初夏の日差しが、障子戸を通して家の中を照らす。

しかし心地よいはずの長閑のどかさを、辰巳は感じることができなかった。


(ったく、どこに行ったんだ)


内心苛々いらいらしてしまうのは、雪が家にいない所為せいであった。

いつもは雪が何処いずこに出かけようが、辰巳の知ったところではないし、気にもならない。

だが今日に限っては、雪が家にいないことで微睡まどろみの中へと溶け込めなかった。


そう、辰巳は確かに昨日、雪にこう言ったはずだった……



辰巳は雪と朝餉あさげを食べているときに、何気なくつぶやいた。


「明日、ここを出ていく」


もう看病されなくてもいいほどに傷はえている。

元々が赤の他人同士。これ以上、辰巳が雪の家にいる理由がなかった。


「わかりました。まだ薬は必要でしょうから、持っていってください」


「ああ。後で銭はやるから安心しろ」


「そんな……大した銭は使ってないので、大丈夫です」


雪の言う通り、多少心苦しいが礼はいらないのかもしれない。

銭をあげるのが嫌だというけちくさい理由ではなく、雪ともう一度会ってしまえば、雪との関わりをあきらめることができなくなってしまいそうだったからだ。


そういえば怪我をしたときに助けてくれた人がいたと、ふと思い出す程度でいい。


しかし、出て行くと言って悲しまれなかったり、最後の日だというのに家にいなければ、別れを惜しまれていないのだという寂寞せきばくに襲われてしまうのだった。



辰巳が一人悶々もんもんとしている頃、雪は尾花屋の前にいた。

尾花屋は、雪が内職を請け負っている仕立て屋である。


職人風の男が何人か、店を出入りしている様子を見ているだけで、雪は中に入ろうとはしなかった。


今日は内職で作っている巾着袋を届けにきたわけではない。

尾花屋の内儀であるおまちに聞きたいことがあり訪ねてきたわけであるが、店に来たところで足を止めてしまっていた。


(仕事中に行ったら、迷惑かけちゃう……)


店を切り盛りしているおまちの日常は忙しい。

皆が店の中でせっせと働いているであろう昼時に、足を踏み入れてよいものか、雪は悩んでいた。


(でも……)


