七
一目惚れ、だったのだと思う。
長屋に越してきた初日に、猫と
実際に話してみれば大人しすぎる性格で、滅多に笑いもしない暗い娘だった。
時たまに見せてくれる笑顔。その笑顔をもう一度見たくて、でも何度話しかけても滅多には笑ってくれない。
しばらくして、彼女に関する悪い噂を聞くようになった。
男好きで、
そんな噂を信じるわけがなかった。
彼女は純粋で、とても出合茶屋にいるところなど想像もできない。
彼女は長屋の住人に嫌われている。その理由はわからない。
でも、自分だけは彼女を信じている。
この想いを伝えられずにいれば、いつの間にやら彼女の隣を歩く男が現れた。
湯島天神で見かけた男、それに
二人は違う人物だった。
もしかして、彼女は本当に噂通りの人ではないのか……?
そう思い始めるようになってしまったのは、最近だった。
(違う。お雪ちゃんはそんな子じゃない)
伊吹は、自身の愚かな考えに、必死に首を振った。
雪が噂のような人ではないという、確たる証拠がほしい。
伊吹の
「お雪ちゃん!」
急に家に入り込んできた伊吹に、雪は
驚いたものの、相手が伊吹だとわかり、ほっとした。
「どうしたんですか?そんなに
「あの男とはすぐに別れるんだ」
湯島天神で見かけた男は雪と一緒に歩いていただけで、ただの知り合いかもしれない。
だが、家の前で熱い抱擁と
「何を……」
唐突に言われた言葉を、雪はすぐには理解できなかった。
「お雪ちゃんは
それが辰巳のことを指しているのだと理解したとき、雪は自然に口走った。
「あの人のことを悪く言わないで。伊吹さんは何も知らないでしょう?」
長屋で見かけた男は、りんの言っていたように
雪みたいな大人しくて純粋な子が、関わっていい人物ではない。
伊吹は
「なら、お雪ちゃんはあの男のことを知ってるのか?」
雪は言い返せなくなった。
いまだに辰巳が
りんに詰め寄られたときと同じ心地だった。
相手のことを知らないのに、どうして遊ばれていないと言えるのか。
伊吹もまた、そう言っている。
「もうあの男と関わっちゃいけない。お雪ちゃんがだめになる」
雪に詰め寄ってから数日後、伊吹は盛大な溜息を吐きながら、井戸を
あれから雪と顔を合わせることはなかったものの、雪との気まずさは以前よりも深刻なものになってしまった。
「伊吹さん、元気ないみたい。何かあったの?」
落ち込む伊吹に声をかけたのは、同じ長屋の住人のりんである。
「お雪ちゃんは絶対、
「………………」
開口一番に雪の名前が出て内心、気を悪くしたりんだったが、伊吹の手前、顔には出さずに聞いた。
「早く目を覚まさせないと、お雪ちゃんが可哀そうだ」
「本当にそうなのかな?」
伊吹はりんを見返した。
「お雪さんは騙されてるんじゃなくて、愛し合っているだけかもしれないよ」
「でも……」
「それか噂の通り、お互いに割り切っている関係だったりしてね」
雪はふしだらな女だと、思い込ませればいい。
あと少しで、伊吹の心は雪から離れるとりんは確信した。
「お雪ちゃんに限って、そんなわけ……」
「いま、お雪さんの家には男の人がいるよ」
手に持っていた
まるで、伊吹の心の衝撃のような音を立てた。
「確かめればわかるかも」
伊吹は恐る恐る、長屋の裏手に回った。
中を望めるような隙間はなかったが、簡素な板で作られた長屋は、耳をすませば声が漏れ聞こえてきた。
人の家に聞き耳を立てるなど
しかし、誰もいない長屋の裏手にて、伊吹に
「お前も段々、よくなってきただろ?」
雪の家から男の声がした。
「辰巳さん……」
雪は何度も、男の名前を呼んでいた。
苦しみながらも
真昼間からことに及ぶ雪は、およそ伊吹の知っている雪ではなかった。
知りたくないわけではない。
正体を知ってしまえば、辰巳がいなくなってしまいそうで、雪は何も聞けなかった。
言葉で聞いたことはないけれど、自分は愛されている。
雪はそう信じていた。
一緒に浅草へ出掛けたあの日の出来事も、夢ではないのだから。
「雪、何かあったのか?」
不安が顔に出てしまっていたのだろうか。雪は辰巳に
「何もないですよ」
雪は嘘を吐いていると、辰巳はすぐにわかった。
わかりやすい様子だったわけではなく、気持ちの
また誰かに、嫌な噂の一つでも言われてしまったのだろうか。
それとも、雪が不安に思っているのは他の誰でもなく自分の
辰巳は充分すぎるほどに、心当たりがあった。
「
雪は腰を上げて、準備をしようとする。
もう一度、辰巳が雪に問おうとした
「伊吹さん……」
先日に続き、伊吹は突然やって来る。
切羽詰まっているような伊吹を見るのは、初めてだった。
