「おっかさん、少し用を済ませてくるから、雪はここで待ってるんだよ」


 いつも雪を怒鳴ってばかりいた母は、ある一日だけは雪に優しかった。


 一緒に買い物に出かけ、あめを買ってもらい、雪は上機嫌で母の言葉を信じた。


 だが、母はいつまで経っても帰ってこない。

 母は小さい雪を置いて、父ではない他の男の人と遠くへ行ってしまった。


 母が優しかったのは、雪と離れることを決めていたからである。


たまには顔を見せる。元気でな」


 毎日飲んだくれてはろくに家に帰らなかった父。

 それでも雪は、たった一人の家族である父がよすがだった。


 しかしその父とも、父が再び所帯を持ったのを機に別れることとなる。


 継母が雪との同居を嫌がり、雪は一人で生活することになった。


(おとっつあん、来ない……)


 父は家を出て行った日から一度も、雪の元を訪ねに来なかった。

 何度か四季を繰り返し、それでも雪は待ち続けていた。


(私、おとっつあんにも捨てられたんだ……)


 何もしていないのに、長屋には自身の悪い噂が立つようになった。

 両親にも捨てられた雪は、ひとりぼっちのまま、辛い日常を送っていた。


「お雪ちゃんが、そんなに汚い子だとは思わなかったよ」


 雪は暗闇の中にいた。目の前には伊吹がいて、かつて雪が打ちのめされた言葉を言った。


「違う!私は汚い子なんかじゃない」


 雪の身体は辰巳しか知らない。

 ただ一人いた男にだけ身体を許していたのだから。


 伊吹の姿は次第に辰巳へと変化する。

 辰巳は哀しい目で、雪に何かを訴えていた。


「私は……」


 汚くなってしまった。だって……



 目を開ければ現実的な感覚がして、雪は今まで眠っていたのだと理解した。


 ひどい夢を見ていたのかもしれない。

 無性にさみしくて、泣きたい気分だった。


 雪はやっと、自分が知らない場所にいることに気づく。

 天井も、部屋も、見覚えがなかった。

 起き上がって周囲を見回す。特に何もない簡素な部屋は生活感がない。


 不安を覚えた雪が起き上がろうと身を起こしたとき、ふすまが開いた。


「雪、起きたのか?」


 部屋に足を踏み入れたのは辰巳だった。


 辰巳の声はどこかあわれみを含んでいて、雪は辰巳がいることに安堵あんどしつつも不安をぬぐい去ることはできなかった。


「辰巳、さん」


 雪は声を出したときに、口の中に痛みを覚えた。

 どうしたのだろうと頬を触ってみれば、見事にれている。


 痛みとともに思い出したのは、昨夜自分の身に起きた出来事だった。


「いやっ…………」


 身体は震え、涙は止めどなくあふれ出す。

 つかさず辰巳が雪を抱きしめても、雪の恐怖は消えなかった。



 昨夜、辰巳は自身が借りている家に雪を連れて帰り、手当を済ませていた。

 長屋ではなく、人の喧騒けんそうとは遠い、周囲にはほとんど家もない一軒家である。


 明るいうちでも外に出ることができなくなった雪は、辰巳の家で日々を過ごしていた。

 外のかわやに行くのにも、辰巳に付き添ってもらっている。


 身体の傷も大きいが、何より精神的に立ち直れなくなっていた。


 うつろな目をしたまま、笑顔を見せることもなく、一日に話すのは二言程度。

 食事もわずかな量しか摂っていなかった。


 男の人が尋ねて来ては雪が怖がるだろうと、和泉が辰巳の元に顔を出したのは、雪の手当てをしてから五日が経ったときだった。

 雪の様子が気になるので会いたいが、雪のことを思うと家に入るのははばかられ、和泉は外で項垂うなだれる辰巳と話していた。


「俺の所為せいだ……」


「違う。悪いのはお雪ちゃんを襲った奴らだろ」


「あいつらは俺をねらってたんだ。てっきり俺のことはあきらめたのかと油断した……まさか、雪が……」


 被害にあうとは思っていなかった。


 数ヶ月前、辰巳は宵闇よいやみに二人の男に斬りつけられて負傷している。

