夏の暑さが本格的になり始めたこの頃、弥勒みろく屋では二人の男が肩を並べて昼餉ひるげを食べていた。


「春過ぎて、夏にけらし……」


「お前、最近そればっかり言ってないか?とっくに春は過ぎてるのによ」


 春すぎて 夏来にけらし 白妙しろたえの 

 衣ほすてふちょう あま香具山かぐやま


 とは、百人一首にも選ばれた古代の女帝・持統じとう天皇の短歌である。


 夏の到来を詠んだ歌で、辰巳の言う通り、夏の盛りにむような歌ではない。


「少女の夏を見届けたいだけさ」


 彼は尾花屋で用心棒をしていたときに出会った少女を想い、つぶやいたのである。

 そんなことを知る由もない辰巳は、意味がわからなかった。


「……和泉いずみ式部にも困ったもんだ」


 和泉式部とは揶揄やゆした呼び名だが、彼の本当の名も和泉である。

 辰巳の親友であり、同郷でもあった。


「でもまあ、大した怪我じゃなくてよかった。あ、看病してくれた子のおかげだっけ」


 とある少女にかくまわれていた辰巳は、無事の知らせを和泉に伝えるため、その少女に文をたくして弥勒屋に届けさせていた。

 文を受け取った和泉は、弥勒屋の女将から、辰巳のい人が文を届けたのだと聞いていたのである。


「どんな子なの?俺にも会わせてよ」


「誰が会わせるか」


 辰巳からは直接、好い人がいるという確信の言葉はなかったものの、問い詰めても否定しないので、そういうことなのだと和泉は思っている。


「あの子、可愛かったわねぇ」


 辰巳と和泉の間に割って入ったのは、弥勒屋の女将である。


「へぇ、そりゃあ益々ますます見てみたい」


 親友は決して首を縦には振らなかった。



 尾花屋では、内職で作った品を雪が納めに来ていた。


「いつも助かるよ」


「いえ、おまちさんにはよくしてもらっていて、私の方こそ助かっています」


「私は大したことはしてないよ。それより、あの人とはどうなんだい?」


 雪には想う人がいて、その人のために好物のけんちん汁を作ってあげようと、作り方の知らなかった雪が、おまちに作り方を聞きに来たことがあった。


 もう会えなくなると思っていた人だったのだが、けんちん汁が功を奏したのか、雪とその人の関係は続いている。


たまに、会っているんです」


 初めて辰巳と体を重ねた日の翌早朝、辰巳は雪の家を出て行く際に『また来る』という言葉を残した。

 夢のような言葉にときめいた感覚は、今でも忘れられずにいる。

 そして辰巳は言葉通り、それからも何度か訪ねに来てくれたのだ。


「そうかい。お前の顔を見れば、充分に伝わってくるよ」


 雪は赤面してうつむいた。

 こいは、少女を変化させる。



 弥勒屋で食事を終えた和泉は辰巳と別れ、一人ふらふらと神田の町を歩いていた。


(仕事見つけないとな……)


 尾花屋で用心棒を務めていた彼だったが、そもそも雇われたのは突如として現れた凶悪な盗人ぬすっとのお蔭で、その盗人がお縄についた今はお役御免となり、現在は仕事にありつけていなかった。


 口入屋くちいれやでも行こうと考えていた最中、和泉は視界に知人の姿をとらえた。彼はつかさず、その人の元へと足を進める。


「お雪ちゃん!」


 雪も和泉の姿に気づいて、ぺこりと頭を下げた。


「奇遇だね。今帰るとこ?」


「はい。今日は湯島天神に寄ろうと思っています」


 尾花屋からの帰り道、雪は気まぐれに湯島天神へおまいりに行こうとしていた。

 辰巳の怪我が早く治るようにという願いを聞き届けてくれた、お礼も兼ねて。


「こりゃまた奇遇。俺も行こうと思ってたとこなんだ。折角だし、一緒に行こう」


 先ほどまで口入屋に行こうとしていた男が何を言っているのか、まったくの出鱈目でたらめである。


 和泉は尾花屋で用心棒を務めていたときに何度か雪と会っていて、見かければ会話をする仲になっていた。


 雪が花嫁修業をしていると聞いたときには他人ひとのものだと思い込んでいた和泉だったが、本人に聞いてみれば、そうではないと言われ、親交を深めようとすることに躊躇ためらいがなくなっていたのである。