雪にはどうしても今、おまちに聞きたいことがあった。

それはおまち限定で知っているわけではなく、おまちが知らない可能性も充分にあったが、雪は他に頼れる人がいなかった。


そして、雪が聞きたいことは、まったくの私情である。

よくしてもらっているといえども、働いている最中に聞くことではないと、雪は理解していた。


やはりおまちに聞くのは申し訳ない。

こうなれば、知らない誰かに聞くしかないと雪が引き返そうとしたとき、店の中から出てきた男に声をかけられた。


「この店に用?誰かを訪ねて来たの?」


雪はその男に、雪は見覚えがなかった。男は辰巳と同じくらいの歳に見える。

何年も尾花屋に通う雪は、店に勤めているある程度の者は知っているのだが、目の前にいる男は今までに一度も見たことがない。


それもそのはずで、男は職人ではないようだ。

証拠に、辰巳と同じ物を携えていた。


雪の視線を感じて、男は答えた。


「俺はここの用心棒。って、昨日雇われたばかりなんだけどね」


刀のつかに片手をゆだねて答える、男の雰囲気は柔らかかった。

柔らかいといえば伊吹もそうだが、伊吹とは違って大人の余裕があるように感じられた。


「おまちさんはいらっしゃいますか?」


「いるよ。まあ、入りなよ」


うながす男に、雪はおまちに尋ねる決心がついた。


突然の来訪だったがおまちは怒りもせず、雪を出迎えてくれた。


「何かあったのかい?」


巾着袋を納めるとき以外に、雪が尾花屋に来るのは初めてであった。

おまちはめずらしいといった表情をしている。


「どうしても、おまちさんに聞きたいことがあるんです。

くだらないことで申し訳ないんですけど……あの……けんちん汁の作り方は知っていますか?」


言ってしまった。

さすがのおまちもあきれているに違いない。

仕立て屋の内儀に料理の作り方を聞くのは見当違いであるし、そもそもおまちの手を止めてまで聞くことではないのだから。


「食べたことはあるけど、作り方はねぇ……」


雪の顔は切羽詰まっていて、だけど意外な質問におまちは少し呆然ぼうぜんとした。


雪はどうして口走ってしまったのだろう、どうして店にまで押しかけてしまったのだろうという後悔の念にさいなまれている。

合わせている手を解いては、また握りしめていた。


おまちを訪ねるほどの行動力を、普段は持ち合わせていない。

雪は何が自分を突き動かしているのか、その感情がわからなかった。


「私を訪ねてくるなんて、よっぽどなんだね」


伏せていた眼を上げれば、得心顔のおまちがいた。


「この前言ってた、気になってる人に作ってあげるんだろ?」


「……はい。

明日にはもう会えなくなってしまうから、最後にあの人の好きな物を作ってあげたいんです」


自分でも驚くほど、雪はすらすらと答える。


(なんだ……私、あの人のために……)


理由はすでに存在していて、自覚していないだけだったのだ。


「雪、誰かの為に何かをしてあげたいっていう気持ちは、くだらないことなんかじゃないんだよ」


自分なんかが作ったところで、辰巳は何とも思わないかもしれない。

でも、それでもいいのだ。


よく思われたいからだとか、下心があって作ってあげたいわけではない。

辰巳が好きだと言ったけんちん汁を作ってあげたいという、単純な理由だ。


「おまちさんのお陰で、自分の気持ちに気づきました」


「あんたはそうやって笑ってた方が可愛いよ」


おまちは早速、尾花おばな屋の使用人にけんちん汁の作り方を知っている者がいないかを聞いて回った。

そこでおこまという女中頭が、雪に手解きをすることになった。


「しっかり見て覚えるんだよ」


雪は字の読み書きができない。

作り方を紙に書き留めておくことはできず、目と舌で覚えるしかなかった。


「はい。ありがとうございます」


雪はおまちに深々と頭を下げて、料理に取りかかった。



「んー、なんかいい匂いがする」


ごま油の香ばしい匂いに誘われるまま台所をのぞき込めば、先ほどおまちを訪ねて来た少女と尾花屋の女中が、何やら料理を作っていた。


これは相伴にあずかることができるかもしれない……と中に入ろうとしたところで、後ろから肩をぐいとつかまれ引き戻された。


「こんなところで何やってるんですか」


台所に入ろうとする用心棒を制したのは、ちょうど通りかかった尾花屋の職人だった。


「いや、この匂い嗅いだらわかるだろ。毒味だって用心棒の務めで……」


「ちゃんと仕事してくださいよ。

あんたが怠けている間に盗人ぬすっとが入り込んだらどうするんですか」


「真っ昼間から盗みに入る奴なんて、いやしないさ」


用心棒にとっては尾花屋の懐よりも、食欲をそそる匂いの方が気になるところだ。

そんな彼に、職人はにらみを効かせた。


「わかったよ……」


用心棒は不承不承ふしょうぶしょう、引き返すしかなかった。


「それに、花嫁修行の邪魔をしちゃ駄目ですよ」


「花嫁って、あの子?」


おまちを訪ねてきた少女は、初めの控えめな雰囲気とは打って変わって、女中の言葉に耳を傾ける様は芯が強いように感じられる。


「そうみたいですよ」


「春過ぎて、夏にけらし……か」


少女にとっても、新しい季節がやってくるのだろう。

微笑ましくなりながら、台所から少女たちが作っている料理の名前が聞こえ、その料理が好物である友の姿を思い出した。


(無事だって文は読んだけど、怪我とかしてなきゃいいな……)






(遅い……)