 その男たちは、今度は雪をはずかしめたのだった。


「……辰巳」


「絶対殺してやる。許さねぇ……」


 辰巳の顔は、殺意で満ち溢れていた。

 いつ何時でも抜刀できるという辰巳の意思が、かちゃりという音とともに左手の親指で刀を押し上げる。


「俺が居場所を突き止めてみせる。だから、辰巳はお雪ちゃんの側にいてあげて」


 はらわたが煮えくり返るほどの怒りは、和泉も同じだった。



 和泉が帰った後、辰巳は雪の様子を見ようと襖を開ける。


 そこには、己の手首を見つめ、今にも右手に携えた刃物を押し当てようとする雪がいた。


「雪っ……!!」


 間一髪のところで、辰巳は雪の右手首をつかんだ。

 その拍子に床に落ちたのは、辰巳が使っている剃刀かみそりだった。


 雪は、朝に辰巳が剃刀を使っていたのを見ていて、思いついてしまったのである。


「死ぬな……」


 辰巳は背後から、雪を強く抱きしめる。

 何度も抱きしめたことのある雪の身体は細く、繊細せんさいになってしまった。

 身体に回した腕に落ちてくる涙は、今の雪の心のように冷たい。


「辰巳さんが優しくしてくれるなら、まだ死にたくない。お願い……もう少しだけ、一緒にいて」


「お前が望むまで、いつまでも側にいてやる」


 雪は身体を反転させて、辰巳の身体にしがみつく。

 いつもの生活を取り戻せるまでは長い時間を要するが、辰巳の温かさに触れ、次第に傷ついた心と体は癒されていたのだった。



 雪の口数は日を追うごとに増えていった。

 まだ外を一人で歩けるまでには至っていないが、徐々に回復のきざしは見えていた。


「これ、弥勒みろく屋で作ってもらったんだ」


 辰巳が不在の今、代わりに雪の看病に当たっていたのは和泉だった。


 和泉が手土産に持ってきたのは、弥勒屋の主人に作ってもらった卵焼きである。

 もちろん雪の事情は主人に話していないが、病気だと言えば、こころよく精のつく料理を用意してくれたのであった。


「卵なんて何年ぶリだろう……いい匂い」


 江戸時代、庶民にとって卵は高価なものであり、頻繁に食せるものではなかった。

 雪も卵料理を食べたことがあるのは片手で数えられる程度である。


「ありがとうございます、和泉さん。弥勒屋にもちゃんとお礼を言わないと」


 和泉はその言葉を聞いて安堵あんどした。

 数日前、雪が自殺未遂をしたことを辰巳にから聞いたときは、傷つけられた雪を見るのが怖くて会うのを覚悟していたくらいだった。

 だが、実際に会ってみれば、やつれは感じられたが、生きようという意志を感じて、心底ほっとする。


 早速さっそく、器と箸を用意した和泉は、雪に卵焼きを手渡す。


 ただよう匂いは出汁だしのいい香りだった。

 卵焼きを箸で割れば、その出汁が溢れ出す。


 雪は一口目を口に放り込んだ。


「美味しい……」


 丁寧に重ねて作られた卵焼きは、味からも作り手の真心が感じられる。

 ゆっくりと噛みしめながら、完食した。


「卵もくれたんだ。あとで辰巳に卵粥でも作ってもらいなよ」


 雪は和泉たちの優しさがうれしくて、同時に申し訳なかった。

 汚れてしまったこんな自分を見捨てずにいてくれる、そんな優しさが……


「お雪ちゃん」


 見上げれば、和泉の安心させるような笑顔があった。


「辰巳も、俺も、嫌々面倒を見てるわけじゃない。お雪ちゃんには幸せになってほしいから、またお雪ちゃんの笑顔が見たいから一緒にいるんだ。だから、たくさん甘えていいんだよ」


 どうしようもない哀しみと傷は消えずに、雪に一生付きまとい続ける。

 それでも生きたいと願うのは、確かに幸せだと思える瞬間があるからだった。


 一方辰巳は、雪の住んでいる長屋に足を向ていた。

 外に出れない雪の代わりに、日用品やら必要なものを取りに来ていたのである。


(あれは……?)


