幕間

 長閑のどかな秋の昼下がり、神田は鈴鹿すずかの一室では、紫乃と李々が雪の身支度を整えていた。


 李々は雪の髪をき、紫乃は化粧を施している。

 普段よりも高価な着物を身にまとい、めかし込んでいるのには理由があった。


「その着物、雪によく似合ってるわ」


 紺地に扇が描かれた着物は、普段は古着を着まわしている雪が買える代物ではない。

 肌触りも古着とは違い、上品さもありながら落ち着いている。

 これは、雪のために作られた新品の着物だった。


「着物負けしちゃってる……今日は折角の祝言しゅうげんなのに」


「ねーね、きれいだよ」


 そう、この日は雪と辰巳の祝言が弥勒みろく屋で催されることになっていた。


 着物は、尾花おばな屋の内儀おまちから雪への贈り物である。

 おまちに辰巳との祝言を伝えたのは十日前だったが、おまちは祝言を知るなり、雪に着物を手渡してこう言った。


『雪が祝言を挙げるときに渡そうと思って、前から仕立てておいたんだ。そうかい……お嫁にいっちまうんだねぇ』


 まるで本当の母であるかのように、おまちは寂しそうな表情をした。雪はおまちの思いが伝わり、その場で泣いてしまった。

 雪の実の母は、小さい頃に雪を置いて家を出てしまっている。本来なら味わえないはずの温もりを、雪はおまちで感じていた。


 今、鏡に映る自分は、着物だけが浮いているように思う。

 せっかくきれいな着物を纏っても、恥ずかしくて、辰巳にも見せられない。


「雪は可愛いんだから自信を持ちな。旦那も大喜びに違いないよ」


 紫乃の言葉に、辰巳と本当に夫婦になれたのだと実感する。

 おまちが仕立ててくれた着物、その想いに応えるために不安を抱いてはいけないと、雪は前を向いた。



 一方、弥勒屋では祝言の準備が始まっていた。


 弥勒屋は暖簾のれんを下げて、貸し切りの状態となっている。

 厨房には主人の卯吉、それに卯吉と女将お松の息子である万介まんすけも調理を手伝っていた。


 万介は上野の料亭に住み込みで料理人の修業をしているのだが、今日は祝言の準備をするために駆けつけてくれたのである。


「辰巳が所帯持ちとは、いまだに信じられないな」


 座敷の準備をするお松を他所よそに、辰巳と和泉は手持無沙汰にしていた。


うらやましいならそう言え」


「はぁ……俺はこの先、お前の惚気のろけを聞いて過ごさなきゃいけないのか。……っと、お待ちかねの花嫁さんが来たみたいだ」


 和泉が顔を上げた先には、上品な着物にも見劣りしない雪がいた。


「…………」

「…………」


 辰巳は雪の姿に目を見開き、やがてまともに直視できなくなった。

 刺すような視線を感じて見やれば、紫乃が素直に褒めろと言わんばかりににらんでいる。


「すげぇ、綺麗だ」


 雪がうつむいたのは、羞恥しゅうち所為せいだった。



 祝言は、三三九度から始まった。


 夫婦の契りを交わし、二人は名実ともにつがいとなる。

 そして、宴へ……


「おいしい」


 李々が目を輝かせているのは、はまぐりのお吸い物だった。

 蛤は同じ貝でないと貝殻がそろわないことから、夫婦和合の象徴とされている。


 他にも鯛の塩焼きなど、縁起のいい料理が並べられていた。

 どの食材も上物で、すべてはおまちが手配していたのだった。


 母とは生き別れ、父は行方知れずとなってしまった雪の親代わりとして、おまちは祝言に顔を出している。おまちは辰巳に、雪を大事にしてくれと言って、頭を下げていた。

 


「今日一番の料理でさぁ」


 卯吉が満足気に厨房から運んできたのは魚の刺身だった。

 だが、ただの刺身ではない。


「すごい……食べるのがもったいない」


 雪たちが感嘆しているのは、刺身の盛り付けである。

 切り揃えられた刺身は丸皿の上に、木の枝に仲良く寄り添う二羽の鳥を描いていた。


「俺の働いている料亭じゃ、祝いの席にはこれを出すんです。まだ修行の身の俺じゃあ見様見真似といったところですが、精魂込めて作らせていただきました」


比翼ひよくの鳥、連理の枝か」


 万介は和泉の言葉に、腰を低くして首肯しゅこうした。


 中国の詩人白楽天はくらくてんが書いた詩に『長恨歌ちょうごんか』というものがある。

 長恨歌は中国の皇帝玄宗げんそうとその妻である楊貴妃ようきひについてが書かれていた。


 天に在らば比翼の鳥

 地に在らば連理の枝


 これは長恨歌の一節である。どちらも仲睦まじい夫婦のとして、例えられている。


 かつて愛し合った玄宗と楊貴妃のように、雪と辰巳もまた、比翼の鳥、連理の枝となることを誰もが願った。


  *


 溜息は吐かなくなった。

 でも、後悔はしているのかもしれない。


 いた人にひどいことを言ってしまったのだ。


『お雪ちゃんが、そんなに汚い子だとは思わなかったよ』


 本当はそんなこと、思っていなかった。

 ただ悔しかったのだ。

 いた人が、自分をいてくれなかったから。


 雪はいつの間にか長屋から引っ越していて、伊吹が気づいたときにはいなくなっていた。


 もう姿はないのに、伊吹は雪が住んでいた家の方向を見る。


(謝りたかったな……)


 思い出すのは雪の笑顔。

 雪への気持ちをあきらめるには、まだまだ時間がかかりそうだった。


 伊吹は自分の家に戻ろうとしたとき、知らない男が歩いてくるのが見えた。

 男は伊吹を通り過ぎ、雪が住んでいた家の前で立ち止まった。


「ここは誰も住んでないですよ」


 見かねて声をかけた伊吹だったが、振り返った初めて会うはずの男に既視感を覚える。

 もしやどこかで会っているのだろうか。しかし思い出すことはできない。


「一月後に爺さんが越してくるって聞いてるけど、その爺さんに用ですか?」


「いや……そうだよな。いるわけないよな」


 男は伊吹よりも一回り以上は年上に見える。

 まげも着こなしも締まりがなく、だらしのない印象だった。


 そして男の答えはよくわからなかった。

 沈んだ様子で去って行く男を見送り、男がすでに去ってしまった後で伊吹は気づいた。


(さっきの男、お雪ちゃんに似てる……!)

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