(最近、可愛くなったよな。もとから可愛いけど)



 湯島天神でまつられているのは菅公かんこうであり、それは今まさに本殿で祈りを捧げる男の知るところでもあった。

 菅公は学問の神様として有名であるが、彼が祈るのは別の理由である。


(お雪ちゃんと、上手くいきますように……)


 伊吹は想い人である雪との逢い引きが叶ったのだが、当日は気まずいまま別れてしまっていて、その後ろくな会話ができずにいた。


 今日こそはきちんと話そうとげんを担ぎに湯島天神まで来たわけであるが、祈りを終えた伊吹は、遠方に想い人の姿を見つけた。


 さっそく菅公が願いを届けてくれたと気持ちがたかぶったのは一瞬で、伊吹はその場から動けなくなってしまった。


 伊吹の想い人が、見知らぬ男と歩いていたからである。



 湯島天神でお詣りを済ませた雪と和泉は、それぞれの家路に就こうとしていた。


「じゃあ、またね」


「和泉さん、お元気で」


 雪と別れた和泉は、少し歩いたところで振り返る。

 まだ雪の姿は見える。

 次に会えるのはいつだろうか。

 約束はしていないが、会えるという確信があった。


(あれって……)


 雪の元に向かってくる男がいた。そして二人は親しげに、話をしている。その男を、和泉はよく知っていた。


(なんだ、そうだったのか)


