十
夜に一人で出歩くことはしなかったが、昼は買い物に出かけたり、内職を請け負っている
辰巳も用心棒の仕事をはじめ、家を空ける時間が多くなっていたが、日に一度は必ず、雪が待っている家に帰ることを努め、二人での生活を
「おかえりなさい、辰巳さん」
辰巳は真っ先に、家の中に立ち込める匂いに反応した。
「今日はけんちん汁か」
匂いにつられ、たどり着いた台所では、雪が
具材から、辰巳は自身の好物を連想させた。
「今日のけんちん汁は、前みたいにお粗末なものじゃありません」
雪は一度、辰巳にけんちん汁を作ったことがあるのだが、季節外れに作ったため、具材が乏しいものになってしまっていた。
それでも美味しいと言ってくれた辰巳の優しさを、雪は改めて思い出す。
「雪の作ったけんちん汁なら、何だっていい」
家に帰って来て、雪が帰りを待っている。
辰巳は二人で過ごすこの時に、充分すぎるほど満足していた。
「今日で仕事が終わりだったんだ。これでしばらくは一緒にいれる」
報酬も良い仕事だったので、しばらくはのんびりしようと辰巳は決めていた。
何より、雪と一緒に過ごしていたい。
「……そう、ですか」
雪は少しだけ、言葉に詰まりそうになった。
「美味い」
味わいながらけんちん汁を食べる辰巳を見て、雪は
一度しか作ったことがない料理に自信を持てるわけもなく、ましてや辰巳の好物となれば失敗はできないと、慎重に仕上げていた。
その甲斐あってか、辰巳を喜ばせることができたようである。
毎日ではなくてもこうして辰巳と一緒に食事をして、共に暮らせたら……
雪は密かに、夢をみていた。
だが、夢を思い描けば虚しさが押し寄せるだけで、それでも雪は辰巳との未来を想像せずにはいられない。
片づけを終え、一息ついたところで雪は覚悟を決めた。
「辰巳さん。私、明日の朝にここを出ます」
辰巳は何かを言い
お互いに、終りが迫っていることをひしひしと感じていた。だからこそ、最後を決定づける言葉を言おうとしては言えなかった。
雪が言わなければ、辰巳が告げていた。
どちらが言ったとしても、二人の結末は変わらない。
しばらくして、優しい声音で雪に言った。
「これで最後、か」
きっとこれが、本当に最後だ。
雪は住んでいた長屋をとうに引き払っていたので、次の
次は尾花屋に近い神田に住もうかと、検討していた。
辰巳はこのまま、雪が
もしも町ですれ違ったら声をかけてもいいのだろうかと、雪は考える。
険悪になって別れるわけではないので、無視する方が失礼な気もした。
雪が辰巳の元を去ろうと決意したのは、一人で生活を送れるようになったからである。
しかし内心では、いついつまでも、雪は辰巳の側にいたかった。
(でも、私は汚れてしまった……)
雪の身体は辰巳以外を知ってしまった。
やっと、想いは通じ合ったはずなのに……
二人で眠る夜。隣に並んだ布団の距離は、最後も縮まることがなかった。
雪が襲われた一件以来、辰巳は一度も雪を抱いていない。
それどころか、雪の精神が安定してからは触れようともしなかった。
辰巳の温もりに
(これで、最後なのに……)
たった一度でいい。全身を酔わせてくれる、あの温もりが欲しい。
「眠れないのか?」
降り積もった想いは、消えなくて。
雪の心は、辰巳を求めた。
「……お願い。抱きしめて」
辰巳は雪の言葉に
叶うなら、雪を抱きしめたい。
触れたくて仕方なかった。
何度雪に触れようとして
はじめは
けれど、手にべったりと
真っ白な雪はいとも
(最後だ……)
ならばこのときだけは、後で天罰を受けようとも許してほしい。
「おいで」
辰巳が手を広げて
雪は泣きそうな、それでいて喜びが込み上げた瞬間のような顔でおずおずと、辰巳の懐に入った。
