翌日、朝。

辰巳は久方ぶりに、陽の光を浴びた。


ずっと家に籠もったままでは気が滅入るので、辰巳は雪が出かけている隙に、外へ出たのであった。

見つかったところであの遠慮深い女は何も言わないだろうが、と内心思ってもいる。


遠出をするつもりはなかった。

また襲撃にあったとして、怪我をしている自分に太刀打ちできる自信がない。

とりあえずは外の空気を吸いたかったのと、井戸の水を浴びたかった。


井戸はどこかと視線を巡らす。

長屋は二棟が南北に向かい合い、それぞれに六軒ある。雪の家は南側の長屋にあって、二棟の間の通路が行き止まりとなる一番東側にあった。

つまり家を出て右は板壁がありそれ以上先はなく、左を向けばちょうど二棟の真ん中ほどにある井戸の姿が見えた。


時刻は昼時。水を浴びるにはちょうど良い時間帯だ。

長屋にある井戸は長屋の住人しか使わない。だから辰巳が使えば、そもそも辰巳がいることは、住人に怪しまれることになる。

誰かに見られる前に早く浴びてしまおうと手を急がせるが、運が悪かったようだ。


「ちょっと誰だい。見ない顔よ」


辰巳に話しかけるには遠い距離、そこには三人の、おそらく長屋の住人であろう女たちがいた。

二人は三十、四十くらいの歳で、一人は雪と同じくらいの少女だった。


辰巳は気にしないで井戸水を浴びる。

狼狽うろたえればかえって怪しまれると、ここは住人の知り合いの体でやり過ごすことにした。


「あたし見たよ。雪さんの家から出てきたんだ」


まずい。

雪の家に得体の知れない男がいたという噂が広まれば、雪に迷惑がかかる。

辰巳は自身の保身よりも、雪を案じた。


軽率な行動をしたと悔いたところで、もう遅い。


どうしようかと思案していると、信じられない言葉が聞こえてきた。


「またあの子の病気が始まったみたいだね」


「今度は家にも男を連れてくるようになったよ。

ほんと、ろくでもない娘ね。まあ親が親だもの。

あんたは雪みたいにならないようにね」


「わかってますよー」


雪を小馬鹿にしたような少女の笑いが、耳にこびりついて離れなかった。



辰巳が雪の噂を耳にしている頃、雪は神田は尾花おばな屋にいた。

尾花屋は仕立て屋で、雪が内職を請け負っている店である。


着物を仕立てたときに余った切れ端をもらい、巾着袋を作るのが雪の仕事だ。

その巾着袋は、小さい子どもに商品のおまけとして、または余剰品として客に分け与えるための物だった。


「いつもありがとね、雪。たしかに今月分は受け取ったよ」


誰もが雪に冷たく接するわけではない。

雪は長屋の住人には嫌われていたが、尾花屋の内儀であるからは慕われていた。


雪が尾花屋の内職を始めたのは、十のときである。

もともとは違う人物が内職を請け負っていたのだが、その人物が遠くに引っ越すことになったために雪が引き継いだという経緯いきさつがある。

雪が針の使い方、巾着の作り方を教えてもらったのも、その人物からであった。


雪の生計たつきは、尾花屋の内職で成り立っていた。


「来月もまた頼むよ」


「はい」


すでに準備されていた来月に納める分の切れ端と紐を受け取り、風呂敷に包み込んだ。


「そういえば雪、いた男はいるのかい?