 和泉はどこか清々すがすがしい気持ちで納得したのだった。



「辰巳さん」


 思わぬ出会いに、雪ははやる気持ちを抑えようと努める。

 どちらかといえば、辰巳の方があせっている様子だった。


「家に行ったらいなかったから、探してたんだ」


 家で待っているのではなく、わざわざここまで探しに来てくれた辰巳に、雪は微笑んだ。


「一緒に帰りましょう」


  *


 数日後、神田の町中で、三人の男女が偶然にも顔を並べていた。


「やあ、また会ったね」


「お久しぶりです」


「……お前ら、知り合いだったのか?」


 雪は買い物の帰り道、和泉に声をかけられたのだが、何と和泉の隣には辰巳もいたので少し驚いた。


「仕立屋で用心棒をしているときに会ってさ、仲良くなったんだ」


 三人が共通の知人であると、今まさに明白となった瞬間である。


 和泉だけは雪と辰巳の関係を知っていて、あえて二人には何も言わずにいた。

 雪が尾花屋に、辰巳の好物であるけんちん汁の作り方を習いに来たこと、湯島天満宮で見かけた二人の姿から、すべてが繋がっていたのである。


「あ、和泉さんって、文を渡した方だったんですね」


 雪は辰巳に頼まれて和泉という人に、間接的に文を渡したことがあるのだが、その和泉は尾花屋で出会った和泉だと今さら気づくことになる。


「お前は全部わかってたんだな」


「言ったらつまんないから黙ってただけ」


 雪が来たときから、辰巳は不機嫌そうであった。


 もしや辰巳は、和泉に自分と知己ちきであることがわかってしまったことが嫌なのではないかと、雪は目を伏せた。

 辰巳に限らず、地味で嫌われ者の自分なんかが知り合いだとは思われたくないだろうとも、考えてしまう。


「こんなところで立ち話もなんだし、心太ところてんでも食べに行かない?」


「仕事中ってことを忘れてないか?」


「仕事、ですか?」


「俺たちさ、この店の用心棒やってるんだ」


 和泉が示した彼らの背後には、小間物屋があった。

 用心棒の仕事を忘れていなかった和泉の先ほどの発言は、冗談なのか本気なのかわからない。


「お邪魔をしてごめんなさい……」


 雪は頭を下げた後、そそくさとその場を後にした。

 和泉は雪の姿が見えなくなったのを確認して、ぼそりとつぶやく。


「お雪ちゃんと仲良くしたの、いけなかった?」


 せっかく雪と会えたというのに不機嫌な辰巳の本心を、長い付き合いである和泉は理解していた。


「嫉妬深い男は嫌われるよ」


「…………」



 家に着いた雪は、辰巳と会えたというのに心がざわめき立っていた。


 自分は、辰巳に見合う人になれていない。

 そもそも、慕うことすら烏滸おこがましいのではないだろうか。

 といった負の感情に、支配されてしまった。


「お雪さん、いる?」


 気落ちする思考を途切れさせたのは、可愛らしい少女の声だった。

 来訪者に見当がついた雪は、その人の来訪を意外に思いながら戸口を開ける。


「おりんさん……?」


 りんは家の中に入って戸口をぴたりと閉めた。りんが訪ねてくるなど、初めてではないだろうか。


「あのね、お雪さんに言っておきたいことがあって」


 いつもの愛想のいい笑みは消え、りんの表情は真面目だった。


「この前、男の人を家に上げていたでしょ。ちょっとまずかったみたい」


「まずい?」


「あれ、知らないの?雪さんの噂、かなりひどいことになってるよ」


 身に覚えのないことを言われているのに、噂が酷いなんて今さらだ。

 しかし、わざわざ忠告に来たりんの意図がわからない。


「最近は伊吹さんも悪く言われるようになってるの。どうしてだかわかるよね?」


 伊吹は雪にどんな噂がささやかれていようと、優しくしてくれる存在だ。


 だが、伊吹にまであらぬ噂が立ってはと、湯島天神での一件もあり、雪は極力関わろうとはしていなかった。

 現に、一緒に湯島天神へ出かけてからは、挨拶あいさつ程度でろくな会話はしていない。


 なのに、伊吹に悪い噂が立ってしまったというのだろうか。


「伊吹さんとは関わりませんから」


「お雪さんがそう思っていても、ほら、伊吹さんは話しかけてくれるでしょう?このままじゃ伊吹さん、可哀そうよ」


 りんは暗に、雪に出て行けとでも言っているような口ぶりだった。


 何度も引っ越してしまおうと思った。

 けれど、雪は父を待っている。


 待ち続ける心はくじけたも同然だったが、引っ越そうという最後の決心だけが、なかなかできずにいた。


「でも、雪さんも可哀そうかな」


 それはあまりにも意外な言葉だった。

 りんは自分に対して、好印象を持っていないことは雪も察している。


「最近、お雪さんが付き合い始めた男の人いるじゃない。あの人に遊ばれているんでしょう?お雪さん大人しいから、だまされちゃってるのね」