伊吹の視線は、雪ではなく辰巳へと注がれる。
「お前の所為で、お雪ちゃんが悪く言われるんだ」
辰巳に
「ただ、お雪ちゃんの体が目当てなんだろ?」
「ちが……」
「だったらなんだ」
雪の否定を
その言葉は雪を
辰巳は雪の肩を自身の方へ、伊吹に見せびらかすように引き寄せる。
「俺たちのことは、お前にとやかく言われる筋合いはねぇよ。雪も嫌がってねぇしな」
雪が可哀そうで、同時に不純だと伊吹は感じた。
信じていた気持ちは打ち砕かれて、雪に対する
雪を見つめる伊吹の顔は苦しそうで、やがて
その後、何を言うでもなく伊吹は静かに、雪の家を去っていった。
「なぁ、雪……」
そっと立ち上がった雪に、後の言葉は続かなかった。
雪は何事もなかったかのように夕餉を作り始めた。
(そう、だったんだ……)
信じていた人に裏切られたのは、伊吹だけではなく、雪も同じだった。
辰巳は自分を
何度疑っても、愛されているのだと信じていたかった。
父にとってお金をくれる自分が都合のいい子どもだったように、辰巳にとっても都合のいい女に過ぎなかったということだ。
ある日の昼、雪は長屋の外で伊吹とばったり会った。
気まずさはなかった。あるのは、もう昔のようには話せない冷え切った他人の関係だった。
二人は
雪は数歩、歩いたところで後ろから伊吹の声が聞こえた。
「お雪ちゃんが、そんなに汚い子だとは思わなかったよ」
立ち尽くしていたら、夏の陽射しを受けて、額から頬へと汗が
うるさいほどに鳴いている蝉は、遠くでその存在を主張している。
近くでほくそ笑んでいたのは、雪の不幸を願う少女だった。
雪は地面に足を着く感覚さえ定かでないまま家に戻り、戸を閉め、一人になったときにはじめて
*
小さい頃、おっかさんは私とおとっつあんを置いて出て行った。
待てど暮らせど、ついにおっかさんは帰ってこなかった。
だけど、私にはおとっつあんがいる。
毎日帰って来てなんて言わない。
稼いだお金はあげるから、
おとっつあんがいれば、
虚しい気持ちが増えていく中で、私はとうとうおとっつあんにも捨てられた。
嘘でも唯一愛してくれたおとっつあんを、私は帰ってこないと知りながらずっと待っていた。
でも、私はもうおとっつあんを待たなくていい。
私のことを愛してくれる人を見つけた……はずだった。
「ねぇ、辰巳さん」
辰巳は雪を愛でる手を休めずに、耳を
「もう大丈夫だから」
「まだ痛いだろ」
「いいの。……準備はできたから」
愛撫も、時折見せる優しい
(嘘の優しさんなんて、いらない)
結局、自分を愛してくれる人なんて誰もいない。
父や辰巳が悪いのではなく、そういう
「ふふっ……」
みっともない自分に、雪は
辰巳は隣で眠る雪を、背後から抱きしめた。
触れられることを嫌がり、性急にことを済ませようとした雪は、今は夢の中である。
きっと雪にとっては苦痛でしかなく、そこに快楽はなかったはずだ。
一度見せた笑みは、哀しそうだった。
どうして、こんなに想っているのに、雪を傷つけてしまうのだろう……
想いを伝えれば、それだけで雪を
(俺は、怖いんだ……)
自分のことを知られてしまえば、雪が離れてしまう。
そう思えば、わざと不確かな関係を続けていたかった。
「雪、お前が好きだ」
夢の中にいる雪に言ったところで、想いが伝わるわけがない。
もう遅いのだ。
自分が言ってしまった言葉の
*
父も母も、そして辰巳も、愛してはくれなかった。
伊吹の優しさも消えてしまった。
雪には、何も残っていない。
(化粧をして、新しい着物を着て、馬鹿みたい……)
辰巳が家を去った後で、雪は長屋の差配の元へ訪れた。
「ここを出て行きます」
嫌な噂を
父が帰ってこないことを知りながら、雪はそれでも自身が捨てられたということを認めたくなかった。
このまま辰巳との関係を続けていれば、父を待っていたときと同じ、
次に辰巳に会うのはいつだろうか。長屋を出て行くまでには会わないかもしれない。
会ったとしても、引っ越すことは告げないで去って行くつもりだった。
父が飲んだくれで荒れていたこともあり、雪は今まで酒というものを飲もうとはしなかった。
家に酒があるのは、辰巳のために用意していたからである。
(飲んでみようかな……)
父が酒にのめり込んでいたのは、憂さを晴らすためだった。
嫌なことを忘れられる。父はよくそう言っていた。
(全部、忘れさせてくれたらいいのに)
喉が焼けるような液体が、雪の身体に
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