一目惚れ、だったのだと思う。

長屋に越してきた初日に、猫とたわむれている姿を見て、単純だけど可愛いと感じた。


だけど、実際に話してみれば大人しすぎるくらいで、滅多に笑いもしない暗い子だった。


あの笑顔をもう一度見たくて、でも何度話しかけても笑ってくれない。


しばらくして、彼女に関する悪い噂を聞くようになった。


男好きで、出合茶屋であいぢゃやで色を売っている女の子。


そんな噂を信じるわけがなかった。

彼女は純粋で、とても出合茶屋にいるところなど想像もできない。


彼女は長屋の住人に嫌われている。その理由はわからない。

でも自分だけは彼女を信じている。


まれに見る彼女の笑顔を毎日見たかった。

この想いを伝えられずにいれば、いつの間にやら彼女の隣を歩く男が現れた。


湯島天神で見かけた男、それに偶々たまたま夜の長屋で見かけた男。

二人は違う人物だった。


もしかして、彼女は本当に噂通りの人ではないのか……?


そう思い始めるようになってしまったのは、最近だった。


(違う。お雪ちゃんはそんな子じゃない)


伊吹は、自身の愚かな考えに必死で首を振った。


雪が噂のような人ではないという、確たる証拠がほしい。

伊吹の脳裏のうりにこびりついて離れないのは、自分にではなく違う男に向けていた笑顔だった。


「お雪ちゃん!」


急に家に入り込んできた伊吹に、雪は巾着きんちゃく袋を作っていた手を止めて身体を強張こわばらせる。


驚いたものの、相手が伊吹だとわかりほっとした。


「どうしたんですか?そんなに慌てて」


「あの男とはすぐに別れるんだ」


湯島天神で見かけた男は雪と一緒に歩いていただけで、ただの知り合いかもしれない。

だが、家の前で熱い抱擁と接吻せっぷんを交わしていた男は……


「何を……」


唐突に言われた言葉を、雪はすぐには理解できなかった。


「お雪ちゃんはだまされているんだ。

あんな男といたら、もっと悪い噂が立っちまう」


それが辰巳のことを指しているのだと理解したとき、雪は自然に口走った。


「あの人のこと、悪く言わないで。伊吹さんは何も知らないでしょう?」


長屋で見かけた男は、りんの言っていたように胡散うさんくさい浪人に見えた。

雪みたいな大人しくて純粋な子が、関わっていい人物ではない。


伊吹はあせるあまりに、周りを見失っていた。


「なら、お雪ちゃんはあの男のことを知ってるのか?」


雪は言い返せなくなった。

いまだに辰巳が何処どこに住んでいるのかも、出自さえ知らないのだから。


りんに詰め寄られたときと同じだった。

相手のことを知らないのに、どうして遊ばれていないと言えるのか。

伊吹もまた、そう言っている。


「もうあの男と関わっちゃいけない。お雪ちゃんがだめになる」






伊吹は盛大な溜息を吐きながら、井戸を汲んでいた。


雪の家に押し掛けたのはつい三日前のこと。

あれから雪と顔を合わせることはなかったものの、雪との気まずさは以前よりも深刻になってしまった。


「伊吹さん、元気ないみたい。何かあったの?」


落ち込む伊吹に声をかけたのは、同じ長屋の住人のりんだった。


「お雪ちゃんは絶対、騙されてる」


「………………」


開口一番に雪の名前が出て内心気を悪くしたりんだったが、伊吹の手前、顔には出さずに聞いた。


「早く目を覚まさせないと、お雪ちゃんが可哀そうだ」


「本当にそうなのかな?」


伊吹はりんを見返した。


「雪さんは騙されてるんじゃなくて、愛し合っているだけかもしれないよ」