「違います。そんな……」


 恐ろしいほどりんの言葉に、絶対に違うという確信が持てなかった。

 求めてくれるから辰巳も想ってくれているのだと、そう信じている。


 でも、求めているのが雪という存在ではなく、誰でもよかったとすれば……


「じゃあさ、あの人って何処どこに住んでるの?」


 辰巳が何処に住んでいるのか、雪は知らない。

 いつも辰巳から雪の家に会いに来ていて、辰巳も所在については言わないから、知られたくないのだと思って、尋ねたりはしなかった。


「生まれは?」


 江戸に住んでいるからといって、江戸の出身とは限らない。

 雪は、辰巳のことを何も知らなかった。


 りんは、ほらと言わんばかりにほくそ笑んだ。


「自覚してなかったんだ。でも、わかってよかったね」



 夜半よわ、誰もが寝静まる刻限に、辰巳は雪の家を訪れた。


 辺りをはばかるように小さく戸口が叩かれる音を聞いて、雪は胸が高鳴るのを実感する。


 あやとりをしていた手を止め、紐は手にからめたまま、急ぎ足で戸口を開けた。

 瞬間、雪は辰巳に抱きしめられ、言葉をつむぐ暇を与えられずに、彼の胸の中へと落ちる。

 辰巳は片手で戸口を閉めながら、器用にもう片方の手で雪がまとう帯を解いてゆく。


 性急に進められる行為に戸惑う雪に構わず、彼の行為は止まない。

 こばめば、辰巳はどうするだろうか。

 身体を求められているだけなら、もう会いに来てはくれないかもしれない。


 自分の元を去ってほしくなくて、相手の求めるものに応じる様は、かつて父に金を渡していたときを彷彿ほうふつとさせた。


──あの人に遊ばれているんでしょう?


 りんに言われた言葉が、頭によみがえる。

 辰巳の愛撫に酔いしれながら、哀しい気持ちはおくびにも出さなかった。



 じりじりと焼き付くような陽射しは、夏の盛りの象徴だ。

 歩けば歩くほど、汗がき出てしまう。


 神田の町は、暑い季節だろうがせわしない。

 商売人の声が所々で飛び交い、その声は溌剌はつらつとしている。


 その中で雪がめげそうなのは、なにも暑さの所為せいだけではなかった。

 辰巳との関係がはっきりとしたものではないことに、不安を感じていたのである。


「和泉さん」


「お雪ちゃん。またまた偶然」


 雪は買い物や内職の納品をするため、神田へ来る頻度は多い。

 和泉も神田をぶらぶらと歩いていることが多いようで、二人はよく顔を合わせていた。


「江戸の暑さには慣れなくてまいっちゃうよ」


 ということは、和泉は江戸出身ではないのだろうか。

 辰巳も、そうなのだろうか……


 やはり自分は辰巳のことを何も知らないのだと、雪は改めて思い知らされた。


「ね、お昼食べた?」


「いえ、これからです」


「ちょうどよかった。これから飯屋に行こうと思ってたところでさ、お雪ちゃんも一緒に行こうよ」


「でも……私、食欲がなくて」


 最近、食事をる量が減っていた。

 暑さにまいっているのではなく、気持ちの問題である。


「え、ええ……!まさか……」


 なぜそこまで伊吹が驚くのかと不思議に思ったところで、彼が勘違いをしているのだと思い至り、今度は雪があわてる番だった。


「違います!ただ、この暑さの所為せいで食べられないだけです」


 雪と辰巳の関係を知っている和泉は、どうやらとんだ勘違いをしてしまったらしい。

 ほおを赤らめて否定する雪に、和泉は少女の片鱗を見た。


(何だろう、この感じ……)


 胸が締めつけられるような感覚に、和泉は心当たりがなかった。雪と会うといつも、この苦しさに襲われる。


「そうか、暑いもんね。てっきり辰巳の……」


 和泉は後をにごしたが、気まずくなってしまい、沈黙が落ちる。

 少しぎこちなくなった二人だったが、和泉の説得もあり、二人は一膳飯屋へと足を向けたのであった。



「いらっしゃい!あら、あんた」


 雪たちが入ったのは、和泉たちの御用達、弥勒みろく屋である。

 女将は暑さを吹き飛ばすような声で、出迎えた。


 雪が弥勒屋に訪れたのはたったの一度だけで、二月くらい前になるのだが、女将は覚えていたらしい。


「お雪さんだっけ?来てくれるのをずっと待ってたんだよ」


 女将のうれしそうな表情とは反対に、雪はしまったという後悔に襲われていた。


 雪が辰巳の知り合いであるということは、女将の知るところだ。

 しかも今日は和泉と一緒で、彼とも知り合いであると認識されてしまった。


 自分なんかと知り合いだと思われたならば、辰巳と和泉は嫌な思いをする。

 誘われたとはいえ、来るべきではなかったのだ。


「辰巳がやきもち焼きで、俺にも会わせてくれなかったんだ」


 それは雪にとって、意外な言葉だった。そんなわけがないと思いながらも、一瞬だけ期待めいた気持ちはぎってしまった。


「まったく、仕方のない男だよ」

 