抱き寄せた雪は、まるで
頼りなくて、
抱きしめることも、求める行為も当たり前のようにしていたのに、今の二人はお互いに触れることを怖がっていた。
「ごめんなさい……どうしても、辰巳さんに抱きしめてほしかった」
辰巳は優しいから、汚くなってしまった自分を抱きしめてくれる。
だが、いつまでもこのまま甘えて
緩められた辰巳の腕に、雪はすんなりと身体を離す。
しかし雪が完全に離れてしまうすんでのところで、辰巳は彼女を引き寄せた。
「無理しないで」
「違う……俺は」
血塗られた自分を恐れて、雪は去ってゆく。
確かに通じ合ったはずの想いはまだ雪の中では消えていなくて、でも非道な男だと知ってしまったから、
正体を話せば雪が離れていくと知っていながら、自身の気持ちに逆らえなかった結果が、雪を襲った災厄だ。
雪を離さなければ。
でも身体は言うことを聞いてくれない。
「私、辰巳さんのことが好き」
その言葉は、
ずっと言えなかった真実の想いを、雪は告白した。
「噂じゃなくて、本当の私を見てくれた。辰巳さんの優しさも、この手も、大好き……」
雪は辰巳の手を取って、指を絡めた。
どんなに
「愛した人が、貴方でよかった」
「雪……」
辰巳は繋いだ手を雪の頭の横に縫い止めて、雪の唇を
思うがまま、自身の気持ちも
(しまった……)
さめざめと泣き始めた雪を見て、辰巳は自分がした行為を後悔する。
雪が
人殺しに
「ごめんなさいっ…………ごめんなさい」
「悪い……」
雪は違うという意志を懸命に、首を左右に振って伝える。
「私はもう、辰巳さんから触れてもらうことなんてできない。こんなに汚い体になっちゃったから……」
「まさか……それで俺から離れようとしたのか?」
相変わらずの雪の
涙を
「俺は、雪のことを愛している」
雪の瞳からはまた、涙が
まるで夢のような世界。でも、夢じゃない。
「雪は汚くなんかねぇ。きれいだ」
故郷の雪のように、彼女の心も体も美しい。
辰巳は想いを告げることができたこと、そしてお互いの気持ちがすれ違っていただけだったという事実に心底
辰巳は雪の身体を起こした。
そして、
「共白髪になるまでお前と一緒にいたい。静御前の続きを観る約束を、もう一度交わしてくれ」
二人が交わしていた芝居を観に行く約束は、心残りになるはずだった。
雪は込み上げてくる温かい気持ちを、今まで感じたことがない。
愛したい気持ちと、愛されたい気持ちが見事に調和した、雪が求めていた以上のものだ。
「
辰巳は雪に、簪を差し出す。
男性から贈られる櫛には「苦」「死」と語呂を合わせ、苦しいときも死ぬときも共にという、つまるところの求婚の意味が込められていた。
本来なら櫛を送ってあげたいという辰巳の意思を、雪は
「私の気持ちは、とうに決まっていました」
大事そうに、雪は
「よかった……また私の元に戻ってきて」
失くしてしまったと思っていた簪は、雪にとって最高の形で戻ることになった。
幸いにも、精巧に作られた簪は欠損していない。
二人の想いもまた、どこも欠けることなくやっと溶け合った。
伸ばされた手に、何も恐れることはない。
辰巳の指は愛おし気に頬を
触れたい……
どちらからともなく重ねられた熱に、二人は浮かされた。
何度も、何度もくり返し確かめ合う。
荒い吐息が耳を刺激し、ただひたすらにお互いを求めていた。
想いが通じ合った二人に、言葉はいらない。
けれど今日は、たとえ蛇足だとしても
「好き……辰巳さんがいい」
「俺も、こんなに欲しいのはお前だけだ」
次の日も、また次の日も、願わくば
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