 辰巳よりも早く、家の前には雪を訪ねに来たであろう女がいた。

 女の隣には幼い女の子もいる。


 女も幼子も、辰巳は見覚えがなかった。


「この家に何か用か?」


 振り返った女は、やけにつやっぽかった。

 岡場所か、そのたぐいの女を連想させるが、雪の知り合いなのだろうか。


 意外に思いつつ、手を引く幼子が女とそっくりな顔立ちをしていることに気づいた。

 姉妹か、あるいは女の子どもだろうと考える。


「雪が引っ越すって聞いたから手伝いに来たのよ。でも、雪はいないみたいね」


「引っ越し……」


「もう差配には話をつけたって聞いてるけど」


 知らなかった。辰巳は雪から何も聞いていない。


──最後に、貴方に会いたかった……


 辰巳は雪が言っていた言葉を思い出す。

 雪は、黙って自分の元から去ろうとしていたのだとさとった。


 なぜ、とは考えるまでもない。

 雪を傷つけたことを忘れてはいなかった。


「お前は、雪の知り合いなのか?」


 女はしなを作って、唇に人差し指を当てた。


「雪のい人、よ」


  *


「紫乃さん」


 雪は、紫乃の来訪に驚きつつ、久しぶりに出会えた友達に自然と頬が緩んだ。


「ごめんなさい、音沙汰なしにしちゃって……」


 ふわりと鼻腔をくすぐるのは、紫乃の匂い。

 紫乃は何も言わずに、雪を抱きしめていた。


「もう大丈夫だから」


 辰巳は雪の身に起こったことを紫乃には言っていない。

 紫乃が事情を察することができたのは、これまでにつちかってきた経験からだった。


「怖かった……すごく、怖かったの……」


 あと、何度泣けば苦しみから解放されるのか、当の雪ですら答えはわからない。

 それでも雪には、すがれる人がいるのだ。



「ねぇ、おいちゃ」


「よく見ろガキ。俺はまだ若い」


 辰巳は紫乃が連れていた女の子と二人、外で待たせられていた。

 ガキは嫌いだと辰巳は固辞していたのだが、紫乃は一方的で聞く耳を持たなかったのだ。


「おいちゃ」


(このガキ……)


 まさか数え年で五歳にも満たないであろう幼子に怒鳴れるわけもなく、かといって遊んでやる気にもなれなかった。


「おんぶ」


「一人で遊んでろ」


「やっ!」


 女の子は強引に、辰巳の背中に乗ろうとする。

 あきらめの悪さと図々しさに辰巳は辟易へきえきした。


(勘弁してくれ……)



