一月後。雪の日常は、戻りつつあった。


夜に一人で出歩くことはしなかったが、昼は買い物に出かけたり、内職を請け負っている尾花おばな屋に納品しに行ったりと、誰かが付き添わなくても精神的に安定していた。


辰巳も用心棒の仕事をはじめ、家を空ける時間が多くなっていたが日に一度は必ず、雪が待っている家に帰ることを努め、二人での生活を謳歌おうかしていたのだった。


「おかえりなさい、辰巳さん」


辰巳は真っ先に、家の中に立ち込める匂いに反応した。


「今日はけんちん汁か」


匂いにつられ、辿たどり着いた台所では、雪が胡麻ごま油で野菜を炒めている。

具材から、辰巳は自身の好物を連想させた。


「今日のけんちん汁は、前みたいにお粗末なものじゃありません」


雪は一度、辰巳にけんちん汁を作ったことがあるのだが、季節外れに作ったため具材が乏しいものになってしまっていた。

それでも美味しいと言ってくれた辰巳の優しさを、雪は改めて思い出す。


「何だっていいさ。雪の作ったけんちん汁なら」


家に帰って来て、雪が帰りを待っている。

辰巳は二人で過ごすこの時間が、愛おしくてならなかった。


「今日で仕事が終わりだったんだ。これでしばらくは一緒にいれる」


報酬も良い仕事だったので、しばらくはのんびりしようと辰巳は決めていた。

何より、雪と一緒に過ごしていたい。


「……そう、ですか」


雪は一瞬だけ、哀しく笑いそうになった。



「美味い」


満足そうにけんちん汁を食す辰巳を見て、雪は安堵あんどした。


一度しか作ったことがない料理に自信を持てるわけもなく、ましてや辰巳の好物となれば失敗はできないと丁寧に仕上げていた。

その甲斐あってか、辰巳を喜ばせることができたようである。


毎日ではなくてもこうして辰巳と一緒に食事をして、共に暮らせたら……

雪は密かに、夢をみた。


だが、夢を思い描けば虚しさが押し寄せるだけで、それでも雪は辰巳との未来を想像せずにはいられない。


泡沫うたかたの時は過ぎてゆく。

片づけを終え、一息ついたところで雪は覚悟を決めた。


「辰巳さん。私、明日の朝にここを出ます」


辰巳は何かを言いよどんだ様子で、言葉をつむがなかった。

しばらくして、優しい声音で雪に言った。


「これで最後、なんだな」


三度目の最後。

きっとこれが、本当に最後だ。



雪は住んでいた長屋をとうに引き払っていたので、次の住処すみかが決まるまでは紫乃の家に泊まることになっている。


次は尾花屋に近い神田に住もうかと、検討していた。


辰巳はこのまま、雪が何処どこに住むのかを知ることはない。


もしも町ですれ違ったら声をかけてもいいのだろうかと、雪は考える。

二人が険悪になって別れるわけではない。


雪が辰巳の元を去ろうと決意したのは、一人で生活を送れるようになったからである。


願わくばいついつまでも、雪は辰巳の側にいたかった。


(でも、私は汚れてしまった……)


悪漢になぶられた汚い身体など、受け入れてくれるわけがない。

雪の身体は辰巳以外を知ってしまった。


やっと、想いは通じ合ったはずなのに……


二人で眠る夜。隣に並んだ布団から、二人の距離は縮まることがなかった。

雪が襲われた一件以来、辰巳は一度も雪を抱いていない。

それどころか、雪の精神が安定してからは触れようともしなかった。


辰巳の温もりにこいがれた雪の身体は、うずいて仕方がない。


(これで、最後なのに……)


たった一度でいい。全身を酔わせてくれる、あの温もりが欲しい。


「雪、眠れないのか?」


降り積もった想いは、消えなくて。

雪の心は、辰巳を求めた。


「お願い。抱きしめて」


辰巳は雪の言葉に逡巡しゅんじゅんした。


叶うなら、雪を抱きしめたい。

触れたくて仕方なかった。


何度雪に触れようとして躊躇ためらい、踏みとどまっただろうか。


はじめはこくな目にあった雪に思い出させるような行為をすることをはばかり、ましてやしようという気も起きなかった。


なぐさめるために抱きしめてあげることすら、できなくなっていた。


けれど、手にべったりとまとわりついた血は、いとも簡単に触れたものを汚してしまう。

真っ白な雪に触れれば、朱く染め上げてしまうのだ。


(これで、最後なんだ……)


