雪の手当の甲斐かいがあってか、傷の痛みは薄らいできた。

 傷跡は残るかもしれなかったが、それよりも敵におくれをとったことがしゃくに障った。


 敵は二人。

 夜陰に乗じて不意打ちをくらい、不覚にも左腕を怪我する事態に追い込まれた。

 何とか逃げ切ることはできたものの、血を多く失い気が遠くなりかける中、わらにもすがる思いで長屋の戸口を叩いた。


 逃げてきた果てが長屋の奥部屋、つまり雪の家だった。


——帰ってきてくれたの?


 雪は確かにそう言っていた。

 そして昨晩、辰巳は雪の待ち人についてを教えてもらった。



「女を待たせるとは、よっぽどいい男なんだろうな」


 雪は待ち人が男だとは言わなかった。だから男だと鎌をかけてみる。

 どこかで違うと言ってほしい自分がいることには気づかないふりをしていた。


「…………」


 雪からの否定の言葉はなかった。


「いつ、そいつは帰ってくる?」


「……わかりません」


「約束もしてねぇのに待つとは、よほどいてるってところか」


 辰巳はなかばやけくそに答えていた。


「好きだなんて、考えたこともありません。たまには顔を見せるって言ったのに、それから一回も帰ってきてくれない人を、ずっと待っているなんておかしいでしょう?」


 もしかして雪は、その男に遊ばれただけなのではないのか。

 雪の悪い噂も、その男が関係しているのかもしれないと思ったところで、一つ気になることがあった。


 雪はおそらく未通女おぼこだ。

 男の裸もまともに見れず、触れただけで照れてしまう様は明らかにといえる。あとは何となく、そう感じるものがあった。

 雪の噂を信じなかったのは、もちろん雪が男をたぶらかすような女には思えなかったということもあるが、まだ少女だと確信した所為せいでもある。


 もてあそばれていたとして、何故その男は雪に手をつけなかったのだろうか。

 かもにするにしろ、ただの遊びだっただけにしろ、相応に身体を求めるというものだ。

 もしや本気のこいだったとでもいうのだろうか……


「そこまでれてるとは、健気けなげとしか言えねぇよ」


「いくらおとっつぁんでも惚れるまでは……」


「な……おとっつぁん?」


「……?はい。おとっつぁんは四年前に家を出ていて……」


 途方もない勘違いをしていた。

 好きな男というのはあながち間違いではないのかもしれないが、まさか父のことだとは思いもしなかった。


「何だ……俺は、てっきり……」


 辰巳が何を勘違いしていたのか雪にはわからないようで、彼を不思議そうに見つめている。


「ならいいんだ」


 ますます自分が何を言っているのかわからなくなった。

 いい、とはどういう意味なのか。

 十は歳が離れているであろう少女に、何を想っているのか。


 もしかしたら本当に、雪に誑かされてしまったのかもしれないと、辰巳は内心で独りちた。



 辰巳が雪の家に居座ってから十日が経とうとしていた。


 雪が弱さをさらけ出したあの日より、二人はより親密になった……ということはなかった。

 相変わらず雪は遠慮深いままで、辰巳も寡黙かもくなままだ。

 父が出て行ったという身の上話をしたのも一度きりで、雑談すらもない。


 しかし、二度も身体を寄せ合った二人は、互いを意識せずにはいられなかったのである。


 先にえられなくなったのは、辰巳の方だった。


「お前は何も聞いてこないな」


 雪は針を動かす手を止めて、辰巳を振り返った。

 しかし雪とて、聞けるものなら聞いてみたいことはあるというもの。

 全てを教えられるわけではないが、辰巳は聞かれれば答えるつもりでいた。

 素直に話したいと言えない彼も彼である。


「看病してくれるわりには、それほど俺には興味はねぇってことか」


「そんなこと……話をするの、下手だから」


「俺だって下手だ。お前のことを少しは知れたと思ってるが、お前は俺のことを何も知らねぇだろ」


 勝手な理屈だ、と辰巳は思った。


 辰巳は雪のことを知りたい。