 女将はやれやれという顔で、苦笑する。


「適当に、空いてるところに座っておくれ。さて、何を作ろうかねぇ」


「この子、暑気あたりで食欲がないみたいなんだ」


「そりゃあいけないね。私に任せておいて」


 かすかながら食欲がいたのは、店内にただよう匂いの所為だけでなく、女将の笑顔が気持ちよかったこともあるのかもしれない。


 雪たちは座敷に上がり、空いていた奥のすみの席へと座る。

 座敷は均等に衝立ついたてで仕切られており、その空間は二人では広いくらいだ。


 早速、女将が運んできたのは心太ところてんだった。


「無理に食べなくていいからね。残しても和泉が食べてくれるさ」


「心太、この前食べようって言ってたっけ」


 それから漬物に冷たい茶漬けと、身体を冷やしながらするりと食べられる料理が続いた。

 女将の気遣いに感謝しながら、雪の箸を持つ手は止まらなかった。


「すごく美味しい。こんなに食べたの、久しぶり」


 味噌汁だけで済ます日もあったというのに、弥勒屋の料理をすべて受けつけることができた。

 味も絶品である。


 美味しそうに食べる雪の姿を見て、和泉は安堵あんどした。


「あいつは何も言わないけど、自分のことを秘密にしてるってわけじゃない。お雪ちゃんのことだって、大事に想ってるよ」


 もしかしたら和泉は、落ち込む自分をはげますために、弥勒屋に連れて来てくれたのではないかと、雪は思った。


 和泉も、弥勒屋の女将も、不思議なくらいに優しくしてくれる。

 辰巳の気持ちを疑っていたのは、自信がない己の弱さの所為だ。


 まずは、自分が相手を信じなければならない。

 気づかせてくれたのは、和泉だった。


「ありがとうございます、和泉さん」


 雪はあまり笑わない。

 大人しいだけでなく、哀しい過去を背負っているからだと和泉は察していた。


 だから、目の前で微笑む少女の笑顔がめずらしくて、胸が切なくなる。


(あれ……また変な感じがする……)



 辰巳は前触れもなく、雪の家に訪れる。

 二、三日が経てば帰り、そしてまた雪に会いに来る。


 雪が知っているのは、辰巳は主に用心棒の仕事をしていること、好物はけんちん汁で和泉とは親友という、細かいことを除けば、たったそれだけである。

 前にも増して、雪が辰巳のことを知りたくなってしまったのは、辰巳に対する情が深くなったからとしか言いようがない。

 しかし何も聞けないまま、辰巳との関係が続いていたある日のことだった。


「一緒に、浅草に行かないか?」


 雪は巾着袋を作っていた手を止めて、後ろを振り返った。

 辰巳は背を向けている。


「芝居小屋でも、何なら浅草じゃなくて、雪の好きなところでいいんだ」


 辰巳と過ごす平坦な時間が、不満だったわけではない。

 けれど、辰巳の誘いは、表情に現れてしまうほどにうれしかった。


「浅草の芝居小屋は、一度行ってみたかったんです。小さい頃、おとっつあんに見世物小屋に連れて行ってもらったことはあるんですけど、芝居小屋は今の今まで行ったことがなくて」


 役者は、それこそ錦絵のように華々しいのだろうか。

 皆が夢中になる演目を、一目見てみたかった。


 それに、辰巳と共に行けるのなら、どこだっていい。


「なら明後日、迎えに来る」


 ただの気まぐれだったとしても、夢物語ではない。

 針を動かしてしまえば手元が狂いそうだったので、雪は心を落ち着かせることに努めた。



 浮かれていたのはつかの間で、雪にはやらなければならないことができた。


 辰巳と出かける。

 ならば、身形みなりを整えなければならない。

 