ならばこのときだけは、後で天罰を受けようとも許してほしい。


「おいで」


辰巳が手を広げて雪の入れる隙間を作る。

雪は泣きそうな、それでいて喜びが込み上げた瞬間のような顔でおずおずと、辰巳の夜着よぎに入った。


抱き寄せた雪は、まるで夜半よわが怖くて親にすがる子どもを思わせる。

頼りなくて、はかない。


抱きしめることも、求める行為も当たり前のようにしていたのに、今の二人はお互いに触れることを怖がっていた。


「ごめんなさい……どうしても、辰巳さんに抱きしめてほしかった」


辰巳は優しいから、汚くなってしまった自分を抱きしめてくれる。

このまま甘えて我儘わがままを通すわけにはいかないと、雪は辰巳から離れようとした。


緩められた辰巳の腕に、雪はすんなりと身体を離す。

しかし雪が完全に離れてしまうすんでのところで、雪は再び辰巳の胸の中へと納まった。


「無理しないで」


「違う……俺は」


血塗られた自分を恐れて、雪は去ってゆく。

確かに通じ合ったはずの想いはまだ雪の中では消えていなくて、でも非道な男だと知ってしまったから、畏怖いふの対象となってしまった。


正体を話せば雪が離れていくと知っていながら、自身の気持ちに逆らえなかった結果が、雪を襲った災厄だ。


雪を離さなければ。

でも身体は言うことを聞いてくれない。


「私、辰巳さんのことが好き」


その言葉は、なまりのように重く沈んだ。

ずっと言えなかった真実の想いを、雪は告白した。


「噂じゃなくて、本当の私を見てくれた。

辰巳さんの優しい心も、この手も、大好き……」


雪は辰巳の手を取って、指を絡めた。

どんなにみじめだろうと、想いが伝わったことに満足した雪は一筋、また一筋と涙を流す。


「愛した人が貴方でよかった」


「雪、俺はお前のことを……」


辰巳は繋いだ手を雪の頭の横に縫い止めて、雪の唇をふさいだ。


思うがまま、自身の気持ちも吐露とろしようとしたそのとき、雪が顔をらした。


(しまった……)


さめざめと泣き始めた雪を見て、辰巳は自分がした行為を後悔する。

雪がいてくれていたとしても、それが自分を受け入れてくれたということではない。


人殺しに接吻せっぷんされ、しかも最大限に傷つけられた出来事がまだ尾を引いているかもしれないというに、愚かなことをしてのけたのだ。


「ごめんなさいっ…………ごめんなさい」


「悪い……」


雪は違うという意志を懸命に、首を左右に振って伝える。


「私はもう、辰巳さんから触れてもらう資格なんてない。

こんなに汚い体になっちゃったんだもの……」


「まさか……それで俺から離れようとしたのか?」


相変わらずの雪の健気けなげさに、どこか不謹慎ながらも辰巳はなごんでしまった。

涙をぬぐってやれば、遠慮深い女は申し訳なさそうな仕草で泣くのをこらえる。


「俺は、雪のことを愛している」


雪の瞳からはまた、涙がしたたり落ちた。

まるで夢のような世界。でも、夢じゃない。


「雪は汚くなんかねぇ。真っ白で、きれいだ」


故郷の雪のように、彼女の心は美しい。

辰巳は想いを告げることができたこと、そしてお互いの気持ちがすれ違っていただけだったという事実に心底安堵あんどした。


辰巳は雪の身体を起こした。

そして、小箪笥こだんすの引き出しにしまったままだった、かつて雪に贈ったかんざしを手に取る。


「共白髪になるまでお前と一緒にいたい。

静御前の続きを観る約束を、もう一度交わしてくれ」


二人が交わしていた芝居を観に行く約束は、心残りになるはずだった。

雪は込み上げてくる温かい気持ちを、今まで感じたことがない。

愛したい気持ちと、愛されたい気持ちが見事に調和した、雪が求めていた以上の欲しいものだ。


くしじゃねぇが、お前の気持ちも同じなら、受け取ってほしい」


辰巳は雪に、簪を差し出す。


男性から贈られる櫛には「苦」「死」と語呂を合わせ、苦しいときも死ぬときも共にという、つまるところの求婚の意味が込められていた。


本来なら櫛を送ってあげたいという辰巳の意思を、雪はみ取った。


「私の気持ちは、とうに決まっていました」


大事そうに、雪は芙蓉ふようの簪を受け取る。


「よかった……また私の元に戻ってきて」


無くしてしまったと思っていた簪は、雪にとって最高の形で戻ることになった。


精巧に作られた簪は、幸いにも欠損はしていない。

二人の想いもまた、どこも欠けることなくやっと溶け合った。


伸ばされた手に、何も恐れることはない。

辰巳の指は愛おし気に頬をぜ、やがて下唇を辿たどる。


触れたい……


どちらからともなく重ねられた熱に、二人は浮かされた。

何度も、何度も繰り返し確かめ合う。


荒い吐息が耳を刺激し、ただひたすらにお互いを求めていた。


想いが通じ合った二人に、言葉はいらない。

けれど今日は、たとえ蛇足だとしてもささやくのだ。


「好き……辰巳さんがいい」


「俺も、こんなに欲しいのはお前だけだ」


次の日も、また次の日も、願わくば永久とこしえに……

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