 けれど、自分ばかりが知るのは同等ではないと思ったというのが本音である。


「では、一つ聞きたいことが」


「何だ?」


「……好きな食べ物は、何ですか?」


「…………」


 思わぬ質問に、辰巳は言葉を詰まらせる。

 片や雪は真面目だった。


 そんな質問でいいのか、とは言わずに辰巳は答えた。


「そうさなぁ。好きな食い物といやぁ、けんちん汁だ」


「けんちん汁……」


「鎌倉の建長寺で作っていたんで、それがなまってけんちん汁と呼ぶようになったって話だ」


 雪はけんちん汁なるものを食べたことがなかった。ましてや作ることができるわけもない。


 ずっと辰巳に聞こうと思っていた質問を、やっと聞くことができたのはいいが、その料理を作ってあげたかった雪は内心落ち込んだ。


「そう、ですか」


「…………」


 それきり二人の会話は途絶えた。



 夕方、同じ長屋の住人である伊吹が雪を訪ねてきた。


「伊吹さん、この前はありがとうございました」


「紙くらい大したことはないよ。……あ、あのさ、お雪ちゃん」


 辰巳は戸口からは見えない、障子戸を隔てた部屋にいた。なので姿を確認することはできなかったが、訪ねてきた人物が男だと声でわかり、自然と耳をそばだてている。


「その……」


 伊吹の歯切れは悪く、何か気に障ることをしてしまったのかと、雪は不安になる。


 それに、自分と話しているところを他の住人に見られれば、伊吹までもが悪く言われてしまう。

 しかし帰ってくださいと無下にすることもできないので、彼の言葉を待った。


 伊吹は一度、深呼吸をしてから言った。


「今度俺と、甘味処に行ってほしいなって思ったりして……」


「甘味処ですか?」


「甘味が嫌いなら別の場所でいいんだ。明日は仕事休めそうだから、もしよかったら」


 なぜ伊吹が甘味処に誘うのか、その理由が雪にはすぐにわからなかったが、少しして後、ある一つの答えに思い至った。


「お団子は好きです」


 そう答えれば、伊吹は顔をほころばせた。


「明日、迎えに来るから」


(この前のお礼、ちゃんとしないと)


 数日前、辰巳に文を書きたいと言われたときに、伊吹は紙を分け与えてくれていた。伊吹が甘味処に誘ったのは、そのお礼としておごってほしいということなのだろうと、雪は理解している。


(甘いもの、好きなのかな)


 一方、雪たちの会話を聞いていた男の内心は、穏やかではなかった。



 翌日、約束通り雪と伊吹は、二人で出かけていた。


「人がたくさん……」


富籤とみくじがあるときはもっといるんだ。にしても、ここはいつも人が多い」


 二人は湯島天神の境内けいだいを歩いていた。

 甘味処に行く前に、折角だから湯島天神に寄って行こうと言ったのは伊吹である。


 境内には所々に露店が立ち並んでいる。

 鼻をかすめるほのかな甘い香りは、甘酒のようだ。

 露店の店主の売り口上や、玩具を買って欲しいと親にせがむ子供の声など、にぎわいを見せていた。


 人の波に押し流されて、ようやく本殿へとたどり着き、二人は参詣さんけいする列に並んだ。


「ここは何をまつっているのかしら?」


 近所とはいえ、雪が湯島天神を訪れたのは、数えるほどしかない。それほど信心深くはなかった。祀っている神様もわからないほどである。


菅原すがわらの道真みちざね公だよ」


 聞いたことのない名前に、雪は小首をかしげる。


「昔の偉い人さ。べらぼうに頭が良くて出世したけど、それを妬んだ誰かに無実の罪を着せられて、西国に流されちまったってんだから可哀想な話だ。道真公の死後、各地で彼の祟りが起きるようになって、祀られたそうだ」


 学問の神様の由来は、そのようなものである。


「すごい。伊吹さん、物知りなんですね」


「えっ、い、いやぁ。貸本屋をやってるからそれくらいは知ってらぁ」


 貸本屋を営んでいる伊吹は、多くの書物を読んでいるので博識なところがあった。

 字が読めない雪からすれば、ただただ感心するばかりである。


(お雪ちゃんに褒められた……!)


