誰かに愛されたかった。だけど、誰も愛してくれない。


わかっていたはずだった。


寂しかったから辰巳さんを好きになってしまった。

確かに、はじめはそうだったのかもしれない。


でも寂しいだけなら、一方的にいていたとしても、不確かな関係を続けていればいい。


辰巳さんから去ろうと決心したのは、本気で愛してしまったからだ。


一口、また一口と杯を傾ける。

もう少しで手持ちの酒は、底をつきそうになっていた。


雪が予想していた通り、酒は嫌なことを忘れさせてはくれない。

ただ、気持ちは素直になれた。


自身を見つめ直せば、より滑稽こっけいに思えてしまった。


苦くて美味いとは感じられない酒も、身体を火照ほてらせ、わずかではあるが良い気持ちにさせてくれる。


もう少しだけ……


すでにめいいっぱいの酒を含んでいる雪はなお、求めていた。


杯に並々に注がれた酒は、余っている残りの量まで注ぎ足せば溢れてしまった。


がたん、と障子戸が開く音で雪は後ろを振り返った。


「雪」


そこにいたのは、辰巳だった。


辰巳は二、三日程度を雪の家で過ごして、次に雪の元を訪れるのは早くても五日後だ。


今日の朝に帰ったばかりの辰巳が、夜にも訪れる。

めずらしいことではあったが、雪は胸を高鳴らせるどころか冷静だった。


すぐに異変に気付いた辰巳は、目を見開いて雪を見る。

つかさず雪の元へ歩み寄った。


「飲み過ぎだ。そんなに飲んでもいいことなんかねぇよ」


辰巳は、雪の手から杯を取り上げる。

意外にも、雪は抵抗しなかった。


「私はおとっつあんとは違う」


雪の声には哀愁あいしゅうが混じっていた。

辰巳は雪の前にして、耳を傾ける。


「飲み過ぎないでって言っても、私の言うことは聞いてくれなかった……

でも、私はちゃんと言うことは聞くの。

銭を渡せば、おとっつあんは帰ってきてくれるから」


何も言わなければ、このままでいれば辰巳との関係は続くのかもしれない。

そんな虚しいことはしたくなかった。


雪が漏らした過去に、辰巳は言葉をかけることができないでいた。


「ずっと、辰巳さんのことを待っていた」


不確かな関係でも、雪は辰巳を信じていた。

辰巳の嘘を聞くまでは。


「雪、俺は……」

「いいの。何も言わないで」


これ以上、辰巳から辛い言葉を聞きたくなかった雪は、辰巳の言葉をさえぎった。


「最後に、貴方に会いたかった」


会ってしまえば決心は揺らぎそうになる、でも心では辰巳を求めていた。


「どうして最後なんだ」


自分がいなくなってしまえば、雪は何処どこかに行ってしまう。

確信した辰巳は、同時に損失感に襲われた。


雪の心は離れてしまった。それは、自分の嘘の所為せい……


繋ぎとめようとあらがう辰巳は、雪を抱き寄せた。


「俺はお前のおとっつあんじゃねぇよ。

見返りなんていらねぇから、お前とずっと一緒にいたい」


「嘘……」


「嘘じゃねぇ」


「私はひとりぼっちに戻るだけ。

……違う、最初からひとりぼっちだった」


辰巳の背中をぎゅっと強く抱きしめる雪の手は、それでも誰かを求めてしまう証左だった。


「俺が、お前の側にいる」


優しい言葉に酔いしれるのも、今日が最後だ。

雪はどうしようもなく辰巳のことが好きで、その気持ちだけは変わらない。



すっきりとしない目覚めは、昨日飲み過ぎた酒の所為せいだろうか。

でもすぐ近くには、温かくて心地よい存在がいた。


雪は寝ぼけまなこのまま、ぼんやりと隣を見やれば辰巳が眠っている。


徐々に昨夜の記憶を思い出し、雪は起こさないようにゆっくりと辰巳に抱き着いた。


こうして、いつまでもすがっていたい。

複雑な感情はなしに、辰巳が眠っている間は、気持ちのおもむくままにしていたかった。


「………………っ!」


眠っていたと思われた辰巳は、雪を強く引き寄せた。