「でも……」


「それか噂の通り、お互いに割り切っている関係だったりしてね」


雪はふしだらな女だと、思い込ませればいい。

あと少しで、伊吹の心は雪から離れるとりんは確信した。


「お雪ちゃんに限って、そんなわけは……」


「今、雪さんの家には男の人がいるよ」


ごとん、と伊吹が持っていたおけが手からすべり地面を打ちつけた。

まるで伊吹の心の衝撃のように。


「確かめればわかるかも」


伊吹は恐る恐る、長屋の裏手に回った。

中を望めるような隙間はなかったが、簡素な板で作られた長屋は耳をすませば声が漏れ聞こえる。


人の家に聞き耳を立てるなどはばかる行為だ。

しかし、誰もいない長屋の裏手、今の息吹は躊躇ためらわなかった。


「お前も段々、よくなってきただろ?」


雪の家から男の声がした。

眩暈めまいを起こしそうになったのは、雪の声がはっきりと聞こえたからだった。


「辰巳さん……」


雪は何度も、男の名前を呼んでいた。

苦しみながらもえつが混じった、あえぎの中で。


真昼間からことに及ぶ雪は、伊吹の知っている雪ではなかった。






知りたくないわけではない。

正体を知ってしまえば辰巳がいなくなってしまいそうで、雪は何も聞かなかった。


言葉で聞いたことはないけれど、自分は愛されている。

雪はそう信じていた。


一緒に浅草へ出掛けたあの日の出来事も、夢ではないのだから。


「雪、何かあったのか?」


不安が顔に出てしまっていたのか、雪は辰巳にさとられまいとする。


「何でもないですよ」


雪は嘘を吐いていると、辰巳はすぐにわかった。

雪の演技が下手だったわけではない。

気持ちの機微きびに気付けるほどまでには、一緒に過ごしてきた。


また誰かに嫌な噂の一つでも言われてしまったのだろうか。

それとも、雪が不安に思っているのは他の誰でもない自分の所為せいではないだろうか……


辰巳は充分すぎるほどに、心当たりがあった。


夕餉ゆうげ、作りますね」


雪は立ち上がって、台所へと行こうとする。


もう一度、辰巳が雪に問おうとした刹那せつな、来訪者が現れた。


「伊吹さん……」


先日に続き、伊吹は突然やって来る。

切羽詰まっているような伊吹を見るのは、初めてだった。


伊吹の視線は、雪ではなく辰巳へと注がれる。


「お前の所為で、お雪ちゃんが悪く言われるんだ」


辰巳ににらみ返されたところで、伊吹はひるまない。

焦燥しょうそう、怒り、どれをとっても、雪のためにという大義名分の前に、伊吹は自身の感情さえ見失っていた。


「ただ、お雪ちゃんの体が目当てなんだろ?」


「ちが……」

「だったらなんだ」


雪の否定をさえぎったのは、辰巳の声だった。


その言葉は雪をてつかせ、雪は表情さえも出せなかった。


辰巳は、雪の肩を自身の方へと伊吹に見せびらかすように引き寄せる。


「俺たちのことは、お前にとやかく言われる筋合いはねぇよ。

雪も嫌がってねぇしな」


雪が可哀そうで、同時に不純だと伊吹は感じた。

信じていた気持ちは打ち砕かれて、雪に対する恋慕れんぼの情は消えてしまった。


雪を見つめる伊吹の顔は苦しそうで、やがてあきらめたようなやるせない表情へと転じさせる。


その後、何を言うでもなく伊吹は静かに、雪の家を去っていった。


「なぁ、雪……」


そっと立ち上がった雪に、後の言葉は続かなかった。

何事もなかったかのように雪は夕餉を作り始めた。



(そう、だったんだ……)