 一方、伊吹は緩む顔を抑え切れてはいなかった。


「本当は、頭が良くなりますようにってお願いするところだったんですね」


 頭の良い人が祀られているのなら、学力向上こそ本来祈るべきものなのだろう。


「そんなことないさ。皆が皆、頭が良くなりますようにって祈ってるわけじゃないし、祈りたいことを祈ればいいんだよ、きっと」


「伊吹さんも他のことをお願いするんですか?」


「ああ。願いが叶いますようにってね」


 順番が回ってきた二人は、手を合わせて祈り始める。


(辰巳さんの傷が、早く治りますように……)

(今日こそお雪ちゃんに想いを告げられますように……)


 思いのすれ違った二人は湯島天満宮を後にして、本来の目的である近くの甘味屋で一服することにした。


 甘味屋の前には五つの長床几ながじょうぎが置かれていて、そのうちの一つに二人は腰掛ける。

 注文したのはみたらし団子。

 甘い蜜が口内を満たし、雪は自然笑顔になっていた。


「美味しい?」


「はい。お団子を食べたの、久しぶりなんです」


(ああ、可愛い……じゃなくて)


 雪に見惚みとれている場合ではない。

 今日こそ、想いを告げると湯島天神にもお願いしたのだと、伊吹は自身を奮い立たせる。


 伊吹は覚悟を決めて、雪に聞いた。


「お雪ちゃんは、いた男の人とかいるの?」


 唐突な、しかも思ってもみない質問に、雪は少し目を見開いて伊吹を見返した。

 伊吹は顔を伏せたまま、手元の団子を見つめている。


 最近、この手の話題を振られるようになったと感じながら、雪の脳裏のうりには一人の男の姿が浮かんだ。


「気になっている人はいます」


 伊吹は驚いたように顔を上げた。


「え、あ……」


 ただ驚愕きょうがくしているだけか、それとも別の感情でも含んでいるのかを判別できないほど、伊吹の表情は複雑そうだった。


 自身の想いを伝えようとしていた伊吹は、遠回しに、雪に想い人がいるのかを尋ねたわけだが、悪手となってしまった。


「誰?俺の知らない人かな……」


 想い人に正直に伝えるなど雪の性格上ありえないが、もしかしたら自分かもしれないという一縷いちるの望みをかけて伊吹は聞いた。


「最近会ったばかりでよく知らない人だけど、その人のことを知りたいと思ってて……」


「…………」


 伊吹の望みは一瞬にして崩れ去った。

 まさか雪に、想い人などいるはずがないと決め込んでいたこともあり、体温が急激に下がる感覚におちいる。


「伊吹さんはい人、いるんですか?」


「想ってる子はいるけど、俺のこと好いてはいないみたいなんだ。でも、まだあきらめられなくてよ」


うらやましいな……私も、そこまで想われてみたい」


 それが伊吹にとってこくな言葉とも知らずに、雪は本音を吐露とろした。


 雪の根底には誰かに愛されたいというえがある。

 今まで誰からも、親からも愛されなかった雪は、誰かに愛されることを願っていた。

 伊吹の気持ちを知らないままに。


 すっかり意気消沈した伊吹は、しばらく無言だった。

 雪も会話がないならないで平気な性格だから、無言をつらぬいている。


 団子を食べ終わり一息ついたところで、沈黙に耐えかねた伊吹が口を開いた。


「お雪ちゃん、辛くない?ほら、皆お雪ちゃんのこと悪く言うだろ。出て行ったりとか……」


 雪が長屋の住人に悪様にされていることも疑問ながら、それでも雪が長屋を出て行かないことが不思議だった。

 いつか雪が去ってしまうのではないかという不安も含めて。


「そろそろ引っ越そうかと思っているんですけど……伊吹さんにも迷惑をかけてしまいますし」


 雪は出て行った父をずっと待っている。

 けれど最近は、辛いことを耐えるのが限界に近かった。

 辰巳の看病が終わったら引っ越そうかと、密かに思っていたのである。