 辰巳に浅草に誘われた日の翌日、幸いにも準備をするのに一日の猶予があった。

 一緒に歩いても恥ずかしくないようにしなければと思えば思うほど、雪はあせっていた。


 巾着袋を作る内職だけで何とか生活を保てている雪のふところは、そう多くはない。

 新しい着物を用意するのも、古着屋で良さそうなものを選ぶのが精一杯だ。


 雪が一番悩んだのは、化粧である。


 乙女の盛りだというのに、雪は普段、化粧のやり方すら充分に知らない。

 店に来てみたものの、ずらりと並ぶ化粧品を前に、何を買えばいいのか、どう扱えばいいのか、途方に暮れていた。


 けんちん汁の作り方を教わったときと同じように、また尾花屋の内儀であるおまちを訪ねようかと思ったが、何度も忙しいおまちを頼ることはできない。


 もしも母がいてくれたら、友達の一人でもいたならば、苦労はしなかっただろうと、雪は己の不甲斐なさに幻滅した。


貴女あなたはこの色が似合うわよ」


 いつの間にか、雪の隣にはつやのある女が立っていた。

 女は美しい顔で微笑みながら、雪に言う。


 まったくの他人であったが、圧倒的な美しさゆえか、それとも女の雰囲気が心地よい所為か、雪は警戒しなかった。

 雪は女に勧められるまま、紅を取る。


「塗ってあげるから、ついてきて」


 あれよあれよと雪は女の勧める化粧品を買い、初めて会った女の後をついてゆく。


 女は偶々たまたま店に居合わせただけの客だった。


 辰巳にも言われたことがあるが、やはり自分は警戒心がないのかと、雪は思う。


 女の意図がわからないまま連れてこられたのは、鈴鹿すずかという店だった。

 昼間は営業していないのか、暖簾のれんは上がっていない。


 二階建てで、一階は広い座敷となっていた。


「ここは、料理茶屋ですか?」


 弥勒屋のように座敷は衝立ついたてで仕切られており、女に案内された店の奥には厨房もあった。

 厨房の、さらに奥には小部屋があり、女はその部屋に雪を座らせる。


「まあ、そんなとこかな」


 曖昧あいまいな返事だった。

 女の話し方や動作は落ち着いていて、ゆったりとした春の長閑のどかさを思わせる。


「あの……」


 雪の隣に座った女は、おもむろに雪の両ほおを包むように触れた。

 驚き固まっている雪は、すぐ近くにある女の顔を見て、暢気のんきにもその整った美しい容姿に見惚みとれてしまった。


「すごく可愛い……」


 女からただよう匂いが、頭を摩耗まもうさせる。


 次第に女が距離を縮め、今にも触れ合おうとしていた。


「ふふっ」


 触れ合う間際で女がくすりと小さく笑う。その仕草さえしなやかだった。

 雪が抵抗しなかったことに満足したのか、女は雪から離れた。


「どうして、私をここに連れてきたんですが?」


 この質問は今さらだったが、美人に詰め寄られた照れを隠すために雪は言った。


「困っていたから助けてあげたくなっただけ。余計なお節介だったら帰っていいよ」


「もしかして、化粧を……?」


 女はそうだという返事の代わりに、雪が買ったばかりの化粧品を手にかかげる。

 要は、化粧のやり方を教えてくれるようだ。


「あとは、貴女をもっと可愛くしてあげたかったの」


 店内には雪と女の二人しかいない。

 一つ一つの音が研ぎ澄まされて、相手の息遣いすら互いに聞こえてしまう。


 雪は女に化粧を施されるままに身をゆだね、女の説明に懸命に耳をかたむけた。

 紅の差す塩梅あんばいや塗る箇所、どれをとっても化粧というのは複雑で難しい。


 女は化粧に慣れているが、雪は化粧に慣れていない。相反する二人は、けれど波長が合うのか、話していて互いに居心地がよかった。


「終わったわよ」


 最後に、唇に紅を引いて、女はそっと指を離した。