 やっと紫乃が戻ってきたときには、辰巳は疲れ果てていた。


李々りり、この人にいじめられなかった?」


「ううん。でもつまんなかった」


「今度は優しいねーねと遊びましょうね」


 女の子を連れて紫乃は雪の元に戻っていく。

 辰巳には反論する気力もなかった。


  *


 翌日、紫乃は李々を連れて再び雪を訪ねていた。

 というのも、辰巳は所用があり、代わりに紫乃が雪といることになっていたのである。


「可愛い。柴乃さんそっくり」


 李々は紫乃の子どもである。

 紫乃に子どもがいることを初めて聞かされたのはつい昨日のこと、愛らしい李々の笑顔に和まされていた。


「私はもう一人でも大丈夫だから、お店に行ってください」


 紫乃は鈴鹿すずかという店の主人である。

 店を開けるのは夜であったが、今日は紫乃が辰巳の家に泊まると聞いて雪は言ったのだ。


「今日は元々お休みの日なの。それに、私に遠慮はなしよ」


「えんりょはなしよ」


 母の言葉を反芻はんすうする李々に、雪の顔はほころんだ。


 その李々は、雪にあやとりを教えてほしいとせがむ。

 昨日も一緒にあやとりをしたのだが、李々は気に入ったようだ。


「李々ちゃん、上手ね」


 言われてうれしそうにはにかむ李々を見て、雪は昔を思い出した。


 雪があやとりをするようになったのは、母が家を出て行った後である。

 母を待ち続けて一人たたずんでいた雪を見かねて、ある人が話しかけてくれたのだった。

 その人は、今の雪と同じ歳くらいの女性で、雪はねーねと呼んで親しんでいた。

 雪が暇にならないように、あやとりを教えてくれたのがねーねだった。


『ねぇ、お雪ちゃん。私たちと一緒に来ない?』


 ねーねは雪を実の両親よりも可愛がっていた。

 ろくに家に帰ってこない父親といるよりも自分たちといる方がいいと、ねーねは江戸を離れるときに、雪も誘っていたのだ。


 だが、雪は父を待つことを選んだ。

 幼かった雪は今に至るも、父との縁が切れることを恐れている。


 もしもあのとき、ねーねについて行ったらと、雪は別の未来を想像するときがある。

 後悔をしなくなったのは、辰巳と出会ってからだった。


 李々が、ねーねに優しくされて喜んでいた昔の自分と重なって見えた。


  *


 暦では葉月がもうすぐ終わる。

 夏の暑さに衰えはないが、道端に咲く曼珠沙華まんじゅしゃげに季節の変わり目を感じた。


 雨が降るのか、曇天の空の下に咲く曼珠沙華は薄気味が悪い。

 だが、こんな日にはおあつらえ向きだった。


「辰巳」


 一人歩む辰巳を呼び止めたのは和泉だった。

 辰巳は振り返らずに答えた。


「わざわざお前が手を汚さなくてもいい」


「きっぱり足を洗ったのは辰巳も同じだろ?俺も、許せないんだ」


 ただ一人の女のために。

 報いは、受けてもらわなければならない。


「お前はなんやかんや、俺を助けてくれるな」


「腐れ縁ってやつさ」


 二人が進む先は、くらい道が続いていた。


  *


「あの人と別れるつもりだったの?」


 昨晩、紫乃は不在の辰巳に代わって娘の李々と一緒に、雪と寝泊まりしていて朝に至る。


 朝餉あさげの刻限になっても辰巳は帰ってきてはおらず、紫乃は雪と緩やかに過ごしている中で尋ねた。


「うん。……もう、会わないつもりだった」


 紫乃は、雪から家を引っ越すことは聞いていて、何か手伝えればと雪の家を訪ねたときに辰巳と出くわした。

 そのときに辰巳は、雪が引っ越すことを知らなかったという反応をしたので、もしやと思ったわけである。


「ただ遊ばれているだけだって勘違いしてたから……私が一方的にいているなんて、虚しくて耐えられなかった」


 雪は愛に飢えている。

 やっと愛してくれる人と想いが同じになっとき、雪に災厄が襲った。


「雪にひどいことをしたら、私がぶん殴ってやるから」


 あでやかな笑顔で言う言葉にしては物騒だ。

 冗談か本気か、雪はどう返事をしたものか迷って、結局ぎこちなく微笑み返しただけだった。


 その後、少しも経たずして辰巳が戻り、紫乃と李々は家を後にした。


 辰巳は家に帰ってからというもの一言も話さず、雪に背を向けて座り込む。

 何かあったのかと尋ねようとした雪だったが、辰巳は孤独で他人に踏み込ませないような雰囲気をただよわせていた。


 せめてお茶でも淹れようと雪が腰を上げたとき、重々しかった辰巳の口が開いた。


