雪は何度も鏡の前で入念に、自身の顔やその身にまとう着物を確かめる。


 化粧は紫乃に教えてもらってから今日まで、たった一日しかなかったが、練習に練習を重ねてきた。

 だが、確かめれば確かめるほど、良いのか悪いのかもわからなくなってくる。


 もうすぐ辰巳が来てしまう。

 あとは腹をくくって、会うしかなかった。


「雪、行くぞ」


 戸口の向こうから辰巳の声が聞こえた。


「……少しだけ、待ってください」


 雪はあわてて準備をする。

 最後に一度だけ鏡を見て、だけど自信が持てないままに家を出た。


「ごめんなさい、遅くなってしまって……」


「…………」


 辰巳は雪を凝視ぎょうしして、動かなかった。

 少し目を見開く様は、驚きを隠せないといった様子である。


 失敗した、と雪は思った。


 気合を入れて化粧をしたはいいが、分不相応というものがある。

 確かに化粧をして、見違えたのかもしれない。

 けれど、辰巳にとっては急に地味な女が気合を入れて、戸惑い以上に、好みには程遠い存在になってしまったのではないだろうか。


「すぐ、落としてきます……!」


 恥ずかしくて、自分が情けない。

 そんな雪の手首をぐっと引っ張ったのは辰巳だった。


「早く行かねぇと、芝居が始まっちまうぞ」


「でも、こんな姿じゃ辰巳さんの隣を歩けない」


 辰巳は溜息を吐きたくなった。

 どうして雪は、いつも悪い方へととらえてしまうのか。


「そのままでいい。……すげぇ、そそる」


 新しい着物に、めずらしくも化粧を施している。

 それが自分を想ってしてくれた行為だがら、そしてあまりにもきれいだから、辰巳は素直な気持ちを吐露とろできた。


 顔を赤らめてうつむく雪の中身までは変わらなかった。



 江戸は浅草。

 のちに天保の改革により、江戸三座(幕府から公認された歌舞伎座)が浅草に移転を命じられ、浅草は芸能の町として発展することになるのだが、文化年間にあっては、ぽつりぽつりと小さい芝居小屋や見世物小屋が立ち並ぶ程度である。

 だが人出は多く、行き交う人との距離は触れ合いそうなほどだった。


 雪は前を歩く辰巳を見失わないように、人波を何とか潜り抜けていた。

 そんな雪とは反対に、辰巳は颯爽さっそうと歩いている。


 雪は何となく感心しながら辰巳の後に続けば、一つの芝居小屋に辿たどり着いた。


「さて、演目は『義経と静』、間もなく開演にございます!かの有名な源氏の御曹司と白拍子しらびょうししずかこい物語。判官贔屓ほうがんびいきで貴方の涙を誘うのは必定。寄ってらっしゃい。観てらっしゃい」


