四
初夏の日差しが、障子戸を通して家の中を照らす。だが、心地よいはずの
(ったく、どこに行ったんだ)
内心
いつもは雪がどこに出かけようが、辰巳の知ったことではないし、気にもならない。
だが今日に限っては、雪が家にいないことで
そう、辰巳は確かに昨日、雪にこう言ったはずだった……
「明日、ここを出ていく」
辰巳は雪と
もう看病されなくてもいいほどに、傷は
元々が赤の他人同士。これ以上、辰巳が雪の家にいる理由がなかった。
「わかりました。まだ薬は必要でしょうから、持っていってください」
「ああ。後でかかった分の金はやるから安心しろ」
「そんな……大したお金は使ってないので、大丈夫です」
雪の言う通り、心苦しいが礼はしなくていいのかもしれない。
銭をあげるのが嫌だというけちくさい理由ではなく、雪ともう一度会ってしまえば、雪との関わりを
そういえば怪我をしたときに助けてくれた人がいたと、ふと思い出す程度でいい。
しかし、出て行くと言って悲しまれなかったり、最後の日だというのに家にいなければ、別れを惜しまれていないのだという
辰巳が一人
尾花屋は、雪が内職を請け負っている仕立て屋である。
職人風の男が何人か、店を出入りしている様子を見ているだけで、雪は中に入ろうとはしなかった。
今日は内職で作っている
(仕事中に行ったら、迷惑かけちゃう……)
店を切り盛りしているおまちの日常は忙しい。
皆が店の中でせっせと働いているであろう昼時に、足を踏み入れてよいものか、雪は悩んでいた。
(でも……)
雪にはどうしても今、おまちに聞きたいことがあった。
それはおまち限定で知っているわけではなく、おまちが知らない可能性も充分にあったが、雪は他に頼れる人がいなかった。
そして、雪が聞きたいことは、まったくの私情である。
よくしてもらっているといえども、働いている最中に聞くことではないと、雪は理解していた。
やはりおまちに聞くのは申し訳ないと、雪が引き返そうとしたとき、店の中から出てきた男に声をかけられた。
「この店に用?」
雪はその男に、見覚えがなかった。男は辰巳と同じくらいの歳に見える。
何年も尾花屋に通う雪は、店に勤めている職人たちをある程度は知っているのだが、目の前にいる男は今までに一度も見たことがない。
それもそのはずで、男は職人ではないようだ。
証拠に、辰巳と同じ物を腰に携えていた。
「俺はここの用心棒。って、昨日雇われたばかりなんだけどね」
刀の
柔らかいといえば伊吹もそうだが、伊吹とは違って大人の余裕があるように感じられる。
「おまちさんはいらっしゃいますか?」
「いるよ。まあ、入りなよ」
男が
突然の来訪だったがおまちは怒りもせず、雪を出迎えた。
「何かあったのかい?」
巾着袋を納めるとき以外に、雪が尾花屋に来るのは初めてであった。
おまちは
「どうしても、おまちさんに聞きたいことがあるんです。くだらないことで申し訳ないんですけど……あの……けんちん汁の作り方は知っていますか?」
言ってしまった。
さすがのおまちも
仕立て屋の内儀に料理の作り方を聞くのは見当違いであるし、そもそもおまちの手を止めてまで聞くことではないのだから。
「食べたことはあるけど、作り方はねぇ……」
雪の顔は切羽詰まっていて、だけど意外な質問におまちは少し
雪はどうして口走ってしまったのだろう、どうして店にまで押しかけてしまったのだろうという後悔の念に
合わせている手を
おまちを訪ねるほどの行動力を、普段の雪は持ち合わせていない。
雪は何が自分を突き動かしているのか、その感情がわからなかった。
「私を訪ねてくるなんて、よっぽどなんだね」
伏せていた眼を上げれば、
「この前言ってた、気になってる人に作ってあげるんだろ?」
「……はい。明日にはもう会えなくなってしまうから、最後にあの人の好きな物を作ってあげたいんです」
自分でも驚くほど、雪はすらすらと答える。
(なんだ……私、あの人のために……)
理由はすでに存在していて、自覚していないだけだったのだ。
「雪、誰かの為に何かをしてあげたいっていう気持ちは、くだらないことなんかじゃないんだよ」
自分なんかが作ったところで、辰巳は何とも思わないかもしれない。
でも、それでもいいのだ。
よく思われたいからだとか、下心があって作ってあげたいわけではない。
辰巳が好きだと言ったけんちん汁を作ってあげたいという、単純な理由だ。
「おまちさんのお
「あんたはそうやって笑ってた方が可愛いよ」
おまちは早速、
そして幸いにも、作り方を知っている者が見つかり、お
「しっかり見て覚えるんだよ」
雪は字の読み書きができない。
作り方を紙に書き留めておくことはできず、目と舌で覚えるしかなかった。
「はい。ありがとうございます」
雪はおまちに深々と頭を下げて、料理に取りかかった。
しばらくして……
「んー、なんかいい匂いがする」
胡麻油の香ばしい匂いに誘われるまま台所を
これは
「こんなところで何やってるんですか」
台所に入ろうとする用心棒を制したのは、ちょうど通りかかった尾花屋の職人だった。
「いや、この匂い嗅いだらさ……毒味だって用心棒の務めだし」