もしや雪に何かあったのではないかと、心配すら芽生えるようになってしまった。


明日で切れてしまう縁とはいえ、雪に何かがあれば寝覚めが悪い。

こうなれば探しに行こうと、戸口に手をかけようとした刹那せつな、戸口が開かれて、目の前には待っていた人が現れた。


「お」

「……!」


雪は驚くときも静かだと、どこか暢気のんきになれたのは、雪が帰ってきた安堵あんど感からだった。


「ごめんなさい。まさかいるなんて思わなかったから」


「いや……」


部屋の中に戻れば、外に行くのではなかったのかと雪は疑問符を浮かべた。


じきに日が暮れる。

雪と辰巳が過ごす時間は、あと残りわずかだ。



あの人と初めて会った日、おとっつあんが帰ってきてくれたと思った。


おとっつあんが帰ってくるはずがない。

来ない人を待ち続けているなんて、おろかなのだろう。


そろそろ踏ん切りをつけて、近いうちに長屋を出ていくつもりだった。


寂しい気持ちのままだった心を最後に満たしてくれたのは、きっとあの人だ。



「お粗末ですけど、どうぞ」


雪はそう言って、辰巳の前に椀を置いた。

椀からは、香りとともに湯気が立ち上っている。

食欲を刺激するには充分で、好物なら尚更なおさらだ。


「作ってくれたのか」


辰巳が好きだと言った、けんちん汁を作ってあげたい。

ひとえにその想いで作り上げたものだ。


「はい。季節外れで具材も少ないですけど……」


一年を通して食べられる味噌汁とは違い、けんちん汁は秋や冬に食べられている料理だ。

しかも初夏の暑いと感じられるようになった季節に、食べるようなものではない。


それでも、

『真心があれば、冬だろうが夏だろうがいいに決まってるさ』

と、おまちは言ってくれた。


次の冬に、辰巳と会うことはない。

だから今日この日だけの、許された時間に。


辰巳は箸を手に取り、まずは豆腐をつまむ。


尾花おばな屋の女中に教わった通りの味にはなったはずだ。

さて、お味は……


「ああ、美味い」


どうかこの日だけは、素直に喜ぶことを許してほしい。

辰巳の満足そうな顔を見て、別れが辛いとも思ってしまうから。



まるで急流のように、時は過ぎてゆく。


雪は最後の手当てをしていた。

目を閉じて明日になってしまえば、辰巳はいなくなる。


それを噛み締めながら、しかし何も言えなかった。


最後に何を聞こうか。

最後だから何を聞いても意味はない。


おやすみなさい。さようなら。


たったそれだけの言葉でいい。


薬を塗って、包帯も巻き終えてしまった。

側にいる理由がなくなり腰を上げようとすれば、辰巳が口を開いた。


「きつい。巻き直せ」


「……はい」


他人の感覚など知りようがないが、それほどきつく巻いたつもりはなかった。

だが、辰巳がきついと言うなら巻き直すしかない。


「今度は緩い」

「またきつい」


しかし辰巳は何度も巻き直せと言う。

わざと、包帯を巻き直させていることがわかった。


揶揄からかってるの?」


困った様子の雪を見て、辰巳は微かに笑った。


「こうでもしねぇと、お前は何も言わないだろ」


話してほしいと、ただ素直に言えないだけだ。


「……何を話していいか、わからない」


「興味ない奴に、よくここまで介抱してくれたな」


「興味がないわけじゃないです」


「なら、あるのか?」


そう問う辰巳のまっすぐな視線を、雪は受け入れた。

切なげに瞳を揺らしながら、その視界には触れようと伸ばしてくる辰巳の手が映る。


「私が貴方を助けたのは善意じゃない」


ぴたりと、辰巳の手が止まった。

触れかけた手と手は、届きそうで届かない。


「こんな私でも頼ってくれたことがうれしかったから」


母が家を出て、父と二人になった。

父は家には寄り付かず、ほとんどを飲み歩いていた。

だけど父に金を渡せば、たまにでも父は帰ってきてくれる。


側にいてほしかった。

ただの自己満足で、父のときと同じだった。


「でも、今日は本心から、貴方のために何かをしてあげたいって思った」


だけど貴方は、明日には……

胸が締めつけられるほどに辛い気持ちを、打ち明けようとはしなかった。

だが、考える間もなく雪は一瞬のうちに後ろに押し倒されて、痛いと思う間もなく、息苦しさが襲う。


「……っ!」


しっかりと手首は畳に縫い付けられて、抵抗できない。


塞がれた唇からは、身体がうずいてしまうほどに辰巳の感触が伝わってくる。

抱きしめてもらったことさえ初めてなのに、口の中に侵入してうごめいているものにもうまく順応できなかった。


「今日は俺と寝ろ」


「私なんか……つまらないよ」


誰の味も知らない身体は、未熟な果実のまま。

辰巳をよろこばせる自信がない。


けれど、辰巳は行為を止めようとはしなかった。


首筋に痛みが走る。

痛みが嬉しいなんて、おかしくなってしまった。


あとはもう、言葉はいらない。

互いに、触れてほしいという心に任せるだけで。

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