 雪が女にうながされて鏡を見れば、知らない自分の顔があった。


「化粧って、こんなに変わるんだ……」


 少女の顔からはあどけなさが消え、誘うような唇には色気があった。

 大きい瞳を潤ませれば、地味な面影は消えている。


「元がよくなきゃ、こんなに綺麗にはならないわ」


 女はどこまでも褒めてくれるが、今まで可愛いと言われたこともなければ、見違みちがえたのだは化粧と女の技術のおかげだと、雪は思っている。

 この姿ならば、辰巳の隣を歩いても恥ずかしくはないだろうか……


「通りすがりの者に、こんなに親切にしてくれてありがとうございます」


「堅苦しくしなくていいよ。私は紫乃しのってんだ」


「雪、です。紫乃さんはここで働いているんですか?」


「一応、主人をやらせてもらってるの」


 女は自分よりも少し歳上くらいに見える。

 もしかしたら、実年齢よりも若く見えているのかもしれない。


 いずれにせよ、そのくらいのよわいで店の主人とは感心するしかなかった。


「雪が思っているような店じゃないよ、ここは」


 いきなり呼び捨てで呼ばれたことに内心驚くも、紫乃からであれば嫌ではなかった。


 紫乃は、少しかげりのある笑みを見せる。


「一見、ただの居酒屋に見えるだろうけど、鈴鹿に来る客は男ばかり。その客の相手をするのは女たち。二階ではその男女が二人きりになれる。そういう店よ」


 かの有名な吉原のように幕府から公認されてはいないが、岡場所やここ鈴鹿のように、幕府の非公認で女が色を売る場所は数多あまたに存在している。

 つまり鈴鹿は、一階は飲み屋のていを装っていて、二階がことに及ぶ場となっていた。


 雪は紫乃の言葉の意味を理解できないほど、初心うぶではない。


「雪から見たら汚いところでしょ」


「泥団子を売っているならまだしも、汚いなんて、そんなことありません」


「……っく、泥団子って……」


 紫乃は一瞬だけ驚いて、すぐにこらえきれずに噴き出した。


 面白いことを言った自覚がない雪は、瞬きをくり返して紫乃を見る。


「そんな風に言われたの、はじめてよ」


「ごめんなさい、可笑おかしなことを……」


「違うのよ。こういう店で働いていると、悪く言われることが多いから。気にしちゃあいないんだけどね」


「そんな……悪いことなんてしていないのに」


「まあ、お上の禁制には従ってないんだけど。でもそうね、私たちは何も悪いことはしてないわ」


 色を売る女は、とかくさげすまれることが多い。

 誤解ではあるが、色を売っているという噂がつきまとう雪もそうだった。


「あんたのこと気にいっちゃった。よければ仲良くしたいな」


 私なんかでよければ、と言おうとして、雪は違うと思い直した。


「私も、紫乃さんと仲良くしたいです」


 二人が得たのは、理解者だった。

 他人から蔑まれていようと、信じるに値する存在がいる。


 雪はこの出会いを、嬉々ききとして胸に刻みつけたのだった。


「上手くいくといいね。い人がいるんでしょ?」


 女はこの手のことを、機微きびに感じ取れる。

 雪は頬を染めて、小さくうなずいた。


  *


 がやがや、がやがや。

 夜、仕事帰りの男たちが飲んだくれる弥勒屋の中は騒々しい。


 酒の匂いと甘く香ばしい食べ物の匂いは、店に入ったときには急激に鼻を刺激するが、少し時が経ってしまえば、当たり前のように酔いしれる。


 辰巳と和泉もまた、杯を傾けながら語らっていた。


「これでしばらくは懐が暖かい」


「だな」


 和泉の言葉に、辰巳が同意する。


 お役御免となったがつい先日まで、二人は共に同じ店で用心棒をしていて、その店は大店とあってたんまりと給金はもらっていた。


 用心棒は、近くで殺しがあったりだとか盗みがあった場合、もしくは何かしらの問題を抱えているときに雇われることが多い。