「ちゃんと仕事してくださいよ。あんたが
「真っ昼間から盗みに入る奴なんて、いやしないさ」
用心棒は尾花屋の懐よりも、食欲をそそる匂いの方が気になるところだ。
そんな彼に、職人は
「わかったよ……」
用心棒は
「それに、花嫁修行の邪魔をしちゃ駄目ですよ」
「花嫁って、あの子?」
おまちを訪ねてきた少女は、はじめて見たときに抱いた
「そうみたいですよ」
「春過ぎて、夏
少女にとっても、新しい季節がやってくるのだろう。
微笑ましくなりながら、台所から少女たちが作っている料理の名前が聞こえ、その料理が好物である友の姿を思い出した。
(無事だって文は読んだけど、怪我とかしてなきゃいいな……)
(遅い……)
ひたすら雪の帰りを待つ辰巳は、もしや彼女に何かあったのではないかと、心配すら芽生えるようになってしまった。
明日で切れてしまう縁とはいえ、雪に何かがあれば寝覚めが悪い。
こうなれば探しに行くしかないと、戸口に手をかけようとした
「お」
「……!」
雪は驚くときも静かだと、どこか
「ごめんなさい。まさかいるなんて思わなかったから」
「いや……」
辰巳が部屋の中に戻れば、外に行くのではなかったのかと雪は疑問符を浮かべた。
雪と辰巳が過ごす時間は、あと残り
──あの人と初めて会った日、おとっつあんが帰ってきてくれたと思った。
父が帰ってくるはずがない。
来ない人を待ち続けているなんて、
そろそろ踏ん切りをつけて、近いうちに長屋を出ていくつもりだった。
寂しい気持ちのままだった心を最後に満たしてくれたのは、きっと……
「お粗末ですけど、どうぞ」
雪はそう言って、辰巳の前に椀を置いた。
椀からは、香りとともに湯気が立ち上っている。
食欲を刺激するには充分で、好物なら
「作ってくれたのか」
辰巳が好きだと言った、けんちん汁を作ってあげたい。
ひとえにその想いで作り上げたものだ。
「季節外れで具材も少ないですけど……」
一年を通して食べられる味噌汁とは違い、けんちん汁は秋や冬に食べられている料理だ。
しかも、暑いと感じられるようになった初夏の季節に、食べるようなものではない。
それでも、
『真心があれば、冬だろうが夏だろうがいいに決まってるわ』
と、おまちは言ってくれた。
次の冬に、辰巳と会うことはない。
だから今日この日だけの、許された時間に。
辰巳は箸を手に取り、まずは豆腐を
さて、お味は……
「ああ、美味い」
どうかこの日だけは、素直に喜ぶことを許してほしい。
辰巳の満足そうな顔を見て、別れが辛いとも思ってしまうから。
まるで急流のように、時は過ぎてゆく。
雪は最後の手当をしていた。
目を閉じて明日になってしまえば、辰巳はいなくなる。
それを噛み締めながら、しかし何も言えなかった。
最後に何を聞こうか。
最後だから何を聞いても意味はない。
おやすみなさい。さようなら。
たったそれだけの言葉でいい。
薬を塗って、包帯も巻き終えてしまった。
「きつい。巻き直せ」
「……はい」
他人の感覚など知りようがないが、それほどきつく巻いたつもりはなかった。
だが、辰巳がきついと言うなら巻き直すしかない。
「今度は緩い」
「またきつい」
しかし辰巳は何度も巻き直せと言う。
やっと、辰巳がわざと包帯を巻き直させていることがわかった。
「
困った様子の雪を見て、辰巳は微かに笑った。
「こうでもしねぇと、お前は何も言わないだろ」
話してほしいと、ただ素直に言えないだけである。
「……何を話していいか、わからない」
「興味ない奴に、よくここまで介抱してくれたな」
「興味がないわけじゃないです」
「なら、あるのか?」
そう問う辰巳のまっすぐな視線を、雪は受け入れた。
雪の瞳は、切なげに揺れている。その視界には、触れようと伸ばしてくる辰巳の手が映った。
「私が貴方を助けたのは善意じゃない」
ぴたりと、辰巳の手が止まる。
触れかけた手と手は、届きそうで届かない。
「こんな私でも頼ってくれたことがうれしかったから」
母が家を出て、父と二人になった。
父は家には寄り付かず、ほとんどを飲み歩いていた。
だけど父に金を渡せば、
側にいてほしかった。
ただの自己満足で、父のときと同じだった。
「でも、今日は本心から、貴方のために何かをしてあげたいって思った」
だけど貴方は、明日には……
胸が締めつけられるほどに辛い気持ちまでもを、打ち明けようとはしなかった。
だが、考える間もなく雪は一瞬のうちに後ろに押し倒される。背中が痛いと思うよりも前に、息苦しさが襲った。
「……っ!」
しっかりと手首は畳に縫い付けられて、抵抗できない。
塞がれた唇からは、身体が
抱きしめてもらったことさえ初めてなのに、口の中に侵入して
「今日は俺と寝ろ」
「……私なんか、つまらないです」
辰巳は行為を止めようとはしなかった。
誰の味も知らない身体は、未熟な果実のまま。
首筋に痛みが走る。
痛みが嬉しいなんて、おかしくなってしまったようだ。
あとはもう、言葉はいらない。
互いに、触れてほしいという心に任せるだけで。
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