ほら、お前さんもそろそろ考える歳になっただろ。

こっちは小さい頃から知っているからねぇ……心配しているんだよ」


言葉の通り、雪を昔から知っているからこそのお節介である。

お世話になっていて、しかもよくしてくれている人からのお節介は嫌ではなかった。


「そ、そんな人は……」


脳裏を過ったのは、辰巳の姿だった。

何故か恥ずかしくなり、雪は慌ててかぶりを振った。


「なんだ、いるんじゃないか。

私が探してあげなくてもよかったみたいね」


これでは弥勒屋の女将と同じく誤解されてしまう。

おまちの場合は辰巳に知られることはないとはいえ、辰巳に失礼だときちんと否定した。


「違います。好いた人はまだいません」


「じゃあ気になる人がいるんだろ」


今度は否定の言葉が出てこなかった。

気になっている、それは事実だったからである。


「最近会った方で、その、ただ気になる方というだけなんです」


おまちはそれ以上を問わず、雪に笑顔を向けた。

優しく見守ってくれるよう眼差しは、孤独な雪をいつも安心させてくれる。


話をしたからか、雪は辰巳のことを考えながら帰路に就いていた。


詮索をしないように努めていても、辰巳のことは気になる存在だということを、おまちと話したことで雪は自覚した。


刀を持っているが、威圧的なところはない。

本性を隠しているのかもしれないが、雪からしてみれば寡黙な浪人といったところだ。


少しだけ、何かを聞いてみようか。

普段は自分からは話題を持ちかけない雪にとってはめずらしく、また、勇気のいる行為だ。

やはり素性を聞くわけにはいかない。とすれば、何を聞けばいいのだろうか。

無難に、好きな食べ物でも聞こうか。

他愛のない質問とはいえ、作れるものや買えるものなら提供することができるかもしれない。


雪はもう、家の前にいた。

いざ聞くのなると、緊張が押し寄せてくる。

まずは落ち着こうと深呼吸をして戸口に手をかけようとしたき、雪は名前を呼ばれた。


「雪」


「……あ」


雪は萎縮しながら頭を下げた。

雪を呼び止めたのは長屋の住人である。


おとよは旦那と雪と同じ歳の娘と三人で暮らしていて、会うたびに難癖やら悪態をついてくるので、雪は正直苦手だった。


「りんから聞いたよ。

あんた、家にも男を上げるようになったってね」


りんはおとよの娘である。

おとよのようにあからさまな態度は取らないが、決して雪とは話そうとはしない拒絶でもって接していた。


「男の方なんて、上げていません」


「今だってあんたの家にいることはみんな知ってるんだから、隠したって無駄だよ」


辰巳がいることが知られてしまった。

もし番所に誰かが行っていたらと、雪の顔は青褪あおざめる。

しかしそれは、杞憂きゆうに終わった。


「お前の男好きには困ったもんだよ。

この長屋にはねぇ、りんだって住んでるんだ。悪影響ったらありゃしない」


(やめて。

そんな大声で怒鳴られたら、辰巳さんに聞こえちゃう……)