 だが、世相が落ち着けば、いつまでも雇っていてはくれなかった。


 専属の用心棒を雇っているまれな店や、あくどい商売をしている店は常に用心棒を置いていることがあるが、そもそも簡単にありつける職ではない。

 二人は色々な店を転々としながら、つましく生活していたのであった。


「へへっ、俺もやっと噂のお雪ちゃんを見れたんでさぁ」


 にやりとした顔で二人に料理を運んできたのは、弥勒屋の主人だった。


 和泉と雪が弥勒屋を訪れたとき、厨房にいた主人も顔を出して雪に挨拶あいさつしていたので、雪を見知ったというわけである。


「お前らは俺の知らないところで……」


 雪が弥勒屋を訪れるのは構わない。

 辰巳が腹にえかねているのは、雪が和泉と一緒にいたことだった。

 親友である和泉であれば大人気なく怒りはしないが、腹は立つ。


「ほら、辰巳って結構やきもち焼きでしょ?」


「お松の言ってた通りみたいだ」


 お松は弥勒屋の女将であり、主人卯吉うきちの妻である。

 弥勒屋は夫婦二人で営んでいる店であった。


「勝手に言ってろ」


 卯吉はまだ辰巳を揶揄からかいたかったのだが、客のかき入れ時では、厨房へと戻るしかなかった。


「でさ、お雪ちゃんのことで一つ気になってることがあるんだけど」


 お雪お雪と、何度もその名を口走る友をたしなめようとした辰巳は、和泉の真剣めいた表情を見てやめた。


「お雪ちゃんって嫌な噂があるみたいでさ。辰巳も知ってるだろ?」


 雪と神田で居合わせたある日のこと、陽が沈みかけていたこともあり、和泉が雪を家まで送って行ったことがあったのだが、その際に長屋の住人たちが雪の噂を話しているのを耳にしていたのであった。


 問われた辰巳が眼をするどくしたのを見て、和泉は落ち着きながら訂正する。


「噂を信じてるわけじゃないさ。むしろその逆だから、お雪ちゃんが悪く言われてるのがに落ちないんだ」


「そう、なんだよな。あいつは大人しすぎるくらいだから余計に言われるのもあるだろうが、それにしたっておかしいとは俺も思っていた」


「あんたら、そんな真面目な顔してどうしたんだい?」


 殻になった徳利とっくりを下げにきたお松が、二人に聞いた。


「何もしてない健気けなげな子が悪く言われるのがわからなくてさ」


「これだから男は鈍感で困るよ」


 お松は話しながら、てきぱきと徳利を盆の上に乗せている。

 答えのわかるお松に、二人は身を乗り出さんばかりの勢いで、無言で尋ねた。


「悪く言ってるのって、ほとんど女だろ」


 辰巳は雪と会ったばかりの頃、わざわざ雪の家まで訪ねて来て悪態を吐いた女を思い出した。他にも、世代は違えど雪を悪く言っているのは、思いつく限りでは女ばかりである。

 和泉もまた、同じであった。


「その子が可愛かったら、余計さね」


 お松がその場を去り、二人はしばらく酒をちびりちびりと飲んでいた。


「女の嫉妬ってやつか」


 ぼそりとつぶやいた和泉は、女の恐ろしさを思い知るのと同時に、雪へあわれみを向けていた。


 自分の亭主や息子がたぶらかされたのならまだしも、雪に至っては完全に潔白である。

 雪の噂の根源には、よこしまな心が働いているとしか、二人は思えなかった。


「辰巳ってさ、相変わらずああいうはかない感じの子、好きだよね」


 思わず一瞬びくりと、辰巳は手を止めた。

 脳裏のうりには、故郷の雪景色と、その中にたたずむ一人の女の姿が浮かんだ。


「まあ、お雪ちゃんは可愛いと思うよ」


「お前、絶対に雪にれるなよ」


「はいはい」


 和泉は苦笑しながら答えた。

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