「俺は迷惑だなんて一回も思ったことはないよ。でも、お雪ちゃが辛いなら、引っ越したほうがいいのかもな。あ、あのさ……」


 伊吹はまた、甘味処に誘ったときのように歯切れが悪くなった。

 何かを言いあぐねていて、雪はその何かを待った。


「もしお雪ちゃんがよければ、俺といっ……」


「あれ、伊吹さんだ」


 明るい少女の声が、雪たちに降り注いだ。

 目の前に現れた少女は、その身にまとう花模様が散りばめられた薄紅色の着物がよく似合っている。


「おりんちゃん」


「今日は仕事お休みなんだ」


「あ、ああ。おりんちゃんも参詣かい?」


「そんなとこ」


 りんは雪と同じ長屋に住んでいて、歳も同じであった。


 性格は大人しい雪と、天真爛漫てんしんらんまんで愛嬌のあるりんは対照的である。


 伊吹と話すりんは、雪に一瞥いちべつもくれようとはしなかったが、やっと気付いたように顔を向けた。


「へぇ……お雪さんと一緒なんだ」


 雪がりんと話すのはいつぶりだろうか。

 小さい頃は少しだけ交流があったものの、今となっては会話すらしない間柄となっていた。


 冷たくはない、けれども刺すようなりんの視線に、雪は下を向いた。


「俺が誘ったんだ。たまにはお互い息抜きしようって」


 りんはちゃっかり伊吹の隣に腰掛けて、茶屋の娘に善哉ぜんざいを注文した。


「でもさ、お雪さんは伊吹さんと来なくても、他に男の人がいるんでしょう?それなのに伊吹さんと甘味処に来るんだ」


 悪意があるのか、それとも純粋な少女の疑問なのか、りんの無邪気な表情からは本心が計り知れなかった。


「おりんちゃん……」


「今日はその……この前伊吹さんが物を貸してくれたから、そのお礼で」


「ふーん」


 対して気にしていないと言わんばかりに、りんは善哉を口に運んだ。

 雪への興味が失せてしまったように見える。


 いや、そもそも雪の返事にははなから興味がなかったのかもしれない。


 りんとは普通に話せていた幼い時分じふんを、雪は思い出した。

 りんは話すのが好きで雪にも色々話しかけていたのだか、雪から話題を振ると決まって「ふーん」という返事が返ってくる。

 その返事だけで会話が広がらないので、自分には興味がないのだと、いつしか察することができた。


 甘味処に一緒に行くような男の人はいないと言ったところで、りんの返事は予想ができるというものだ。


「私、そろそろ帰ります」


 一番に優先するべきことは、伊吹に悪い噂が立たないことを配慮することだ。


 りんが表立って悪い噂を吹聴ふいちょうしているところを見たことはないが、りんの何気ない一言が悪い噂になりかねない。

 普段から伊吹とは関わらないようにと心掛けていたが、気が緩んでいたと、雪は自身をいましめた。


「これ、お代です。今日はありがとうございました」


「え、待っ……」


 自分と、それに伊吹の代金を渡して、雪はそそくさと甘味処を後にする。

 伊吹は雪の消えていった方向を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。


「払わせるつもりなんてなかったのに……」


「お雪さんと一緒にいるところ、他の人に見られてたら何言われるかわからないよ」


「どうして皆、お雪ちゃんことを悪く言うんだ。お雪ちゃんは皆が思っているような子じゃない」


 雪に想い人がいることに続き、またとない雪との逢瀬おうせが終わってしまって、伊吹は散々だった。


「伊吹さん、だまされているんじゃない?おっかさんにもお雪さんとは話すなって言われてるし。それに、男好きなのは本当みたいよ」


「お雪ちゃんが出合茶屋であいぢゃやで男と逢瀬を重ねてたって噂だろ。見たこともないのに、信じられないねぇよ」


「私は見たもん」


「え」


「出合茶屋じゃないけどついこの前、雪さんの家に男の人がいたんだ。胡散うさんくさい浪人って感じだった」


(嘘、だろ……)