戸口の先の部屋には、辰巳がいる。

おとよの声は嫌でも聞こえているはずだ。


そして雪は、辰巳が怪しい人物として番所に突き出されるようなことはなく、ただ自身の噂に拍車がかかっただけだとさとった。


「そんなに男が好きなら、女郎じょろうにでもなればいいんだ」


おとよの言葉は、雪を傷つけるのに充分だった。

言葉自体の意味と、辰巳に自身の噂を吹聴ふいちょうされたことで、雪は二重に苦しんでいた。


怖くて、悔しくて、雪は言葉が出なかった。

泣きそうになるのをとどめたのは、なかば勢いよく開かれた戸口の音だった。


「…………」


家の中にいるのは、辰巳をおいて他にはいない。

つまり今、戸口を開けて雪の後ろにいるのは辰巳だ。


おとよの言葉を聞いた辰巳は、きっと忌むべきもののように自分を見ているに違いない。

雪はとても、後ろを振り返ることはできなかった。


すると、視界に映るおとよの顔に恐怖がにじんでいた。

恐れをなしているのか、一歩、また一歩と後退あとじさる。


次いで雪は考える間もないまま、腕を引っ張られて家の中に引き込まれていく。

おとよの姿は戸口にさえぎられた。


「ちっ、うるせぇばばあだ」


掴まれた腕は離され、辰巳は部屋に引き返していく。

雪はやっと、後ろを振り返った。


「……聞いてしまったんですね」


ああ、この人にだけは知られたくなかった。

雪はそう、切実に思った。


雪は男をたぶらかす悪い女だ。

出合茶屋であいぢゃやに男を呼び出しては色を売っている。


長屋の住人が言う雪の噂は、このようなものだ。

四年前に雪の父が家を出て行った後、雪は長屋の住人達から噂をささやかれるようになった。


噂が立ってしまったきっかけは何なのか、当の雪はわからない。

出合茶屋に行ったことも、ましてや男の人と付き合ったこともなければ好意を抱いたこともない雪には、まったく心当たりがなかった。


初めは根も葉もない噂だから、そのうち忘れ去られるだろうと、あえて反論すれば噂が大きくなってしまうと懸念したこともあり、気にしないことにしていた。

けれど、一向に噂は絶えなかった。

我慢ができなくなって違うと言った頃には、誰も信じてくれなくなっていたのだ。


誰が広めた噂なのかは、今となっては知ることはできない。

知ったところで、浸透してしまった噂を取り消す術がなかった。


長屋の住人が雪の噂を本当のことだと信じている理由は、雪の両親にある。


雪の母は、雪が幼い頃に家を出てしまったのだが、それというのも他に男ができたからという訳がある。

以来、雪は父と二人で暮らしていたのだが、父は家に寄り付かず、いつも博打ばくちにのめり込んでいるか飲んだくれているような、所謂いわゆるろくでなしだった。

その父も、再び所帯を持ったときに、雪を置いて家を出てしまっている。


そんな両親の子どもは両親と同じだと、噂が生まれる前から住人に認識されていたのだ。


辰巳に噂を知られてしまった以上、辰巳からもうとまれてしまうのだと、雪は溢れ出しそうな涙を必死でこらえていた。


「お前が悪く言われるのは、俺がいるからって訳でもねぇんだろ」


辰巳がいてもいなくても、雪の噂は存在した。

ただかくまっているだけとはいえ、実際に男を家に上げているのを見られてしまったのだから、噂は強固なものになったのも事実である。


「私は男を誑かす女……らしいです」


「らしいって、他人事だな」


「たったの一度も、辰巳さん以外はこの家に誰も上げたことなんてないのに。それなのに……」


「勝手な噂が広まってるってか?」


火のないところに煙は立たないというが、こと雪の噂に関してはまったくもって当てはまってはいないのだ。

しかし、それを証明できるのは雪本人だけであり、赤の他人の、出会ったばかりの辰巳には通じない。


辰巳は、愛想を尽かして出て行ってしまうだろうか。

そもそも愛想を尽かされるほど親しい間柄ではないのだから、心配するだけ無駄というものだ。


「陰湿な奴らだな。あいつらの方が、よっぽど卑しい人間性だ」


「…………」


雪は耳を疑った。驚いて辰巳を見やる。


「どうして、私を信じるんですか?」


「お前が噂は嘘だって言ったんだろ」


「でも……」


雪一人が違うと言っているだけで、どうして少数の方を信じるのか。

辰巳は揶揄からかっているようには見えない。


「他人が何て言おうと、お前をどう思うかは俺が決めることだ。

あいつらの噂より、お前の方が信用できる」


期待などしていなかった。

だからか、それとも複雑な感情は抜きに辰巳の言葉が胸を打ったのだろうか。

溢れてしまった涙は、最初に涙が出そうになったときとは別の意味だった。


「……っ……う……」


一度こぼれてしまった涙をき止めることはできなかった。


早く泣き止まなければ。

辰巳におかしな娘だと思われてしまう。またはあきれられてしまう。


だが、目をこすっても擦っても、溢れ出てしまう。


ゆっくりと近づいてくる気配。

もう、目の前に辰巳がいる。


鬱陶うっとうしい、うるさいと、折角かばってくれた辰巳も、目の前で急に泣かれれば怒りはせずとも不快に思うだろうと背中を向けようとした。

刹那、雪の身体は抱きすくめられていた。


「…………!」


辰巳は雪の頭に片手を添えて、自身の胸の中に収まるように引き寄せる。


(どうして……)


温かい彼の温度が心地よくて、こうも満たしてくれるのか。

辛かった思いが蓄積して表に出てしまった心を、冷え切らないようにしてくれる。


「……ごめんなさい」


「謝ることはねぇよ。そんなに辛かったなら、泣くのだっておかしくない」


本当は誰かにすがりたかった。

縋りたい人は、甘えたいと思う人は今、抱きしめてくれている。


雪は辰巳の袖をぎゅっと握りしめた。

手持ち無沙汰になっていた辰巳の片方の手は、雪の気持ちに応えるように背中に回して、より強く抱きしめたのだった。


ひとしきり泣き、落ち着いた頃には、雪は羞恥しゅうちに襲われていた。


慰めてくれた辰巳に甘え、あまつさえ男の人に縋った行為が恥ずかしくてならなかった。


「あ、あの……お見苦しいところを」


「気にすんな」


泣き顔も見られたとなっては、恥ずかしいこと山の如しである。


男の人だからと変に意識してしまう感情は、きっと辰巳の優しさを垣間見た所為せいだ。


当の辰巳は雪のことなど何も意識していないようで、元の口数の少ない男に戻っている。


きっと、辰巳にとっては子どもをあやす感覚だったのだ。

雪はそう言い聞かせて、何とか平常心を保とうとした。


「いつもあんなことを言われてんのか」


「……たまに、言われるくらいです」


毎日言われるわけでもないが、陰で言われている噂も含めれば、偶にという頻度ではない。

だが、他人の辰巳に言ったところでどうなるわけでもないのだから、せめて気に留められないようにした。


「辰巳さんみたいに、庇ってくれる人もいますから」


たった一人、雪をずっと庇い続ける長屋の住人の伊吹は、半年前この長屋に越してきたばかりである。

雪の生い立ちを知らないこともあって、伊吹は雪に対して嫌悪感を抱いてはいなかった。


「でも、ここにいたら辛いんじゃねぇのか。

いっそのこと、引っ越しちまった方が楽かもしれねぇよ」


雪だって、いわれのない噂を言い続けられれば、何度も引っ越してしまおうという考えはよぎった。


しかし、雪には引っ越しをできない理由わけがある。


「私は、待っている人がいるんです」

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