 客引きの口上に呼び止められた人々が、次々と芝居小屋の中に入ってゆく。

 雪もいつの間にか、足を止めていた。


「ここにするか?」


 惹かれるものがある。雪は迷うことなくうなずいた。



 芝居小屋の中は薄暗い。

 雪たちが入ったのは最後の方だったので後ろの席となってしまったが、江戸三座が開演するであろう小屋よりも遥かに小規模であり、充分に舞台を望めた。


 満員になった小屋の入り口が閉められ、中は暗闇と化す。

 人の声を頼りにじっと待っていれば、舞台上の蝋燭ろうそくに明かりが灯され、静まり返った皆の視線が、舞台に釘付けになった。



「平氏、討ち取ったり!」


 時は平安時代末期。

 源義経が兄頼朝の命で平氏を討伐する場面から、幕を開けた。

 いわゆる源平合戦である。


 平氏最期の地となった壇ノ浦では、義経が軽やかに船を飛び越えて敵を蹴散らすも、平氏が所有していた三種の神器が、幼い天皇と共に海底に沈んでしまった。


「ええい、何としたことか!いかに神聖な物と知って、取り返せなんだ」


 三種の神器を失ったことで落胆した頼朝は、義経への憎悪にまみれてしまった。


 舞台の袖からは大勢の海女あまに扮した女性が現れ、海底での三種の神器を捜索する場面へと切り替わる。

 海の中、そこには平氏の怨霊があの世へ連れて行こうと、海女たちに手招きをしていた。


 血だらけの武士や、髪を大いに乱した女官にょかんたちの姿は、おどろおどろしい。


 鏡、勾玉まがたま、あと剣だけが見つからない……


「許すまじ」


 義経と頼朝、二人の兄弟の確執は決定的なものとなる。

 追い詰められた義経とその家臣らの一行は、吉野山へと落ち延びていた。


「ああ、静よ。そなたとはここで、別れとなるのか」


「いいえ、義経様。何故また会おうとは仰らなんだ。静は……静は……!」


 義経の前で泣き崩れる女は、義経の愛妾あいしょう静御前である。

 吉野山には女人禁制の場所があり、静はこれ以上、義経たちと一緒に進むことは叶わなかった。


 役者の、心の底からの叫びに、皆が圧倒される。

 愛する人との別れは心に刺さるものがあった。


 義経と別れた静は、あえなく頼朝方の手に捕らえられてしまう。


 場面は、鎌倉は鶴岡八幡宮へ……


 辰巳はそっと、舞台に夢中になっている雪を盗み見た。

 役者の一挙手一投足に目を離すまいと、雪のh瞳は輝いている。


 雪はこの舞台に魅了みりょうされた。


 何となく浅草に行こうと言い出した辰巳であったが、雪の様子を見て、浅草行きを決めたことをよかったと安堵あんどする。


 舞台上では、敵方に捕らわれ鶴岡八幡宮へと連れられた静が、頼朝とその妻である北条政子と対面していた。


日本ひのもと一の白拍子の舞い、この目で拝みとうございまする」


 政子は、白拍子たる静の舞いを所望した。

 白拍子とは歌を詠みながら舞を披露する、主に平安時代に活躍した遊女あそびめである。


 相手は愛する人を追い詰めた憎き敵といえども、捕らわれの静に拒否権はなかった。


 静の舞いは、鶴岡八幡宮の舞殿で行われることになった。


 水干すいかんに緋袴を穿き、烏帽子えぼしを被り帯刀した静の姿は、白拍子の衣装が忠実に再現されている。

 まさに、男装の麗人であった。


 はらり、ひらり。

 静は敵前で舞った。


 やがて、静にふんした役者の玲瓏れいろうな声が響き渡った。


「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」


 これは静の意地と誇りだった。

 静は頼朝の前で、義経を想う歌を口ずさんだのである。


 聞くや頼朝は、今にも立ち上がらんばかりの勢いで怒りをあらわにした。

 そんな頼朝を制したのは、なんと政子であった。


「静、静と呼んでくれた貴方が懐かしい……この娘は敵前にもかかわらず、義経への想いをうたったのでございますれば、その心意気を称えなくてなんとしましょうぞ」


 本来なら頼朝を称えるべきが筋で、けれど静は義経への想いを見事にさらけ出したのであった。

 同じ女として、かつては自分も恋を実らせ、頼朝と結ばれた政子の心を打ったのである。


 政子の取り成しで、静は再び舞い始める。


「吉野山 峰の白雪 踏み分けて りにし人の あとぞこいしき」


 吉野山で別れた貴方がこいしい……

 静の泰然たいぜんとした、芯のある立ち姿で幕を閉じた。



「よっ、静御前!」


 芝居小屋は、拍手喝采で満ち溢れている。

 鳴りやまぬ歓声の中で、雪は小さく「すごい……」とつぶやいた。


 芝居小屋を出た後も、雪は興奮冷めやらぬといった感じで高揚こうようしていた。


「あんなに凛々りりしい方がいたなんて、ちっとも知らなかった。辰巳さんは、お芝居楽しかったですか?」


「ああ。書物で義経の話は読んだことがあるが、芝居で観るのとはわけが違う。まさか感動するとまでは思わなかった」


 静を演じた役者の演技がすさまじかった。

 敵前でも愛する人への想いを貫いた静の姿が美しかった。

 と、役者と静御前に対する雪の賛辞は止まらない。


「お前がそんなにしゃべるなんて、芝居に来た甲斐があったな」


 言われて雪は、はっとする。

 雪は自分でも大人しいということを自覚している。

 自分の意外な一面に驚くのと同時に、辰巳に変な風に思われていないか不安を覚えたが、辰巳の顔を見て、それが杞憂きゆうだったことに気づいた。


「すっかり静御前に夢中になってしまったみたいです」