雪はその行為で、目の前にあるとても寝起きだとは思えない目を見て、辰巳は寝たふりをしていたのだとさとった。


逃げようとする雪を、辰巳は離さなかった。


「お酒、臭いから……」


昨晩に含んだ大量の酒は、いまだ身体から抜けきっていない。

残り香をがれては嫌だと抵抗するも、むしろ辰巳は雪の首筋に顔を寄せて鼻をひくつかせた。


「臭くねぇよ」


しばらく二人は抱き合ったまま、静かな時が過ぎていった。

障子越しでも眩しい陽の光から、いつもなら朝餉あさげをつくる刻限だと雪はふと思う。


先に口を開いたのは辰巳だった。


「てっきり、お前に嫌われていると思っていた。

あんなに求めてくれたのは初めてだったからな」


昨夜の行為を指しているとわかり、雪はまともに辰巳の顔を見れなかった。

その表情が可愛いと言わんばかりに、辰巳は雪の頬を親指でぜる。


「俺が、悪かった」


「……え?」


「お前に嫌われるようなことを言ったのは自覚してたんだ」


「嘘……だって、私なんか誰からも求められるわけがない」


雪はどうしてここまで自分に自信がないのか。

ただの性格だと思い込んでいた辰巳だったが、昨晩聞いた雪の過去が起因しているのではないかと考える。


「お前は、充分魅力的な女だ」


一度照れた表情をした雪は、再び自信のない表情へと変化する。

辰巳は、雪にどう伝えれば納得してもらえるかを知っていた。


「俺は、お前のことが……」


「お雪ちゃん、いる?」


突然、がらりと開いた障子戸から入ってきたのは和泉だった。


「あ、和泉さん」


着物を布団代わりに身体にかけただけで、しかも辰巳と同じ床の中にいる姿を見られた雪は、どうすればいいかがわからずに顔を真っ赤にさせる。


間が悪かったと感づいた和泉を思いっきりにらみつけたのは、辰巳だった。


「ごめん、ごめん。一寸ちょっと近くまで来たもんだから」


和泉が家の中に入り、背を向けて座ったのを見届けた雪は、慌てて着物を着こんだ。


昨夜の状態のまま並々注がれた杯を見つけた和泉は、ちゃっかり取ろうとしたのを辰巳に邪魔される。


「何しに来やがった?」


「いやぁ、昨日の夜から何も食べてなくて……」


「たかりに来たとはお前も堕ちたな」


「あの、今から作るので時間がかかりますけど、よろしければ」


「ありがと、お雪ちゃん」


一世一代の言葉を邪魔された辰巳は不服顔で、和泉はそんな辰巳を雪が料理を作っている間に揶揄からかっていたのだった。


朝餉を食べ終えた辰巳と和泉は、雪の家を辞そうとしていた。


「また来るね」


「お前はもう来るな。雪も、こいつに飯なんか作らなくていい」


「前におごってもらったことがあるので、お礼です」


にこりと笑う和泉を、辰巳は早く帰れとうながした。


「また、今日の夜に……その、待っててくれるか?」


世の人は、馬鹿な女だとあざわらうだろうか。

それでも辰巳は、父とは違うと、見返りなんていらないと言ってくれた。


雪はただ、幸せを願った。


「はい。ずっと、待っています」



その日の夕方、雪はいつものように神田へと買い物に出かけていた。


長屋を出てからずっと、後をつける二人がいることに雪は気づかなかった。


神田への道のりも、帰路も変わらない。

夜には辰巳が来てくれる。


雪は、何も恐れたりはしていなかった。


買い物を終え、あと一足で長屋に着くというところ、ふいに後ろから忍び寄る足音が聞こえ、気づいたときにはもう遅い。


すでに二人は、雪をとらえていた。



知らない男二人に引きずり込まれたのは、何処どこ人気ひとけのない橋の下。


陽はもう、沈みかけている。


勾引かどわかしか、雪が瞬時に頭をぎったのはその可能性だった。


恐怖で締めつけられた身体は助けを求めたいのに、一人の男に口を塞がれていて声を出せない。

必死にあらがっても、力でかなうはずがなかった。


もう一人の男が、雪の着物を無理やり脱がせにかかる。

雪はそこで、男たちの目的が読めてしまった。