信じていたものに裏切られたのは、雪も同じだった。


辰巳は自分をいてなんかいない。求めているのは体だけ。


何度疑っても、愛されているのだと信じていたかった。

父にとってお金をくれる自分が都合のいい子どもだったように、辰巳にとっても都合のいい女に過ぎなかったということだ。


みじめな自分は、いまだ事実を受け入れられないのか、涙は出てこなかった。


ある日の昼、雪は長屋の外でばったり伊吹と会った。


気まずさなんてない。あるのは、もう昔のようには話せない冷え切った他人の関係だった。


二人は挨拶あいさつもなしに背を向けて去る。

雪は数歩、歩いたところで後ろから伊吹の声が聞こえた。


「お雪ちゃんが、そんなに汚い子だとは思わなかったよ」


立ち尽くしていたら、夏の陽射しに当てられて額から頬へと汗がしたたり始めた。


いつもは五月蠅うるさいほど鳴いている蝉は、遠くでその存在を主張している。

代わりに近くでほくそ笑んでいたのは、雪の不幸を願う少女だった。


雪は地面に足を着く感覚さえ定かでないまま家に戻り、戸を閉め、一人になったときにはじめてむせび泣いた。



小さい頃、おっかさんは私とおとっつあんを置いて出て行った。


待てど暮らせど、ついにおっかさんは帰ってこなかった。

だけど、私にはおとっつあんがいる。


毎日帰って来てなんて言わない。

稼いだお金はあげるから、たまにでいいから、帰って来て。


おとっつあんがいれば、寂しくないから……


虚しい気持ちが増えていく中で、私はとうとうおとっつあんにも捨てられた。


嘘でも唯一愛してくれたおとっつあんを、私は帰ってこないと知りながらずっと待っていた。


でも、私はもうおとっつあんを待たなくていい。

私のことを愛してくれる人を見つけた……はずだった。


「ねぇ、辰巳さん」


辰巳は雪を愛でる手を休めずに、耳を傾けた。


「もう大丈夫だから」


「まだ、痛いだろ」


「いいの。……準備はできたから」


愛撫も、時折見せる優しい眼差まなざしも、一緒に浅草へ行ってくれたことも、かんざしを買ってくれたことも、全部が偽りの優しさだ。


(嘘の優しさんなんて、いらない)


結局、愛してくれる人なんて誰もいない。

父や辰巳が悪いのではなく、そういう運命さだめなのだと雪はさとった。


「ふふっ……」


みっともない自分に、雪は自嘲じちょうの笑みを漏らした。



辰巳は隣で眠る雪を、背後から抱きしめた。


触れられることを嫌がり、性急にことを済ませようとした雪は、今は夢の中である。

きっと雪にとっては苦痛でしかなく、そこに快楽はなかったはずだ。


一度見せた笑みは、哀しそうだった。


どうして、こんなに好きなのに、雪を傷つけてしまうのだろう……


想いを伝えれば、それだけで雪を安堵あんどさせることはできたはずだ。


(俺は、怖かったんだ……)


自分のことを知られてしまえば、雪が離れてしまう。

そう思えば、わざと不確かな関係を続けていたかった。


「雪、お前が好きだ」


夢の中にいる雪に言ったところで、想いが伝わるわけがない。

もう遅いのだ。

自分が言ってしまった言葉の所為せいで、雪の心は離れてしまったのだろうから。



父も母も、そして辰巳も、愛してはくれなかった。

伊吹の優しさも消えてしまった。

雪には、何も残っていない。


(化粧をして、新しい着物を着て、馬鹿みたい……)


辰巳が家を去ったあと、雪は長屋の差配の元へ訪れた。


「ここを出て行きます」


嫌な噂をささやかれても長屋に居続けたのは、父を待っていたからだった。

父が帰ってこないことを知りながら、雪はそれでも自身が捨てられたということを認めたくなかった。


このまま辰巳との関係を続けていれば、父を待っていたときと同じ、はかない望みを持つ哀れな自分がいるだけだと、雪は辰巳の元から去る決意をしたのだった。


次に辰巳に会うのはいつだろうか。長屋を出て行くまでには会わないかもしれない。

会ったとしても、引っ越すことは告げないで去って行くつもりだった。


夜半よわ、なかなか寝付くことができずにいた雪は、興味半分で酒を手に取った。


父が飲んだくれで荒れていたこともあり、雪は今まで酒というものを飲もうとはしなかった。

家に酒があるのは、辰巳のために用意していたからである。


(飲んでみようかな……)


父が酒にのめり込んでいたのは、憂さを晴らすためだった。

嫌なことを忘れられる。父はよくそう言っていた。


(全部、忘れさせてくれたらいいのに)


喉が焼けるような液体が、雪の身体に浸りこんでゆく。

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