「お前が襲われたのは、俺の所為せいだ」


 雪の動きが止まった。

 立ち上がりかけた姿勢はそのままで、辰巳を見やる。


 重い響きのある声は、単なるつぶやきではないことを雪は感じ取った。

 雪はその場に座り直して、次の言葉を待った。


「俺は信州松代まつしろ藩の武士の子だった。もっとも、妾腹しょうふくだったがな」


 初めて聞かされる辰巳の出自に、雪は目を見開いた。


 どうして今になって、辰巳は出自を明かしたのか。

 今まで教えてくれなかったわけではないが、おそらくは語りたくはなかったことなのだろう。


 雪を襲った男たちは辰巳の名を口にしていた。

 過去と関係があるからこそ、辰巳は告げようと覚悟したのかもしれない。


「苦しいなら、話さないで」


「お前の方が何百倍も苦しんでいるのに、言わずにはいられねぇよ。それに、俺が苦しいのは素性を明かすことじゃなくて、お前がいなくなることだ」


 雪が黙って自分の元から去ろうとしていたことが、辰巳にはこたえていた。

 素性を明かさなかったのも、過去を知った雪が離れてしまうのを恐れたためだ。


 辰巳の覚悟に、雪も心して耳をかたむけた。


「妾腹の子だった俺は、親父の正妻にうとまれていて殺されかけた。まあ、よくある話だ」


 複雑な事情が絡んでいるとはいえ、よくある話とまとめる感覚が雪にはわからなかった。

 武士の世界とは、そんなにも殺伐さつばつとしているのだろうか……


 辰巳もまた、暗い影を背負っていた。


「まだ十にもならねぇガキの頃だった。必死に逃げた俺は、流れ流れてある剣客けんかく集団に属することになった」


「剣客集団……?」


「聞こえはいいが、要は殺しで金を稼いでいた集団だ」


 ぞくりと、雪は身震いした。

 辰巳は刀を持っているが、人を斬っている姿など想像もできない。


 雪は何度か、辰巳が刀の手入れをしている姿を見たことがあるが、刀に馴染なじみのない雪からすれば、刀身を見ただけで怖気おぞけがした。

 あまりにも雪の日常からは、遠い存在だった。


「三年前に足を洗って江戸に住むようになったんだが、お前を襲った男たちは、昔の俺を知っていたらしい。昔の恨みがあるのか、油断していた俺を斬りつけてきやがった」


「あのとき怪我をしていたのは……」


「そういうことだ」


 皮肉にも、これが二人の出会いとなったわけである。


ねらわれているのは俺だったが、あいつらの矛先ほこさきはお前にいっちまったんだ……」


 雪をおとしめることで、辰巳を絶望させる。

 それが、雪が襲われた原因だった。


「だから全部、俺の所為なんだ」


 雪はそっと立ち上がり、辰巳の側に歩み寄る。

 辰巳の過去を知って、雪の鼓動は早鐘を打っていた。


「あいつらは俺が殺した。俺は、こんなつぐないしかできねぇ……」


「辰巳さん」


 雪は辰巳の背中に身体を寄せた。

 優しい声音で、辰巳に語りかける。


「あなたの所為じゃない。あなたは何も、悪くない」


 今すぐ雪を抱きしめたい。

 けれど辰巳は、すんでのところで自身をとどめていた。

 和泉から、彼が拾ってくれたという雪のかんざしを受け取っていたのだが、雪に渡すことをしなかった。


 人を殺めた己の汚い手で、雪を愛する資格がないことを思い知っていたのだ。


  *


(絶対、許せない……)


 大好きな友人が傷つけられた。

 叶うならこの手で殺してやりたいと、紫乃は鬱屈うっくつとした気分で歩んでいた。


「かかしゃ、あれ何?」


 辰巳の家からの帰り道、母に手を引かれて歩く李々は、橋の下を指さしている。

 紫乃が見てみれば、驚きのあまりに目を見開く。


 並べられた二つのむしろと、それを検分している同心や岡っ引きがいる。

 筵の下からは、隠しきれない血痕が流れていた。


「こりゃあ、よっぽどの恨みを買ったんだな」

むごたらしい死体だぜ……」


 紫乃たちと同じく、橋の上から様子を見ていた通行人たちが話している。紫乃はその声で、我に返った。


「李々、見ちゃだめ。帰りましょ」


 紫乃の心は、曇天の隙間から放つ陽射しのように晴れやかだった。


 昨夜の雨は止み、空はもうすぐ晴天へと変わってゆく。

 雪の未来がこの空のようになることを願いながら、紫乃は家路に就いた。

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