必死に拒絶して、口の呪縛が解けた刹那せつな、雪の悲痛な声が漏れた。


「いやっ!辰巳さん、助け……っ!」


頬を襲った容赦のない痛みに、雪は眩暈めまいを起こしそうになる。

口の中に鉄錆の味が広がり、恐怖は倍増して声も出せなくなっていた。


「恨むんなら辰巳を恨めよ」


降り注ぐのは、二人の下卑げびた笑みだった。






「雪……?」


夜半よわ、辰巳は朝の言伝通りに雪の家を訪れていた。

しかし、健気けなげに待っていると言ってくれた雪の姿がない。


和泉という邪魔が入った所為せいで肝心なことは言えなかったが、想いは通じ合ったはずだ。


出て行ったという考えも一瞬浮かんだが、朝の雪の様子からもすぐに否定できる。


ならば、雪はこんな真夜中に何処へ行ってしまったというのか……


いつものようにあやとりをしながら待っている雪を想像していた。


朝に炊いた飯はおひつに入ったまま。

家を出る前まで作っていたであろう巾着袋もまだ途中だ。


嫌な予感とともに、辰巳は急いで雪の姿を探しに引き返した。


「お雪ちゃんがいない?」


長屋の近辺に雪はいなかった。


雪がよく通う神田まで足を延ばしたのだが、辰巳は弥勒みろく屋にいた和泉に事情を話して雪探しを手伝ってもらうことにした。


「心当たりは?」


「知っている限りは探したはずだ。それに、俺が来ると知っていてそう遠くまで行かねぇと思う」


「なら、もう一度長屋の近くを探してみよう。何かわかるかもしれない」


もしも雪の身に何かがあったら……

辰巳は冷静ではいられなくなっていた。


和泉も内心穏やかではないが、辰巳の気持ちを汲み取って思考は冷静に努める。


「この先は?」


「どぶ川に架かる橋があるだけだ。まさか……」


そんなところに雪がいるわけがない。

雪が住んでいる長屋からは近く、長屋に続く道の両手には延びきって放置されたままの草木が生えていて、和泉はその草木に目をつけた。


和泉は草木を提灯ちょうちんで照らす。


「不自然な跡がある……人が」


通ったのかもしれないと言い切る前に、辰巳は草木の先を抜けようとしていた。



痛い、怖い……

身体は悲鳴を上げているのに、ぴくりとも動かない。


今の雪にあるのは思考だけ。


男たちは、ことを済ませただけでは満足しなかった。

持っていた刀で、命までもを奪おうとしていた。


(このまま……死んじゃうんだ)


どんなに虚しくても、助けを求める気力はない。

すでに身も心もたくさん傷つけられていて、雪は静かに死を受け入れることしかできなかった。


刀身のきらめきから目を逸らして横を見やれば、地面に落ちたかんざしが視界に映る。


雪は簪に手を伸ばして、最後に幸せな夢を見ようと、辰巳と一緒に浅草へ行った日のことをまぶたの裏に思い描いた。


「雪っ!!」


まさに男が刀を振り下ろそうとした瞬間に聞こえた辰巳の声で、刀は雪の間際で止められた。


「ちっ、見つかっちまったか」

「逃げるぞ」


辰巳は地面に横たわっている雪を見て、すぐさま駆け寄る。

雪を殺そうとした男たちは逃げてしまったが、男たちを追いかけるよりも雪の方が優先だ。


「…………!」


間近で雪を確認できたとき、その無残な姿に目を見開いた。


「雪!しっかりしろ、雪!」


殴られたような痕、何より胸をえぐるのは凌辱りょうじょくの痕だった。


「……ひどい」


和泉は怒りで、震えながらつかを握る。

あとは言葉にできない怒りや哀しみが込み上げるだけった。


辰巳も言葉をつむげないまま、雪を抱えて歩き出す。

動いた拍子に、雪の手から何かが落ちるのを和泉は見た。


辰巳は気づかないで、そのまま雪を連れ去って行く。


(これは……)


雪が最後にすがった大切な簪は、土に汚れてしまっていた。

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