してみると、家の中には雪が小さく座っているだけで、はつの姿はなかった。


いつもなら帰ってきた途端にじゃれてくる娘が大人しく背を向けているのを見て、留五郎は心配気に尋ねる。


「腹でも痛いのか?」


雪は無言で、わずかに首を振った。

またはつに怒鳴られでもしたのだろかと留五郎は思ったが、しかし今日の雪は相当参っているようだった。


いよいよ心配になった留五郎は、雪の前に回り込んで顔をのぞく。


体調が悪いわけではなく落ち込んでいるだけだとわかったところで、安心はできない。

留五郎は何度か雪に言葉をかけたが、気持ちが一向に浮上しない雪に、帰ってきたらはつを問い詰めてやろうと溜息を吐いた。


ふと、留五郎の視界に、くしゃくしゃに丸められた紙が映った。


「何だこりゃ?」


広げてみると、そこには『いろはにほへと』と綺麗な文字が書かれている。


「これ、雪が書いたのか?」


手習所に通い始めた雪が書いた紙だろうと、留五郎は見当をつける。


「……うん」


雪はよく耳をまさなければ聞こえない声で、返事をした。


「すげぇ上手く書けてるなぁ。雪は天才だ」


そう言うと、今までうつむいて固まっていた雪が、せきを切ったように泣き始めたので留五郎は狼狽うろたえる。


まるで、赤子のときのような幼さで、雪は泣いていた。


「ど、どうした?

俺は本当に、雪の字に感心したんだ。嘘なんて言ってないぞ」


「おとっちゃ……」


雪は父にすがった。


父は欲しかった愛情をくれる。

自分は誰かに愛されているという安堵あんどは、雪の心を破裂させた。

そして、優しい父が大好きだった。


まだ雪が箸を上手く使えず、食事の遅い雪は早くに食器を下げられてしまい、食事を充分に摂れずひもじい思いをしていたときに、父は雪に饅頭まんじゅうを買ってきてあげたりと、雪の心も満たしてくれていた。


たまにしか帰ってこないだらしない父親、だけど雪にとっては唯一の心のり所であった。


泣けば母の怒りは膨れ上がる。

だけど父は、泣き止むまで抱きしめてくれる。


雪はその小さい手で、父の着物を離さなかった。






数日後、その日は雪にとって青天の霹靂へきれきだった。


朝起きてから初めて会う母は、いつも雪に対しては険しい表情をしていたのにも関わらず、菩薩ぼさつのように優しい顔をして微笑んでいたのだ。


しかも朝餉あさげの準備や手伝いをしようとすれば、母は「雪はゆっくりしていていいのよ」とこれまた優しく言うのだった。


もしや夢ではないのかと、雪は何度もほおをつねってみたが現実の出来事だ。

訳が分からないでいる雪に、母は言った。


「雪、一緒に出掛けようか」

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