 伊吹はしばらく愕然がくぜんとしていた。



 同じ長屋で同時期に生をけた雪とりんは、本人たちの意思に反して、周囲の人間たちに比べられながら育った。


 産まれたばかりの頃は体格にもそう差異はなく、単なる赤ん坊として愛でられていた。

 しかしそれは、始めの数ヶ月に過ぎない。

 成長するにしたがって、二人の成長には差ができるようになっていた。


 最も差が如実にょじつに現れたのは、立てるようになったのが、りんの方が先だったことだ。


 りんに向けられる言葉は、「お雪ちゃんはまだ立てもしないのに賢いね」というものだった。

 雪は、りんより一月ひとつき早く産まれている。

 言い換えれば、雪の方が早く産まれているのにりんの方が先に立てるようになった、という意が含まれていた。


 わずか一月の差、けれど他人からは雪の方が先に産まれているという認識だった。


 差はこれだけではなかった。


 先に話せるようになったのも、箸を使えるようになったのも、何かをできるようになるのはいつもりんが先であった。


「おりんちゃんは賢いのね」

 その言葉の後に続くのは、「でもお雪ちゃんは……」である。


 言葉を理解できない赤子の頃なら、自身が比べられているなど分かりようもなかった。

 自我が芽生え、手習所に通うようにもなれば、嫌でも比べられていることが理解できた。


 雪はりんと比べられることが苦痛だった。

 りんは雪と比べられることが快感だった。


「おりんちゃん、あのね……」


「ふーん」


 りんは雪の話すことに興味がなかった。

 雪といれば、自分はずっと褒められる。ただ雪は隣にいてくれればよかった。


 仲良くしてくれていると雪は勘違いしていたが、りんにとっては置物に過ぎない。


 よく母にしかられて泣いている暗い子。

 雪に対する印象は、そのくらいだった。


 だが一度だけ、今までの定理を覆す事態が起こってしまった。


 その日の手習所では、覚えたてのかな文字を書いていたのだが、手習所に通い始めたばかりの子どもたちは皆、あたり前に上手く文字を書くことができなかった。

 読めない文字や、見当違いな形の文字を書いてしまっていて、りんもそうだった。

 たった一人を除いては……


「これは上手い。習ったばかりの文字をこうも上手く書けるとは。帰ったら、おっかさんに見せてあげなさい」


 皆が苦戦している中、達者な文字を書いてみせたのは雪だった。


「すげー」

「お雪ちゃん、上手」


 雪が自分より先に褒められている。

 それはりんにとって、あってはならないことだ。


 手習師匠に頭をでなれている雪は、褒められることに慣れていない所為せいで縮こまり、だけどうれしそうにしている。

 りんには許せない光景だった。


「あれ、おりんちゃんは?」


「もう帰っちゃったよ」


 りんは手習所に雪と通うことも、帰ることもやめた。


 もし雪ばかりが褒められるようになってしまったら……

 内心あせり出したりんであったが、早くに解決することになる。


 雪の母が家を出て行った。

 家には飲んだくれの父しかおらず、雪は手習所に通う余裕がなくなり、手習所を辞めてしまったのだった。


 それから雪とりんは疎遠になってしまった。


 年月が過ぎ、いつしか雪に悪い噂が立つようになった。


「まったく雪は仕方のない娘だよ」


「お雪さんがどうしたの?」


 いきり立つ母に、りんは聞いた。


出合茶屋であいぢゃやで男と会ってたんだよ。まったく、なんてふしだらな娘なんだ」


 真相は、雪はただ道を聞かれたに過ぎず、それが偶々たまたま出合茶屋の前だったというだけである。

 雪は道を聞かれた人物など忘れていて、まさか噂になってしまったとは考えもしていなかった。


 りんにしてみれば、雪がふしだらな娘だろうと、清廉潔白な娘だろうと、どちらでもよい。

 だから母が雪の噂を話しても、聞き流していた。


 雪の噂は一向に絶えない中、りんは他に心を占めるものがあった。


「伊吹……さん」


 長屋に越してきたばかり伊吹は、柔和にゅうわな性格で心優しく、りんはすぐに好意を寄せるようになった。


 伊吹の姿を見つけ視線を追った先には、もう一人の姿が……


(何で、お雪さんなの?)


 雪と照れながら話す伊吹の顔は、りんの前では見せたことがないものであり、伊吹の雪に対する想いを察することができてしまった。


 りんはきびすを返して家に戻り、母にささやいた。


「ねぇ、おっかさん。私、お雪さんが体を売ってるって噂、聞いちゃったんだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る