「そりゃ、けるな」


 静御前も、ましてや源義経さえ雪は知らなかった。

 だが、芝居は雪のように知らない人が観ても物語がわかるようにできており、雪は芝居を観たことで、静御前に対する興味がいてしまった。


「また次も、第二部の開演が始まったら一緒に観よう」


 先ほど観た演目には続きがあった。

 全二部構成であり、二部では静と義経の、その後が描かれるそうだ。


 二部の公演が始まるのは、およそ三ヶ月後である。


「もちろんです。辰巳さんと一緒に、静御前を見届けたい」


 辰巳は静御前と義経の二人の結末についてを知っていた。

 哀しく笑えば、雪は感づいてしまうかもしれない。

 だから……いや、ただ雪の幼い少女のような笑顔がまぶしくて、常に不愛想な辰巳は穏やかに笑ったのだった。



 景色が少しずつ、だいだい色に染まり始めていく。

 浅草寺参りも済ませた雪たちは、気の向くままに歩きながら、最後に夕餉ゆうげを食べようと飯屋を探していた。


 今日という日の時間の流れは早くて、どんなに惜しんで歩いても陽はかたむいてしまう。

 だけど、雪の足取りは重くなかった。


 また一緒に、浅草の芝居を観に行くという約束は、いつものように不確かなものではない。


 辰巳との関係を悩んでいた雪であったが、他人にどう言われようと、初めから悩む必要はなかったのかもしれないという自信が芽生え始めていた。


 ふと、辰巳が足を止める。


「あの店、入ってみようぜ」


 辰巳が目でうながしたのは、店頭にずらりとかんざしが並べられている小間物屋だった。


 簪を手に取っているのは女ばかり。

 辰巳は自分に気を遣ってくれたのだろうと、雪はどう返事をしていいか迷った。


 雪とて、簪を見たいという気持ちはある。

 だが、辰巳にとっては退屈でしかないだろう。


「俺が、お前に簪を選んでやりてぇんだ」


 相変わらずの、溜息を吐きたくなるほどの雪の遠慮深さをみ取って、辰巳は言った。


 辰巳は雪の手を無理やり引いたりはせずに、雪の気持ちを待った。

 照れた顔をうつむかせて、やがて雪は小さくうなずいた。


(目の毒だ……)


 花や鳥、様々な形に彫られた簪は、どれもこれもが美しく繊細な作りをしていて、見れば見るほど欲しくなる。


 辰巳は真剣に簪を選んでくれているが、雪は自身の懐を思い出してしまった。


 この後には飯屋に行くことになっている。

 今日のために、雪は服やら化粧を用意した所為せいで、手持ちが少なかった。

 簪を買ってしまえば、飯代を払うことは叶わなくなる。むしろ、簪を購入する銭も持っていない可能性もあった。


 辰巳に手持ちが少ないことを正直に話そうとしたところで、店主に声をかけられた。


「どうぞ、手に取ってご覧くださいまし」


 愛想のいい顔で応対する店主は、さすがは商人あきんどといったところだ。


 辰巳はある一つの簪を手に取った。


「挿してやりてぇんだが」


「はい、どうぞ」


 その簪には、芙蓉ふようの花がかたどられていた。

 あわい花弁は緻密ちみつに、細部までもが完璧に表現されている。


 辰巳はそっと、雪の頭に簪を挿してみせた。


「よくお似合いで。その花は、貴女あなた様に相応しい」


 雪は、店主が持ってきてくれた鏡を見つめる。

 華やぎが増した少女は、うれしそうに微笑んだ。


「これを」


「かしこまりまして」


 辰巳は即決で、店主に購入の意を伝える。


 簪代を払おうと店の奥に消えていく辰巳をあわてて追いかけようとした雪は、店主に制止された。


「その簪は、あの方から貴女様への贈り物でございますよ」


 辰巳が選んでくれた簪。

 それは、雪が初めてもらった殿方からの贈り物だった。



 浅草からの帰り道、すっかり夜も更けて空には星がまたたいていた。


 雪は家路まで辰巳に送ってもらう最中、腹も心も満たされた気持ちで歩を進める。

 前よりも自然に話せるようになった二人がそこにいた。


「今日は何から何までありがとうございました」


 木戸銭(芝居の見物料)に簪、それに飯屋の銭まで辰巳が払ってくれたのだった。

 雪は自分の分はきちんと払うと言ったのだが、怪我の手当てをしてくれたときの礼で、それでもまだ足りないくらいだと辰巳は返していた。


 男におごられ慣れていない様は初々しく、やはり雪の根幹には遠慮深さがあった。


 雪の家の前まで着いた二人は、宵闇の中で別れを惜しんでいた。


「私、明日には死んじゃうのかしら……こんなにうれしいことが続いたら、罰が当たりそう」


「縁起でもねぇこと言うなよ。死んだら許さねぇからな。それに、静御前の続きを観るって約束もしただろ」


「もちろん、観るに決まっています」


 次の芝居を観るときまでは、辰巳と一緒にいられる。

 雪はその事実だけで、満たされていた。


「そのあとだって……」


 辰巳は言葉の先を誤魔化ごまかすように、雪を抱きしめた。


 今の幸福以上を、辰巳は約束しようとしてくれる。

 だけど今は、伝わる温もりだけで充分だった。


 雪は返事の代わりに、辰巳の背中に手をまわして身をゆだねた。


 顔を上げれば、辰巳の熱っぽい視線に、気持ちは同じだと悟る。

 眼を閉じて、もう何度も交し合った柔らかい感触に夢中になった。


(まさか、お雪ちゃんが……)


 辰巳とからみ合う姿を見られているなんて、雪は思いもしなかった。

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