番外編 「二人静」

 暗闇の中、辰巳の隣には舞台に明かりが灯されるのを待ち望んでいるであろう雪がいる。

 雪はこの日、二人で交わした約束が果たされる日を楽しみにしていた。


 雪たちがいるのは浅草の芝居小屋であり、演目『義経と静』の後編を観に来たのである。


 辰巳も演目を楽しみにしていたのだが、実のところ来るのを躊躇ためらっていた。

 約束は果たしたい。

 けれど、演目の主人公である静御前の悲劇を知っていた辰巳は、日常を取り戻したばかりの雪にはこくなのではないかと危惧きぐしていたのである。


 静御前にせられている雪は、この物語をどう感じるのだろうか……


 今、舞台が幕が開けた。



 鶴岡八幡宮では、捕らわれの静と頼朝が対面していた。


 静の顔は不安に満ちている。

 何度もでるのは、自身の膨れた腹。静は義経の子どもを身籠みごもっていたのである。


女子めのこなら命は助けよう。だが、男子おのこならその命、容赦はせぬ」


「ああ……どうか、どうかこの子が女子でありますように……」


 静の子は、同時に義経の子であることを意味している。

 もし子が男子であった場合、いずれ成長したあかつきには敵である頼朝に牙をむく存在となりかねない。

 ならば芽の生えないうちに始末をすることが、戦乱の世の習わしと言い切るには残酷である。


 静はついに出産のときを迎えた。


「返して!お願い、返して!その子は私の子です!」


 産まれた子どもは、男子だった。


 静の必死の懇願も虚しく、子は取り上げられ、無残にも由比ヶ浜ゆいがはまへと沈められた。


「いやぁぁぁぁぁ!!返してっ!私と義経様の子を返して!!」


 壊れそうなほど激しく床を叩きつけ、髪を振り乱しきむしる静は狂気に満ちている。

 我が子を殺された絶望、怒り。

 本物の静が乗り移ったかのように、迫真の演技だった。


 観客の中で、他事を考えている者など誰一人としていない。

 瞬きすら惜しみながら、静の悲劇を観ていた。


 雪は自然と涙を流していた。声は上げずに、流すに任せた涙をぬぐう暇もなかった。


「可哀想な静。せめてこの宝を貴女に授けましょう」


 頼朝の妻である政子は静を憐れみ、多くの宝を静に授けた。

 だが、静の哀しみは癒えることはない。

 決して取り戻せないものを失ってしまったのだから。


「私には、義経様だけ……」


 静は失意そのまま、奥州へ向かった義経の後を追った。



 舞台は転じ、奥州は義経の場面へ。


 奥州一帯を治めるのは藤原一族である。

 過去のよしみでもあった藤原氏を頼り、義経は奥州へと辿たどり着いていた。

 しかし、義経をかくまったことで頼朝の追撃を恐れた藤原氏は一転、義経を裏切ったのである。


「もはやこれまでか……」


 無数に倒れている家臣のしかばねを前に、義経は自身の結末をさとった。


「静……そなたは生きて、生き抜くのだぞ」



 義経を追い奥州を目指していた静は、常陸国ひたちのくに古河こがに辿り着いていた。


「奥州への道は何処いずこでございますか?」


「いま奥州に向かうのはやめた方がいい。何でも内戦があったばかりらしいからな。じきに鎌倉殿も奥州攻めを決行するって話だ」


「内戦……!義経様はご無事なのですか?」


「源氏の御曹司は藤原氏に裏切られて殺されたらしい。くわばらくわばら……」


 愛する人の死。

 たった唯一の希望を、静は絶たれた。


 打ちひしがれた静は奥州行きを断念した。


 静はとある井戸の前で立ち止まる。

 すべてを失った静の姿は、まるで幽鬼のようだった。


「義経様……」


 静は井戸に身を乗り出そうと前屈みになる。

 誰もが息を呑んだ、その瞬間だった。


『静』


 それは、亡き義経の声だった。

 はじかれたように静が顔を上げるも、義経の姿はない。


「私は義経様に会いたい……義経様に会えるのなら、ここで生涯を終えまする」


 愛する人に会えるたった一つの方法があるとするならば、それは死だ。


 幻はなおも静に語りかける。


『そなたは生きて、生き抜くのだぞ』


 奥州の風が届けてくれた、義経の最後の言葉だったのだろうか。

 静にも、観客にも知ることはできない。


 ただその声が義経の願いだったとすれば、希望と呼べるのだ。


 静の瞳に生気が戻った。


「きっと、義経様は生きてほしいと願ってくださった。義経様がいなくても、私は生きてゆきます。まだ、終わらない」


 静は希望を取り戻して、幕を閉じた。



 舞台を鑑賞し終えて、二人は帰路に就いた。


「静御前が生きることを選んで、本当によかった」


「悲劇で終わるのかと思ってたが、あの結末は気分がいい」


 芝居小屋を後にした二人は、感想を語り合う。

 二人が演目に満足したことは言うまでもない。


 普段は大人しく、あまりしゃべらない雪が、浮き足立って静御前を語る。

 すっかり静御前のとりことなっていた。


(私も、辰巳さんが生きてほしいって願ってくれたから、こうして一緒にいることができた)


 一度生を絶とうとした雪は、間一髪のところで辰巳に助けられたことがある。

 生きてほしいと願う人がいたからこそ、雪は生きようと思ったのだ。


 すごく幸せだと言う雪は笑顔で満ち溢れていて、辰巳はこの人を選んで本当によかったと、改めて感じたのであった。



 静御前の終焉しゅうえんについては、様々な説がある。


 辰巳の故郷である信濃しなの国にも静御前が客死かくししたという伝承があるが、真実は定かではない。


 数ある伝承の中でも、義経亡き後も生存していたという説には真実とは別に、静御前の幸せを願った誰かの想いが込められているのかもしれない。

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